☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

7 September 2008

聖書は女性を差別しているか

米国ではNRA(National Rifle Association、全米ライフル協会)を批判して銃規制を主張したら大統領になれないとか、マスコミにしても、たとえば過激なフェミニストのご機嫌を損ねちゃ大変だから言論表現にけっこう気をつかうのだとか、およそ<自由の国>のイメージとはかけ離れたウワサを、ぼくもいろいろ耳にしたものだ。歴史は段々に良い方向へ進歩しているというようなことを、最近どこかで書いたような記憶があるけれど、ある方面では、人間の歴史はかえって退化しているようなことがあるのかもしれない。

もちろん、ぼくは女性への差別に賛成するわけがない。人間が文明なるものをつくり出した古代より、歴史は様々な差別で満ちあふれている。そういうものはひとつひとつ改善されるべきものであったとおもう。実際、改善されて来たはずであった。しかし、その一方で、また新たな差別というものが生まれ、人の世をさらに複雑にしてしまうようなことにもなった。時には、差別されていた側の人間が、まるで差別する側に変わってしまったかのように見えることもある。ぼく特有の感覚なのかもしれないが。

聖書をまじめに読み始めて、いわゆる「科学的でない」記述以外で現代人がつまずくとすれば、たとえばイエスのこんな言葉じゃないだろうか。
あなたは、わたしと何の関係があるでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。(ヨハネ2:4、新改訳)
ここで「女の方」と呼ばれているその女性は、イエスの母親すなわちマリアである。今でも儒教的というか教育勅語的というか、ウヨクのいう「日本固有文化」の影響を受けた日本人なら、こんなイエスの言葉をちらっと見ただけで憤慨し、キリスト教への嫌悪感をさらに強化するのかもしれない。彼らの誇るその「日本固有文化」の中で、女性差別ばかりか、いかに多くの醜い差別が、21世紀の現在においてもなお健在であるかというその現実を無視しながら。

イエスはアラム語で話していたといわれるが、新約聖書はコイネーと呼ばれるギリシャ語で書かれた。それが当時のローマ帝国の共通語だったからだ。アラム語にしても、ギリシャ語にしても、イエスの言った「女の方」に相当する言葉に、女性差別の意味合いは含まれていなかった。たとえ母親への呼び方としては当時でもやや不自然であった可能性があるとしても、それは教育勅語ふうの道徳とは別次元の問題になるだろう。聖書から何かを学び取ろうという覚悟で読む人は、必ずその人に必要な天からの声を聞くにちがいない。最初からキリスト教の揚げ足を取ろうという魂胆で読む人には、聖書は決して何も語らないものだ。

さて、上で引用した聖句が英語ではどうなっているか見てみよう。
Dear woman, why do you involve me? My time has not yet come.(New International Version)

女の方、なぜわたしを巻き込むのですか。私の時はまだ来ていません。
日本語になりにくい dear などを使っているから困ってしまう。仕方ないから上で引用した新改訳聖書の表現をそのまま借りて訳してみた。この英語訳は、1970年代にアメリカの出版社が世に出したNIVと呼ばれる聖書で、さすが60年代に始まるウーマン・リブ発祥の地らしく、聖書の翻訳にさえ米国のたくましい女性たちの存在が反映しているようだ。

それはともかく、イギリス人の英語に多大な影響を与えた欽定訳聖書(The Authorized Version)は、1611年に出版されて以来、多くのクリスチャンに読み継がれ、400年後の現在でもこの訳がいちばんいいと言う英語圏の人は決して珍しくない。ぼく自身も、これまで10種類を超える英語訳聖書を見て来たが、結局いつもこの欽定訳に帰ってしまう。この訳には単なる文学を超越した神々しい魅力があるようにおもう。その欽定訳で問題の箇所を見てみよう。
Jesus saith unto her, Woman, what have I to do with thee? mine hour is not yet come.(The Authorized Version)

イエス言ひ給ふ『をんなよ、我と汝とになにの関係(かかわり)あらんや。我が時は未だ来らず』(大正改訳聖書)
日本語訳は、1917年に世に出た聖書の訳をそのまま引用した。明治元訳聖書と呼ばれる翻訳にしてもそうだが、英語の欽定訳聖書の影響が強く見られる訳であるから、そのまま対照させても違和感がない。しかし、母親に向かって「女よ」と呼ぶのは、さすが男尊女卑伝統の日本文化にあっても、かなりドッキリした人が多かったのじゃないだろうか。

英語で woman といえば、ぼくはジョン・レノンの歌を思い出したりもする。
Woman, I know you understand
The little child inside the man
Please remember my life is in your hands

女よ、君には理解できているはずだ
男の中に小さな子どもが住んでいることを
僕の人生が君の両手の中にあること、忘れないで
米国のウーマン・リブ運動の闘士たちは、家事と育児に専念しなければならない女性たちを狭い家庭から解放し、男のように広い社会で自由に働く権利を求めていたらしい。しかし、彼女たちの目指したものは本当に自由だったのだろうか。ウーマン・リブに燃えた女性たちの中には、聖書の神が He(つまり男性)であることにさえ反抗して、まるでニッポンのネットウヨクのように激しくキリスト教を非難する者たちまでいたという。

ぼくはできれば家事と育児に専念できるような専業主夫になりたかった。ユニオンジャックかパディントンの絵のついたエプロンをして、土曜日には台所でBBCラジオの Woman's Hour を聴きながら夕食の準備をしたかった。聖書は確かに男と女を区別している。しかし、聖書は女性を差別しているだろうか。社会の塵で心の中まで汚れてしまったような男たちは、なぜかエリート社会では特に目立つようだ。そんな男のようになってしまった女は醜い。そのような女にならないことを、創造主は女たちに願っているような気がする。


【参考】英語の欽定訳聖書は、ウィリアム・ティンダル(William Tyndale)の翻訳の影響を強く受けています。ティンダルが聖書を英語に訳した当時の英国では、ローマ・カトリックの支配下にあった教会が庶民に聖書を読むことを禁じていたのです。聖書を読むことができたのは、ラテン語に堪能な聖職者たちくらいでした。オックスフォード大学で学んでいたティンダルは言語習得に優れていたらしく、ギリシャ語、ラテン語ばかりか、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、そして旧約聖書のヘブル語も自由自在に扱えたそうです。彼は庶民が自分で聖書を読むことができるようにと、ラテン語訳聖書ではなく原典から英語に翻訳しました。そのために権力者たちの怒りを買い、火刑によって殺されたのです。

生前ティンダルは、教会のお偉いさんに向かってこう言っていました。
If God spare my life, ere many years I will cause a boy that driveth the plough shall know more of the Scripture than thou doest.

もし神が私を生かしてくださるなら、数年も経たぬうちに、鋤をつけた牛をひく少年のほうが、あなたよりもずっと聖書のことを知るようにして見せましょう。
ぼくはティンダルが1526年に出版した英語訳聖書をもっています。きょう引用した箇所がその訳ではどうなっているかと見れば、
Jesus sayde unto her: woman, what have I to do with the? myne houre is not yett come.
となっていて、やはりほぼ欽定訳聖書と変わらないことがわかります。現代のスペルとはかなりちがっていますが、そのおかげで当時のティンダルの発音が聞こえて来るような楽しい英語になっています。ついでに、彼が翻訳した原典で同じ箇所を見てみましょうか。
λέγει αὐτῇ ὁ ἰησοῦς, τί ἐμοὶ καὶ σοί, γύναι; οὔπω ἥκει ἡ ὥρα μου.
ギリシャ語ですから、やはりチンチンプンプンですね。もちろんぼくもティンダルとは大違いで、学生時代にギリシャ語を叩き込まれたはずなのですが、今では音読することはできても、辞書なしではほとんどチンチンプンプンです。いつか専業主夫になって、じっくり原典で聖書を読むことができたら、どんなに幸福でしょう。今はただ、天皇制のこと、民主主義のこと、動物愛護のこと、そういうテーマを日本語で考えるだけで精一杯です。


今日のビデオ:Woman
-- John Lennon

3 September 2008

鬱病という日本語


鬱病というのは今ではふつう「うつ病」と書くらしいが、どちらにしても日常語として使われる言葉ではないだろう。日本人にはいまだに精神科にお世話になるような人を危険人物か何かのようにみなす偏見が残っているようだから、鬱病患者の人たちも肩身の狭いおもいをしているのかもしれない。地方によっては今でも「キチガイ病院」という呼び名が残っていたりもするだろうか。

そういえば、1980年代に鬱の宮、じゃなくて、宇都宮の精神科病院で、入院患者が看護職員から金属パイプによる暴行を受け殺された事件があった。これがバレてから、その病院における数々の非道が明らかになったようだが、この事件はきっと氷山の一角にすぎないだろう。宇都宮に限らず、全国的に精神病患者への虐待が日常的に行なわれていたのだとおもう。これは何を意味するか。ニッポンでは、精神科の病院に勤務する職員たちの中にさえ、患者への差別意識に支配されている者たちがけっこう存在するということだ。これもやはりこの国の官僚たちが戦前から変わらずに継承して来た伝統の影響なのだろう。

精神科の病気ではないがハンセン病にしても、その患者たちを差別する社会構造を作るに指導的役割を果たしたのがニッポンのエリート官僚たちであった。驚くことに、その差別は戦後にもそのまま引き継がれ、やっとそれを反省するポーズを見せるようになったのは、それほど昔のことではない。人権という日本語が今でも日常語になっていないのは、このような官僚に支配されて来た日本社会の歴史のせいなのだろう。この歴史が、宇都宮の病院で発覚したような事件につながるのだとおもう。

鬱病のことを英語で depression と言う。この単語は depress(気分を落ち込ませる)という動詞から派生した言葉だが、英語圏の人にとっては日常的な単語であって、実際、鬱病というほどではなくても、ただ気分が落ち込んだ状態のときに使ったりもする。ちょうど right(権利)という英語が日常語であるように。

このような言語上の問題を考えるとき、ぼくは日本語特有の構造をおもって、やや気分が落ち込んでしまうことがある。漢字というもので熟語を作るしかない傾向にある日本語の世界では、「鬱病」も「権利」も「自由」も、なんだか日常の生活から浮いているかのような印象になってしまいがちだ。実際、「自由」という人間個人にとって非常に重大な言葉にしても、日常の場面でいきなり「自由」なんて誰かが言い出すと、多くの日本人は何か小難しい哲学の話でも始めるのかと感じて白けた気分になってしまうことだろう。

言葉は確かに文化を象徴している。言葉を使う人間が文化を作るからだ。精神病の患者を差別するなんてのも文化になるのだろうし、「鬱病」という日本語を使って政治家の精神状態を分析する精神科医に向かって「差別だ!」と騒ぎ立てるのも文化になるのだろう。日本語というのは実に難しい。それはニッポンの文化が難しいからだろうか。


今日のビデオ:Pablo Casals plays Bach