☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

22 August 2008

生きるも死ぬも情感で


むかしのタバコ産業のCMなどを見て、「あの頃は良かった」などと懐かしむ人は、日本人には特に目立つようだ。この国の体制が喫煙の有害性を隠すようなことをずっと続けて来たのだから、いきなりどこでもあそこでもタバコが吸えなくなった現状に不満を感じる人は多いのだろう。その気持が理解できないわけじゃない。しかし、たとえ自分が個人的に好きなものであっても、社会的に見たときに良くないものであると判断されれば、素直にそれを認める。そういうのが常識にならない限り、ニッポンという国に本当の民主主義は育たないのじゃないだろうか。でなけりゃ、ただ不可解な平等主義がはびこるだけになってしまうようにおもう。

ニッポンのマスメディアの特徴は何かといえば、平等主義で情報を垂れ流しているにすぎないということになるだろう。平等主義というのは、中立主義と言ってもいいかもしれない。要するにプリンシプルなどないのだ。可能な限り多くの人に受け入れられるためには、「自分はこう考える」という主張を控えたほうがいい。可能な限り売り上げを伸ばして、可能な限りカネ儲けをする。それがニッポンのマスコミ業界のプリンシプルになるらしい。

平等だとか中立だとかと言えば、なんだか上等におもえるのかもしれないが、この国のメディアが流す情報なんてのは、たとえば刑事事件であれば、警察の記者クラブにおいて警察から発表された情報をただそのまま流しているにすぎない。警察が「自殺」と発表すれば、そのまま「自殺」として大衆に伝える。暴力団や右翼団体を使って邪魔者を消している支配層にとって、こんなに都合のいい先進国は珍しいだろう。

ぼくは若い頃から、ニッポンのことを先進国だとおもったことは一度もない。情感だけで生きているウヨクなら、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(Japan As No.1)などと外国人から誉められりゃ、日本人としての誇りで胸がイッパイになって、たとえアメリカ人女性の巨乳が眼の前にズドーンと押し寄せて来ても、ゼーンゼン平気になってしまうのだろう。しかし、ぼくの場合、アメリカ人の巨乳を見て、アメリカ・アズ・ナンバーワンとも感じないが、ニッポンの経済が一流と誉められて、ニッポンが先進国だとおもったこともない。

英国のBBCでは、ずっとむかしから喫煙の有害性を国民に向かって訴えていたようにおもう。医学の専門家たちも、学問上の成果を庶民に理解できるように伝えていた。それを政府も応援していた。ところが、ニッポンではどうだったかというと、NHKが喫煙の有害性を真っ向からテーマにしたという話は聞いたことがないし、電車などに禁煙車の必要性を主張する市民運動に対して、この国では喫煙が個人の嗜好として認められているなどと反論しながら市民の要求を受け入れようとしなかったのが国鉄などの体質であったし、それに味方して市民運動を威圧するようなことをしたのがニッポンの政府であった。

今ではウソのような話になるのかもしれない。しかし、今やニッポンでも禁煙車が当たり前になったのは、欧米先進国の常識がそうなったから、同じようにしないとカッコ悪いとおもったからじゃないのだろうか。ニッポンの政治家には相変わらずヘビー・スモーカーが目立っていたのだから。

ぼくが公共の場における喫煙に反対するのは、自分の好みや趣味でやってるつもりはない。ニッポンの愚かな健康ブームなどを支持したことなど一度もない。特に長生きしたいともおもっていない。タバコを吸わない人間が40歳で死ぬこともあるのだし、ヘビー・スモーカーなのに90歳まで生き延びることだってある。だから喫煙は無害だと主張してよいのだろうか。驚くことに、真面目な顔でそのように主張する日本人が存在するのだ。

ぼくの友人で大学病院に勤務している医者が、ぼくの眼の前でタバコを吸い始めたので、「君は医者なのにタバコを吸うのか?」と訊いたことがあった。あの頃はまだテレビでタバコのCMが流されていた時代だった。彼は答えた。「医者をやってると、タバコ無しでは神経がもたないんだよ」。この国では医者までもが情感で仕事をしているらしい。患者をおもう情感ならいいのだけれど。

生きるも死ぬも情感次第。そんな生き方で死にたいのならそれはその人の勝手だ。しかし、この世で生きているのは、そんな人間ばかりではない。ガン患者もいれば、イヌやウサギもいる。野に咲く花もいれば、英国系イヌバカ紳士もいる。この地球という惑星がいつまで生命で満ちた青い惑星でいられるのかは知らない。それはひとの情感を超えた宇宙の歴史がいつか明らかにしてくれるのだろう。そのときはすでに人類が存在していなかったとしても。


今日のビデオ:For Loving Me
-- Peter, Paul and Mary (Live at the BBC, London 1966)

20 August 2008

喫煙をどうするか

どこで読んだのか忘れたけれど、ある嫌煙家がこんなことを書いていた。その人の尊敬する大学教授がヘビー・スモーカーらしく、心の中では禁煙してほしいといつも願っていながら、その教授を前にすると必ず黙ってしまう。尊敬する先生に対して偉そうなことは言えないという気持らしい。

これを読んでぼくは、相変わらず日本人だなあとおもったものだ。こうゆうのが日本人の「尊敬」だとか「思いやり」だとかの精神の基礎になっているのだろうか。今どき人と膝を交えて話をするという場面で、相手の承諾も得ずにスパスパと有害物質を発散できるような人を、どうして尊敬できようか。また本当に思いやりがあるのなら、尊敬する人であればこそ、喫煙の有害性を訴えるべきじゃないだろうか。

もしかすると、あれを書いた人は、その尊敬する教授から「タバコ吸ってもいいかね?」くらいのことを言われていたのかもしれない。それでも、「もちろん、かまいません」なんてふうに答えていたのだろうか。日本人ならその可能性は高い。教授にしても、Noと言える弟子の存在など最初から想定していなかったかもしれない。

ぼくはどんなことでも強制は嫌いだ。喫煙問題にしても、愛煙家に向かって嫌悪感丸出しで「迷惑だ!」みたいにやるのは、ぼくの信条に反する。タバコの煙に有害物質が含まれているのは、JTがどんなに頑張っても科学的な事実だ。JTという大企業は莫大な資金を使って欧米のタバコ会社を吸収するような愚かなことまでしている。ニッポンで未成年者や若い女性の喫煙率が激増したのは、米国のタバコ産業の戦略に従ったJTが、大蔵省のバックアップのもとに好き放題の広告を流すことができたからだ。

タバコを売る側の経営者たちは、自分ではタバコを吸わない。喫煙の恐ろしさを知っているからだ。アメリカのタバコ産業のお偉いさんの中には、「黒人だとか貧乏人だとかに売るだけだ」と、つい口を滑らした者までいる。それが経営者のホンネだろう。ニッポンでタバコ産業の発展を支えて来た大蔵省(今の財務省)の官僚にしても、自らタバコを吸う人間は珍しいはずだ。

こんな事実を知っても、さらに平然と人前でタバコを吸える人間がいたとすれば、ぼくにはその人を信頼することは難しい。信頼する人が事実を知らないのだとすれば、ぼくはその人に事実を伝えようと努力するだろう。それでも理解できない人であれば、もう仕方がない。ニッポンの特高警察みたいに拷問するわけにもいかないのだから。

【参考】本文中「科学的な事実」としてリンクしたYouTubeの映像だけでは説得力がないと主張する人がいるかも知れません。日本語で喫煙の有害性を明確に公開すると、なぜか削除されてしまうことが多いようです。こういう場合は、やはりイギリス人に登場してもらうしかありません。英語ですが、これを見て下さい。

http://uk.youtube.com/watch?v=0L-dXLhj-u4


今日のビデオ:SMOKE! SMOKE! SMOKE!

☆ アメリカにもこんなふうにテレビで宣伝していた時代があったのです。だからこそタバコ会社の社会的責任というものが問題視されるようになり、裁判で有罪を宣告された企業は、被害者に対して莫大な賠償金を支払うことになりました。その埋め合わせのためにせっせと米国産のタバコを買っているのが、アメリカ好きの日本人たちです。ミツグ君だけでなく、ミツグちゃんも珍しくないようです。

18 August 2008

日本のシンドラー?

きのう樋口季一郎のことを「日本のシンドラー」として紹介したけれど、「あれ?」とおもった人がいたかもしれない。「日本のシンドラー」といえば、普通は杉原千畝のことを思い浮かべるだろう。たしかにニッポンでは彼のほうがよく知られているのだとおもう。しかし、助けたユダヤ人の人数を問題にするなら、樋口季一郎のほうが多くのユダヤ人を救ったことになる。それなのにニッポンでは余り知られていないのにはわけがある。杉原は外交官であったが、樋口の場合は、陸軍少将という高級軍人の立場でユダヤ人を助けた。それゆえ国内においてはずっとそのことが隠されていたのだ。

有名人であることが必ずしもその人の価値を決めるわけでないことは、ニッポンのテレビ番組に頻繁に登場する人間などを見ても理解できるであろう。それは歴史上の人物においても同じだ。たとえば自由民権運動といえば、すぐに板垣退助のことを思い出す人は多くても、加波山事件の原利八、秋田事件の川越庫吉、群馬事件の湯浅理兵のことを誰がおもうだろうか。彼らはみな暴虐な明治政府に抵抗して人民の自由と権利を求めたために「重罪人」とされ、北海道に送られ極寒の中で過酷な労働を強いられながら、ついに獄死したのだ。
国をおもふ心のたけにくらぶれば
浅しとぞ思ふ石狩の雪
これは原利八が遺した歌である。明治天皇が教育勅語を発布した1890年、原は北海道の深い雪の中で倒れた。39歳だった。どれほど多くの日本人が、見せかけの立憲制と闘って自由民権の実現を願ったために国賊とみなされ、同じように国家の暴力によって命を失ったことだろう。

あれから百年以上が過ぎて21世紀に入ったというのに、この国の支配層は天皇制の讃歌「君が代」を学童や教師たちに強制しながら、高いところから人民を見下ろして愛国者を気取っている。国を愛するということは、どういう意味なのか。天皇を愛することなのか。無謀な戦略で若き兵士たちを死なせたのは、まさにその愛ではなかったのか。現在もそんな愛のために、強き権力者の暴力によって教師としての職を奪われてしまうような人民がいる。この国に自由民権が実現するのは、いつになるのだろう。


今日のビデオ:北海度?

17 August 2008

汽車に乗ったのだ

ナチの迫害からユダヤ人を助け、「日本のシンドラー」と呼ばれる樋口季一郎は、淡路島の生まれだという。淡路島と聞くと、ぼくはむかし母から聞いた話を思い出す。母の母親(つまりぼくの祖母)の親戚に、淡路島の大地主だった者がいたらしく、村長だったのか町長だったのか何者だったのかよく知らないけれども、かなり名の知られた人であったようだ。きっと日本のシンドラーもその人のことを知っていただろう。ひょっとして樋口季一郎も赤の他人ではないような気もする。それには理由があるのだ。

母方の親戚を見渡すと、そこにある共通点のあることに気づく。ひとことで言うと、自分の生活を犠牲にしてでも困っている人を助けようとする。そんな性格の人間が目立つのだ。これはわりと最近になって知った話なのだけれど、国鉄がJRに変わろうとしたとき、組合員たちを追い出そうとした経営者側の卑怯なやり方に真っ向から反対して、なんとか組合員を救済しようとして闘ったリーダーの中に、ぼくの母の兄さんが入っていたそうだ。国鉄民営化に反対したために「不良」と決めつけられ職を失った組合員の中には自殺する者もいた。その数は200人を超えたという。

その兄さんという人(つまりぼくの伯父)の計らいだったとおもうけれど、ぼくは子どもの頃に、どこかの線路を走る蒸気機関車に乗せてもらったことがある。機関士の人は全く知らない人だった。でも、今でも覚えているのは、「坊や、警笛を鳴らしてみるかい?」と笑顔でぼくに言ったこと。そして、その直後にぼくは警笛を鳴らすひものようなものを引っ張った。警笛がポーッと鳴った。あのときのぼくの笑顔を見たのは、その機関士であったはずだけど、今のぼくは自分の笑顔が見えるかのように、あの日のことを思い出す。機関士の笑顔も覚えている。

あのときその機関車に乗っていたのは、その日に初めて会った機関士たちだけだったようにおもう。伯父さんも乗っていなかったし、母も乗っていなかった。「この子のこと、よろしくね」みたいな感じだったのだろう。息子の大学入試会場にまで一緒について行かなきゃ心配でしょうがないような現代ふうのママなら、あんなことは決して許可しなかったにちがいない。

母が末っ子だったせいか、ぼくは母の兄姉たちから特別に可愛がられていたのかもしれない。母の姉のひとりに、若くして夫を病気で失ってのち、残されたひとり息子を女手一つで育てたという、キャリア・ウーマンの元祖みたいな人がいる。その伯母というのは、とにかくぼくと顔を合わせると、必ずぼくを抱き寄せて頬にキスをしたものだった。その幼児体験のせいなのか、ぼくは子どもの頃からイヌとかネコとか可愛い動物を見ると、抱きしめて頬にキスをしたものだし、その癖は今に至るまで続いている。吾が愛犬BBCは、その生涯に、どれほどぼくにキスされたことだろう。

ここだけの話、可愛い女の子なんかを見ると、同じように頬にキスをしたい衝動に駆られることもあるのだけれど、ニッポンの社会でそんなことをしたら、まちがいなく「あぶないおじさん」に見られるから、必死にこらえている。バイブルでは「聖なるキス」として、挨拶の際に奨励されているのだけどね。ニッポンでクリスチャンで通すってのは、本当に大変なんだ。


今日のビデオ:My Girl

16 August 2008

金メダルのこと


レスリングの吉田沙保里がまた金メダルを獲得したらしい。実は、ぼくは今回のオリンピック競技をまだ一度も見ていない。というか、3ヶ月前からテレビ番組は何も見ていないとおもう。おそらく平均してぼくがテレビを見る時間は、3ヶ月に1時間もないだろう。子どもの頃には洋画の番組だけはよく見たものだ。それもいつしか見なくなった。映画を愛する者を全く理解していないような編集の仕方に呆れ果てたのがその最大の原因だ(CMを頻繁に入れすぎるとか、まだ映画が終わっていないのに映像の中に予告テロップなどを流すとか)。そして、映画番組のスポンサーには、ぼくが支持できない愚劣な企業が目立つのも気に入らなかった。同じ理由でニッポンの民放ニュース番組はほとんど見ない。

話をせっかく旬の話題になるように始めておきながら、なんだか違う方面へ進んでしまったようだ。ぼくはこのオリンピックというのにも実はほとんど関心がない。腐敗したIOCのこともあるし、表彰式だとかで国歌が流れるようなスポーツ競技は好きになれないのだ。特に「君が代」なんてのは、子どもの頃から大嫌いだった。自分がオリンピック選手になって金メダルなんか取ったら辞退しようかとか、本気でそんな夢を見ていた時期もあったくらいだ。

ウィンブルドンなら国歌を流すようなことをしないから、かなり憧れたこともあった。しかし、あのウィンブルドンにしてもアメリカ人だとかのプロテニス界に支配されているようなもので、ぼくみたいなアマチュアの技術では到底かなわない。本場イギリス人の選手にしてもウィンブルドンで優勝することがなくなったのは、英国ではテニス人口が非常に少ないばかりでなく、テニスをやる人間はたいていアマチュア精神でやってるのが普通で、がむしゃらに頑張って大金持ちになろうなどという意欲がないからだとおもう。

それはともかく、吉田沙保里というレスリング選手は確かにすごい人だ。たいていの国際試合でいつも金メダルばかり取っている。からだが小さいのに、とにかく圧倒的に強いらしい。ぼくなどが相手をしたら、3分もしないうちに負けてしまうだろう。第一、女性とレスリングするなんて、ぼくは想像しただけでも、相手のからだのどこにどう触れていいのかと悩んでしまい、頬がポッと桃色に染まってしまいそう。そういえばむかし、小学校高学年の女の子なんかが、いきなりぼくに向かって「お相撲しよう!」などと言って挑戦して来たことがあった。だいたいぼくは「相撲」と「相模湾」の区別がつかないくらいにニッポンの国技とやらが苦手なのだ。相手が小学生であっても、とりあえずは女性である限り、もう苦手どころの話じゃなくなってしまう。

愛犬が子犬の頃、就寝前によくレスリングをしたものだ。イヌというのはヒトとちがって手がうまく使えないから、口を使うことになる。子犬の歯というのは、すごくとんがっていて、向こうは甘咬みのつもりでもこっちは相当に痛いし、実際に歯形が残ってしまう。半袖のポロシャツなどを着ていたら、傷だらけの腕が丸見えだ。いつか自転車のかごの中に愛犬を乗せて銀座のホコ天を歩いていたとき、若い女性が笑顔で近づいて来て、「咬みますか?」と言った。どこからどう見ても吾が愛犬の場合は人を咬みそうな顔に見えなかったはずなのに、おかしいなとおもったら、ぼくの腕が誰の眼にも明らかに傷だらけの状況にあるのに気づいた。「いいえ、咬みません」とぼくは答えたけれど、余り説得力はなかったかもしれない。


今日のビデオ:Only You
-- Ringo Starr

15 August 2008

靖国神社を考えた


戦時中、マスコミから「欲しがりません勝つまでは」と教え込まれりゃ、そのまま素直に従って、一体どうしてこんなに食い物にさえ困るのかということさえ考えなくなってしまう。日本人てのは、実に封建的というか、オカミに従順というか、「生かさず殺さず」方式で人民を支配する権力者たちにとって、こんなに都合良くできた大衆というのは、世界の近代史の中にあって他の追随を許さぬ突出した存在だとおもう。

靖国神社にしてもそうだ。神社に手を合わせる行為を美徳とするのだとすれば、日本人が信仰においてさえ世間の慣習に盲従的であって、みんながしてるから自分も同じようにしないと悪いヤツに見られてしまうと恐れているからだろう。どの神社でも御神体というのは見てはならぬものと決まっている。何を拝んでいるのかその実体が不明のままに漠然と拝むのが神社信仰だ。世間体以外に何か信仰する理由があるのだとすれば、その人の主観か勘違いか何か知らないが、拝んでいたらなんだか自分がいいヤツになったような気分になるからじゃないだろうか。中には純粋な信仰で神社に手を合わせる人もいるのかもしれない。それならそれで個人の自由だろう。ただぼくにはその種の純粋さってのが理解できないだけの話だ。

ぼくの友人の中に先祖代々神主の家系だったという男がいるが、彼の先祖のひとりがある日のこと御神体の正体を知ろうとして、見てはならぬものをついに見てしまった。その正体の余りに粗末な物体であるのを確認したとき、「あゝ、俺はこんなものを神として拝んでいたのか!」とおもって愕然とした。それ以後、彼の家から神主になる者は出なかったという。そのぼくの友人の父親は医者だが、福音派のクリスチャンだ。聖書の神なら、最初からその正体が誰の眼にもハッキリしている。信じるか信じないかは個人の自由だろう。そういう自由を迫害したのが靖国信仰を強制する天皇教だった。

日本IBM会長の北城格太郎がコイズミ首相の靖国参拝を批判したとき、例によってウヨクが騒ぎ始めたが、北城がクリスチャンであることを理由に、彼が「個人的な思想を経済同友会という公務に持ち込んでいる」と言って非難していたウヨクがいた。いつものことながら、思考力も知識もない情緒的なウヨクというのは困ったものだ。北城がいつキリスト教を日本人に向かって強制するようなことを言ったのか。たとえ彼の靖国参拝批判の背景にキリスト教的なものがあったとしても、他人に同じ信仰を押しつけようとしてはいないのだよ。いま引用したウヨクのような発言が常識として通用するなら、どんな場合にも批判などできないことになってしまう。「オカミに逆らうな」ということが通用してしまうことにもなる。きっとウヨクはそれを言いたいのだろう。

だいたい靖国信仰などというものこそが公的なるものを勘違いしているのだ。個人の信教の自由を踏みにじって、国家主義的な思想を個人に強制しているのだ。西洋近代国家の歴史においては、数百年前にすでに、国家が個人にそのような信仰を強要してはならぬという政教分離の原則が生まれていたのである。英国で17世紀に起こった清教徒革命にしても、革命の母体がピューリタンという明確に聖書に従うキリスト者たちであったにもかかわらず、彼らが目指した国家のあり方は、個人に信教の自由を保障するという寛容な方針を基本にしていた。

靖国神社にA級戦犯までをも合祀したのは、靖国派が極秘にやった身勝手な行為であった。それがバレたら、今度は開き直って、一度合祀してしまった以上、英霊は靖国に居着くのだからもう分祀はできないみたいなバカなことを言い始めた。一体、彼らは自分らを何様のつもりでいるのだろうか。他人の死後の霊の居場所を、自分らの頭脳で描いた采配で自由に決定できるとでも信じているのか。

分祀もクソもないのだ。靖国神社そのものの存在が過ちなのだ。天皇のために戦死すれば英霊とされて格が上がるようなイメージを子どもたちの心に植え付けたのが、明治に始まる天皇制義務教育のやり方であった。天皇制国家は当初からいつも軍国主義であったから兵隊を必要としていたのだ。たとえ貧しい農家に生まれた息子であったとしても、天皇のために戦死すれば立派な男になれるような錯覚を与えた。それが靖国信仰の正体である。

A級戦犯という呼び方は、たしかに戦勝国の一方的な言い分かもしれない。しかし、彼らに政治的指導者としての戦争責任があったのは事実であるし、たとえA級戦犯ではなくとも、あの靖国神社に英霊として祀られている軍人の中には、A級どころかウルトラC級並に残虐非道な人間が多数混じっているのも事実である。もしも現在のドイツに靖国神社のようなものが存在したとして、ユダヤ人を大量に虐殺したナチ党員がそこに<神>として祀られていたとしたら、ひとはどう感じるだろうか。被害者遺族でなくても、そんなことは絶対に許されないとおもうのが地球人の常識というものじゃないのか。たとえ悪魔のように残虐な人間であっても、個別にその人の墓が建てられるのはかまわない。しかし、国家として戦争犯罪者を<神>とするようなことを許していたとすれば、そんな国が国際的な場で信頼されるだろうか。

北城IBM会長を街頭で非難していたウヨクは、「商売人は靖国に口出しするな 中国の犬・経済同友会」と書いたプラカードを誇らしげに首からぶら下げて立っていた。きっと彼らは自分らこそが立派な愛国者だと信じているのだろう。こんな日本人を見て誇らしくおもう日本人が多数派だとしたら、もうニッポンの未来は真っ暗ケッケだし、ぼかぁ英国の田舎へ移住するか、男はつらいよ寅次郎モードで余生を過ごすしか道はなくなっちまう。


今日のビデオ:Danny Boy
-- Declan Galbraith

13 August 2008

イヌを差別する島

ベンジャミン・フルフォードが大久野島(おおくのしま)のことを自分のサイトで紹介していた。そこは広島県に所属する島のひとつで、第一次世界大戦末期頃から化学兵器の開発を目的とする軍事施設のあった島だ。広島というのは、原爆投下によって戦争被害都市というイメージがあるのかもしれないが、遠い明治時代より軍都として栄えていたのだから、戦争の加害都市というのがその実態であった。たとえば日清戦争時には大本営が広島に置かれていたくらいだ。十五年戦争において日本軍は中国で化学兵器を使用したが、それもこの大久野島で生産されたものだった。だから地元の人はこの島を「毒ガス島」と呼んだ。

戦後にはここに毒ガス資料館が建設されたりして、平和国家らしい構想で島のイメージを刷新しようとしたらしい。1970年代に入ると、小学校で飼育していた8羽のウサギを放し、それがやがて繁殖して野生化し、今では兎島(うさぎしま)と呼ばれるほどに多くのウサギが棲息しているという。それはたいへん喜ばしいことだけれども、また例によって日本人的な規則を作ってしまったようだから、こうしてぼくのブログでも問題にしなければならないのだ。現在この島では、ウサギに危害を加える可能性があるとしてイヌの連れ込みが禁止されているという。

だいたいこんな規則を作る役人か議員とかは、イヌというものをイヌらしく育てた経験がないのだろう。こんな規則が平然と通用してしまう文化圏てのは、それだけで平和とは程遠いイメージがある。ウサギのような動物に危害を加える生き物がいるとすれば、イヌではなくヒトであるというのが現実なのだ。動物虐待列島ニッポンの現状に無関心なマスコミでさえ、それくらいの報道はして来たはずだ。ウサギの安全を本気で願っているのなら、イヌを差別する前に、ヒトの凶暴性こそを考えるべきだろう。イヌのような動物にやさしくできない大人たちを見て育つ子どもだから、ヒトは凶暴になってしまうのだ。

それにしても、日本人てのは規則というものが好きらしい。ウサギに危害を加えるようなイヌが存在するとすれば、そのようなイヌを育てておきながら平然とウサギに近づけるヒトの存在こそが問題になるのじゃないか。規則でどんなイヌをも危険視するようなことをすれば、そんな文化の中で子犬も子供も健全に育つはずがないだろう。ヒトなら誰でもこの島に入っていいらしいが、ヒトの中にウサギをいじめるようなのが混じっている可能性をどう考えているのか。

大久野島。やっと「毒ガス島」の汚名を返上できたかとおもったら、今度は「イヌを差別する島」として有名になるかもしれない。広島に真の平和が訪れるのはいつになるだろう。


今日のビデオ:島人ぬ宝
-- Begin

12 August 2008

Mr Nakasone, are you ready?


座禅なんかで救われたでしょうか
ちゃんと書き残していますか
たとえば、JAL123便の件とか
もうすぐその時が来ますよ
用意はできていますか?


今日のビデオ:Edelweiss
-- Christopher Plummer

11 August 2008

本当にあった怖い話


夏の今ごろの時期といえば、どこかに子どもたちが集まって怪談話で盛り上がるということがあったようにおもう。実は,ぼくはわりとその方面の話が得意だったのかもしれない。よく近所の子どもたちからもせがまれたものだ。たいていの話はその場で思いついた作り話だった。ぼくにルイス・キャロルのような才能があったなら、怪談などではなく、『不思議の国のアリス』のようなお話を語ってみたい。それはきっと夢の中での話になるだろう。

現実のぼくは、子どもたちを絶叫させるような怖い話くらいしか作れないのだけれど、ひとには余り話したことのない不思議な体験があることはあるのだ。今夜はそのひとつを語りたいとおもう。繰り返すが、これはフィクションではない。本当にあった怖い話である。

横浜で愛犬とふたりで暮らしていたアメリカ人の友だちから、5日ほど旅に出ることになったので、そのあいだ留守番をしてもらえないかと頼まれた。当時のぼくはまだ半分学生みたいに気軽な身分だったので、即答でそれを引き受けた。彼女の愛犬には子犬の頃から顔なじみで、会うたびにぼくを家族のように慕って顔を舐め回してくれたものだし、きっとぼくが英国系イヌバカ紳士らしいというのが彼女にも通じていたのだとおもう。日本語が話せない彼女と話すときは、もちろん英語だったのだけれど、相手がアメリカ人であろうが何であろうが、ぼくが英語を話すときは必ずイギリス英語になっていたはずだ。

あれ? きょうの話は本当にあった怖い話だった.... それでその彼女の家なのだけれど、横浜の山手町にある古い洋館で、家というよりは屋敷と呼んだほうがいい、かなり大きな家だった。洋館というのは蛍光灯じゃなく白熱電灯が普通で、部屋の中はけっこう暗い。ああゆう暗さというか、柔らかい明るさというのは、ぼくの気質に合うらしい。大きな屋敷でひとりで迎えた初夜ではあったけれど、ゼーンゼン平気だった。

あれは一夜明けた翌日の午後だったとおもう。彼女の愛犬と庭で遊びすぎたせいか、居間のソファに横になって本を読んでいるうちに、うとうとと眠気が襲って来た。すると突然、からだが動かなくなった。いわゆる金縛りというやつだ。こういう経験は子どもの頃から何度もあったし、それほど怖いものだとはおもっていなかった。しかし、あの日はいつもと違った。廊下の階段を数名の人たちが何やらしゃべりながら降りて来るような気配を感じたのだ。もちろんあのとき屋敷内に、ぼくのほかに人間はいないはずだった。ぼくの耳には、彼らの階段を降りて来る足音がハッキリ聞こえたし、しゃべってる言葉が英語らしいことも分かった。彼らはぼくのいる居間へと向かっているようだった。ぼくはゾッとしたが、とにかくからだが動かない。

そしてついに彼らが居間のドアを通って、ぼくの寝ているソファの近くへと迫って来た。ピンチになると妙に元気になる癖がぼくにはあるらしい。「クソ野郎!このまま襲われてたまるか!」みたいな気持で全身に力を入れたら、突然、スーッとからだが自由になった。ぼくはソファから起き上がり、部屋の様子を見回した。しかし誰もいない。それから廊下に出て、階段を見上げた。そこもシーンとしていて人の気配はなかった。ぼくは階段を上ってみた。2階にはいくつか部屋があったけれど、女性の部屋を勝手に覗くのはぼくの趣味ではなかったので、部屋の中までは調べなかった。

ぼくはキリスト者として、幽霊ではなく聖書的な意味での<霊>の存在を信じているが、オカルト的なものには興味がない。そういう世界に支配されるのは危険だとおもう。あの日の体験にしても、きっとぼくの幻覚にすぎなかったのだろうと、そんなふうに自分に言い聞かせていたようだ。


今日のビデオ:Unchained Melody
-- Righteous Brothers

10 August 2008

醜いヒトの子


金持ちしか相手にしない売春婦のことを高級娼婦と呼ぶのだとか。そういえば叶姉妹というのは海外の富豪たちを相手にして来た高級娼婦らしいというウワサが、ぼくの耳にまで届いたこともあった。ぼくには全く関心のない世界だったが、とにかく驚いたのは、生涯に一度でもいいから叶姉妹みたいな女とセックスしてみたいと本気で夢見てる男たちを何人も目撃したことだ。そんな願いを持ってる連中ってのは、給料が振り込まれるたびにどこかのソープで春を買っているのだろうか。1回にその数十倍の料金を必要とする高級娼婦が相手なら、そのまま死んでもいいとおもうほどに究極の快感を得られるとでも信じているのだろうか。叶姉妹ファンには悪いけど、ぼかぁたとえ3億円もらえるとしても、あの種の女性と一緒にお茶を飲むのさえいやだね。

少女の中にも、育った環境(たとえば、カネこそはすべて式の家庭環境)のせいで、本来の子どもらしい美しさを失っている少女たちがいるらしい。それでも赤坂で大物政治家などを相手に春を売れば、高級少女という身分になってしまうのか。この地球上には、貧しい家に生まれたり、奴隷商人に誘拐されたりして、売春を強要されている子どもたちがいるのだ。しかし、電車に乗って渋谷にまで出て来て遊ぶような小学生たちが、極貧の家庭で育ったはずはないだろう。彼女たちは自分のパンツやからだを売って稼いだカネを何に使うつもりでいたのだろう。老人を見捨てるニッポンの政治家たちのせいで入院もできなくなった爺さんでも助ける予定だったのか。

ぼくは不思議でならない。たとえ相手が成人した女性であっても、カネを払ってセックスするなど、ぼくには想像もできないというのに、自らカネ目当てにからだを売るような小学生と寝る男がいるなんて、ほんとに信じられない。彼らが大物政治家だったり、警視庁キャリアだったり、テレビ局の幹部だったりするのだとしたら、このままでは彼ら大人たちと同じように、醜いヒトの子がどんどん増えていくかもしれない。醜いアヒルの子なら、やがて白鳥に育つことだってあるだろう。しかし、醜いヒトの子の場合は、大人になってさらに醜くなる可能性が高いようにおもう。


今日のビデオ:Bach Partita BWV825 - Gigue
-- Werner Nänni

9 August 2008

プチエンジェル事件の謎

2003年7月17日、赤坂のマンションで、行方不明で捜索中の小学校6年生の女子児童4人が発見された。世に「プチエンジェル事件」として知られる事件だ。室内には、犯人と特定された男、吉里弘太郎(29)の死体があったが、警察は即座にこれを自殺として処理した。練炭を使用した自殺ということらしいが、自殺と断定するには不可解な現場報告が残っているのに、当局がそれを問題視しなかったのには何かわけがあるのだろう。この事件の真相を調べていたフリージャーナリストの染谷悟が、9月12日、東京湾の海上に刺殺体として浮かんだ。

警察はこの事件を吉里の単独犯行による監禁事件として処理した。児童買春に関係すると見られる2,000人の顧客名簿はなぜか闇に葬られ、買春事件として調査することはなかった。事件発覚当初には、その顧客名簿の中に、政治家、警視庁キャリア、弁護士、テレビ局幹部、大手ゼネコン幹部などの氏名がずらりと並んでいるように報告されていたのに、数日後、それらはすべて偽名であったと発表された。

犯人の吉里は、渋谷にたむろする女子中高生のあいだでは「ヨッシー」として知られる有名人だった。彼に小学生の女の子を紹介すれば、ひとりあたり3万円もらえたのだ。援交でからだを売っても同じくらいの報酬だから、彼女らにとってこんなにうまい話はない。もちろん女子児童を紹介するといっても、「仕事のできる」(つまり売春が可能な)小学生でなければならなかった。少なくとも120人以上の女子小学生がその「仕事」に応じていたらしい。

吉里はフェラーリを2台も所有していて、なぜかそれらを事件発覚直前に売却していたが、預金額は35億円ほどもあった。彼の顧客は相当に羽振りがいいらしい。処女の小学生を紹介すれば、気軽に50万円を支払う客がいたそうだ。

赤坂に監禁されていたという女子児童たちだが、近所のATMから吉里に代わって預金を引き出したりしていたのだから、通常の監禁とはだいぶ様子がちがう。赤坂という町は、渋谷とはちがって普通の小学生が集まる場所ではない。国会議員、高級官僚、弁護士などが集まる場所である。吉里が大物政治家の名刺をもっていたというのは、彼と近しい人間ならみな知っていたことだ。

たとえ児童ポルノ法をさらに厳しく改正したとしても、国会議事堂の近くで小学生のからだを買ってさえ犯罪にならない連中がいるらしい。まさかそのような偉い先生方が、「児童ポルノ法をもっと厳しくすべきだ」などと国会で叫んでいるわけじゃないだろうね。


今日のビデオ:やさしさに包まれたなら
-- 松任谷由実

8 August 2008

ロリコンを考えた

宮﨑勤もついに処刑された。彼の育った地元の人たちからも「遅すぎた死刑執行」という声が聞こえて来た。あのような男にだれが同情するだろう。しかし、あそこまで残虐な犯罪に至った原因を考えるとき、宮﨑勤という個人を育てた家庭(そして社会)環境を無視できないようにおもう。事件発覚後、彼の父親はあっけなく自殺してしまった。宮﨑家というのは地元ではインテリ系の名家として知られていたらしい。誇り高き父親は、あの事件でどれほどプライドを傷つけられたことだろう。ぼくにはそのプライドこそが息子の犯罪にも関係しているような気がする。

日本人はどこまでも自分のプライドを守ろうとして、ついには自殺という逃げ道に走ってしまうらしい。きのう話した甘粕事件もそうだ。甘粕は自殺せずに自分の知る事実を公表してこそ社会的責任を果たすことができたはずだ。彼は米沢藩の士族出身だった。ニッポンの名士特有の忠誠心が、強者のプライドを守るために、社会的弱者のいのちを犠牲にしたのだ。

宮﨑勤という男は、多くの人にいわゆる「ロリコン」と見られているようだが、この日本語くらいにその意味が曖昧のままに世間で嫌われている言葉は珍しいのじゃないだろうか。おそらく日本人は「ペドフィリア」(paedophilia)と呼ばれる性的嗜好をもつ人間をさして「ロリコン」と言ってるつもりなのだろう。ペドフィリアとは、成人のもつ通常の性欲とは違って、小学生くらいまでの年頃の児童を対象とする性欲に支配された性的嗜好をいう。宮﨑勤に関してぼくが入手した情報を分析する限り、彼の嗜好は厳密な意味でのペドフィリアではない。成人女性と対等につき合うことのできないコンプレックスが、幼児への性的支配欲となってあのような残虐な行為へと向かわせたのだ。もちろんそれほど単純な事件ではないが、概括としてそのように表現することができるようにおもう。

宮﨑勤のような犯罪を犯す人間の性向は、多くの場合、ペドフィリアではないようだ。それはおそらく多くの人がなんとなく気づいているのじゃないだろうか。もてない男が幼児を狙う。だから、チョーきもい。日本人は、同性愛に対してはなんだか寛容らしいけれど、とにかくロリコンといえば、すぐに宮﨑のような男を連想して、いやーな気分になる。どこかの駅のエスカレーターで、女子高生のスカートの中を手鏡で覗いたなんて男が発見されたら、とたんに一斉攻撃が始まって、その男は社会的地位までも失ってしまう。そういうことが、マレーシアの同性愛罪と同じように、ニッポンでは悪の支配層に利用されているかもしれない。

かつてぼくは世にロリコンと呼ばれる人が集まる掲示板をしばらく観察してみたことがあった。そこで知ったのは、彼らの多くは、宮﨑勤とは全く違う種類の人間らしいということだった。ロリコン犯罪が発覚すると、その犯人に対して激しく怒り狂うような人たちだった。彼らは幼い女の子に性欲など感じていないように見えた。愛犬家がイヌの写真を見て楽しむように、彼らは子どもの写真を見て楽しんでいるにすぎない。もちろん児童ポルノと呼ばれるような写真ではない。子役だとかの写真を掲示板にアップしているだけだったのだ。宝塚ファンの少女たちが、ブロマイドを集めて喜ぶように。

以前も、このブログで少し書いたような気がするけれど、「シベールの日曜日」という映画には、世間の人のロリコンへの嫌悪感がもたらした悲劇が描かれていたようにおもう。戦場で負った心の傷が消えない36歳の男ピエールと、親に捨てられた孤独な12歳の少女シベールとのあいだには、周囲の大人たちが怪しむような関係は何もなかったのだ。あの映画はフランス映画だったけれど、ぼくの印象では、フランスよりもアメリカでこそ、歪んだロリコン観が発達して、それが世界中に広まったような気がする。アメリカ人は大らかなように見えて、法律や規則でなんだか窮屈な社会を作る傾向があるようにおもう。それはきっとあの国では凶悪犯罪が多いからだろう。その根本的な原因を考えずに、ただ犯罪者を処刑したり、法律でがんじがらめに社会を縛ったりしていては、いつまでも同様の犯罪が繰り返されることになるだろう。

ニューヨークの市長だったルドルフ・ジュリアーニは、犯罪を減らすために市内の環境改善に尽くした。治安を取り締まる側の警察内部の腐敗構造も改善した。その結果、犯罪が激減したという。ぼくの東京の地元は都心のために時に凶悪犯罪が起こることもあるけれど、その犯人はたいてい地元の人間ではなく、どこかの暴力団員だったりする。少年犯罪はめったに起こらない。交通事故にしてもそうだ。だいたい地元の人間は自動車を所有してはいても、ほとんど車を運転しないのだ(近所のスーパーに買い物に行くのにもベントレーを運転して出かけるようなご婦人は、まちがいなく地方出身の成り金である)。イヌも住民から愛されて自由を認められているから、のびのび育っていて、人に危害を加えそうな地元犬は珍しい。

ところが、ぼくの体験した地方都市では全く事情が違っていた。性格の悪いイヌ嫌いが「公園にイヌを入れるな!」と威張っていたものだ。東京の公園のように自由にイヌ同士が遊べるような場所は、ドッグランと呼ばれるアメリカ式のイヌ収容所しかなかった。もちろんぼくはそんなところに愛犬を閉じ込めたりはしない。だから以前にも話したように、公園で愛犬と雨宿りしているだけで、卑怯な男から警察に通報されるというようなことをされた。イヌの飼い主も他人のイヌ(特に大型犬)を避ける傾向があった。あの都市では、家の外につながれたまま気が狂ったように吠えるイヌの姿が目立った。通りすがりのイヌ嫌いからいじめられていたのだとおもう。人間なら精神科の医者に治療してもらう必要のあるようなイヌたちだ。

宮﨑勤は、まだあのような犯罪を犯す前に、動物を虐待するような行為を繰り返していたという。その段階で、周囲の大人たちが、彼の環境を改善するように努力すべきであった。しかし、日本人にはこの<改善>ということが非常に苦手らしい。ぼくはこれまでにどれほどネット愛犬家グループで、その<改善>を訴えて来たことだろう。そのたびに常連たちから非常識だとして非難された。愛犬家と呼ばれる人々でさえこの国ではこんな具合だから、政治の世界でも、自民党や公明党のような三流政党でも政権を維持できてしまうわけだし、この現実を変えようと活動しているかに見える人々の中にさえ、ぼくのイヌ論を理解できない人が目立つことにもなるのだろう。人権という言葉には異常に敏感な人々ではあっても。


今日のビデオ:シベールの日曜日

☆ 6日のビデオは、最初はキリスト教的なのを選んだのですが、終了後に画面の下部に並ぶビデオの中にモルモン教のビデオが混じっていたので、別のビデオに替えたのです。きょうの「シベールの日曜日」の終了後にも、勘違いビデオが並んでいるようです。そういうのと比較すれば、「シベールの日曜日」のピエールが、現代ふうの少年少女たちよりずっと純粋に見えて来るかもしれません。

7 August 2008

法律で人を裁くこと


マレーシアのもと副首相アンワル・ビン・イブラヒムが、同性愛罪の容疑で再び法廷で裁かれることになった。2000年にも同じ容疑で逮捕されていて、懲役9年の有罪判決を受けていたのだ。しかし、2004年にその判決は無効とされ釈放された。当初からアムネスティなどの国際的な人権団体はこの裁判の公平性を疑問視していた。当時の首相マハティール・ビン・モハマドは、かつてアンワルを自分の後継者にしようと願っていたほどに信頼していたが、通貨危機問題において互いの意見が対立し、以後、アンワルのことを邪魔におもうようになったらしい。

同性愛罪の裁判の前年にはすでに、アンワルは職権乱用罪で有罪判決を受けていた。マハティール政権というのは独裁政権と呼んでもいいような印象があるから、その職権乱用罪というのもどこまで信用していいのかわからない。当時、法廷に姿を見せたアンワルの顔面には、拷問を受けたかのような跡が残っていた。

さて、そこで考えなければならないのが、同性愛の問題だ。イスラム教国では、法律により同性愛が罪と定められている。マレーシアの刑法でも、最高で20年の懲役刑になるほどの重い犯罪だ。昔は英国にもそんな時代があった。オスカー・ワイルドは1895年に同性愛行為で有罪となり、2年の重労働(hard labour)という刑罰を受けたのだ。

数年前、トルコ共和国が不倫罪のようなものを制定しようとした際、ヨーロッパ諸国から批判を受けたことがあった。キリスト教圏であっても、不倫が常識として罪であるとみなされているのは確かだとおもう。しかし、刑法によって犯罪と規定するような問題ではないと考えるのが普通だ。不倫はあくまでも当事者間の個人的な問題であって、そこに国家権力が法律でもって干渉すべきではないとするのが、現代のキリスト教社会の考え方だろう。ぼくの推測では、聖書的なクリスチャンならば、2000年前からそのように考えていたのだとおもう。いつしかキリスト教も国家権力と合体するようなことになって、聖書がただの道徳規範のようにみなされるようになってから、同性愛なるものが犯罪として裁かれるようになったのだろう。

法律の歴史を振り返れば、法律は国家権力によって悪用されることが多い。ニッポンの近代史を見ても、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二、三木清というように、多くの人々が国家の暴力によって殺された。これらは歴史に名を残したほんの一部の人たちにすぎない。無数の庶民が、同じようにして法律の犠牲となったことだろう。

最近、児童ポルノ法をさらに厳しく改正して、その系統の画像を所持していただけで有罪とするような動きがある。やはり例によってニッポン伝統の腐敗した支配層と共にうまいメシを食ってる連中が中心になって活動しているようだ。もしこんな法律ができたら、これまで以上に冤罪がたやすく作れるようになってしまう。刑事裁判の99パーセント以上が有罪となるこの国の異常な裁判制度の中で、どれほど多くの人々が無実の罪で刑務所に入ったり、無罪を主張したために長いあいだ拘留されてしまったことか。

悪の権力にとって、邪魔者を暗殺することくらい朝メシ前だ。彼らの邪魔になる言論を封殺するためには、別件で逮捕した容疑者の自宅から押収したパソコンのハードディスクの中に、児童ポルノ写真を保存することくらいラジオ体操前だろう。

もちろん多くの場合、法律は正しく利用されているのだろう(たぶん)。しかし、無実の罪で自由を奪われたり、家庭を破壊されたり、いのちを失ったりするようなことが、たった一度でも起これば、このようなことを許した者たちこそが、どんな犯罪者よりも凶悪な犯罪者といえないだろうか。

大杉栄を殺したことになっている甘粕(あまかす)正彦という憲兵大尉の動機に関し、検察官は論告の中で、「私利私欲を離れて国家のためにやった心情には涙すべきものがある」と、日本人お得意の情緒主義を披露しながら容疑者をかばうような真似をした。弁護士ではなく検察官がである。国家権力の側に立つ者は、無抵抗の平和主義者を虐殺しても同情される。国家権力に逆らう者と判断されれば、無実の罪で処刑されても「致し方ない」ということになるらしい。こういうニッポン支配層の常識は、21世紀の現在にまで基本的に変わっていないような気がする。個人の基本的人権を踏みにじる国家権力の味方をするような最高裁判事たちを見ても。

あの甘粕事件はいまだに真相が不明のままだ。懲役10年の判決を受けたはずの甘粕は、皇太子(のちの昭和天皇)成婚時に恩赦に浴して自由の身となった。その後しばらく東北の温泉町にひそみ、やがてフランスに渡って2年ほど遊んだ。帰国してからは、大川周明という右翼思想家の世話を受けて満州に渡り、軍部の支援のもと満州映画協会理事長などの地位にあったが、敗戦を知って自殺した。

参考:甘粕事件の真相に関して


今日のビデオ:Mistletoe and Wine
-- Cliff Richard

6 August 2008

夢の中で


怖い夢はあまり見ない。というか、目ざめたときに夢を覚えているということはほとんどない。だが、今朝は怖い夢で目が覚めた。誰かに凶器で左胸を刺され、その刃先がぐいぐいと心臓にまで達しそうになったときに目が覚めた。相手が何者だったのかはハッキリしないけれど、たしか夢の中でそうなる前に、ぼくは何かの組織の不正を批判していたような気がする。ぼくの左胸にナイフを突き刺した男は、ニヤニヤと薄笑いを浮かべていた。

そういえば、数年前、旧老人党に群がるウヨクを相手に闘っていたとき、夢の中で同じように何者かにナイフで刺されそうになったことがある。その男は老人だった。ぼくより20センチ以上は背が低いような感じだったし、いかにも弱そうに見えた。その老人が正面からぼくに向かって来たとき、ふと横のテーブルを見ると、その上にナイフが乗っていた。しかし、ぼくはそれを取り上げることなく、ただ無抵抗のまま老人に襲われるのだった。あのときも、もう少しで死んでしまうとおもったときに目が覚めた。

実際のぼくは、それほど無抵抗主義じゃないようにおもう。ある日のこと、ボディービルで筋肉を鍛えていそうな三島由紀夫系のお兄さんが、言いがかりをつけてぼくの目の前に立ち、ポパイのように胸を張った。その瞬間、ぼくは正当防衛の範囲内で相手を倒すつもりでいた。しかし、もしそうなれば、相手の足の骨にヒビが入るくらいのダメージを与えてしまう可能性がある。そうゆうのはぼくの趣味ではない。幸いなことに、たいてい暴力沙汰にはならないのだ。そっちがやる気なら相手になるぜと覚悟を決めていると、先方が複数の場合にさえ、たいてい向こうから去ってゆく。

こんなこともあった。公園で若者同士が殴り合いの喧嘩をしているのを目撃したとき、その仲裁に入った。ひとりはすぐにおとなしくなったが、片方の男が興奮したままで、今度はぼくに向かって来たのだ。仕方なくぼくは防衛態勢に入ったのだけれど、その男はあっけなく地面に倒れてしまった。こちらとしてはまだ倒すつもりはなかったのだ。最近の若者は背が高くなったわりに足腰が弱いらしい。

そういえば、街を歩いていたとき、どこかから突進して来た人がぼくのからだに衝突して、そのまま地面に倒れたことがあった。こうゆうのって、本来なら、ぼくのほうが被害者になるのじゃないかなっておもうわけだけど、あのときも、なんだか悪いことをしたみたいな気分になったものだ。

きょうは広島に原爆が落とされた日だ。あの原爆の最大の責任は、昭和天皇を筆頭に当時のニッポンの政治的指導者たちにあるのだが、核兵器のような物騒なものを保有しながら、いまだに他国を侵略して「アメリカが最強!」みたいにやってるあの米国って国は、ぼかぁやっぱり嫌いだね。


今日のビデオ:You Are The Reason (Peace Song)
-- Bonnie Ste-Croix

5 August 2008

シロクジラの歌


イルカじゃないよ
よく見てよ
何だか変でしょ
お口が変でしょ
オバQみたい
でも、知らないか

 白いクジラ やって来た
 青い海から やって来た
 君の笑顔が 見られたら
 犬のように 楽しそう

こわくはないよ
眼を見てよ
笑ってるでしょ
嬉しそうでしょ
握手したいね
もし、できるなら

 白いクジラ やって来た
 遠い海から やって来た
 僕の気持が とどいたら
 古里おもい 手を振って


今日のビデオ:なごり雪
-- イルカ

4 August 2008

ごめんね、ポチ


コイズミだとか、竹中平蔵だとか、米国の悪の勢力に従順な日本人のことを「ポチ」と呼んでバカにする人が多い。ぼくはそうゆうのを見るたびに、ポチに申し訳ないような気分になる。といっても、ぼくのこれまでの人生、星の数ほどのワン公に出逢ったけれど、ポチという名のお友だちはひとりもいなかったような気がする。もちろん名前を知らずにただ頭をなでたりしていたことも多いわけで、実際にはどこかでポチに出逢っていたのかもしれない。偶然に秋田犬などを見かけては「ハチ公!」と呼んでみたり、バカでかいグレートデーンに出逢っては「チビ!」と呼んでみたり、白っぽい雑種に向かって「クロ!」と呼んでみたりしたことならある。そんなぼくのことだから、野良猫に向かって「ポチ!」と呼んだことはあったかもしれない。

そういえば、いつかどこかで話したことがあったような気がするけど、吾が愛犬BBCと六本木のプールに向かう途中、交差点で隣り同士になった若者から「パトラッシュ!」と呼ばれたことがあった。念のために言っておくと、ぼくが呼ばれたのではなく、吾が愛犬がそう呼ばれたのだ。これも同じようなことをどこかで言ったかもしれない。ちなみに、六本木のプールとは、俳優座のそばにある公園の噴水のことだ。ニッポンには英国のようにイヌが泳げるプールはないだろう。真夏には、「プールに行こう!」と言って、よくあの公園に出かけたものだった。プールというより、吾がBBCの場合は、温泉に浸かるみたいな恰好だった。今もあの涼しげな顔を思い出すと笑ってしまう。

話がポチから外れたようだけれど、とにかく、ポチという名のワン公は実際には珍しいような気がする。それでも、日本人の口からよくその名が悪い意味で使われているのを見ると、たぶん本人はそれほどイヌを見下してるつもりはないのかもしれないが、やっぱりこの国の文化というか常識とかをおもって、ぼくはガックリしてしまうのだ。イヌは確かにバカな飼い主にもシッポを振る。しかし、そのようなイヌを見下せるだろうか。ぼくはそんなワン公のことをおもうと、イエス・キリストの言葉を思い出すくらいだ。
あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27 - 28)
イヌを家の外に鎖でつないだままにして平気でいられる飼い主など、ぼくにはイヌの敵としかおもえない。イヌを侮辱しているとしかおもえないのだ。それでも、イヌはそんな飼い主をさえ愛するものだ。イヌのことを知らない人ならきっとこう考えるだろうか。「エサをもらえるからだ」と。もし本気でそう信じているとしたら、その人はきっと人間の愛もカネか何かを求めるものだと考えているのだろう。第一、子どもの頃からイヌを家族同然におもっている人にとっては、「エサ」という日本語さえ違和感を覚えるはずだ。英語では、イヌとヒトの食事を区別したりしない。

残虐非道な人間のことを「獣のようなヤツ」とか「イヌ畜生にも劣る」とかと表現することもあるようだが、こういうことが平然と口から飛び出す人は、きっと動物と友だちになった経験がない人なのだろう。本来、動物はやさしいのだ。その中でも特別にやさしいイヌという動物が凶暴になったとすれば、凶暴なヒトの文化に影響されて、イヌも人間的になってしまったからだ。地球上の美しいものを醜くするのは、動物ではなく、いつも人間なのだ。だから、「戦場で人間は野獣になる」というのは間違いであって、「戦場で人間はヒトの本性を現す」というのが正しい。

とにかく、地球上で戦争という殺し合いを繰り返しているのはヒトだけであり、「動物も戦争をしている」などと平気で言える人は、動物のことばかりか戦争のことも何もわかっちゃいないのだろう。

今日のビデオ:In the Morning
-- Mary Hopkin

1 August 2008

死刑に群がる人々


「死に神」発言のことで、ついに朝日新聞は謝罪するつもりらしい。アントニオ猪木は、秋葉原通り魔事件に関してこんなことを言っていた。

「ズバリ言うけど、この犯人は即刻死刑にすべき。裁判なんかして時間をかけて、国民の血税を使うことはない」

こう言って彼もまた「死に神」発言を非難していた。こんな人間でも政治家になれたというのだから、ほんとに驚いてしまう。やはりニッポンの体育会系のシトってぇのは、ぼかぁ苦手だなあ。

そりゃ見ず知らずの人を刺し殺すことのできるヤツがいるなんて、信じがたいというか、この世も地獄というか、もうどうしようもないほどに腹立たしい気分になるわけだけれど、そんな犯人のことをニッポンの自粛マスコミでちょっと知っただけで、すぐにそれに飛びつき、悪党などとっとと処刑してしまえなんて息巻くヤツの姿などを見てしまうと、ぼかぁさらに情けない気分になるね。

たとえばアントニオ猪木は「血税」などを出したわけだけど、裁判所や刑務所で使う税金を無駄だというのなら、その何兆倍もの血税や個人資産が、政治家や官僚などの胃袋とかどこかの秘密金庫の中に消えているという現実こそ問題にすべきじゃないのか。

そんなに殺人者を憎めるのなら、ニッポンを改革するなんて偉そうなことを言っておきながら、多くの国民を自殺へと追い込んだヤツらとか、暴力団による殺人を自殺として処理するような検察と関係している偽善者どもの存在をおもえば、下っ腹に気合いを入れ(しかしせいぜい放屁で済む程度に)、ヤツらを激しく憎むってぇのが人情というもんだろう。それに、そうゆう偽善者どもが偉そうにしている社会だからこそ、通り魔なんておかしなのまで出没するようになったのだ。

とにかく、ある種の日本人てぇのは、自分より相当に悪いヤツを発見したら、そいつを徹底的に非難することで、自分が正義の味方のようになったつもりになるらしい。しかし、ほんとに殺人犯てのは彼らより悪いヤツなんだろうか。ぼくは広尾商店街のホコ天で出会ったアリさえ殺せないけれども、殺人犯に比べて自分が本質的に正しい人間だとはおもえないから、犯人を処刑してしまえなんて、とてもじゃないがそんなことは絶対に言えないね。

朝日も朝日だよ。ふぬけ大臣や体育会系の偽善者たちの非難を受けたくらいで謝罪するくらいなら、いっそのことマスコミ業をやめてしまえばいいのに。


今日のビデオ:ありがとう
-- 細野晴臣 & 小坂忠