☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

28 June 2008

宗教は自由か


きのうブレアがまだカトリックに改宗するつもりはないらしいと言ったばかりだけれど、気になって調べたら、なんと去年の12月にカトリックに改宗していたことがわかった。もともとブレアはイングランド国教会の中でもカトリック寄りの教会(Anglo-Catholic)に属していたようだ。それならカトリックに改宗しても不思議じゃない。イングランド国教会の中には、聖書の権威を軽んじて(というか、聖書をそれほど信じてはいなくて)、組織の中で権威をもつ人間の作った教理を重んじる傾向のあるグループがある。カトリックと非常に似ているわけだ。

しかしイングランド国教会の中には、いわゆる福音派(Evangelical)と呼ばれるクリスチャンと変わらない信仰をもつ信徒が集まっている教会も珍しくない。ぼくが学生時代にキリスト信仰をもつきっかけとなった本 Basic Christianity を書いたジョン・ストット(John Stott)が牧師をしていたロンドンの教会(All Souls Church、きょうの写真)は、その代表的な国教会になる。ストットは1959年から32年間、エリザベス女王のチャプレンをしていた。以前も書いたことがあったとおもうけれど、彼の著書を愛読していた女王の希望によってチャプレンとなった可能性が高い。

米国のブッシュ大統領を支持している保守的なキリスト教会のことを福音派だと信じている日本人は多いらしい。そりゃ中には福音派の教会に属するクリスチャンであっても、たまたま頭かどこかが悪ければ、ブッシュを支持することだってあるだろう。しかし、よく耳にする「キリスト教原理主義」という表現でブッシュの支持母体を批判するのはまちがっている。何よりも福音派と原理主義を混同してはならないのだけれど、そもそも原理主義というあり方が聖書に忠実だとする考え方自体がまちがっているのだ。今のブッシュ大統領もそうだが、彼の父さんも統一協会と大の仲良しだったのだよ。父さんブッシュは、統一協会の教祖ムン・ソンミョン(文鮮明)からもらった莫大な政治献金がなかったら大統領になれなかったという話もあるくらいだ。

聖書を素直に読む限り、統一協会は神の正義に反する組織としかおもえない。ブッシュはテロリストを悪魔のように敵視するが、ぼくに言わせれば(というより、聖書に言わせれば)、統一協会こそが立派な悪魔の組織だよ。そんなものとカネの力でつながっているブッシュ家の人間が聖書的なクリスチャンのはずがないよ。第一、本当にクリスチャンであれば、戦争などで人を殺すよりは殺されるほうを選ぶだろう。もはや悲しみも涙もない天国に入ることを信じて。

宗教を選ぶのはひとの自由だろうか? 人間の作る宗教を人間が選ぶのは自由なのだとおもう。しかし、自分の主観や勘違いによってではなく、聖書というものを通して確かに神と出会った者がいるとすれば、その聖書のメッセージとは余りにもちがいすぎる宗教に改宗することは不可能じゃないだろうか。自分の信仰が神を作ったのじゃなくて、神が自分に信仰を与えてくれたと信じる者にとって、その神を自由自在に替えることは可能だろうか。宗教さえもが慣習的あるいは形式的なものとして受動的に受け入れられる人であれば、環境に応じて宗教を替えることも朝メシ前なのだろう。

ぼくの知るイギリス人の福音派クリスチャンの多くは、信仰をもつまでは徹底した無神論者であったようだ。ぼく自身もそうだ。クリスチャンになる前だって、生まれてから一度も初詣にさえ出かけたことがなかった。どこかの神社の前で手を合わせるなどということは絶対にできなかった。信じる対象がハッキリしない限りは、宗教的な行動はできなかったのだ。

内村鑑三の息子祐之(ゆうし)は父親の性格の中で何よりも貴重なものとして、「真理に対する測り知れない深い憧憬と敬虔の念」を挙げていた。また、「自ら信ずること篤きものを有する反面、他人に対して甚だ宏量であった。自らの自由を要求すると同じ程度に、他人の自由をも深く尊重した」とも言い、この父ほどに「自由な人格」に出会ったことがないとも書いていた。自分が信ずる信仰においては絶対に妥協できないものをもっていながら、内村鑑三は確かに自由を知る人だったのだとおもう。

内村鑑三の弟子の多くは、人間内村を尊敬していたのかもしれないが、彼の信仰を受け継ぐことはできなかったらしい。内村という人間を見すぎて、内村の信じるものを見なかったからだろう。しかし、矢内原忠雄はちがった。彼は内村と同じ信仰をもっていた人だ。聖書に忠実であったからこそ、大日本帝国の軍国主義にも抵抗した。世の中の悪と調子を合わせてはならないというのが聖書の教えなのだ。ブレア政権の英国は、ブッシュの支配する米国と手をつないでイラク戦争に参加した。やはりトニー・ブレアもブッシュと同じで、形式的なクリスチャンにすぎないのかもしれない。だから、カトリックに改宗することもできたのだろう。

今日のビデオ:Over The Rainbow
-- Eva Cassidy

27 June 2008

自由の国


ニッポンでは、言葉こそはすべてのはずのネット上の「自由の広場」などといっても、言論・表現の自由が管理人の権力で抑圧されていたりするし、リアル世界の公園の近所では「イヌを入れるな!」などと言って威張ってる地元民がいたりする。市民が自主的に自由を奪う国、これがニッポンである。市民が支配者から自由を勝ち取った歴史をもつ国とは大違いだ。

先日ここで見てもらったエリザベス女王在位50周年記念コンサートだけど、ニッポンの皇居でこんなコンサートが実現できるなんてことは想像もつかない。保守的な宮内庁がまず許さないだろうし、第一、もし実現するようなことがあったとしても、ウヨク系かノンポリ系のミュージシャンくらいしか集まらないだろう。ウヨクはニッポンが英国以上に立派な立憲君主国だと信じているらしいが、古代社会の祭政一致的な宗教を今も皇室内に温存しているような国が、どうして立憲君主国になれるだろう。

それでそのコンサートだけれども、観客の中に当時の首相トニー・ブレアが奥さんのシェリーと一緒にいるのが映っていた(ビデオの時刻で2:48あたり)。ふたりともかなりノリに乗ってる感じだったけど、特にシェリーがすごかった。それもそのはず、彼女はビートルズと同じくリバプール育ちで、あの曲 All You Need is Love が世に出た1967年当時、リバプール市内にある女子校(Seafield Convent Grammar School、きょうの写真)の生徒だったのだ。ぼくにはイングランド南部育ちでシェリーと同じ世代の友人がいるが、彼女の話では、当時の英国の女の子はたいてい特にポールにお熱だったという(彼女自身はジョンだったらしいけど)。きっとシェリーなら、やはりポールのファンだったのじゃないだろうか。

シェリーが通った小学校もそうだったけど、その女子校もまたカトリックの学校だった。彼女は熱心なカトリック教徒の家に生まれていたのだ。イギリス人の多くはプロテスタントで、トニー・ブレアもそうである。英国歴代の首相の中で在任中に赤ん坊ができたのもブレアが初めてらしいが、奥さんがカトリックというのも初めてらしい。現在4人の子どもはみなママと一緒にカトリック教会のミサに参加しているという。やはり母親は強し。女性は強し。神よ女王を救いたまえ。英国バンザイ!

で、2004年の夏、ブレア家が例年のように夏期休暇で過ごしていたイタリアで、トニーは初めて家族と一緒にカトリックの教会に出席した。それまでは英国と同じくイタリアでも奥さんとは別行動でプロテスタント教会の礼拝に出ていたのだから、これをマスメディアが無視するわけがない。ブレア家と親しいカトリックの神父がロンドン・タイムズの紙上で、「首相はカトリックに改宗するかも」みたいな発言までしていたのだ。しかし、ブレアは今のところ、そのつもりはないらしい。もし改宗するようなことになれば、彼のキリスト信仰は形式的なものにすぎなかったということになるだろう。ぼくの尊敬する牧師ロイドジョーンズの言葉を引用するまでもなく、プロテスタントとカトリックは違う宗教といってもいいのだ。

英国の歴史を振り返ると、未だかつてカトリック教徒の首相はひとりもいない。みんなプロテスタントだ。しかし、カトリックだと首相になれないという法律や規則はないのだ。英国はやはり自由の国なんだとおもう。それに比べてニッポンはどうだろう。皇室に生まれたり嫁いだりした場合、個人の信教の自由は許されず、神道でゆくしか道がなくなってしまう。いや皇室だけではないだろう。この日本社会では、先祖代々の慣習的な宗教から外れた人間を抑圧したり差別したりする傾向が見られないだろうか。

信仰においても個人のプリンシプルを尊ぶ英国社会に自由があり、一方、個人の信仰さえもが集団的あるいは慣習的な圧力によって支配されてしまう日本社会に自由はない。これは比較文化論的な学問上のテーマとして片付けるには、余りにも重大なテーマのような気がする。

今日のビデオ:Going Down To Liverpool
-- The Bangles

☆ 1980年代に登場したカリフォルニア出身の女性バンドですが、有名になる前の最初の名前は The Colours でした。なんとイギリス式のスペルです。この歌もそうですが、けっこう英国かぶれなバンドなのかもしれません。そういえば、The Bangles という名前は、なんとなく見た感じが The Beatles に似ているような気もします。ベースを弾いてる子(車の中では右端)が特に可愛いですね。

25 June 2008

アメリカかぶれの話


マクドナルドはいつ英国に進出したのか、やはり気になったので調べてみた。英国マクドナルドの公式サイトを見ると、1974年に第1号店ができたことがわかった。おもったとおり、ニッポンより3年遅れている。ただ、これだけでは場所がロンドンであったかどうかは不明だ。それでさらに調べてみると(あんたも好きねえ by カトちゃん)、別のサイトにたどり着き、そこで知ったのは、第1号店の場所が Woolwich(ウリッチ)であることだった。

ウリッチという町はロンドン南東部の郊外にある。そこには1671年以来、王立の兵器工場(Royal Arsenal)があったのだけれど、1967年に閉鎖されてしまってからは、かなり寂れた町になっていたようだ。マクドナルドが店を開いた1974年当時の状況を想像するに、ロンドンの繁華街というイメージからは程遠い場所のようにおもう。それに比べて、ニッポンでは銀座の一等地で第1号店を開いたのだから、最初からかなり強気で勝負したといえるだろう。聞いた話では、当時の東京っ子はすぐにマクドナルドに飛びついたらしい。これもちょうど全共闘運動が挫折した時期と重なるわけだ。

日本人というのは、戦争中は鬼畜米英とかいって、アメリカ人もイギリス人も大嫌いだったはずなのに、なぜか戦後になると、イギリス人のことはどうなったのか知らないが、とにかくアメリカ人に関しては、大好きになったらしい。ニッポンで英語といえば、アメリカ語のことになるようだし、小泉純一郎はエルヴィス・プレスリーに狂っていたわけだし、橋本龍太郎は国会に登場するときもアイビー風のボタンダウン・シャツを着ていた。石津謙介のVANが銀座の松屋に店を出した1957年当時、橋本は慶応の学生だったから、アイビーの元祖世代になるだろう。とにかく自民党にはアメリカかぶれが多そうだ。

話がまた飛躍したかもしれないけれど、とにかく日本人の中にあってはアメリカかぶれがけっこう普通なのかもしれないから、アメリカンなマクドナルドにすぐに飛びついたとしても不思議じゃない。アメリカさんもそれを承知していたからこそ最初から思い切って銀座に店を開いたのだろう。アイビー・ファッションも銀座のみゆき通りから全国的に広まったことだし。

ところが英国だとだいぶ事情がちがっていたとおもう。前回にも言ったとおり、イギリス人はアメリカに憧れるどころか、アメリカ的なるものを嫌う傾向がある。もちろんアメリカに憧れるイギリス人というのも存在することは確かだろう。たとえば、金持ちからガッポリ税金を取る英国とはちがって、アメリカは金持ちに甘い国だから、それが魅力だとおもう金持ちは多いのかもしれない。でも、たとえばヒュー・グラントのように一見ノンポリ系というかノホホン系というか、あんな感じのイギリス人俳優でも、金持ちからどんどん税金を取るべきだというような発言を、ぼくはどこかで聞いた覚えがある。やっぱりそんな感じのほうが英国らしいとおもう。

それで気づいたけれど、アメリカン・ドリームのようなものに憧れるのは、英国では恵まれない家庭の人たちに多いのじゃないだろうか。プロサッカーの道に進んで一攫千金を夢見る若者は、たいていそのような家庭出身のはずだ。そういえば、ウリッチという町は、むかしアーセナルFCの本拠地であったという。あの町にあった兵器工場(Arsenal)で働いていた人たちが1886年に作ったチームがアーセナルFCの始まりだった。だから昔のチーム名は、Woolwich Arsenal(ウリッチ・アーセナル)だった。それが1913年にロンドン北部のハイバリーのスタジアムに引っ越してしまうのだけど、チーム名にアーセナルだけは残ったわけだ。

きょうの写真は、ロンドンにあるマクドナルドの店舗だ。これが何号店になるのかは知らない。外から見る限り、アメリカンな店には見えない。むしろ英国的な雰囲気がある。町並み全体の美観というものをだいじにするのは、むかしから個人主義と自由を尊ぶイギリス人のセンスに共通する何らかの主体的な力によるのだろう。夏目漱石が『私の個人主義』の中で英国のことを「秩序の調った国」と述べていたのは、そのようなセンスと関係しているような気がする。

今日のビデオ:My Way
-- Robbie Williams (Royal Albert Hall, London, 2001)

☆ フランク・シナトラとエルヴィス・プレスリーで有名なこのアメリカンな曲を、イギリス人が歌うとこんな感じになります。

23 June 2008

ウィンザー公の話

以前、白洲次郎のことなどを話題にして、カッコいい男をテーマに語ったことがあった。どんな男がカッコいい男になるのか。そんなことを考えること自体、あまりカッコいいことだとはおもえないのだけど、とにかく考えたはずだ。結局あの時ぼくは結論らしきことを何も言わなかったようにおもう。第一、カッコいいなんてのは、個人の主観というか勘違いというか、いろんな条件によって変わるものだろう。

たとえば、昭和天皇には戦争責任がなかったと信じて疑わない人にとっては、マッカーサー会談の際に見せたことになっている天皇の姿に、ニッポンの救い主の姿を見るのかもしれない。しかし、この国の自粛マスコミなどが絶対に取り上げない歴史の事実を知る人であれば、同じ昭和天皇の姿から米国の操り人形を見ることだろう。小泉純一郎のことを今でもカッコいい男だと信じているオバサンがいるように、人生は実にいろいろあるわけだ。

きょうはウィンザー公の誕生日である。ウィンザー公といっても、今の時代、老人にさえ知る人は少ないのかもしれない。大日本帝国がナチス・ドイツと仲良くし始めた頃、英国では、王さまが愛する女性と結婚するために王位を捨てる決意をしていた。その国王エドワード8世が、王座を去ったあとに得た名前がウィンザー公(Duke of Windsor)であった。彼が王冠よりも愛した女性の名は、ウォリス・シンプソンといい、彼女はアメリカ人であり、しかも2度の離婚歴があった。アメリカ人女性といっても、たとえばビートルズのポールと結婚したリンダなら裕福な上流階級出身だったけれど、このウォリスの場合は貧しい家の生まれであった。彼女は美人ではなかったけれど、なぜか若い頃から男にもてたらしい。しかし、その手の女性によくあることだが、男でいろいろ苦労することもあったようだ。

ウォリスは母親への手紙の中でこんなことを書いていた。
あたしひとりで、しかも全然お金もなく、世の中を生き抜いていくのに、ホントあきあきしてるのよ。

I really feel so tired of fighting the world all alone and with no money.
これじゃすでに退屈な人生に絶望してしまったかのような感じだけれど、これを書いていたときに、まさか将来、英国の国王になる男と出逢うとは夢にも思わなかったことだろう。

イギリス人というのは、態度にこそハッキリとは見せないかもしれないが、いわゆるアメリカ的なるものを嫌う傾向が強い。やはりぼくと似ているのだ。たとえばマクドナルドなんてのは、最近でこそロンドンでも店舗が増えたそうだけれど、あんなアメリカンな店はロンドンの街には似合わないというのがロンドン子の常識だったはず。日本における第1号店は、1971年に銀座三越で開いた店だと聞くが、おそらく英国の第1号店はそれよりあとじゃないだろうか。

こんな話を始めるとまた長くなりそうだから、ウィンザー公の話にもどるけど、王冠を賭けた恋のお相手がアメリカ人女性で、しかも2度も離婚していたというのは、いくら自由を尊ぶイギリス人であっても、かなり衝撃的だったようだ。大衆紙の中には、ウォリスのことを売春婦扱いして非難するものまであったらしい。王室の人間から庶民まで英国中で認めてもらえなかった結婚を断行するには、もはや道はひとつしかなかった。王位を捨てることだ。で、エドワード8世はその決意を国民に伝えるべく、BBCラジオのマイクを通してこう語ったのだ。
私は自分がそうしたいと願うように、国王としての重い責任を担い自らの義務を果たすことが、もはや不可能であると気づいたのです。私の愛する女性の助けと支えがなければ。

I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility, and to discharge my duties as King as I would wish to do, without the help and support of the woman I love.
1936年の12月11日、クリスマスまであと2週間だった。

ウィンザー公は、とてもおしゃれな人だった。ぼくが代官山を散歩したときに、たまに立ち寄った Draper's Bench という店には、きょう最初に貼ったウィンザー公の絵が飾ってあった。愛犬と一緒に店内に入ると、いつも店長が笑顔で迎えてくれたものだ。たしか初めてあの店に入った日、その絵に気づいたぼくは、店長としばらくウィンザー公の話をしたような記憶が残っている。あの種の店というのは、むかし広尾の日赤病院のそばにあった Cohiba と同じで、店長は必ず英国かぶれと決まっている。しかも、ただの英国かぶれではない。ウィンザー公のことだけでも、徹夜で話ができそうな感じの人たちだ。

ウィンザー公は、別にカッコいい男を演じていたわけではないだろう。おしゃれな服装をすればカッコいい男になるとは、おもっていなかっただろう。ただ自分のプリンシプルに忠実に生きただけだったのだとおもう。

今日のビデオ:Duke of Windsor

22 June 2008

女王さまは統治せず

英国の立憲君主制のあり方を「国王は君臨すれども統治せず」(The King reigns, but does not govern)という言葉で表現することがあるのは、ニッポンでもよく知られているとおもう。しかし、その意味を正しく理解している人がどれほどいるだろうか。昭和天皇自身は自分もそのような英国型の立憲君主のつもりでいたらしいが、「朕は国家なり」なんてことを信じていた天皇や臣民が、英国型の立憲君主制をやれるわけがないのだ。

そもそも「朕は国家なり」というのは、フランス絶対王政時代のルイ14世が言った言葉 L'État, c'est moi を、大日本帝国ふうにもっと偉そうに翻訳したにすぎないから、立憲主義どころの話じゃないのだよ。天皇が自分のことを「朕」と言い出したのは、中国の帝王学を真似たわけだけど、中国だって太古の時代には庶民も自分のことを「朕」と言ってたのに、秦の始皇帝の時代(紀元前247 - 210)に、これからは帝王だけが使うことにするから庶民は使っちゃダメよってなことになったわけ。

つまり、昭和天皇というニッポンの帝王は、2千年以上も前に威張っていた中国の皇帝と、市民革命前に威張っていたフランスの国王から、その絶対的な権威に関係する性質を輸入していたということになるね。だから、ウヨクが今も誇るような「日本の固有文化」というのは、それほど固有じゃないわけだよ。ついでに言っておくと、元号だって中国を真似したのだからね。

で、「君臨すれども統治せず」だけど、英国でこの伝統が始まったのは、ウィリアム3世の時代とされている。この王さまはどんな時代に登場したかといえば、市民革命(清教徒革命)で国王チャールズ1世が処刑され(1649年)、一時は共和制となった英国ではあったけれど、すぐに王政にもどってしまった。その際の国王はチャールズ2世だったが、この人はなぜか死の直前にカトリックに改宗してしまい、あとを継いだジェームズ2世もカトリック教徒だった。当初は議会もそれほどジェームズを嫌ってはいなかったけれど、カトリック教にはやはりルイ14世の支配するフランスの絶対王政のイメージが強かった。そんなわけで、やがてジェームズ2世は議会と対立するようになっていた。

カトリック関係の事件はいろいろあったのだけど、ついに議会はオランダにいたウィリアムに向かって、英国に来て私たちの王さまになってくださいなと頼んだわけ。彼はプロテスタントだったし、母さんは清教徒革命で処刑されたチャールズ1世の娘だったから、英国の王さまになる資格があったわけだね。で、ウィリアムはオランダ軍と一緒にイングランドに上陸したのだけれど、ジェームズ2世は戦いを避けて、かつての亡命国フランスへ再び逃げてしまった。これが英国史に輝く名誉革命(The Glorious Revolution、別名、The Revolution of 1688)。

この革命によって英国の立憲君主制の基礎が出来上がったわけで、最初に述べた「国王は君臨すれども統治せず」の伝統がそこから始まったのだ。フランスもやがて市民革命によって絶対王政から解放されたのだけれど、ニッポンの場合は、戦後にも市民革命が起こらなかったわけで、まして戦前になど立憲君主制が実現していたはずがないのだ。それなのに、形だけで立憲君主のつもりになっていた昭和天皇が、戦後になってあの悲惨な戦争の責任を軍部や内閣にだけ押しつけるような真似をして、自分はニッポンに平和をもたらした正義の立憲君主であるかのような態度でいたとは、これほどに驚くべき人類の歴史は、そうそう見つかるもんじゃない。ルイ14世のように「朕は国家なり」という絶対王政のやり方を、大日本帝国式にもっと過激に実践していたその最高責任者が昭和天皇だったのだからね。

実は、きょうはこんな話をする予定じゃなかった。題名にあるとおり、前回につづいてエリザベス女王の話をしようとおもっていたのだ。サッチャー政権時代、エリザベス女王と式典か何かで同席する予定があったとき、サッチャーは自分の服装を女王に合わせようとして、王室に問い合わせたという。すると女王から届いた返事は、「臣下の服装には興味がありません」というものだったらしい。これを日本人はどう解釈するだろうか。英国の女王ってのは、ずいぶん冷たく偉そうじゃないかとおもって、「お人柄の良い」昭和天皇の笑顔などを思い出すのだろうか。

これはぼくの勘にすぎないけれど、エリザベス女王はサッチャーのような権力志向タイプの人間を余り好きじゃないような気がする。若い頃から上流社会に憧れて、話す言葉も上流階級の真似をする訓練をしていたサッチャーだった。出世コースを順調に歩み、やがて首相になって権力を握ると、カネ儲けにならないような学問は無意味だとして、オックスフォード大学の伝統までをも破壊しようとした。軍事費を優先するあまり教育費を削減し、そのせいで英国の公立学校はひどく荒れてしまった。ニッポンでは右翼が今でもサッチャーを支持しているようだけど、それには理由があるのだろうね。

エリザベス女王がサッチャーを嫌っているらしいというのは、すでに言ったとおり、ぼくの勘にすぎない。彼女は、たとえば、ぼくが若い頃から信頼しているストット牧師を同じように信頼していて、ぼくと同じように重症の英国系イヌバカ人間であって、ついでにレインコートの趣味まで同じらしい。だからといって、ぼくと同じようにサッチャーを嫌っているとは限らないだろう。ただハッキリ言えるのは、エリザベス2世という女王は、「君臨すれども統治せず」という英国の伝統を守りながら、その社会的責任をちゃんと果たしているということだ。首相個人の服装の趣味にまで干渉する暇はないのだよ。あんな質問をしたサッチャー首相の感性(センス)こそが問題になるわけだね。

今日のビデオ:All You Need Is Love
-- McCartney, Stewart & Cocker (Buckingham Palace, 2002)

☆ エリザベス女王の在位50周年を記念して、バッキンガム宮殿の庭でコンサートが開かれました。これはそのときの映像です。ビートルズの原曲ではフランス国歌のメロディーが使用されていましたが、ここではイギリス国歌(God Save The Queen)になっていますね。ポールの弾いてるベースは、ビートルズ時代に使っていたカール・ヘフナー製のベースです。ビートルズファンの女王はきっと大喜びだったことでしょう。

21 June 2008

流行のモデル vs 普通のクイーン


左の女性は、英国人モデルのケイト・モス。右の女性は英国女王のエリザベス2世。きょうのテーマは、天皇制に次いで日本人にとって重大なテーマ、すなわち コートの丈の長さ だ。

ケイトの着てるのはバーバリーのトレンチ・コートらしいけど、デザインがなんだかトレンチの伝統とちがってる感じがするのはともかく、丈の長さがこれじゃ短すぎるんだよね。雨の中、ロンドンの街中を車に乗って移動しながら、時にタバコを買うためとかでちょっと歩道を歩く程度なら、これでも問題ないのかもしれないけど。

それに比べて、女王のコートは完璧だとおもうわけよ。なんだかピーコみたいな口調でしゃべってるみたいだけどね。きのう話したぼくのコートは、これとソックリなのよ。ここで変に自慢したりすると、日本人離れしたぼくの高いお鼻がますます高くなって、きっとお茶の水博士もビックリしちゃうだろうから、やめとくよ。

ケイト・モスといえば、彼女のせいで、ぼくの愛用する長靴も有名になってしまったわけだよ。おもうに、あの子には、どうも流行に弱い日本人に近いようなイメージがあるね。だいたいモデルというのは、流行を作るために存在しているようなものなのかもしれない。女性の場合、ある程度は流行に敏感であってもいいとおもうよ。でもセンスのないまぬけな男みたいに、3つボタンが流行したら3つボタンのスーツに替え、また流行が2つボタンにもどったら新しい2つボタンのスーツを買うみたいな、そんな情けない真似だけはしないでほしいな。とは言ったものの、一体、ぼかぁだれに向かってしゃべってんだろ?

それはともかく、丈の短いコートを女性が着ていても、時と場所によってはオーケーだとおもうよ。でも、男(特にお父さんたち)には、どうしても気づいてほしいことがあるんだ。丸善でバーバリーを買うのはいいけどね、膝上のミニスカートみたいなのを選ぶのだけはやめてほしいな。刑事コロンボのコートだって短すぎるよ。どうしてもアメリカが好きってのなら、せめて「カサブランカ」のハンフリー・ボガートを意識してほしいな。できればやっぱり英国映画「逢びき」(Brief Encounter)のトレヴァ・ハワードあたりを参考にしてもらいたいけど。

とにかく、ケイトはよく頑張ったとおもうよ。モデルとしては身長が低いのに、スーパーモデルとして世界中に認められるようになったのだからね。コカイン中毒でヘビースモーカーの彼氏だって、きっと彼女の前では人柄のいい紳士なのだろう。背も高いしね。ふたり並んで歩く姿を見て、そのファッションセンスというかコモンセンスというか、何か質問されればぼくにも何かコメントできるかもしれない。でも、ファッションだって人生だって、けっきょく個人の問題なんだよね。「人生いろいろ」なんて言ってた総理大臣だって、今も相変わらずコイズミ劇場の人気者のつもりでいるらしいし。

ほんと、人生はいろいろだよ。ケイちゃんもエリちゃんのように、いつか素敵なブリティッシュお婆さんになってね。

今日のビデオ:Queen Elizabeth II

20 June 2008

名門校とブランド


慶応中等部の学費は、授業料その他で年100万円ほどになる。英国のイートン校の場合、学費は寮費を含めて年550万円を超える。いつの頃からか、慶応の生徒というか親というべきか、どっちかよくわからないけれど、ブランドものを身につけて(あるいは、身につけさせて)喜ぶ人間が目立つようになったらしい。英国のイートン校にも、たとえば日本系だとかアラブ系だとかの成り金の息子たちが、校内に下品な趣味を持ち込んでいる可能性は考えられる。しかし、アングロ・サクソンの子弟が流行のブランド品を身につけるなんてことは、ぼくには想像もつかないのだ。

先日、ドラマ「あすなろ白書」を見たことを話したけれど、あれを見ながらつくづく感じたのは、あの時代って、若者のファッションがすごく変だったということだ。当時はバブル景気が崩壊した直後だったようにおもう。六本木にアルマーニの店が建ったのはバブル全盛期の頃だったと記憶するけれど、バブル以前にはエミスフェールのようなセンスのいい店もあったのだ。それがバブルで狂ってしまって、やがてそれも過ぎ去って、何もかもが変になってしまっていたのだろうか。

おそらく世界中で、日本人くらいに時代によって服装の趣味が全然ちがっているのも珍しいのじゃないだろうか。日本人というのは、どうやら流行に合わせてころころ着るものを変えるのが好きらしい。流行というのは、その背後にそれでカネ儲けを図る仕掛人がいるものだから、それに単純に影響されやすいとすれば、その人の自主独立心が問題になってしまうかもしれない。あるいは、大勢順応主義というテーマで考える必要があるだろうか。慶応の創設者 福沢諭吉の<独立自尊>からは、ほんとうならブランド志向は生まれないはずだ。

ぼくはいつか話したことがあったかもしれないが、ほとんど高校生くらいの頃から普段着の基本が全く変わっていないのだ。3つボタンのツイード・ジャケット、グレー・フランネルのズボン(ぼくはアメリカ語の「パンツ」とは絶対に言わない)、オックスフォード地のシャツ(アメリカ風のボタンダウンではない)、もちろん靴はスニーカーではなく革製のひも靴(時に茶色のローファー)。これが基本だった。といっても英国とちがって暑苦しいニッポンの夏には、それなりの恰好が必要だったけれど、それでも夏でさえサマーウール地のネイビー・ブレザーなどを着ることが多かったし、半袖のポロシャツよりは長袖のシャツを好んだものだ。若い頃から現在までこの基本は変わっていない。

ぼくの長靴には、HUNTER というブランド名が入っているが、これは例外中の例外であって、これにしても数年前に女性雑誌で話題にするまでは「ブランド品」ではなかったはずだ。ぼくが身につけるものの多くは、外から見てブランドものとわかるようなものはないと言ってもいい。ただ、たまにその時々で流行になってしまうものがぼくのワードローブに存在していたりするわけで、たとえば Barbour のワックス・ジャケットなどもそうだった。

それで思い出したけれど、いつか散歩の途中で渋谷の東急ハンズに立ち寄った際、入り口にいたふたり組の若者のうちのひとりがぼくの姿を見て、「すげぇ着古したバブアーだな」と、もうひとりに言っているのが聞こえた。ぼくの Barbour は、袖などもボロボロだったから、狩猟の帰りにでも立ち寄ったかのように見えたのかもしれない(実際には、公園で愛犬と遊んだりしてボロボロになっただけなのだけど)。ついでに、当時は Barbour のことを日本ではなぜか「バブアー」と呼んでいたようで、日本橋の丸善の店員にさえぼくの英語風の発音が通じなかったことがある。最近では少し英語に近いカタカナを使う人が増えたようだけど。

こういう話をすると、「なんだやっぱり金持ちじゃん」とかおもう人がいるのかもしれない。しかし、ぼくの人生、本や音楽関係には相当に投資したかもしれないが、ファッション関係にはほとんどお金をかけていないようにおもう。第一、ぼくは新品のものを身につけるのがすごくいやなのだ。スーツでも靴でも、修理しながら一生涯通して使うというのがぼくの流儀なのだ(既製品の Barbour にしても、英国の本社がちゃんと修理を受け付けている)。

たとえばぼくのレインコートだけど、もう20年以上は同じものを着ている。当時バーバリーは丈が短いものしか売ってなかったので、クラシックな丈の長いやつを好んだぼくは、パリの洋服店 OLD ENGLAND のコートを選んだ。それでも、ちゃんと made in England だったから英国かぶれの基本は守ったつもり。この店は、ヴィクトリア女王がパリを訪れたのを記念して開店した店らしいし、名前から想像がつくように、パリの店とはいえ英国かぶれ系なのだ。

たしかに、当時の年齢を考えれば贅沢なものを身につけていたのかもしれない。しかし、それを今でもだいじに着ているわけだから、普通の日本人に比べたらずっとファッションにお金はかけていないようにおもう。ブランド志向というのは、ぼくの若い頃にも同世代の一部に観察できたようにおもうが、ぼく自身は全くそれとは無縁だったような気がする。たとえば、スキーの板がオーストリー製であったり、テニスラケットが英国製であったりしたのも、ぼくにとっては正月に雑煮を食べるくらいに当然のことであって、ブランドを崇拝していたつもりはなかったのだ。


今日のビデオ:In Old England Town
-- ELO (with Alain Morin playing cello)

☆ さりげなく VOX のアンプにつないでいるのが泣かせますね。ぼかぁ実はブランド志向なんです。

19 June 2008

やっぱ軟派が多い


YMO時代の細野晴臣が早稲田大学のサークル「人物研究会」のインタビューに応じて、こんなことを言っている(1983年、都内の某喫茶店にて)。
細野:アメリカの人たちって、かわいそうなの。ホントに画一化されてて、良いものがどんどん埋もれちゃってて、手作りのものが出てこないわけ。YMOのファンて、出てこれないんだよ。

● レコード会社の方が、売れないと出してやらないという?

細野:そうそう。ますますそういうことになって来るわけ。売れないものは作らないっていう。日本にも言えるね。2、3万枚売れる可能性のある音楽ってあるわけ。まぁ、僕がやってきたのは大体それに近いんですけど、今その手の音楽が一番やりにくいんだ。何十万枚売れるか、あとは自費制作レベルのものしか作りにくい状態なんだ。
なんだか同じような話をぼくも最近どこかで書いたような気がするが、それはともかく、ぼくが特に面白いとおもったのは、次のようなやり取りだった。
● 細野さんは、大学紛争はどう思いましたか?

細野:僕はね、音楽のことばっかり考えていたからね。ほとんどノンポリと呼ばれてた部類だから。

● 坂本龍一さんとは好対照だったのですね。

細野:全然ちがうのね。あいつは激しかったらしいから。

● 安保闘争なんかには興味なかったのでしょうか?

細野:全然興味はなかったですね。愛校心もあんまりなかったし。立教は高校と大学がちがうんだよね。何しろオシャレで、軟派が多くて、カネを持ってるわけ(笑)ダサイってことに、すごく敏感だし。

● 立教に入られた理由は?

細野:当時、「ベン・ハー」の映画が好きでね。キリスト教に憧れてたんだ。

● 学生時代の恋愛は?

細野:プラトニックだったんだよ。小学校の時に好きだった子がみんなまとめて女学館に入ったりしてたし。ただ、立教高校のヤツらは、みんなマセてて、プラトニックどころじゃなかったね(笑)

細野晴臣という人は、港区生まれらしい。たしか白金小学校の卒業生のはず。さりげなく女学館が出て来るところなど、とても赤の他人とはおもえない。女学館は渋谷区の女学校だけれど、英和と並んで、港区シティーボーイとは切っても切れない関係にある。なんて信条で今も生きてるのは、もしかして軟派なボクだけ?

今日のビデオ:Ongaku
-- YMO (2007)

18 June 2008

軟派なボク



ドラマ「あすなろ白書」の中で、ヒロインの園田なるみが初めて大学構内であすなろ会のメンバーに会ったとき、「大学に入ったら、テニスやスキーの軟派サークルに入ろうと思ってたでしょ?」と言われてしまう。そういえば、テニスやスキーが軟派なものだと知ったのは、ぼくも大学生になってからだったかもしれない。

ぼくの場合、テニスもスキーも、子どもの頃から、ただ楽しかったからしていたにすぎないような気がする。特にスキーは大好きだった。自由自在に滑れるようになるには、中学生くらいになるまで無理だったけれど、自然の中でひとりで遊べるスキーは、生まれながらのぼくの体質に合っていたようだ。スキーのできる冬休みがいつも待ち遠しかった。

大学生の頃、初めて山形の蔵王を滑った。吹雪の中、ケーブルで頂上まで登り、視界がハッキリしないのにひとりで滑降を始めた。どうやら通常のゲレンデから外れてしまったらしく、気がつくと、行き止まりの谷底のような場所にいた。たちまち日が沈み、辺りは暗くなった。吹雪はやや収まったけれど、どこへ向かえばいいのか見当がつかなかった。すると近くに小さな小屋のような建物があるのに気づいた。ドアにカギがかかっていたので、窓ガラスを割って中に入った。電話を探したけれど見つからなかった。窓ガラスを割ったのが自分であることを書いた紙に名前と連絡先を書き残して、ぼくはまた外に出た。

その場所から下界へ向かおうとすると、暗い森の中で遭難しそうにおもったから、とにかく上へ上へと登るしかなかった。あとで知ったのだけれど、蔵王では遭難による死亡事故が珍しくないそうだ。ぼくもあのときは遭難するかもしれないとおもった。死ぬかもしれないとおもった。でも不思議と怖くはなかった。自然が余りに美しかったせいだろうか。

上へ上へと登っていたとき、やがて遠くに山小屋の明かりのようなものが見えた。それは地元の大学の山荘だった。たまたま何かのサークルが宿泊中だった。ぼくは事情を話し、一晩そこに泊めてもらうことにした。今では記憶がぼんやりしているが、きれいなお姉さんは好きですか系の女子学生が、ぼくに熱いコーヒーを入れてくれたような記憶が残っている。いや、あれは夢だったのかもしれない。

翌朝は雲ひとつない青空が広がっていた。吹雪で積もったパウダースノーの中を、ぼくはひとり遠い下界へと向かって滑って行った。まだリフトもケーブルも動いていなくて、途中でほかのスキーヤーに出会うことはなかった。スキーであんなに楽しい思いをしたのは、これまでの人生であのとき一度きりだったようにおもう。まさにヴァージン・スノーだった。まるでぼくだけのために天から降りて来たかのような粉雪たち。ぼくは思わず「ヤッホー!」とか叫びながら滑っていたような気がする。前の夜には死ぬかもしれないとおもったことなど、すでに忘れてしまっていたのだろう。やはりぼくは軟派系だったのかもしれない。

今日のビデオ:Ticket To Ride
-- The Beatles (John Lennon on lead vocals)

17 June 2008

名前を呼ぶこと

英国のテレビ・ドラマのひとつ、アガサ・クリスティのポワロ・シリーズは、日本でいう民放テレビ局(つまりコマーシャルのある放送局)ロンドン・ウイークエンド・テレビジョン(London Weekend Television すなわち LWT)が始めたシリーズで、今ではITVと名前の変わったチャンネルで放送されている。1989年から現在までに57話を制作していて、まだ継続中らしい。

たとえば1857年に英語辞書を作る目的で集まったイギリス人たちであったけれど、アルファベットのAから始まって最後のZまで到達して完成するのに、気がつくと70年の年月が過ぎていた。もちろん気がつく前に天国へ移住してしまった学者も多かった。その辞書の名は、The Oxford English Dictionary(オックスフォード英語辞典)であり、もし図書館などでその実物を見た経験のある人なら、その大きさに驚いたことだろう。1928年の初版時には全部で12巻だったが、1989年発行の第2版は20巻にまで増えていた。ぼくも学生時代、図書館で何度かお世話になったことがあるし、それをもとに1巻に編集した辞書(Concise Oxford English Dictionary)は、大学に進学した直後に大学の生協書籍部で買って、ぼろぼろになるまで使い込んだものだ。

あれ? きょうはそんな話をする予定じゃなかった。テレビのポワロ・シリーズに関して語りたいことがあったのだ。

ぼくがあの番組を初めて知ったのは、たぶんまだLWTの時代だったのだとおもう。ニッポンではNHKで放送されているのを知って、ある日、日本語に吹き替えたのを見たことがあった。そして、驚いたのだ。ポワロの相棒ヘイスティングズが、ポワロに向かって「ポワロさん」と呼びかけていたからだ。

英語では、ふたりは互いの名を呼び捨てで呼んでいる。ポワロもヘイスティングズもファースト・ネームではないから、たとえば白洲次郎の名を呼ぶときに、「白洲」と呼ぶような感じだ。むかし英国の男子校ではそのような習慣があったらしく、互いの姓を呼び合うポワロとヘイスティングズのあいだには、親しい友人関係を感じさせるものがある。それなのに、日本語の吹き替えで「ポワロさん」になってしまうと、本命チョコだと信じていたのが実は義理チョコだったと気づいたときくらいに、ものすごくショックなわけだ。

ま、これは毎度のことながら、文化の違いだからどうしようもないと言えば、どうしようもない。しかし、せめて「ポワロ君」ぐらいに吹き替えることは無理だったのだろうか。

常連の多くが老人で占められるメーリング・リストに男子高校生が現れたとき、その姓に「君」を付けで呼んだメンバーを非難した老人がいた。その人に言わせると、相手が高校生だからといって君付けで呼ぶなどとは、ずいぶん偉そうじゃないかということらしい。かつてその場にぼくがBBという名で登場した際には、本名を名乗るのが礼儀だと言って非難したのも、その同じ老人だった。

あゝ、不思議の国ニッポン。この国ではどこもあそこも実に不思議だけれど、この不思議さの中にあっては、アリスもウサギさんも自由に楽しく生きるのは難しいかもしれない。

今日のビデオ:I Will Always Return
-- Bryan Adams

13 June 2008

変わらない日本人


ぼくもだいぶ年を取ったのだろうか。ここだけの話、DVDで映画などを見ていても、特に悲しいシーンじゃないはずなのに、気がつくと今にも涙があふれそうになっていたりすることがある。たとえば若い人たちが浜辺で花火で遊んでいるシーンなどを見てさえも。

若い頃、三越劇場で「ローマの休日」を観たときのことを思い出す。映画が終わって場内が明るくなったとき、ぼくの両眼の辺りは、隣りにすわっていた彼女にだけは絶対に見せたくない状況下にあった。けれど、ぼくの不自然な動作から彼女は気づいたようだった。ちらっと互いの眼が合ったとき、彼女の眼が微笑んでぼくを見ていたような気がした。「見たよ」と言ってるかのように。

おもえば、彼女との最初の映画デートは、わざわざ池袋にまで出かけて観た日本の怪談だった。しかも3本立てだった。それがいつしか「ローマの休日」に至るまでには、それなりの事情があったのだろうとおもう。それはともかく、あの夜、ぼくは確信したものだ。ある種の映画はデートには不向きであると。今でもその恐れのあるDVDなどを見るときは、ひとり密室で見ることにしている。ぼくの秘密を知っていたのは、吾が愛犬だけだったろう。その愛犬も今は部屋にいない。

若い頃からニッポンのテレビドラマはほとんど見ないが、先日、天皇制を考えていたら石田ひかりのことを思い出して、なんだか久しぶりに「あすなろ白書」を見てみたい気分になった。知り合いの女の子にすすめられて見始めたのか、今ではハッキリ思い出せないけれど、珍しくあのドラマは欠かさずに見ていた。昨夜、ここだけの話、ビデオでその第1話から第3話まで一気に見てしまったのだ。

若いというのはいいもんだ。あんなふうに誰かを好きになって、だけど切なくて、哀しくて。でも、ぼくらの世代もそうであったように、兵隊になって戦場にゆく必要はなかった。この種の青春ものを見ていると、なぜか戦争中の若者たちのことを想ってしまう。若い人には、たいてい好きな人がいるものだ。「あすなろ白書」の若者たちのように、なかなかその気持を伝えられなくても、ただいつも一緒にいられたらなあとか、何も話さなくてもただ一緒に夕陽を見ているだけで幸せだとか。そんなふうにおもって、好きで好きでどうしようもない人が必ずいるものだ。

今年の春、随筆家の岡部伊都子が亡くなった。戦争中、彼女には木村邦夫という婚約者がいた。婚約後に初めて部屋でふたりきりになったとき、この戦争はまちがっていると切り出して、邦夫はこう言ったという。

「こんな戦争で死にたくない。天皇陛下のためなんか、死ぬのはいやだ。君のためなら死ねるけれども」

天皇のために死ぬのを名誉としてこそ男だというのが当時の常識であった。この常識からすれば、邦夫は男らしくない男になってしまう。邦夫のような男を見たことのなかった伊都子は驚きながらもこう言った。

「私やったら喜んで死ぬけど」

彼女も天皇制教育の犠牲者であった。しかし、それに気づいたのは戦後であって、そのときにはすでに邦夫のいのちは戦場で散っていたのだ。岡部伊都子は、自分は戦争の被害者ではない、「加害の女」だと言った。自分を愛してくれた人を理解することもできずに、日の丸の旗を振って戦場へ送ったのは自分だったのだ。彼女はこの世を去る日まで、その思いを忘れなかったようだ。

彼女と同じように苦しんだ女性がどれほどいたことだろう。天皇制教育の指導者たちは、そのような哀しい現実を直視しようとしただろうか。昭和天皇自身はどうだっただろう。岡部伊都子のような女性たちばかりではない。学校の奉安殿に納められていた天皇の写真を空襲から守ろうとして死んだ子どもたちの家族もいる。天皇ヒロヒトは、彼らに対して何か謝罪の言葉を述べたことがあっただろうか。

天皇制の讃歌「君が代」を今も子どもたちに強制しようとする権力者たち。その支配に従順な教師たち。この現実を疑問におもうどころか、これに抵抗する少数派の教師を非常識な教師のように見下す親や生徒たち。この現状からひとは何を知るだろうか。日本人は何も変わっていないということ。つまり日本人はいつかまた戦前と同じような歴史を繰り返す可能性があるということだ。

今日のビデオ:さざ波
-- 松任谷由実

☆ 映っている顔ぶれを見ると、この曲が最初に録音された1976年当時のスタジオ・ミュージシャンがそろっているようです。同窓会セッションだったのでしょうか。ピアノを弾いてる松任谷正隆のおなかが少し出っ張って来たようですが、ユーミンは昔と変わっていないようで、とにかく良かったです。

12 June 2008

冒険者たち

「冒険者たち」(Les Aventuriers)というフランス映画があった。若い頃に見て今もそれを思い出すと、ぼくのこころの中のどこかで、淋しくも爽やかなメロディーが聞こえて来るような気分になる。いつか愛犬と一緒に歩いた落ち葉の道に、やさしい風が吹いていたように。

ビートルズが故郷のリバプールで音楽活動をしていた頃、彼らは人生で成功することを願っていたのだろうか。ぼくはそうじゃなかったのだとおもう。彼らはただ音楽が好きなだけだったのじゃないだろうか。1966年にビートルズが来日した際、そのステージの前座としてスパイダースに出演の依頼が来たそうだ。ところが彼らはそれを断った。観客席でただビートルズを聴きたかったからだという。

スパイダースの「あの時君は若かった」のレコードは、1968年3月に発売されたが、作曲者がかまやつひろしになっているけれど、作詞の菅原芙美恵という女性を知っている人がいるだろうか。どうもこの1曲きりでどこかに姿を消してしまった人らしい。ただ音楽が好きだから音楽をやる。売れるとか売れないとかは問題じゃない。当時は、そんな気持で音楽をやってる人が多かったのかもしれない。

若い頃、ぼくの周囲には、とんでもなく音楽的に豊かな才能のあるヤツが目立った。作曲もできるし、当然のようにギターやピアノも弾ける。彼らはただ音楽が好きで楽しんでいるように見えた。松任谷正隆は、ぼくとは世代のちがう人だけれど、あんな雰囲気の友人がぼくにはけっこう多かった。しかし、大人になった彼らの本職は音楽ではない。今では超有名人になったミュージシャンと一緒に活動していたようなヤツもいるが、彼でさえ表舞台には姿を見せずに、今もただどこかでひと知れず音楽を楽しんでいるようだ。

英国のビートルズの成功を見逃さなかったのは、米国の音楽産業だった。彼らはモンキーズというグループを創作し、テレビを通して大々的に売り出した。ボーカルにイギリス人のデイビー・ジョーンズを選んだのは、やはりビートルズを意識していたからだろう。

いつしか音楽産業は、ニッポンでも米国と同じような傾向になってしまったようだ。成功者を作ってカネ儲けすることばかり考えているのだろうか。とにかく冒険者たちの中で育って、気がついたら売れていたというタイプのミュージシャンは少なくなっているらしい。

今日のビデオ:I Have a Dream
-- Connie Talbot with her friends
I have a dream, a song to sing
To help me cope with anything
If you see the wonder of a fairy tale
You can take the future even if you fail

あたし 夢があるの 歌があるの
だから何があっても なんとかなるわ
おとぎ話の 不思議なこと
あなた知ってるなら だいじょうぶ
未来も平気よ 失敗しても

11 June 2008

反体制な罪


ユーミンという人は、全共闘世代のあとの世代だ。彼女の音楽には、いわゆるプロテスト・ソングの影響は見られない。一方、吉田拓郎はまさに全共闘世代であり、ボブ・ディランの影響でフォークソングに関心をもち始めたくらいだから、その歌には反体制的なメッセージが込められていた。しかしその拓郎も、1971年に発表した「結婚しようよ」で広く大衆に知られるようになってからは、プロテスト・シンガーというよりポップシンガーのイメージが強くなったようにおもう。それはちょうど全共闘運動が挫折した時期と重なる。当時の若者たちは社会を変えることよりも、個人の生活を楽しむ道を歩み始めたらしい。そのような風潮の中でユーミンが登場したわけだ。

荒井由実のデビューシングルに関して、先日そのB面の曲に表現された音楽性を誉めたけれど、あのレコードが発売された当時(1972年)、わずか300枚しか売れなかったという。もしかして友人・親戚関係の人間しか買わなかったのじゃないかと疑ってしまうほど、恐ろしく売れなかったレコードだ。A面の「返事はいらない」の歌詞を見ると、すでに売れないことを予期していたかのように、なんだか淋しい。
遠く離れたこの街で
あなたのことは知りたいけど
思い出すと涙が出るから
返事はいらない
60年安保当時、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が学生たちのあいだでよく歌われたそうだ。これも相当に淋しい歌だとおもう。
アカシアの雨に打たれて
このまま死んでしまいたい
当時の学生たちは、ニッポンの政治を変えるために死ぬ覚悟だったのだろうか。国会議事堂前でデモ行進する民衆の中にいた東大生の樺(かんば)美智子が死んだことは確かだった。

ぼくは十代の頃から天皇制社会を疑問におもい、反体制的な気質が強かった。自然科学の道に進もうとしていたのに、歴史や哲学の書物を読みあさって、人生や社会をテーマによく考えていた。しかし同時にテニスやスキーなどで遊び、家で好きなレコードを聴いてはこの世の哀しみや悲惨を忘れ、やがて運転免許証をもつようになると、サザンやブレバタを流しながらプジョーのハンドルを握って湘南の海へと向かったりもした。

結局ぼくもユーミンの世代を受け継いでいたのだろう。ぼくは自分の生活を最大限に楽しんでいたようだ。大学時代、プールでたまたま出会った友人がぼくに言った言葉を今も忘れない。

「君のように人生を楽しんでるやつを俺は見たことがない」

ぼくがキリスト教を信じて洗礼を受けたのは、それから半年後だった。ニッポンでは特に上流階級の中に目立つような印象があるが、西洋的に進んだ人間に見られたいがためにキリスト教徒になる人がいるらしい。カトリックに多いような気がしていたけれど、プロテスタントの中にもその種の勘違い人間が混じっているようだ。彼らに共通するのは、右翼的な気質であること。少なくとも、西洋的精神のいいところにはなんら影響していないらしくて、むしろ明治から始まる古い天皇制教育の影響が見られることだ。

イエス自身は反体制的であった。それゆえ当時のユダヤ社会のエリートたちから嫌われ、因習と常識に支配された大衆からも嫌われた。ぼくが何よりもイエスに惹かれたのは、その反体制的な正義感だった。しかしイエスの場合は、反体制的であろうとして反体制であったわけではない。正しい人であったがゆえに腐敗した権力から嫌われたのだ。

1960年代の学生運動が結局失敗してしまったのには、いろいろな原因が考えられるが、学生たちの中に自分の姿が反体制的であることに酔いしれて、本来の正義を忘れてしまったかのような者たちが多く混じっていたせいもあるのじゃないだろうか。今の時代にも時に見かけるようにおもうが、ふだん人権を尊ぶような態度を見せながら、何かの拍子に正体を現し、弱き者を平然と虐げる側に立っている人がいる。やはり腐敗した権力の影響を受けて、因習と常識に支配されているからだろう。

ぼくは自分の平和で楽しい生活の中でふとおもうことがあった。ぼくは自分の姿が反体制的であることを自画自讃しているのだろうかと。モーツァルトを聴いているときにも、ビートルズを聴いているときにも、ユーミンを聴いているときにも、まさにその時に、地球上のどこかでは、美しい音楽を聴くことも許されず、ただ強いものの暴力に苦しめられているものたちがいる。ぼくは彼らのために何をして来ただろうかと。

そんなとき、ぼくはイエスの十字架をおもい、自分の罪の大きさに気づいて驚くのだ。

今日のビデオ:Kitty in a Basket
-- Dissy

9 June 2008

美しい音楽の話

丸山真男はフルトヴェングラーが好きだった。あの時代の音楽好きなら当然だろう。しかしぼくの世代に、ベートーヴェンの交響曲をわざわざフルトヴェングラーのレコードで聴こうとする人は珍しいだろう。ぼくはその珍しい人間のひとりだ。

高校時代の友人たちがドイツ・グラモフォンの最新録音でカラヤンを聴いていた頃、ぼくは英国EMIの古い録音でフルトヴェングラーを聴きながら、セピア色に染まった遠い欧州を想っていた。大学生になってもその趣味は変わらなかった。CDによるベートーヴェンの交響曲全集で最初に買ったのは、たしか英国EMI盤のフルトヴェングラーだったとおもう。

同じような傾向は、本の趣味にも現れているようだ。ぼくの世代、岩波文庫を好む人は珍しいのかもしれない。若い頃、岩波文庫にはまだ今のような豪華なカバーが着せられていなくて、安っぽいパラフィン紙を被せられていた。どうせそれも買ったらすぐに脱がして捨ててしまうのだけれど、なんというか、大衆に媚びないというか、商売気がないというか、そんなイメージが好きだったのかもしれない。それに装丁のセンスは岩波文庫がいちばん優れているとおもった。

ネット世界の趣味というか傾向も、やはり同世代的ではないようだ。ある日、親友から質問されたことがあった。「まだ若いのになぜ老人党なの?」と。きっと彼女はぼくのことを老コンじゃないかと心配したのかもしれない。リアル世界でも、ぼくは自分の親の世代よりさらに老齢の日本人と気の合うことが多かった。これだけで終わったらほんとに老コンになってしまいそうだけど、小学生から高校生ぐらいの子たちとも心の通じ合うことが多かったようにおもう。もちろんイヌともすごく気が合ったのは言うまでもない。

老人党の場合、いちばん老年といっても、まだ子どもの頃に敗戦を経験した世代だったのだろう。ぼくはこの世代の日本人がどうも苦手なようだ。もちろん例外はあるけれど、だいじなところで考え方のちがうことが多い。ニッポンのネット世界では、表面上のマナーに隠れて、平然と偏狭な価値観でその群れを占拠している常連が、老人たちの中にも目立つようだ。そのままの状態を許していては、発言を躊躇してしまう人が少なくないのじゃないだろうか。ぼくにはそんな気がしてならない。このような問題意識が理解できない人に限って、マナーだとか思いやりだとかを言葉の上では尊重する傾向があるらしい。ぼくにはそのような人の発言の中にこそ、非常にガックリしてしまう考え方や表現が目立つようにおもうのだけど。

丸山真男は、本当なら日本社会の喧騒から解放されて、ただフルトヴェングラーを聴いていたかったのじゃないだろうか。しかし美しい音楽を知れば知るほど、日本人の精神風土を支配する問題を放ってはおけなくなったのかもしれない。全共闘の学生たちの中には、彼を貴族主義だと非難した連中もいたらしい。ほんと何もわかっちゃいないんだな。日本人はずーっと同じなんだな。丸山真男が彼の研究室を占拠した学生たちに「僕は君たちを軽蔑する」と言ったとき、彼はどれほど辛い気持だったことだろう。

とにかく、美しい音楽でも聴かなければ、日本社会では生き残れないのかもしれない。

今日のビデオ:ユーミン & ムッシュ

8 June 2008

ユーミンはお好き?


きのうのユーミンの曲「空と海の輝きにむけて」は、デビューシングル「返事はいらない」のB面に入っていた曲だ。翌年に発表されたファースト・アルバム「ひこうき雲」の中にも収められていた曲だが、そちらはシングル盤とは別テイクの録音だった。

当時ユーミンはまだ松任谷正隆に出逢っていなかった(あるいは出会っていてもまだ親密ではなかった)らしく、編曲も自分でしていた。なんとまだ18歳だったのだ。きっと現在のプロの耳からはいろいろ批判も可能だろうが、当時(1972年)すでにあのような録音をしていたとは、日本人離れしている特殊な才能に恵まれていたとしかおもえない。まるでライブで聴いているかのように錯覚してしまいそうなほどに、ドキドキさせるリアルな生命感もある。ちと大げさかもしれないが、フルトヴェングラーの指揮するオーケストラを聴いているかのうような(と実際に書いてしまうと、かなり誉めすぎたかなとは感じているけど)。

ぼくはユーミンは初期の頃のほうが良い曲を作っていたようにおもうし、コンピュータでなく生きたミュージシャンで音作りをしていたのが何よりも魅力的だとおもっている。というのも、彼女のスタジオ・ミュージシャンには、すごい連中がそろっていたのだ。きのう紹介したデビューシングルの録音には、サディスティック・ミカ・バンドの活動を始める直前の高橋幸宏や小原礼が参加していて、プロデュースはかまやつひろしだった。

ぼくはこのかまやつひろしに六本木辺りでよく出会ったのを覚えている。加藤和彦の家が六本木にあるのは知っていたが、かまやつもあの辺に住んでいたのだろうか。ぼくの愛犬に関心があるような目つきでこちらを見ていたこともあった。それよりさらにずっとむかし十代の頃には、どこかのビルの中でばったり出会って、どういうわけかその際にも、ぼくと互いの視線がシッカリ合流してしまった記憶がある。もしかして少年愛系のホモだったのか?(こんな話をすると、ぼくのウヨク系の熱心なファンの中には、BBは相変わらず自意識過剰とかおもって、また熱湯ウヨクにゆで上がってしまうだろうか?)

それはともかく、ユーミンは中学生時代から飯倉(いいぐら)にあるスキャンティー、じゃなくて、キャンティという名のレストランに通っていたという。高橋幸宏と知り合ったのはそのレストランだったらしい。キャンティには、当時のぶっ飛んでる東京文化人が集まっていたようだから、ユーミンもそこで個性的なミュージシャンと知り合うことになったのだろう。それにしても彼女の家が八王子なのに一体どのような経路で飯倉まで遊びに来ていたのだろうか。今は暇だからちょっと推理してみよう。

彼女は中学から立教女学院に通っていた。この学校は井の頭線沿いにあって、最寄り駅は三鷹台(みたかだい)となっている。個人的にちょっと懐かしい駅だけど、今はそれを語っている暇はない。ユーミンが下校して八王子のおうちへ帰るとすれば、通常は三鷹台から吉祥寺へ向かうはずだが、ふらっと逆方向の渋谷行きの電車に乗ることがあったのだとおもう。

渋谷から飯倉方面へ向かう経路は2通り考えられる。ひとつは、東横線で中目黒に出て、そこで日比谷線に乗り換えて六本木へ向かう経路。もうひとつは、駅前からバスに乗って東京タワー方面へ向かう経路だ。いずれにせよ女子中学生としては、恐ろしく行動範囲が広かったことはまちがいない。その自由奔放な遊び人体質のおかげで、その後のユーミンが生まれたわけだ。女学校の同級生たちからプラトニック同性愛的にもてたという話も聞いたことがある。どこか男っぽい雰囲気の女の子だったのだろうか。歌詞を見る限り、ものすごく女の子らしいとおもうけど。

若い頃に交際していた音楽学校の学生に向かって、ぼくはユーミンがけっこう好きだと言ったら、あたしは嫌いみたいな態度を見せたのを思い出した。それを聞いて「ぼくも実はあんまり好きじゃない」なんてことを言ったとしたら、映画「小さな恋のメロディ」のダニエル君になってしまう。もちろん若い頃のぼくは、今のぼくとほとんど変わらない。ただ彼女にやさしく微笑んで、それから夜空の星をちらっと見上げただけだったかもしれない。

今日のビデオ:中央フリーウェイ
-- ユーミン

☆ ぼくの大好きなアルバム「14番目の月」の中でおそらくいちばん有名な曲。キーボードは松任谷正隆、バックコーラスはハイ・ファイ・セット。スタジオ録音には、細野晴臣、山下達郎、大貫妙子などが参加していました。このビデオを見てつくづくおもったのは、ぼくの幼なじみにこの頃のユーミンにそっくりな女性がいるんです。彼女は小学校1年生の頃に関西の学校から転校して来たのですが、初めはひどいイヌ恐怖症だったけれど、うちの愛犬とのつき合いでイヌ好きになりました。のちに英国に留学した際には、きっと役に立ったことでしょう。ちなみにユーミンはかなりイヌバカ系らしく、アルバム「14番目の月」に入っている「何もなかったように」は、亡くなった愛犬をおもって作った曲でした。

7 June 2008

とりあえず


こないだ英国のある掲示板で、プロテスタントとカトリックのあいだで盛んに討論しているスレッドを見つけ、ちょっと顔を出してみた。以前ぼくも何度か討論の相手をしたことのあるカトリック教徒がまだ同じようなことをやっていたので、ぼくは彼にまずこう挨拶をした。

"Long time no see, my friend."(やあ久しぶりだね、友よ)

自分のブログにもこれを言わなきゃ何も始まらないような気分。

"Long time no see, my Blog."

ほんと、久しぶりだね。前回、非常にだいじな話をしようとしていたような記憶があるけれど、今ではハッキリ思い出せない。それでも近いうちにその続きをしなくちゃならないとおもっている。ただ今日はまだいつもの調子が出ない感じだ。でも何か書かなきゃとおもって、こうして登場してみたのだ。たまには、とりあえず主義もいいだろう。

この1ヶ月ばかりのあいだに世直し老人党で「天皇制を考える」などというシリーズものを始めちゃったものだから、実をいえば、このところいつになく体調が悪かったのだけれど、あれだけは毎日欠かさず投稿しようとおもったのだ。だから、つい本職(?)のこちらに費やすだけの精神的エネルギーがなくなってしまった。

しかもここ数日、現在ぼくが日本語圏で関係しているもうひとつのグループ「戦争を語り継ごうML」で、そこの管理人と常連を相手に独り舞台を演じてしまったものだから、今こうしてキーボードに向かいながらも、こころの中はノーサイド直後の孤独なラグビー選手状態。

とりあえず今夜はこれで、
Sweet dreams, my friend.

今日のビデオ:空と海の輝きにむけて
-- 荒井由実