☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

29 April 2008

日本人と罪意識(2)


被害者の母親は、その番組の中で、およそ次のようなことを言っていた。
私は少年院にいる子どもたちが、なんとか立ち直って社会復帰してもらいたいと願う。その一方で、自分の息子を殺した少年に対しては、少年院に入っただけではゆるせない。死んでもらいたいくらいにおもっている。
これに対して,平岡秀夫はこのように言ったのだ。
加害者の少年に死の恐怖を経験させたいという気持のままで、お母さんが本当に幸せになれるというか、納得できるとはおもえない。悪いことをした子どもたちというのは、それなりの事情があって、そういうことになったのだとおもう。
このとき、その「事情」という言葉に母親が反応して、それに抗議するような感じで「事情ってなんですか?」と言ったのだ。その抗議に合わせるかのように、他の出演者の中から女性の声で、「事情ってなんですかァ?」と聞こえた。ぼくはそれを見て、被害者の母親がそのように激怒してしまうのはまだ仕方ないとしても、それに調子を合わせるかのように一緒に激怒するタレントだか議員だかの存在を知ると、やっぱり日本人てのは情動的民族なのだなぁとおもった。

平岡氏は、そのあとで説明していたけれど、少年の凶悪犯罪を考えるときには、その生まれ育った環境の影響を無視できないということを言おうとしたのだ。そういうことを考慮せずに、一方的に厳罰を科したとしても、それで少年による凶悪犯罪が少なくなるようなことはないのだ。彼の発言を非難して、「このような人物が法務大臣になれば本当に日本は犯罪者天国になってしまう」と主張するとすれば、それは全く現実を知らずに、ただ感情的な思いつきをしゃべっているにすぎない。それで被害者の味方になって自己の正義感を満足させるのは簡単だろう。しかし、そのように情動的に反応する人間が日本人の多数派だとすれば、この国の文化は、決して社会的弱者を守る文化として育つことはないだろう。

被害者の母親は、少年法を批判して、少年法が加害者を擁護していると言った。法律は弱い者を守ってくれるものだとおもっていたが、裏切られたような気持だというようなことも言っていた。法律が登場する前に、そのヒト社会に、弱い者を本当に守ろうとする文化がなければ、法律も守ってはくれないだろう。ぼくのイメージでは、ニッポンの社会というのは、むかしから弱者に優しくない社会のようにおもう。そのような社会で育つから、少年も優しくならない。だから、少年犯罪も多い。少年の自殺も多い。この現象は日本文化の特徴と言ってもいいくらいで、教育勅語などで天皇制教育を行なっていた戦前の時代のほうが、今よりも顕著だったのだ。

自分の子どもを殺されれば、犯人を憎む。それは当然だ。その気持を非難することはできない。しかし、ただ犯人を憎むだけでは、たとえその犯人を処刑したとしても、同じような犯罪が繰り返されてしまう。同じような被害者が出て、同じような悲しみが繰り返されてしまう。残念ながら、ヒト社会から凶悪犯罪が完全になくなるということはないだろう。しかし、少しずつでも減らすことは可能だとおもう。それは決して死刑のような極刑によって犯人を処罰することでは実現しないだろう。犯罪大国の米国を見るがいい。死刑を廃止したヨーロッパの国々を見るがいい。死刑のある国で凶悪犯罪が減ることはないし、むしろ死刑を廃止した国のほうが減少する傾向が見られるくらいだ。

また死刑の話に発展してしまったけれど、これはちょっと予定外で、ぼくは今回のテーマで、もっと別のことを考えていたのだ。それが題名にあるとおり、「罪意識」というものだった。しかし、きょうはここまでにしておこう。

今日のビデオ:As Time Goes By
-- Rod Stewart with Chrissie Hynde (Royal Albert Hall, London, 2004)

27 April 2008

日本人と罪意識(1)


今朝から行なわれている衆院山口2区の補欠選挙の投票結果が出たようだ。この選挙は、民主党の平岡秀夫と自民党の山本繁太郎との一騎打ちとなったが、先ほどの速報で民主党の勝利が確定したらしい。この平岡氏という人物は、コイズミ改革による暴挙のひとつ、後期高齢者医療制度の廃止などを公約に掲げていたようだし、同じ民主党内で気勢をあげている前原誠司のようなウヨク連中とも以前から対立していて、憲法9条護持の立場を明確にしていたようだから、この国の政治家としては、一応、最低基準はクリアできる人物かもしれない。

ところが、この政治家への国民一般の評価は、それほど良くはないようだ。「Yahoo!みんなの政治」によると、5点満点中2.5点という評価になっている。最低点の1点しかつけなかった人々の意見をざっと眺めてみると、平岡氏がかつてあるテレビ番組に出演したとき、殺人事件の被害者の母親の前で、加害者の少年をかばうような発言をしたことが、何よりも気に入らないらしい。ある人はこのように書いていた。
何の落ち度の無い少年が殺された。その少年の無念と母親の悲しみや怒りよりも、加害者の立場や人権(?)を優先する感覚。申し訳ないが私には理解できない。原口議員や松原議員のような議員もいる反面、こんなやつもいるから投票しようという気になれない。まあ自民党も似たり寄ったりだが。
ここに出て来る原口議員というのは、民主党の原口一博のことで、松原議員というのは、同じく民主党の松原仁のことを言ってるのだろう。ともに松下政経塾出身というだけで、ぼくなどはゾッとしてしまうのだが、特に松原議員という人は、南京虐殺も従軍慰安婦もその歴史事実を否定していて、従軍慰安婦問題に関して例のワシントン・ポスト紙にニッポンのウヨク著名人が出した意見広告の賛同者の中にも入っていた人物だ。このようなウヨク議員のことを信頼できるというのは、一体どういう神経なのだろう。

もうひとり、平岡氏に最低点をつけていた人の意見を引用してみよう。
現状は「加害者過保護・被害者軽視」の風潮がまだまだはびこっている状況なのに、「被害者はどうなっても良い」とも取れる発言をしたことは許しがたい。このような人物が法務大臣になれば本当に日本は犯罪者天国になってしまう。
ぼくはふだんテレビを見ないから、問題の場面を目撃してはいなかった。しかし、こうして自分のブログで問題にするからには、事実を確認しなくちゃとおもって、先ほどそのビデオを見てみたのだ。それでわかったことは、少年犯罪に関して平岡氏を非難する連中というのは、事実に基づかない先入観で、感情的に彼を非難しているにちがいないということだった。(つづく)

今日のビデオ:Don't Get Around Much Anymore
-- Rod Stewart & Krzysztof Krawczyk

☆ 最後にこの女性、毛皮っぽいものを着ていますが、もちろん本物ではなくフェイクファーだとおもいます。

26 April 2008

野の花を見よ


こんな夢を見た。

だれかが風呂場の椅子にすわっている。すると、その風呂場の壁を、体長が50センチ以上はあるかとおもえるほど巨大な毛虫のような姿をした生き物が這っている。ぼくはそれを見て不気味におもったが、同時におもったことは、風呂場にいる人物がその虫に気づいたら、きっと殺すにちがいない。そうおもいながら、なんとか虫を助けることはできないだろうかと考えていた。

風呂場の椅子にすわっていた人間は、考える人でもなければ、リボンの騎士でもなさそうだった。むしろ顔に刃物の傷があるかのような、いわゆるヤクザ系の男のように見えた。こんな男に気づかれたら、きっと殺されてしまう。ぼくはそうおもってハラハラしていた。

すると、その巨大な虫が風呂場の換気扇のところまでたどり着いた。それを見たぼくは、あんなに大きなからだでは、換気扇の隙間などから脱出できやしないだろうとおもった。それでも、希望を捨てずに祈るように見守っていたら、その虫はやがて換気扇から外に出ようとし始めていて、それから、ひょいという感じで、いともたやすく脱出したのだった。実に不思議だが、夢とはこういうものなのだろう。

その直後、シーンは変わって、青空を自由に飛んでいるその虫の姿が見えた。なぬ?あれは毛虫のはずじゃなかったのか.... そんなこともおもってやや驚いていたようなぼくではあったが、そんなことよりも、自由に空を飛ぶ虫の姿を見て、ぼくの心もその青空のように晴れ渡る気分がした。

さて、その巨大な虫とは一体なんだったのだろうか。よく見ると、みつばちマーヤみたいな蜂の姿をしていた。しかし、みつばちマーヤなら可愛いのだけれど、そのバカでかい2本の前足(?)を見ると、小さな子猫くらい簡単にさらわれてしまうのじゃないかと心配してしまうほどに、大きく不気味に見えた。

「あゝ、どうしよう!」そうおもったとき、目が覚めた。

今日のビデオ:Please Don't Eat the Daisies
-- Doris Day

24 April 2008

戦争はつづく


前回の写真の中で兵士の恰好をしていた子どもたちは、首に巻いたスカーフで分かるように、イスラム教徒の子どもたちだ(もっと正確にいえば、イスラム教シーア派の政治組織ヒズボラに所属する子ども兵士たち)。こんなのを見てしまうと、やっぱりイスラム教徒は恐ろしいという気分になって、彼らを敵視する米国やイスラエルを応援したくなってしまうだろうか。しかし、米国のように戦争好きな軍事大国がつねにイスラエルを応援して来たという歴史を無視して、一方的にイスラム教徒の過激派を責めるとすれば、それはフェアじゃないようにおもう。

米国内にはユダヤ系の大富豪が多く、彼らの巨大な政治力は、おそらく創価学会の池田大作なども憧れたにちがいない。イスラエルはユダヤ系アメリカ人にとっても、信仰上の聖地であり、彼らの心の古里と呼んでもいいだろう。米国がイスラエルの味方をしてイスラム教徒を憎むのには、ちゃんと政治的(つまり経済的)な理由があるわけだ。

もちろんぼくは、イスラム教徒の人々が武器などに頼らずに非暴力主義でやってくれたらと願わざるを得ない。しかし、彼らがあんなふうになってしまった最大の原因は、米国の巨大な軍事力のせいにちがいないのだから、米国政府やそれに追随する日本政府の宣伝に刺激されて、「テロとの戦争」(War on Terrorism)を支持するわけにはいかないのだ。

きょうの写真は、太平洋戦争末期の1944年、東京の杉並第五小学校の児童たちが、竹の棒を持たされて戦闘訓練を受けている様子を撮ったものだ。戦争が長引くにつれ、男性教師も男子生徒も頭を丸刈りにされ、言葉や態度も軍人のように変わっていったという。

ウヨクは今でもあの戦争を、米英の脅威からアジアの独立と平和を守る自衛戦争のように信じているらしい。靖国神社の遊就館で上映されている映画「私たちは忘れない」の始まりの部分に、広島に落とされた原爆の映像が入っている。これなども米国を一方的にワル者にして、被害者としてのニッポンを強調しているつもりなのだろう。

当時、米英の軍事力に比べれば、ニッポンの軍事力はずっと弱かった。しかし、日露戦争に勝利した歓喜の余韻がまだ残っていただろうし、当時の軍部の指導者たちには、冷静な判断によらず情動的に行動に走る傾向が見られた。彼らは大日本帝国を弱小国だと認めることはなかっただろう。実際、彼らは天皇の軍隊が米英に勝ってアジアを支配できると信じて、西洋人さえ決してやらなかったような残虐な侵略行為を断行したのだ。

このように、大東亜共栄圏などという欺瞞に満ちたスローガンを掲げて、大日本帝国の軍隊が実際に行なったのは、アジア諸国への暴力的な侵略戦争だった。今に生きる日本人に、「私たちは忘れない」と心に誓うことがあるとすれば、あの戦争を大東亜戦争と称して讃美した当時の日本人の愚かさと、そして今もあの戦争を反省するどころか美化さえしているウヨクの愚かさ以外に、何があるだろう。

今日のビデオ:麦 秋
-- 小津安二郎監督(1951年)

16 April 2008

「忠臣蔵」と「君が代」



戦中の1941年、ニッポンの子どもたちの通う小学校は「国民学校」と名づけられ、軍国主義教育を指揮する文部省の管理のもと、子どもたちの涙までもが、国家権力によって指導されていた。
祝日や、おめでたい儀式には、私たちは、この歌を声高く歌ひます。しせいをきちんと正しくして、おごそかに歌ふと、身も心も、ひきしまるやうな気持になります。戦地で、兵隊さんたちが、はるか日本に向かって、声をそろへて、「君が代」を歌ふ時には、思はず、涙が日にやけたほほをぬらすといふことです。(国民学校四年用国定修身教科書「初等科修身」より)
「修身」という日本語は、今なら「道徳」になるのだろう。最近、文科省が発表した学習指導要領によれば、道徳(愛国心)教育のために「君が代」を「いずれの学年においても歌えるよう指導する」というのが21世紀の日本国の教育方針になるらしい。

いくら今どき儒教など信じちゃいないとおもったとしても、日本人の精神構造に儒教的道徳の後遺症が今も残っていることは確かだとおもう。明治に始まる天皇制絶対主義を信奉するエリートたちの描いた国家観は、それまで天皇の存在すら考えたこともなかった庶民をどのようにして感化することに成功したか。忠孝を強調する日本的儒教を道徳の基礎とし、それを精神的基調として、教育勅語や靖国信仰などを学校教育の中で児童たちの心に植え付けながら、天皇を神として崇拝する忠実な臣民に育て上げようとしたのが、当時の文部省による教育方針だった。

ウヨクの圧力に屈したプリンスホテルのある東京の高輪(たかなわ)という町には、「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士の墓のある泉岳寺(せんがくじ)があり、彼らの愛した殿様が下屋敷として住んでいた場所(麻布の一画)は、ぼくの本籍地のすぐそばだから、むかしから赤の他人にはおもえないのが赤穂浪士だ。「本籍」などというものがあるのも実に日本固有じゃないかとおもうけれど。

たぶん「忠臣蔵」ストーリーは、多くの日本人の好きな物語じゃないのだろうか。忠孝の精神、そして、正義のための復讐。赤穂浪士たちが、ついに憎き吉良上野介の首を取ったとき、観衆はみなスカッと気分が晴れて、しばし満ち足りた気分に浸ることだろう。クリスマス・イブがなんだってんだい。今年も山下達郎の歌のようにはロマンチックに過ごせなかったけどね。それがどうしたってんだい。みなの者、明治神宮へ、いざ初詣 !!! . . . というような感じで。

たとえば、ブルース・リーのような中国人が主演する映画もそうだし、ハリウッドの英雄ランボーの活躍した映画もそうだったような気がするけど、この種の復讐モノは、アメリカ人も中国人も、ユダヤ人も日本人も、みな区別なく好きらしい。しかし、ぼくの場合、たとえ「忠臣蔵」のような映画を見たとしても、「エレファント・マン」を見たときのようには元気にならないかもしれない。靖国信仰によって天皇に忠誠を誓って死んだ兵士たちのことなどもおもい、また、明治天皇のあとを追って自殺した乃木大将のことなども思い出し、そればかりか、麻布の交差点を軍用車のようないかつい車で占拠しながら叫んでいる、現存するウヨク連中のことまでをも連想してしまうかもしれない。ぼくの心の中はスカッとさわやかモードになってはくれないだろう。

「エレファント・マン」を見て涙する人の涙は、オカミだとか世間だとかが勝手に決めた価値観のために流す涙ではない。ひとりの不幸な境遇の人間が、そのような境遇にあっても人間の尊厳を保ち、美しい心のまま生涯を終えることのできたその純真な姿を見て流す涙だろう。また、そのような人間のことを敬愛する人々の存在を知って、人間はまだ捨てたもんじゃないという思いがわき上がって来たときに、ひと知れず流す涙でもあるだろう。たとえ五体満足・三高美白の青年であったとしても、その心に人間としてだいじなものが欠けるならば、決してエレファント・マンのように美しく生きることはできない。その事実を認めることのできる人間が、国籍を超えて、世界中に存在していることは確からしい。

ニッポンの教育機関が「君が代」を利用して邪魔な教師を排除しながら、戦前のようにオカミの決めた方針に従順な国民を育てようとしている現在、オリンピック発祥の地ヨーロッパでは、EUという名の共同体が、古いナショナリズムを超えた価値観のもと、新しい未来へ向かって人類の歴史を動かしつつある。何かと悪いウワサも聞こえて来るオリンピック主催組織IOC(International Olympic Committee)にしても、偏狭な国家主義に利用された過去の歴史を反省してか、オリンピック競技で国旗・国歌を廃止すべきとする議案が支持されたこともあったくらいだ(1963年、東京オリンピックを目の前にして、当時のIOC理事会は、その議案を37対32で可決していた)。

日本国の首都トーキョーの知事、石原慎太郎は、東京オリンピック招致を公約に掲げている。その目的に例によってきれいごとも並べているらしいが、そのホンネは何かといえば、ニッポンの国威を世界に示して、さらにカネ儲けを図っているようだ。儲けたカネを何に使うつもりなのかは知らない。ただぼくは遠い過去の歴史をおもうばかりだ。ヒトラーのナチ帝国が主催したベルリン・オリンピック(1936年)を見学した大日本帝国のエリートたちは、その圧倒的な国威誇示の一大イベントを見て感激し、ニッポンもやがてナチ帝国のように強大な国家になることを夢見たのだった。その後、日本国の歴史はどこへ向かったか。

ぼくは十代の頃、石原慎太郎が記者に向かって、一般庶民が「君が代」を国歌として尊重するようになることを願うかのような発言をしているのを、たまたまテレビで見てしまった。この国の政治的指導者たちの精神構造に潜むその種のナショナリズムを、ぼくはかねてから危険に感じていたから、これはこのまま見過ごしてはいられないとおもった。彼らを批判するためには,まず事実を知る必要がある。それでぼくは何を始めたかというと、うちの蔵書にあった百科事典などを開きながら、「君が代」の歴史を調べ始めたのだ。当時はもちろんインターネットなどは普及していなかった。記憶では、たしか図書館にも通ったようにおもう。

「君が代」は、もともと天皇のための式典音楽として演奏されていたもので、決して国歌として庶民に歌わせることが当初の目的ではなかった。それがやがて天皇制絶対主義がいよいよ過激な軍国主義へと向かう昭和の時代に入ってからのち、天皇のために戦死することを美徳とする道徳心を子どもたちに植え付ける目的で、国定教科書を通して「君が代」のありがたさを強調するようになったわけだ。つまり、「君が代」の国歌としての歴史は、天皇制軍国主義の歴史と並行しながら日本固有文化として定着したといってよく、その歴史はウヨクの好きな「万世一系」ほどには長くない。

ぼくはこれまでの人生で、ニッポンの新聞に投書したのは、一度しかない。それが「君が代」批判だった。イシハラ発言をきっかけとして知った「君が代」に関する事実を基礎として、ぼくは日本国の政治的指導者たちの期待するナショナリズム教育を批判したのだ。新聞でぼくの投書を読んだ母の友人が、「あなたの息子って、なかなか勇気あるじゃない」とか言ってたらしいが、ぼくは別に勇ましく高尚な生涯を夢見てあんなことをしたわけじゃない。日本人の一員として、当然のことを発言したにすぎなかった。

ぼくの生涯、いま振り返れば、実に後悔すべきことだらけ。愛とは決して後悔しないことらしいけれど、その「愛」関連のテーマにしても、ぼくの人生は後悔すべき過去でオッパイ、じゃなくて、イッパイなのだ。ただ、こんな情けない男ではあるけれども、十代の頃からずっと「君が代」を批判しながら、この国の未来を考えつづけて来たことだけは、まちがっていなかったとおもっている。

今日のビデオ:Bring Me Sunshine
-- Morecambe & Wise

Bring me Sunshine, in your smile
Bring me Laughter, all the while
In this world where we live
There should be more happiness
So much joy you can give
To each brand new bright tomorrow
陽の光を運んで 君の笑顔で
大笑いを運んで いつだって
ぼくらの生きる この世界に
もっとしあわせ あるはずさ
喜びをイッパイ 贈れるのさ
明るく輝く あすに向かって

13 April 2008

青山墓地の思い出


墓地の思い出がイッパイあるなんて言ったら、いつもの口癖のオッパイと言わなくても、変な人におもわれるだろうか。いや、それともすでにBBなる人物は、相当に変なヤツだとおもわれているのだろうか。たとえ大きなイヌを抱っこしてデパートに入ったことがなくても。

墓地というものに普通の日本人がどのようなイメージをいだいているのか知らないけれど、ぼくにとって青山墓地というのは、愛犬と一緒によく散歩した場所であって、それぞれの季節ごとに、いろんな思い出があるのだ。彼がまだ小さな子犬の頃、初めて青山墓地を散歩したとき、上野教授(ハチ公パパ)のお墓の前に立ち、ぼくは心の中で教授に話しかけていた。愛犬のことを紹介し、それから、たぶんこんなことを言ったかもしれない。「この子をだいじに育てますから、見ててくださいね」とか。別に映画の中の主人公を演じていたつもりはないのだけれど、ひとによっては、ぼくのこのような傾向も、やはり相当に変だゾウさん、とおもうかもしれない。

それで思い出したことがある。大学受験の前の日、ぼくは電車に乗って池袋にある雑司ヶ谷墓地までゆき、ケーベル博士のお墓に1本のバラの花を置いて来た。別に合格祈願をしたわけじゃない。当時ぼくはまだクリスチャンではなかったけれど、その種の神頼みだとか占いのようなものは嫌いだった。妹からもらった受験用のお守りでさえ、机の引き出しにしまったきりで、肌身につけるようなことはなかったくらいだ。こんなことまで思い出してしまうと、また話が予定外の方向へ飛んでしまいそうだから、ぼちぼち元の話にもどることにしよう。ちちんぷいぷい、バック・トゥー・ザ・ボチ!

青山墓地には外人墓地の一画がある。そこは散歩の途中でよく休憩する場所だった。カナダ人宣教師のお墓があって、吾が愛犬はその冷たい墓石の上でよく休んだものだ。墓碑を読むと、"killed"(殺された)と書いてあった。交通事故などで死ぬ場合にも、英語では "kill" という動詞を使うことがあるけれど、墓碑にこのような表現をするのは普通じゃないようにおもう。やはりだれかに殺されたのだろう。近くに別のキリスト教宣教師のお墓があって、そこには確か泥棒に殺されたというようなことが刻まれていた。

ある夏の日のこと、その外人墓地にあるベンチで本を読んでいたら、ひとりの女性から声をかけられた。最初のきっかけがなんだったのか、今ではハッキリ思い出せないけれど、おそらくベンチの下の日陰で休んでいた愛犬のことから会話が始まったのだとおもう。相手が女性だと、すぐに席から立ち上がってしまうのは、ぼくがやっぱり英国系イヌバカ紳士だからだろうか。どれくらいおしゃべりしていたのか正確な時間は覚えていないけれど、かなり長いあいだ立ち話をしていたような記憶がある。

その女性は霞町(西麻布)に実家があって、最近どこか別の町からもどって来たようなことを話していた。しゃべり方はどこかなつかしいような生っ粋の東京言葉で、まるで小津安二郎の映画に出て来る女優のようなしゃべり方だった。ぼくはいつかどこかで、むかし東横線の電車の中で隣りにすわっていたおばさんから「慶応の学生さんですか?」と訊かれた話をしたような気がする。不思議なことに、青山墓地で出逢ったあの女性からも同じようなことを訊かれたのだ。もちろんその頃はいくらなんでも学生には見えなかったので、「慶応OBですか?」のように質問されたはずだけど。今なら「いいえ、ただのBBです」と答えただろうか。

いろいろ話を聞いているうちに、その女性の結婚生活が幸福ではなかったらしいことが、なんとなく伝わって来た。夫という人は東大出身らしく、社会的にも成功していたようだった。あのとき青山墓地で初めて出逢ったわけだから、それほど具体的には話してくれなかったとおもうけれど、彼女のおしゃべりの背後には、「あゝ、人生って....」というような哀しい響きが、通奏低音のように流れていたような気がする。

すでに話したとおり、あの立ち話は相当に長いあいだ続いたのだけれど、そろそろ家に帰らなくちゃならないと言ったとき、ぼくの家が有栖川公園の方向だと知ると、じゃ霞町交差点までご一緒にという感じで、その女性もぼくら(つまり愛犬とぼく)と一緒に歩き始めたのだった。道すがら何をしゃべっていたのか,今では全く思い出せない。ただ覚えているのは、霞町までの予定が、結局、有栖川公園の近くまで一緒に歩いてしまったことくらいだ。

青山墓地で立ち話を終えたとき、ベンチの下に寝ていた愛犬を呼ぶと、彼の休んでいた場所が大きく凹んでいるのに気づいた。暑い日には、土を掘って地面に穴をあけ、中の冷たい土の上に横になるのが、彼の習慣だった。「あゝ、墓地をこんなに掘っちゃった!」とぼくが言ったとき、あの女性も明るい表情で笑っていたような気がする。

今日のビデオ:ハチ公物語

☆ 音楽はぼくの趣味で勝手にビートルズから選びました。ジョン・レノンが歌う In My Life です。

10 April 2008

常識と文化

ロンドンの地下鉄は、the Tube と呼ばれる。日本語で「チューブ」と書くと、細長い管のようなものしか思い浮かばないかもしれないが、ロンドン子なら、きっと何はおいても地下鉄のことをおもうだろう。もちろんアメリカ人には通じない英語だ。アメリカ人が the tube というときは、たいていテレビを意味するにちがいない。

ロンドンの地下鉄で、イヌに関して何か規則があるとすれば、どうやら「エスカレーターでは愛犬を抱えてください」以外に規則らしきものはないらしい。ぼくはむかしイギリス人に、地下鉄にイヌを乗せてもいいのかと質問したことがあったのだけれど、返って来た答えはあやふやで、電車の中でイヌを見た記憶はないようにおもうから、たぶんダメじゃないかな、よくわからないけど、というような返事だった。

しかし、地下鉄の車内でイヌを見かけないのは、イヌの乗車を禁止する規則があるからではなく、人間で混雑する電車に愛犬を乗せることをきらうイギリス人が普通だからだとおもう。小さなイヌなら人ごみで押しつぶされてしまうことにもなるだろうし、大きなイヌであっても、ヒトの固い革靴で足を踏まれてしまうなんてことも考えられるからだ。

規則が特に存在しないわけだから、コモンセンス(常識)というもので個人が臨機応変に判断して、イヌも安全に利用できるとおもえば、愛犬と一緒に電車に乗ることもあるだろう。実際、右の写真はロンドンの地下鉄車内で撮られたものだ。ニッポンでは、ヒトが利用する公共の建物や交通機関を、イヌが利用することは許されないというのが常識になっているらしい。つまり、ニッポンで常識といえば、英国のコモンセンスとはちがって、個人に判断の自由が与えられているのではなくて、世間で決めたことに従いなさいという規則になってしまうわけだろう。誰がいつどこで決めた規則なのかは知らないけれど。

たまにイヌも入れるようなデパートなどがあっても、「店内では愛犬を抱えてください」とか、「ケージに入れてください」とか、そんな規則を貼り出していたりするのが日本流のようだ。これはロンドンの地下鉄の規則に似ているようでいて、そのこころは全く正反対じゃないかとおもう。

ロンドンの場合、エスカレーターを愛犬と一緒に利用するときに抱いてくださいと言ってるのは、イヌのからだの毛などがどこかに挟まったりしては大変だとか、とにかくイヌの安全を心配しているのだ。こんなふうに断言すると、ウヨク体質の日本人なら、もしかしてその根拠を要求して来るかもしれないが、それはぼくがイギリス人を知っているからそう想像するにすぎない。それはともかく、ニッポンの場合はどうかといえば、イヌ嫌い(イヌ恐怖症)のヒトのことを誰か(誰なんだ?)が心配するあまり、どんなイヌでも抱きかかえるのがマナーであるということに決まってしまうわけだろう。これに関しても根拠をたずねる日本人がいるのだろうか。

さて、きょう最初に貼った写真は、ロンドンの地下鉄の様子を撮ったものだ。小さく見える注意書きには、たしかに "Dogs must be carried" (愛犬は抱えてください)と書いてある。超大型犬を抱きかかえようとしている人は、イギリス人には珍しい規則絶対主義者なのだろうか。それとも、イギリス人には珍しくないただの変な人にすぎないのだろうか。

ニッポンのデパートの入り口で、「店内では愛犬を抱きかかえてください」という注意書きを見たとき、ぼくはそばにいた吾が愛犬に向かって、「パパに抱っこしてもらいたいかい?」と訊いたことがあったかもしれない。その当時、彼の体重は35キロぐらいはあったはずだ。いつの日かあの子のでかいからだを抱えて店内に入ってみようとおもっていたのだけれど、ついにその夢は実現できなかった。

今日のビデオ:Sentimental Journey
-- Debbie & Robert

☆ 最近、このデュオが同じ曲を歌っているビデオを紹介したことがありました。しかし、その直後にそのビデオは削除されてしまったようです。それを知ったぼくは、彼らにメッセージを送って、もう一度アップしてほしいと頼んだのです。するとデビー(歌ってる女性)から返事が来て、夫(歌ってる男性)がすぐにやってくれると約束してくれたのです。ところが、1週間ほどが過ぎても、ビデオは一向に現れません。ぼくはわりと気が長いほうですし、イギリス人の「すぐに」というのは、時に3週間ぐらいになることもあるのを知っていますから、それほど心配はしなかったのです。

ぼくが彼らにお願いしたとき、消されたビデオがすばらしかったというようなことを言ったのですが、正直にいえば、あれはややお世辞が含まれていたのです。あのビデオの雰囲気は大好きでした。しかし音楽的には、夫のロバートの調子がいまいちだったようにおもうのです。特に途中で「ボボボボ....」と口ずさむところがダメでした。ちょっと恥ずかしがっているような感じで。

なかなか頼んだビデオが登場しないので、ぼくは何を想ったかというと、もしかして新しく録音し直すつもりじゃないのだろうか。そんなことを想っていたのです。すると、数時間前についにビデオが公開されたのですが、それを見ると、想像したとおりだったわけです。服装もちがっていて、なぜか映像が白黒からカラーに変わっていました。音楽的には、前よりずっと良くなっているとおもいます。ロバートのボボボボ音声が消えていたりとか。

8 April 2008

続・元気が出る映画


数年前、公園を散歩中、幼なじみの女の子のお姉さんにばったり出会った。実は、その女の子に、ぼくは密かに恋心をいだいていたのだ。しかし、小学校6年生の頃に、彼女の家族は突然どこかへ引っ越してしまった。あのときの悲しい気持はもう思い出せないけれど、人生に別れのあることを経験したことは確かだとおもう。

そのお姉さんが,ぼくにこんなことを言ったのだ。妹があなたのことを,時々、思い出していたのよ。お母さまがとてもきれいな方で、あなたも色白で優しい少年だったって.... Oh dear! かあちゃんがきれいだったってのはいいとしても、「色白」という表現を聞いて、ぼくはビックリしちまった。あの子はそんなふうにぼくを見てたのかって。

実をいえば、若い頃(といっても小学校を卒業してからのちの頃だけど)、ぼくの悩みのひとつが、その「色白」だったのだ。春から秋までいつもテニスコートにいたし、冬休みにはゲレンデを滑っていたから、一年中日焼けしていた普段のぼくを見て色白におもう友だちはいなかったとおもう。問題は夏だった。プールと海水浴の季節だった。いわゆる海水パンツ姿になると、テニスウェアのあとがクッキリ真っ白で、ウィンブルドンも真っ青になるほどだったのだ。

そういうわけだから、まだ日焼けサロンなどというものがない頃、ぼくはどうしていたかというと、海水浴シーズンの始まる前に、ひとり電車に乗って湘南へ向かい、葉山近辺のひと気のない浜辺で海パン姿になって寝転び、一日中、本を読んでいたりしたのだ。かまわない、認めるよ。やがて麻布十番に日焼けサロンができたとき、ぼかあそこの会員でした。あゝ、あの頃ぼくは若かった....

それで思い出した。きょうはエレファント・マンの話を続ける予定だったのだ。なにゆえにぼくはあの映画を見ると元気が出るのか。その話に決着をつけなければ、公約を守らないニッポンの政治家みたいになってしまう。

映画の中で、舞台女優のケンドル夫人という人が登場する。新聞でジョン・メリックのことを知った彼女は、独り言のようにこう言った。
"I should very much like to meet this gentleman."

「この殿方にぜひお会いしたいものだわ」
彼女が読んでいた新聞の記事には、ジョン・メリックに関してこう書いてあった。
.... yet he is superior in intelligence. He can read and write, is quiet and gentle, not to say even refined in his mind.

.... しかしながら、知的には優れているのだ。彼は読むことも書くこともできるし、穏やかで優しく、言うまでもなく洗練された精神の持ち主だ。
マスコミによって有名になったジョンは、ヴィクトリア女王やウェールズ公妃など王室の人々からも親切にされたようだ。当時の上流階級の人々は、それに倣うように、彼に関心を寄せたらしい。その多くは偽善だったのかもしれない。映画の中でもそれが描かれているようにおもう。それでも、その偽善の背後には、たとえごく少数の人々であったとしても、単なる見かけ上の憐れみからではなく、ジョン・メリックというひとりのイギリス人を心から敬愛する人も混じっていたことだろう。そうおもうと、ぼくは何か救われたような気分になるのだ。

戦争というものを拒否したり、死刑廃止を主張したりすると、現実はそんなきれいごとでは済まないと言って反論する人が多い。特にウヨク体質の日本人はたいていそうだ。現実が不条理で満ちていることくらい、ぼくだって知っている。しかし、たとえ夢であってもいい。そんな現実のままじゃダメなんだと、なんとか理想の実現を目指して行けたらとおもう。そんな夢を失いたくはないとおもう。歴史を振り返るとき、人の世の不条理と戦って人間性の尊厳を保った少数派の人々は、そのような夢を信じた人たちだったような気がするのだ。

映画の中に、ジョン・メリックが聖書の中の有名な詩篇を暗唱して、トリーブス医師を驚かせるシーンがある。彼はそれまでジョンのことを知的に劣っているとおもっていたのだ。知的に劣っていたほうが、ジョンにとって幸福だろうとさえおもっていた。驚くトリーブス医師に、ジョンはこう言った。
"I used to read the Bible every day. The 23rd Psalm's beautiful. It's my favourite."

「ぼくは毎日よく聖書を読んでいたんです。詩篇23篇は美しいです。ぼくの好きな詩篇です」
ある日、彼はトリーブス医師に、こんなことを言った。
"I wish I could sleep like normal people."

「ぼくも普通の人のように眠ることができたらなあとおもいます」
彼が眠るときは、その奇形した頭の構造のために、必ず上半身を起こした状態でないと命がもたなかったのだ。彼は病室の窓から教会を見ながら、その模型を、毎日こつこつと紙で作っていた。それがついに完成したとき、彼は "It's finished"(終わった)と言って、ベッドに横になる。普通の人のように。

映画ではなく実際にジョン・メリックの死亡が確認されたとき、彼はベッドの上で普通の人のように横になっていたという。現在、ジョンがその生涯を終えた王立ロンドン病院には、彼の作った教会の紙模型が展示されている。きょうの写真がそれだ。

先日、久しぶりにDVDでこの映画を見た。紙模型を完成させたジョン・メリックが "It's finished" と言ったとき、ぼくは十字架上でイエスが息を引き取る直前に同じ言葉を言っていたのを思い出した。ベッドに安らかに眠るジョンの姿を見ながら、悲しみを通り越して、ぼくは感謝の思いでいっぱいになった。
The LORD is my shepherd; I shall not want. He maketh me to lie down in green pastures: he leadeth me beside the still waters. He restoreth my soul: he leadeth me in the paths of righteousness for his name's sake. Yea, though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil: for thou art with me. (Psalm 23:1 - 4)

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23:1 - 4)

今日のビデオ:あの時君は若かった
-- ザ・スパイダース

5 April 2008

元気が出る映画

エレファント・マン(The Elephant Man)という映画は、ヴィクトリア時代の英国に実在したジョゼフ・ケアリ・メリック(Joseph Carey Merrick, 1862 - 1890)という名の人間を描いたものだ。若い頃に映画館で観て、それからずっとのちレンタルビデオ店で借りたこともあった。現在は英国盤DVDを所有している。この映画を見ると、必ず悲しくてどうしようもなくなるのだけれど、不思議といつも元気が出て来るのだ。なぜだろう。

ひとりの日本人が、こんな感想を書いていた。
「これ以上見ていられないほど悲しい気持ちになった。結局これって何も解決せずに終わってる」
もしぼくもコメントを残すとすれば、悲しい気持というところまでは同じになるけれど、あとの部分は全くちがう感想になるだろう。何も解決せずに終わるような映画なら、見終わったときに元気が出るはずはない。

ジョゼフ・メリックは、奇形児としてこの世に生まれた。子どもの頃に母を亡くし、やがて見世物小屋で働くようになる。働くといっても、自分のからだを見世物にされていたのだ。そのときにつけられた名前がエレファント・マン(象おとこ)だった。

のちに彼は外科医フレデリック・トリーブス(Frederick Treves, 1853 - 1923)と出逢う。このトリーブスという医者は、ジョゼフのことをジョンと呼んでいたらしく、そのせいでエレファント・マンは本名をジョン・メリックとして知られるようになったようだ。やがてこの医者の努力が実り、ジョンは王立ロンドン病院(The Royal London Hospital)の個室に永住する権利を認められた。映画の中で、正式に自分の部屋を与えられた知らせを受けたジョンが、自分の耳をすぐには信じられないかのように、"This is my home?"(ここはぼくの家になるんですか?)と言って喜ぶシーンがある。ぼくはそれを見て、英国の諺、An Englishman's house is his castle(イギリス人の家は彼の城)というのを思い出した。自分の城を持てたジョンは、ひとりのイギリス人として、その幸福を感じていたにちがいない。

ある日、トリーブス医師は、ジョンを自分の家に招待する。イギリス人のいう "tea"(お茶の会)だ。トリーブス夫人がジョンに右手を差し出して挨拶をしたとき、彼はやや躊躇しながら自分の左手で彼女の手を軽く握った。彼の右手はひどく奇形していたけれど、左手は普通の人と変わらなかったのだ。

トリーブス夫人が、 "I'm very pleased to meet you, Mr Merrick."(お会いできてとても嬉しいです、メリックさん)と言ったとき、彼女の手を握りながら、ジョンも"I'm very..."と挨拶をしようとするが、"pleased(嬉しい)"という言葉を言おうとしたとき、こらえ切れずに声を出して泣き出してしまう。心配したトリーブス医師が、"What's the matter?"(どうしたの?)とたずねると、ジョンは声をつまらせながら、こう言った。
"It's just that I... I'm not used to being treated so well by so beautiful a woman."

「ただぼくは... ぼくは、こんなに美しい女性から、こんなに親切にされることに慣れてないものですから」
やがてお茶の時間が始まり、マントルピースに飾ってある写真に気づいたジョンは、トリーブス医師からそれを見せてもらう。それは子供たちの写真や親戚などの写真だった。トリーブス夫人から両親の写真を見せてもらったあとで、ジョンは夫人にこのように言った。
"Would you... would you care to see my mother?"

「あの... ぼくの母を見てみたいと思われますか?」
彼は背広の内ポケットから小さな写真を取り出し、それを夫人に手渡した。彼はいつもその写真を肌身から離さなかったのだ。
"Oh, she's... Mr Merrick, she's beautiful."

「まあ... メリックさん、なんて美しいお母さまでしょう」
実際、ジョンの母親はきれいな女性だった。彼は夫人に向かってこう言った。
"She has the face of an angel. I must... I must have been a great disappointment to her."

「母の顔は天使のようです。ぼくはきっと... きっと母はぼくのことで、とても残念に思ったことでしょう」
すると、トリーブス夫人は言った。
"No son as loving as you could ever be a disappointment."

「あなたのように優しい息子のことを残念に思うわけがありません」
ジョンはこう続けた。
"If only I could find her... so she could see me with such lovely friends here now... perhaps she could love me as I am... I've tried so hard to be good."

「もしぼくが母を見つけることができたら... こんなに優しい友だちと一緒にこうしているのを見てくれたら、おそらく母は、こんなぼくでも愛してくれるでしょう... ぼくはいい子になるようにと、一生懸命がんばったんです」
これを聞いた夫人は、ついにこらえ切れず、声を出して泣き始めた。

この映画の感想を残していたイギリス人が、このシーンについて、こう言った。
"The scene in the Dr's house cracked me. I don't mind admitting I cried. A fully grown, hard assed man crying....the only film to ever do it."

「医師の家のシーンには、打ちのめされちゃったね。かまわない、認めるよ、おれは泣いてしまった。大人になり切った、まったくもって頑固な男が、泣いちゃったよ.... こんなのは、この映画だけだね」
さて、ぼくはなぜこの映画を見ると元気が出るのか。すでにかなり長話をしてしまったようなので、その理由は次回に書くことにしよう。

今日のビデオ:Mother
-- John Lennon