☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

17 December 2007

ああ、ニッポンのケージバン

こないだ取り上げた価格.comの話の続きをしようと思う。これもニッポンのケージバンの特質を考えるときに、考えるヒントくらいにはなってくれるかもしれない。

必殺デジカメ氏の純粋な意見に対して最初に応答したくろこげパンダ氏は、ただ「ふんいき?(^^;)」と書いて、間接的に必殺デジカメ氏の誤字を指摘した。ここで「指摘した」と言ったのは、まだこれだけじゃハッキリしないことがあるからだ。しかし、あとに現れたくろこげパンダ氏の発言を見ると、明らかに必殺デジカメ氏を攻撃する意図があったことが分かる。つまり、最初に「ふんいき?(^^;)」と言ったのは、すでに必殺デジカメ氏をバカにしていたのであって、互いの過去の関係から、必殺デジカメ氏にはそのことが直ちに理解できた。だから、彼はもう何も語りたくなくなったのだろう。

注意して見てほしいのは、くろこげパンダ氏の態度である。「ご自身が立てられたスレ」というように、彼の言葉遣いにはどこにも無礼なのがないように見える。最初の「ふんいき?(^^;)」にしても、これだけ見れば、これの何が悪いのか理解できない人も多いだろう。しかし、彼らふたりのあいだではそうではなかった。もちろん、くろこげパンダ氏はそれを知っていて、あのようなバカ丁寧な態度で攻撃したのだ。

そこでぼくはまた老人党ケージバンのことを思い出す。あそこによく現れて他人の意見に口出しする常連の中には、言葉遣いとしては、くろこげパンダ氏と同じようにバカ丁寧なのが目立ったように思う。しかし、内容としては、ひとの意見に唾を吐くような無礼なのが多かった。本当に大人ならば黙って見過ごせるようなことにまで首を突っ込むヒマジンが多かったように思う。そういうことに鈍感な管理人を批判し始めたら、良識派を気取る連中の中にまで、ぼくを批難するのが現れた。管理人は最後まで無言のままだった。時には批判に答えるような返答をしたこともあったけれど、それはいつも形式的な言葉の羅列にすぎず、そこには生きた人間の血が流れていなかった。

くろこげパンダ氏も老人党のヒマジンも管理人も、一見、無礼なことを言っていないように見えた。それが何よりも問題だ。彼らの無礼さを感知するためには、それなりのイマジネーションが必要になるだろう。イマジネーションのある人にはハッキリと見えたはずだ。彼らがいかに無礼で卑怯な人間であるかを。

今日のビデオ:I Could Have Danced All Night
-- 岩崎宏美

16 December 2007

火をつけたのは誰だ


やっぱりまだ老人党関係をテーマに考える必要があるような気がしてきた。老人党提唱者なだいなだは、こう書いている。
管理者をあまりわずらわすことなく、この広場を使って、自由に意見を交換してください。(「打てば響く」11月21日)
ぼくはかつてそのサイトにある「ご意見拝聴」という名の掲示板で、老人党関係の意見をそこで述べることをなぜ拒否する必要があるのかというような意見を言ったことがある。普通ならそんな意見を述べるほどぼくは世話好きでもなければヒマジンでもないのだ。老人党掲示板の管理スタッフがプライド全開でひとの意見を拒否し続けるものだから、そんな場所ではもう何も意見を言いたかなくなったので、老人党を提唱した責任者と面と向かって話をつけようと思ったのだ。そこにまたどこかで見たような管理人が現れて、老人党関係の意見はここでは遠慮してくださいみたいなマヌケなことを言うものだから、仕方なく思うことをキッパリと言うしかなかったのだ。

「火のないところに煙は立たない」という格言があるらしいが、物事の本質をよく考えもせずに、火をつけた者を一方的に放火魔のようなワル者に決めつけて、それで一件落着したかのように安心する人が日本人には多いのだろうか。だとすれば、これもぼくがいつも言ってるように、正義よりもコトナカレ主義でなんでも片付けて平気でいられるニッポンジンの特質になるだろう。

彼らが別にヨイコを気取っていないのであれば、ぼくがこんなにも批判する必要はないのだ。ところが、ああゆう連中に限って、他人をワル者に決めつけながら自分を正義の味方のように見せかけるのだから、ぼくは日々これ憤屁の連続で、ついにオナラの貯蓄がなくなってしまい、このままじゃキティホークか海上自衛隊の補給艦からでも給油しなきゃ平和な日々を送れそうになくなってしまう。ちなみに、「憤屁(ふんひ)」という日本語はまだ広辞苑にも載っていないようだから、少し説明すると、「憤慨のあまり思わずオナラを発してしまう」という意味である。

老人党提唱者なだいなだは、管理者をあまりわずらわすなと言っているが、ぼくから言わせていただければ、あすこの管理人くらいにぼくをわずらわしたヨイコは珍しいのだよ。彼らはぼくを含めてわずらわしい奴らを永久追放して安心したらしいが、こっちはあんな奴らが相変わらずニッポンのヨイコを気取っていて、平和だ憲法だ自由だなんてのを主張しているのを見せられちゃあ、ニッポンの愛すべきイヌやコドモやビジョの皆様に申し訳ないと言うか、なんと言ったらいいのか、とにかく、とりあえずぼくは3時のおやつを食べることにするからね。

今日のビデオ:友達の詩
-- 中村中、岩崎宏美、太田裕美

14 December 2007

テレビに作られた多数派

大阪府知事選の候補者として自民党が支持している橋下(はしもと)弁護士は、テレビのバラエティ番組によく出演しているそうだが、弁護士だとか大学教授だとかの肩書きでニッポンのテレビに頻繁に現れる人間の中に信頼できるのがいるとすれば、この国でもカバの逆立ちでない庶民が多数派になっていたにちがいない。

テレビを見すぎると脳みそが腐るのはなぜか。最初にテレビを発明したイギリス人が悪かったのか。小賢しい日本人がテレビを普及させたのが悪かったのか。テレビ屋も新聞屋と同じで、いつのまにかエリート特権階級意識に染まり、いまだノブレスオブリージュを知らない日本社会にあって、自主規制だとかで責任を回避しながら、世の中を良くすることよりも自分たちの利益を優先するような仕組みになっているからだろう。

権力は腐る。これはヒトが権力を握る限り、必ずそうなる。腐った権力は、マスメディアを利用してでも体制を維持しようとするものだ。マスメディアのほうでも、権力にすり寄っていたほうが自分の利益になるから、腐った権力でもそれに従う。しかし、この現代にあって、それを大っぴらにやっちゃ恰好がつかないから、見かけ上はそれなりに飾り立てる。左寄りなら「人権」だとかを強調し、右寄りなら「愛国心」だとかを主張するだろう。

橋下弁護士は、ニッポンの受験教育を批判しながら、子どもたちはもっと自由に遊ぶべきだというようなことを言っているらしい。これだけなら、思わずぼくでも支持してしまいそうになるが、その同じ人間の口から、子どもへの体罰を認める発言だとか、核兵器の保有や、徴兵制の復活を認めるようなのまで飛び出して来るのだから、いつものことながら、ぼくはニッポンジンの節操のなさに呆れ返ってしまう。

犬を家族の一員として大切にしましょうなどと口では言っておきながら、イヌの肉を食べたい人がいるのならその自由は認めるべきだと平然と主張するJAPAN流の愛犬家と同じように、ぼくはこの種の節操のないヨイコたちくらいに信頼できない人間はいないように思う。この地球上、どこの社会に家族の一員を殺して食べるヒトがいるのか。「異文化には寛容に」ってな話で片付けるつもりかい。中国や朝鮮半島にだって、イヌの肉を見ただけでも涙がこぼれそうになる人間がいるのを知ってるかい。きっとあちらの社会では少数派になる人たちだとは思う。ヒトというのは、戦争にさえ慣れてしまうものだから、そういう人間がどこの社会でも多数派になってしまうのは、たとえば民主国家の代表を気取るアメリカを見ても理解できるだろう。

マスメディアは、その国の国民性を反映する(これと同じことを、数年前、ぼくを追放した愛犬家グループでも言ったような気がする)。あるいは、マスメディアが国民性を作ると言ってもいいかもしれない。ぼくは以前このブログで「ヒトの家畜化」という話をしたけれど、ヒトという動物がマスメディアに影響されやすい仕組みになっている現代社会では、何よりもマスメディアがいちばんヒトの家畜化を促進しているにちがいない。そして、家畜化されたヒトが、その社会の多数派となり、それが民主主義の美名のもと政治にも反映することになる。実に腐った権力者にとって都合のいい仕組みだ。

大阪府の知事になって何をしたいかという質問に答えて、橋下弁護士は、「子どもが笑うところに積極的に予算をつぎ込みながら、子どもが笑うということを重視してるんだね」と言われるようになりたいと言ったそうだ。そういう福祉主義的な発言と、核保有や徴兵制を支持する軍国主義的な発言は、どこでどうつながるのだろうか。こんな節操のない三流タレント弁護士に投票するような大阪人がいるとすれば、まちがいなく、その人の脳みそはテレビ漬けのミソ煮込み状態になっているにちがいない。

今日のビデオ:あなたの心に
-- 中山千夏(1969年)

☆ 小学生の頃から外国のレコードばかり聴いていたぼくは、あまり日本語の歌謡曲は知らなかったのですが、この歌はなぜか好きでした。よしぼくの心は風になろう。空になろう。そんな気持にさせたポニーテールの女の子は、どこか遠い知らない町へ引っ越してしまいました。やがてもう少し大きくなった頃、ひとりで電車に乗り江ノ電の鎌倉高校前駅のベンチにすわって海を見ていたとき、あの広い海に涙の海を見ていたのかどうか、今はもう思い出せないのです。

13 December 2007

ニッポンにもクリスマスがやって来る


価格.comというのがある。国内で販売されている商品の最安値などを知るために利用されているサイトで、同じようなのは英国にもいくつかある。この価格.comの目玉として「クチコミ掲示板」というのがあり、それぞれの商品について、実際の所有者とかがいろいろ感想などを語っていて、これはなかなか参考になることが多い。それに、この掲示板でもやはりニッポン的な特質をよく観察できるから、日本人を知るうえでも利用価値があるかもしれない。

先日そこでこんなやり取りを見た。スレ主の名は「必殺デジカメ」といい、スレッドの題名は「オリンパスのふいんき」となっていた。

必殺デジカメ
画質もきれいでノイズも少ない
フィルムカメラを思わせるデザインが好き
修理したばかりなので大切に使いたい
くろこげパンダ
ふんいき?(^^;)
take525+
漢字で書くと「雰囲気」ね。
春休みだけど ちゃんと勉強しようね。
必殺デジカメ
このスレは閉鎖します
書き込みされても返信しません
くろこげパンダ
なぜ、閉じるのですか?
なぜ、閉じなければイケナイようなスレを立てたのですか?

ご自身が立てられたスレがこのような顛末を迎えることと、ねねここさんに忠告なされた問題意識の持ち方は、公平、公正、平等と言えますか?
ここでいきなり引っ張り出されている「ねねここさん」なる人のことは、第三者にはサッパリわからない。想像するに、以前、このスレ主がその人とのやり取りの中で、くろこげパンダ氏から見て不愉快な発言をしたのだろう。「あなたの過去など知りたくないの」と誰かが歌っていたような気がするが、ニッポンの掲示板には、いつまでも過去にこだわる御意見番が見張っていることが多いように思う。

ぼくはスレ主の必殺デジカメ氏の過去を何も知らない。このスレッドでわかることは、4年前に発売された古いカメラを彼が今もだいじにしているらしいということだ。そこに最初に応答した人間から誤字を指摘され、しかも、その人とのあいだに思い出したくない過去があったとすれば、不愉快に思うのが当然じゃないだろうか。

ぼくは日本語圏よりも英語圏の掲示板のほうをずっと多く経験してきたけれど、誤字やタイプミスなんて日常チャハンジ、じゃなくて、日常茶飯事だ。英語のタイピングには、日本語のような漢字変換だとかがないから、かなりの速さでタイプする人が多く、たとえば、ChristmasをChristamsと打つようなミスはすごく多いし、サッチャー政権の頃に公立学校の教育よりも軍備を優先するようになった影響なのか、今のイギリス人には正しいスペルを知らない人が非常に目立つのだ。さすがにLiverpoolをRiverpoolと書く人はいないと思うけれど、ジャーマン・シェパードの飼い主の中にさえ、Sheperd(時には、Shepad)と書いてその誤字に気づかない人がいるくらいだ(正しくは、Shepherd)。

ぼくもcertainをcetainと書いてそのまま投稿していたことがあった。これはあとで誤字に気づいたけれど、なぜあんなミスをしたかというと、ぼくの英語はアメリカ人のような<r>を発声しないから、実際にしゃべっているように速くタイプすると、あんなミスをしてしまうのだと思う。ためしに今、イギリス圏の検索エンジンで調べてみたら、cetainで9460件もヒットした。ぼくと同じようなタイプミスをするイギリス人は多いらしい。ついでに言えば、ぼくは別に自慢しているわけじゃないのだよ。ああ、日本語って難しいなあ。

それはともかく、スペルミスの目立つ英語圏の掲示板で、きょう紹介した価格.comのようなやり取りを見た記憶がないように思う。ちなみに、Happy New YearをHappy New Yorkと書いているのを見たことがあるが、だれも苦情を申し立てていなかった。実際には、笑屁したイギリス人が多かったと思う。「笑屁(しょうひ)」という日本語はまだ広辞苑にも載っていないようなので、少し説明すれば、「爆笑の勢いに乗って思わずオナラを発してしまう」という意味である。

今日のビデオ:ウサギのう~ちゃん

☆ ネコかと思ったら、ウサギでした。このビデオについて、撮影の仕方だとか、編集の仕方だとかに関して、余計な文句を言っちゃダメですね。この投稿者の心をおもうイマジネーションがあれば、ただそれだけで うれしいの。

9 December 2007

悪い人と良い人

自動車学校の学科授業というのは、どこでもつまらないものと決まっているのかもしれないが、ぼくが通った東急自動車学校で教わったことで今もひとつだけ忘れられないことがある。それは、「道路というのは、もともと人間が歩くためのものだったのだから、車を運転する者はそのことを忘れずに、いつも歩行者に遠慮しながら利用させていただきなさい」と、見た目はあまりパッとしない窓際族風のオッサン教官が言ったことだ。

ニッポンで自動車が普及したのは、1960年代の高度成長以後のことになるらしいが、道路を走る車が増えるにつれ、交通事故で死亡するイヌやコドモも増えていった。イヌはふつう学校に行かないものだから、交通信号のことを教わったりもしなかったのだけれど、その代わりと言っちゃおかしいが、犬を散歩させることも面倒で放し飼いにしていた飼い主たちは、やがて犬を鎖でつないだままにしておいて、それで交通事故から守っているような感覚になったらしい。

一方、コドモたちはどうなっかといえば、近所で鬼ごっこ遊びなどをすることもなくなって、学校に訪れた警察官から横断歩道の渡り方などを指導されたことだろう。「赤信号のときは絶対に渡ってはいけません」だとか、「信号が青に変わっても自動車に注意して渡りましょうね」だとか、きっとそんなことを教わったにちがいない。そしていつしか、信号を守ること自体がヨイコの条件のひとつにさえなってしまったのだろう。

英国では、コドモからオマワリさんまで、赤信号でも平気で横断しているようだし、そのような人々をワル者と決めつけるような様子はないような気がする。もちろん自動車が絶え間なくびゅんびゅん走っているような道路では、いくらなんでも遠慮するだろうが、車の姿の見えないような交差点で歩行者が信号を守っていたら、英国でならきっと「無気味なシト」に思われるだろう。それでもイギリス人は余計なお世話をしないのが普通だから、何も見なかったかのように通り過ぎるにちがいないけれど、心の中では、「あのシト、カバよりノータリンじゃないの」くらいに思われているかもしれないから、ニッポンのヨイコの皆さんは特に気をつけましょうね。

そういえばニッポンのあのX市でこんなことがあった。全く車の見えない交差点の信号を無視して渡ったら、向こう側で信号を守って立ち止まっていた親子風のふたり組がいた。そのコドモ(小学4年生くらいの男の子)がその様子をじっと見ていて、母親らしき女性にこう言った。「あのおじさん、信号を無視するなんて悪い人だね」。

歩行者を危険から守るために作られたはずの信号が、いつのまにかただの規則になっていて、それを守らない人の背中にワル者のレッテルを貼るまでに進化してしまったらしい。オトナまでがあの少年と同様の感性だと、ぼくとしてはネット上のロージン党掲示板どころか、リアル世界でもニッポンには住む場所がなくなってしまいそうだ。

日本人の中には、コドモの前でくらい信号を守るのがオトナとして当然じゃないかと考えている人も多いのだろうか。ホンネとタテマエの使い分けをコドモの頃から覚えさせるくらいに卑怯なオトナを生産する道はないような気がする。オトナの中にはカバよりノータリンなのが大勢いることは確かだ。カバより卑怯なオトナはもっと多い。そのようなオトナにならないようにコドモを教育するのが、本来、大人の使命じゃないのだろうか。

「憲法9条を守りましょう」だとか、「著作権法を守りましょう」だとか、口ではなんだか立派なことを主張しているようなシトたちの中に、他人の背中に勝手に悪い人のレッテルを貼って正義を演じているような連中などを見るにつけ、ぼくはこのニッポンの未来がいよいよ心配になってくる。規則や言葉だけで正義の交差点に立つのは、信号を無視する人をワル者に決めつけるくらいに簡単なことなのだろう。

今日のビデオ:W.A.Mozart - Requiem (Lacrimosa)

7 December 2007

信号よ、もっと光を!


学生時代、四国から上京していた学友にN君という男がいた。彼の下宿がたまたま井の頭線沿いの叔父の家の近くだったものだから、何かのついでに訪ねたことがある。住宅街の狭い交差点の信号を無視して渡ったら、一緒に歩いていたはずの彼の姿が見えない。どうしたのかと思って振り返ると、N君はビクターの犬みたいにじっと動かず、信号が青に変わるのを待っているじゃないか。

車の姿の全く見えない静かな住宅街。あの辺の道路を走る自動車があるとすれば、近所の家の車くらい。しかも、平日はたいてい車庫に眠ったまま動かない。それに信号のあること自体が無駄に思えるような狭い道路。それでも田舎の人間は律儀に信号を守るものなのか。ぼくは不思議な気がしたが、特にそれを問題視する予定はなかった。すると、信号が青になって走って追いついたN君がぼくにこう言った。「いけないな、信号を無視しちゃ」。

その後もN君はどういうわけか、ことあるごとに、ぼくと一緒に行動したがった。おそらくぼくのような悪いシティーボーイにつき合ったせいだろう。いつしかN君は、ぼくから見ても、なんだか都会ずれしてきたなあと思える青年に変質していた。

むかしビートルズは不良の音楽として、まじめなニッポンの大人たちから白い眼で見られていたという。あの武道館でビートルズが公演したとき、それに反対した右翼が街宣車から叫びながら妨害したのだとか。

ビートルという管理人によっていよいよ変質してしまった老人党掲示板のことを思うと、ぼくはなぜかN君のことを思い出す。そして、愛と自由を歌うビートルズの音楽よりは、それを妨害した右翼のことなども。

今日のビデオ:Rockin' Around the Christmas Tree
-- Amy Diamond

6 December 2007

ウィ! シャバダ


イレブンピーエムと聞いて、何かぞくぞくっと来る人は、若い世代に存在しないことは確かだろうね。子どもの頃、両親がパーティーか何かで夜遅くまで家を留守にしたときなど、居間にあった一家に1台きりのテレビで11PMを見ていると、なんだか大人になったような気分がしたものだ。とは言ってはみたものの、実はあの頃のことなんてほとんど記憶にございませんです。ただ今でもハッキリ言えるのは、ぼくは子どもの頃から夜型人間というか、とにかく夜には強かった。

11PMで司会をしていた大橋巨泉を知る人も、おそらく若い世代には少なくなっているのだろうね。あの人は若い頃からテレビ界の大御所的存在だったらしいけれど、50代でばったりテレビ界から去ってしまった。海外で始めた店で大もうけしたらしく、そっちの仕事のほうが楽しくなったのだろう。いや、仕事というより、遊びのほうが重要だったのかもしれないな。そんな雰囲気のある人だ。

こないだその11PMのことを調べてみたら、大橋巨泉が担当した番組は、まったくお色気調ではなくて、「巨船の考えるシリーズ」だとか、けっこう社会派っぽい内容だったらしい。一方、大阪の藤本義一が担当していたイレブンには、かなりエッチな雰囲気が漂っていたような気がする。今でもあの人のことを思い浮かべると、なんとなくエロオヤジ系の顔が見えてくるほどだ。

子どもの頃、社会派の巨泉とスケベ派の藤本のどちらを好んでいたかは、今となっては知る由もない。ただ、ぼくは渋谷道頓堀劇場などよりは、大向(おおむかい)小学校の裏手にあったジャズ喫茶スイングのほうが好きで、そこによく通ったことは確かだ。そのスイングに、学生時代の大橋巨泉や山下洋輔などが入り浸っていたそうだが、もちろんぼくとは時代がかなり違っている。やがてCDが普及してレコードがなくなってしまった頃、敗戦直後からあったというスイングもなくなってしまった。確か最後の日はクリスマスだったと思う。そういえば、大向小学校も、渋谷区にあった他の2校と統合して、いつのまにか神南小学校とかいうNHKの親戚みたいな名前に変わってしまった。

大橋巨泉は、かつて民主党の議員として政界にデビューしたが、すぐにやめてしまった。それに関して巨泉自身が面白いことを書き残している。そのページにある9月18日(日)の日記によれば、民主党の前原誠司について、「ボクとは全く相容れない考え方の政治家だ」と言い切っている。ぼくも前原が民主党にいる限り、民主党を思い切りよく支持することができないでいる。どうやら巨泉とは感性が合うらしい。11PMを見ていた子どもの頃からそうだったのだろうか。

今日のビデオ:11PMのテーマ

4 December 2007

イマジネーションと平和


暇つぶしのためのネット掲示板があってもいいと思う。特に管理者がそのような目的で開設したのであれば、何も問題はないだろう。2ちゃんねるなんてのは、そんなものだとぼくは見ている。と言っても、あの系統の掲示板を覗くことはめったにないけれど。

ニッポンの愛犬家グループでは、ぼくのイヌ論は通じないと分かったので、たまたまイラクで日本人が人質になったニュースを知ったものだから、それに関し思うことを投稿したことがあった。東京の街中でBBCの記者から質問された若い女性が、人質になった日本人は自業自得よみたいに軽く答えて笑顔を見せたことだとか。それと、確かジョージ・オーウェルの『動物農場』のことなども書いたかもしれない。愛犬家グループなのだから、テロの話だけで終わっちゃ管理人に申し訳ないと思ったわけでもなかったように思う。ぼくにはすべてがつながっているように思えたのだ。

自分の犬のことだけなら、なんとか可愛がっているような愛犬家には、近所で飼い主にまで虐待されている犬の幸福を願う余裕はないらしい。まして中国や朝鮮半島で食肉にされている犬たちのことなど考えたことすらなかったのだろう。そのような人々に、ぼくのオフリード論が通じるはずがなかったのだ。彼らには体験どころかイマジネーションさえもが足りなかったのだから。

平和だとか人権だとか、何やら正義に関係するような看板を掲げる掲示板があるとすれば、誰よりも管理人には正義感というものが必要になるだろう。イヌ嫌いの人もいるから公園で犬のリードを外さないのは常識だとか、外国の食文化を批判するのは大人げないだとか、どこかで聞いたようなヨイコ言葉で済ませられるような人間に、ぼくは偽善を見ることはあっても正義を見た覚えはない。体験とイマジネーションに欠ける頭でっかちの姿が見えるばかりだ。

正義の看板を掲げる掲示板であっても、暇つぶしや議論ごっこを楽しむ人がいてもいいと、ぼくは思う。ただし、ひとつだけ条件がある。管理者が正義に反するような管理の仕方をしないこと。これを守るならば、いろんな人がいろんなことをテーマに語り合い、また、独り言をつぶやいたり、時には好きな歌でも歌って大いに楽しめばいいと思う。そういうことを許さない平和など本当の平和ではないはずだ。

しかし、規則だとかマナーだとかの大義名分で、自分に都合の悪い人間にワル者の烙印を押して追放し、その行為によって自らを正義の味方とするような管理者が支配する掲示板があるとすれば、そんな場所でも平気で暇つぶしや議論ごっこのできる人間に、ぼくは何が言えるだろう。そのような人のイマジネーションを疑うしかないように思う。

今日のビデオ:IMAGINE
-- John Lennon (New York, 1971)

1 December 2007

BB流とりあえず主義


イヌをヒト社会から追い出すことに人生をかけているようなヒマジンの通報を受け、のこのこと公園に出向いては、楽しく犬たちと遊んでいる子どもたちを泣かせ、「狂犬病のこともあるから犬を放してもらっちゃ困るのです」などと言って無知をさらけ出すものだから、ぼくはその役所の人間にこう言った。「犬を家の外につないだままにして散歩もさせないような飼い主こそ動物愛護法に違反しているのだから、それをなんとかするのが役人の務めでしょう」と。すると、その役人はこう答えた。「そういうことは私たちの管轄じゃありません」。

なだいなだのサロンには「ご意見拝聴」というのがあって、そのページには、こんなことが書いてある。
読者のための交流掲示板です。ご意見をお寄せ下さい。老人党関連の話題は老人党サイトでお願いします。
そもそもこんな規則を作っていること自体がおかしいんじゃないかと、ぼくのコモンセンス君が教えてくれたものだから、以前、そこの掲示板でご意見を述べさせていただいたのであったが、いまだにこの看板を撤去するつもりはないらしい。

作家なだいなだは『老人党宣言』なる本を出し、意気揚々とネット世界に進出したのではなかったのか。それを読んだ読者であろうがなかろうが、老人党に関して「ご意見拝聴」で意見を述べることをなぜ拒否する必要があるのだろう。もしかして老人党掲示板に集まる人間を増やそうという魂胆なのかもしれないが、いずれにせよこんなのを見せられちゃあ、ニッポン流の肝っ玉の小ささを感じてしまって、ぼくはまた日本人であることが情けなくなってしまい、吾が愛犬の仰向け状態の寝姿を見ては、「君ってブリティッシュだね、よかったね」と、思わずつぶやいてしまう。

先ほど、その「ご意見拝聴」を見たら、e-seigiと名乗るひとがまともな意見を発表していた。こういう意見を無視するのがNADA流らしいが、NADAファンにはいろんな人間がいるらしく、規則を無視してもらっちゃ迷惑だみたいなご意見を拝聴させている人間が登場しているじゃないか。こんなのを見ても、ぼくはもう驚かなくなってしまった。ぼくもかなりJAPAN流のネット世界に慣れてきたらしい。

この竜野天馬と名乗る人間が、こないだぼくがブログで取り上げたバードウォッチング掲示板の主である。言葉遣いからすると、なんだか東京育ちのような気がしないこともないけれど、たぶん港区育ちではないような気がするな。そんなことはどうでもいい話だが、相変わらずヨイコぶってるその態度に、ぼくはもう黙っていられなくなってしまったのだ。だから、こうして自分のブログで話題にしてるわけだけれど、それは先日も言ったように、NADA教信者たちが、教祖も含めて、アクセス禁止という卑怯な手段によってぼくの直言を拒絶したからだ。

「犬はいつもつないで散歩しましょう」というニッポンの規則が、イヌもヒトもダメにしてしまっているということを、ぼくは経験的にも科学的にも確信している。「規則はいらない。紳士たれだけでいい」などと自分の本の中で書き、それを右も左もわからない少年に信じ込ませた作家が提唱した老人党が、おかしな規則で自由を奪っているからには、とりあえずぼくは自分にできる範囲で抵抗し批判するしかないのだ。それを私怨と見るなら勝手にするがいい。あんな連中に紳士失格と思われようが、マナー知らずと思われようが、ゼーンゼン平気、カバもハツラツ、モンダミンだ。これがぼくのとりあえず主義である。

今日のビデオ:OHIO
-- by CSNY (Freedom of Speech tour, 2006)

☆ 海外の有名人は、老いてもなお自由のために闘っているようです。