☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

28 November 2007

溺れる犬は


「溺れる犬は打て」という言葉を、日本人の中には好きな人が多いらしい。特に左翼の連中に目立つような気がするのは、魯迅の影響だろうか。とにかく、ぼくの大嫌いな言葉だ。溺れる犬は必ず助ける。溺れる子どもを助けるのと同じだ。そして、犬を溺れさせた人間を絶対に許さない。それがぼくの信条だ。

魯迅はこう書いた。
救起落水狗,反被咬一口(水に溺れている犬を助けると、咬まれてしまう)
魯迅によれば、溺れかけた犬は恐怖のあまり何をするかわからない。せっかく助けてやったのに、その恩もわからず咬みついてくるだろう。だから、溺れかけた犬は棒でたたいて殺してしまえ。まあ、こういうことになるらしい。

もちろん魯迅さんだって、これを文字どおりに実践しなさいと言ったのじゃなくて、イヌというより、ヒトにへたに情けをかけると大変なことになるよと忠告してくれたわけだ。そりゃヒトはイヌと違って何をするか信用できない。それは事実だが、何もイヌを持ち出すことはなかったように思う。イヌをそんなふうに信用しない伝統があるから、中国人の中には今でもイヌを食う人間がいるのだろうか。

マーク・トウェインは、こんなことを言った。
If you pick up a starving dog and make him prosperous, he will not bite you. This is the principal difference between a dog and a man.(飢えた犬を拾ってだいじにしてやれば、その犬は決してあなたを咬まないだろう。これがイヌとヒトとの決定的な違いだ。)
最近も言ったように思うけれど、ぼくはアメリカって国もアメリカ英語も好きじゃないが、アメリカには友だちになれそうな人がいることは確からしい。

今日のビデオ:Mack the Knife
-- Louis Armstrong (London, 1956)

27 November 2007

ビートルが教えてくれた


だいじなことは正義ではない
いかに自分を正しく見せるかだ
ビートルが教えてくれた


きのうの友はきょうの敵
この世は弱肉強食なのだから
ビートルが教えてくれた


愛こそはすべてなんてのはウソ
権力こそがすべてなんだから
オザワも教えてくれた


邪魔者はみなアク禁にするといい
ただし、根回しを忘れずに
ビートルが教えてくれた

今日のビデオ:ALL YOU NEED IS LOVE
-- by Real Beatles

26 November 2007

看板に偽りあり!


愛犬グループといえば、犬を愛する人間が集まっているもの。平和グループといえば、平和を愛する人間が集まっているもの。ぼくは犬のように単純だから、そう思っていた。英国のネット世界では、その意味で失望したことがなかったように思う。さすが動物愛護国だ。ぼくがネット世界に登場した初期の頃に、世界中の人々と有意義な議論をする場を与えてくれたBBCにしてもそうだったし、愛犬家のグループにしても、英国のグループでは、看板に偽りがあると思えるような偽善を見た記憶がない。

老人党掲示板で発表される意見に対して、なんだかんだと揚げ足を取りながら、仲間内で盛り上がって喜んでいる掲示板があった(今もあるのか?)。バードウォッチングというのは、ぼくが尊敬する英国の牧師ジョン・ストット(John Stott)を見てもわかるように、本来、紳士がやってこそ地球に優しい趣味となるのだ。それが、あの掲示板でやってるウォッチングはどうだろう。これほど地球を汚染するものはないと思えるような悪臭を放っているじゃないか。

批判にもいろいろある。醜いものと美しいものの区別のつかない人間がいくら批判したって、人の世はさらに醜くなることがあっても、決して美しくはならないだろう。

あの醜い掲示板にへらへらと参加していたビートルと名乗る男がいた。その男がいつのまにか老人党掲示板の管理人になっていたのだから驚いてしまう。ビートルが自分の過去を悔い改めて再スタートしたというのなら、ぼくは何も批判はしない。しかし、彼は老人党の管理人になってから、いよいよ本性を現したというか、これほど老人党の看板を汚す人間はいないと思えるほどの醜態をこそこそと見せてくれたのだから、あきれ果てながらも、ぼくは批判して来たのだ。しかも今、老人党はそのビートルの圧政下にあって再スタートするというのだから、岸信介もビックリ仰天だ。

ぼくはかげでこそこそとやるのが趣味に合わないから、いつも当事者に向かって訴えて来たつもりだ。しかし、ビートル管理人は決して聴く耳をもたず、それどころか、管理人としての権力を振るって、次から次へとぼくの意見を闇に葬り、ついにぼくをアクセス禁止にした。彼の権力の犠牲となったのはぼくだけではない。かつてあの醜い掲示板で仲間だった者までも彼は排除したのだ。

今のぼくにはビートルとその権力に支配された老人党に対して直接に訴える手段がない。これまで自分のブログでは取り上げなかったビートル批判だけれど、きょうはそれをやるしかなかった。作家なだいなだは、ビートルの恐怖政治をなぜ放置できるのか。かつてぼくの質問に答えた内容によると、ビートルにも長所があるというようなことだったと記憶するが、それはもしかして自分の不得手なパソコンに詳しいという意味だったのか。どう考えても、ぼくにはそれくらいしか思い当たらない。ビートルはそのパソコンの知識を悪用して、老人党なるものの看板を汚しているとしか思えないのだ。

なだいなだのことを優しいという人は多い。ビートルのような人間にまで寛容であるのは、あきれるほどに寛容な性格のなせるわざなのかもしれない。しかし、その優しさなるもので、どれほど多くの人が傷つき失望していることか。この現実に気づかないのだとすれば、有名人の看板は下ろすべきだろう。老人党宣言も撤回すべきだ。そして、ビートル党というのを、あの男に任せるがいい。

【注】このブログのリンクで紹介している「世直し老人党」は、ビートル党に堕落してしまった老人党と決別した人々が集まっているグループです。

今日のビデオ : ビートルズが教えてくれた
それも自由だとビートルズは教えてくれた ...

24 November 2007

なぜ冤罪が多いのか


きょうは富山冤罪事件について決してマスコミが取り上げないことを話そうと思う。こういうことはたぶんぼくのように悪いヤツでなきゃテーマにできないことじゃないだろうか。こういうこととは、つまり、被害者の少女は、なぜ無実の男が逮捕されたのに、犯人はこの男じゃないと証言できなかったのかということだ。

事件当時その少女は18歳だった。この種の裁判では、たとえ被害者の女性が法廷で証言するような場合でも、傍聴席から姿が見えないように配慮するものだし、何より検事が立件する前の段階で犯人を特定するために、被害者の確認をとらないはずはないのだ。あの事件で柳原さんが容疑者として法廷に立たされたということは、被害者が犯人と認めていたことになる。

アメリカでは、最近、ある死刑囚が無実だったとして釈放されたことが報道された。その死刑囚が有罪となる決定的な証拠となった目撃者の証言がまちがっていたのだ。ぼくはその目撃者の女性が、テレビカメラに向かって自分の過ちを認め謝罪している映像を見た。ニッポンの報道のように、顔を隠したり、音声を変えたりはしてなかった。アメリカは国家としては無責任な国だが、まだまだ国民の中には責任感の強い人がいる。ぼくはそう思って感心した。

このように、たとえ性的な犯罪でなくても、犯人を特定する段階で、目撃者の証言がまちがってしまう場合があるのだ。性的な犯罪の被害者であれば、男性そのものに対する不信と憎しみとから、理性的な判断ができなくなってしまい、まったく犯人とは人相のちがう男を犯人にしてしまう可能性がある。こういうことを検事は慎重に考慮すべきなのに、どうもニッポンでは、かなりいい加減にやっている印象がある。

ニッポンの刑事裁判で容疑者が有罪になる割合は、99パーセント以上だという。英国では50パーセントにも満たない。あちらでは悪いヤツも無罪になっている可能性はあるけれど、ニッポンに比べればずっと冤罪は少ないだろう。疑わしきは罰せずというのを厳守しなければ、富山冤罪事件のようなのがこれからも繰り返されてしまう。無実の人間が有罪とされることくらいに悲惨なことがあるだろうか。被害者感情を尊重するというのはもちろんだいじなことではあっても、事実を明らかにして公平に裁くという司法の原則を忘れては、人間社会を不条理なものとする要素の中に、法律までも含めなくてはならなくなるだろう。

今日のビデオ:A World Without Love

23 November 2007

有名人に弱い人


作家なだいなだを利用しているだけじゃないか。老人党掲示板で自分の気に入らない投稿ばかりする人間に対して、そんなふうに批難する人がいた。細木数子を批判したら、細木のことをねたんでいるのだろうと言う者までいた。ほんとに何もわかっちゃいないな。人生でだいじなことを何も知らないのなら、黙っていればいいのに。ぼくはそう思った。

ぼくはいつか老人党掲示板で、女優の石田ひかりに話しかけられたことを書いたことがあった。あのときだって、何もその体験を自慢したかったわけではない。ロケのあいだ、公園の砂場で遊んでいた吾が愛犬のことがずっと気になっていて、ロケが終わるとすぐに、ぼくのそばに近寄って来たという女優に、ぼくは同じ人間として共有できるだいじなものを発見して、ただ嬉しかったのだ。

子どもが遊ぶ砂場に犬を入れるべきじゃないと言う人間がいる。公園内で犬のリードを外すべきじゃないと言う人間もいる。あのとき、ぼくの犬はリードにつながれず、砂場で砂を掘りながら無邪気に遊んでいたのだ。「何を見つけたんですか?」微笑みながら、石田ひかりは、ぼくに質問した。

東京の地元の公園では、いろんな有名人と出逢ったように思うが、こないだビデオで「こんにちは赤ちゃん」を歌っていた梓みちよもそのひとりだけれど、今まで一度もそのことを話したことがないのは、具体的な思い出が何もないからだ。ただ、彼女の小さな愛犬のそばを、ぼくの大きな愛犬がリードにつながれずに通っても、ニコニコ微笑んでいたのは確かだと思う。母は彼女と何度かおしゃべりしたことがあるらしいが、何を話したのか聞いていたにしても、今は何も覚えていない。

渋谷の東京FMのスタジオで、BEGINで帽子をかぶって歌っている歌手が、番組のオンエア中にぼくの愛犬と眼と眼が合って、一瞬、眼を丸くしたことがあった。この体験を語るとすれば、こんな話になるだろうか。子犬の頃、とにかくいろんな体験をさせようと思い、ラジオのスタジオまで見学させたことがあった。そのとき、たまたまBEGINの歌手と出逢ったのだが、当時ぼくはまだ彼の名前も知らなかった。吾が愛犬は、子犬でもおとなしく見学していたものだ。こんな話を、先日のビデオのところで書いてもよかったかもしれない。

世の中には有名人を利用して、何か自分が偉くなったかのように勘違いする人間もいるらしい。そういう人はやはり、人生でだいじなことは何もわかっちゃいないのだろう。有名人の中に立派な人間が少ないとすれば、ヒトという動物が、有名になればなるほど堕落する傾向があるからであって、これは政治家の中に立派な人間が少ないのと似ている現象である。つまり、中味のないプライドというものが人間をダメにするというわけだ。

有名人がほんとに立派な人間ならば、自分の名声にすり寄って悪臭を放っている人間を諭すくらいの正義感があるはずだ。それをしないでただノホホンとしていられるとすれば、その有名人も、自分の都合で他人を利用して平気でいられるということになるのだろう。つまり、すべてはただフィクションにすぎないというわけだ。

今日のビデオ:Where Have All the Flowers Gone
-- Marlene Dietrich (1963)

21 November 2007

美しい国は遠い


さて、その池田信夫の岩波批判だけれど、風呂場で考えるひと状態になったこともない日本人なら、彼の主張に簡単にうなずいてしまうのかもしれない。池田は情報通信の専門家として、意図的に情報操作をやってるのか、まだそこまで彼のことを調べてはいないが、いずれにせよあのような発言は、日本文化の改善を図るときに、非常に有害になるのはまちがいない。

池田信夫の岩波批判は、簡単にまとめると、次のようなことを主張しているらしい。
岩波新書として出版された大江健三郎の『沖縄ノート』は、事実に反することを根拠として、ひとりの陸軍将校を誹謗中傷している。
池田にすれば、その将校は沖縄人の集団自決を強制したどころか、実際にはそれに抵抗したということになるらしいが、それがどれほど正確な事実に基づいているのか、彼は実際に調べたのだろうか。『沖縄ノート』を批難している連中を見るがいい。先頭を切って大江・岩波を批判しているのは、「新しい歴史教科書をつくる会」系のウヨク学者や曾野綾子のような御用作家じゃないか。あの系統の日本人の主張する「史実」を信用できるのだとすれば、カバも逆立ち、ノータリンだ。

その将校(赤松大尉)がどれくらい当時の野蛮な陸軍の方針に実際に抵抗していたのか、そんなことは今は問題ではないのだ。彼には隊長としての責任というものがあったはずだ。赤松隊の兵士が沖縄人に対してひどい仕打ちをしたという証言も残っているのだし、実際に、赤松隊が関与する地域で集団自決ということが起こったのだ。昭和天皇も軍部に利用されたことにされて戦争責任を免除されたくらいだから、このニッポンという国では、高い地位にある者の社会的責任という感覚が、常識の中に存在していないらしい。

「集団自決」訴訟の公判で、赤松大尉の弟が証言した内容を、沖縄タイムスは次のように伝えている。
午後の尋問では、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟秀一氏(74)も証言。「兄は尊敬の対象」だったとした上で、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」で、嘉次氏が住民に「集団自決」を命じたと書かれ、「ショックだった。人殺しの大悪人と書かれているわけだから」と述べた。曽野綾子氏の著作「ある神話の背景」で、「兄の無罪がはっきりし、兄への親近感を取り戻せた。家族も戦隊の方々も心の支えになっていると思う」などと語った。(沖縄タイムス、2007年11月10日、朝刊)
兄のことを敬愛したい気持はわからないこともない。しかし、この集団自決という問題は、単なる個人の「家」の問題では済まされないのだ。大江健三郎にしても沖縄タイムスにしても、決して赤松大尉という個人を「人殺しの大悪人」とみなして攻撃しているわけではない。あの戦争の責任を明らかにするときに、兄は「尊敬の対象」だったとか、そんな個人的な主観では済まされない問題があるのだ。それに、本当に赤松大尉が「尊敬の対象」としてふさわしい人だったのだとすれば、この訴訟こそが不名誉なことだと思ったにちがいない。

もしもこの裁判で原告が勝利するようなことになれば、ウヨク思想に支配されたニッポンの司法に期待する勢力が、いよいよ元気づくことになるだろう。その先のニッポンの未来はどうなるか。美しい国にならないことだけは確かだと思う。

今日のビデオ:恋しくて

19 November 2007

有名なブロガーの話


池田信夫という人はニッポンでは有名なブロガーらしいが、ぼくが初めてどこかで彼の発言を紹介したとき、有名か無名かなんてのは全く知らなくて、ただ参考になる情報源として紹介したにすぎなかった。しかし、そのうち少しは彼のことを知るようになって、この種の学者は信用できないという思いが段々強くなった。情報通信学が専門らしく、朝日新聞も読売新聞も平等に批判の対象にされてはいるようだが、この手の中庸族というか良識派というべきか、なんと称していいのか困るけれど、ぼくはこういう日本人がいちばんクセモノだと思っている。

従軍慰安婦問題のようなテーマでは、一貫してノータリンウヨクの立場を支持するような発言を繰り返しているようだし、沖縄集団自決に関する問題でも、大江健三郎や岩波書店のことを、まるでウソつきであるかのように激しく批難している。中庸族というか良識派というか、「わたしゃ右でも左でもありませぬ」派と呼ぶべきか、よくわからないけれど、いざとなればその正体は単なるノータリンウヨクだったというヒトは、この美しい国ニッポンには広く棲息する人種になるらしい。

先日、何かの拍子に偶然、池田信夫のブログにつながってしまい、一見、紳士的な学者風に装ってはいながら、中味は非常にお粗末で感情的な岩波批判を読んでしまったものだから、ぼくは珍しくコメントを書き残したのだ。彼は自分に都合の悪いコメントは公開しないというウワサ(たとえば、こんなのとか)を耳にしていたから、どうせボツになるだろうなとは思っていたけれど、少なくとも池田自身は読むはずだから、それでいいと思った。

ぼくは初対面の人間であっても、その人物の正体を知る必要があるときは、必要に応じて大胆な演技をすることがある。今回はどのような演技をしたかというと、いわゆるタメグチってんですか、よく言えば「俺たち親友だぜ」調、悪く言えば「態度でけえじゃん」調でやってみたのだ。すると、しばらくして様子を見たら、なんとそのコメントが公開されているじゃないか。池田信夫にしてみれば、自分の心の広さというか、学者の良心というべきか、よくわからないけれど、とにかく何かを世に示したかったのだろうね。

おそらく彼のようなタイプの日本人は、たとえ動物愛護の重要性を支持するような発言をしたとしても、BBのイヌ論に対しては,世間にはイヌ嫌いもいるだとか中庸族的良識を披露しながら反論するにちがいない。こうしてニッポンでは、ただイヌというだけで人間社会から差別される犬たちが増えてゆき、そのような差別をする人間が良識人として通用する美しい国ってことで落ち着くのだろう。なぜいきなりイヌの話になるのかって? それはぼくがやっぱり英国系イヌバカ紳士にすぎないからだと思う。

今日のビデオ:Gould plays Beethoven Variations Op.34

18 November 2007

抵抗すべきこと


振り返れば、ぼくは子どもの頃からアメリカと天皇制に抵抗しながら大人になったように思う。そのアメリカと天皇制とが仲間だということに気づいたのはいつ頃だったのか、今はハッキリ思い出せないけれど、十代の頃だったのはまちがいない。東条英機に東京裁判で絞首刑になるほどの重い戦争責任があったのだとすれば、軍隊でいちばん偉かった大元帥たる天皇には、もっと重い責任があっただろう。こんなことは子どもでもわかることだ。それなのに大人は天皇のおかげで戦争が終わったかのように感謝しているじゃないか。ニッポンてのは変な国だな。子どもの頃からきょうまで、その思いはずっと変わらない。

ぼくは死刑には反対だから、昭和天皇も東条と同じように処刑すべきだったと主張しているのではない。社会的に高い地位にある者には、それなりの責任というものがあるはずだ。社会の模範となるべき高潔な人間性も必要になるだろう。ただ天皇という身分があるだけで、まるで神のように崇められる人間がいるとすれば、こんなに社会を腐敗させる存在はないように思う。昭和天皇の戦争責任を主張しただけで、ノータリンウヨクの過激派に鉄砲で撃たれてしまうのだ。こんな国のどこが美しいのか。

無責任国家ニッポン。おにぎりを食べたいと言い残して死んでいく人がいるのに、そんな現実には全く関心がなく、首相も大臣も官僚も大学教授も、みんな自分の欲望を満たすことに熱心だ。そんな正体を見せちゃあカッコ悪いから、靖国参拝や君が代に反対する者を非国民と批難しては、自分こそが立派な愛国者だと見せかける。

東京裁判で天皇の戦争責任が不問にされたのはアメリカの国益のためだった。日本人なら天皇制を利用すれば思うように支配できる。アメリカは正しく日本人を見抜いていたのだ。A級戦犯として収監された岸信介が不起訴となって釈放されたのも、アメリカの計画どおりだった。その後の岸は、公職追放されていたはずだったのに、CIAの援助も受けながら政治家としてよみがえり、ついに首相にまで出世した。弟の佐藤栄作も首相となったが、自衛隊を出動させて全共闘を抑圧しようとしたくらいの軍備愛好家だったのに、ノーベル平和賞を受賞した。自衛隊はアメリカの国益のために作られた軍隊だ。岸の孫の安倍晋三に至るまで、戦後ニッポンの指導者はみなアメリカのあやつり人形だったと断言しても、決して極論とはならないだろう。

アメリカのあやつり人形には共通する特徴がある。彼らはみな天皇制を愛する右翼なのだ。岸信介や安倍晋三などは言うに及ばず、「Noと言える日本」だとかカッコのいいことを言った石原慎太郎にしても、アメリカのおかげで甘い汁を吸ってる右翼崩れにすぎない。しかし、アメリカと天皇制の話など、庶民には関係がないことなのだろうか。やはり生活がすべてなのだろうか。

アメリカと天皇制を愛する人間は、社会的強者に従順な人ではあっても、弱者には無関心な人だと思う。ニッポンは確実にアメリカのあとを追って、勝ち組万歳国家の道を歩んでいる。本当にこのままでいいのだろうか。今ニッポンに必要なのは、何よりもアメリカのあやつり人形を政界から追い出すことだと思う。

人にはいろんな考えがある。多くのことは妥協してもいいだろう。しかし、世の中には絶対に妥協できないこともあるのであって、そのことをいい加減にしていて自分の生活のことばかり心配していては、気がついたときにはもう手遅れになっていて、公園で犬と遊ぶ子どもの姿も見えない時代になっているかもしれない。好き嫌いや主観の問題ではないのだ。人間社会というのは、社会的強者の自由を制御する仕組みがなければ、どんどん腐敗してしまう。それを防ぐ方法が民主主義のはずなのだ。しかし、「民主」をになう民にその自覚があるのだろうか。

今日のラジオ:Allinson's Albums (BBC Radio Oxford)

17 November 2007

嫌いなものは嫌い


「アメリカって国は嫌いだね」とぼくが言っても、一瞬ニヤッとするだけで、決して不快な表情を見せないアメリカ人なら、友だちになれそうな気がするし、実際、アメリカ育ちのぼくの友人はみな、そういう人間しかいないように思う。

「アメリカって国は嫌いだね」とぼくが言うとき、別にアメリカで育った人間を嫌いだと言ってるわけじゃないし、アメリカでだって犬や馬は素敵な動物のはずだし、動物や社会的弱者の幸福のために、人知れず活動しているアメリカ人だっているだろう。そういうアメリカ人なら、まちがいなく、軍事大国アメリカを嫌っているにちがいない。

「君が代は絶対に歌えない」とぼくが言えば、筑波大学で教授をしている中川八洋(やつひろ)なら、「お前は非国民だ!」と怒鳴るだろう。天皇制の讃歌「君が代」を歌えない人間が非国民だというなら、ぼくは喜んで日本国籍を捨てようじゃないか。だいたい中川のような人間でも大学教授になれるこのニッポンのことをおもうと、ぼかあ哀しくて哀しくてしょうがないのだよ。戦争責任をうやむやにした戦後の天皇制のことをおもうと、ぼかあ情けなくて情けなくてしょうがないのだよ。

なぜ「君が代」が歌えないのか、その理由をノータリンウヨクの連中は考えたことがあるのだろうか。その程度のことすら考えなくても、このニッポンじゃ大学教授になれるらしいが、誰も彼もがそんなにノータリンなら、ニッポン列島は近い将来まちがいなく沈没してしまうにちがいない。(ノータリンという日本語は、放送禁止用語らしいから、ヨイコは真似しないでね。)

ニッポンにも美しい自然がある。美しい動物たちが生きている。貧乏でも純粋に生きている人々がいる。愛するということにどれほどの意味があるのか、それを本当に知っている人々がいる。なぜなら、このニッポン列島も、生命で溢れる美しい惑星の中にあるからだ。しかし、このニッポンを醜い国にしている連中がいることも確かであり、そういう連中に限ってまるで日本人の代表のような顔をしているから、ぼくはそんなニッポンなんて大嫌いだと言うしかなくなってしまう。

「君が代」を歌うことにも、元号を使うことにも、なんの疑問を覚えなくても、自分の生活のことくらいなら心配する日本人は多いのだろう。生活こそがすべてか。きっとそうなのかもしれない。しかし、その生活からいのちと自由を奪う権力が、このニッポンという国を支配しているとすれば、いつまでもそのままにしていて、日本人は本当に幸福になれるのだろうか。ニッポンは美しい国になるのだろうか。

それはともかく、むかしアメリカ人の友人とカフェでおしゃべりしていたら、ぼくの英語の発音がきれいだと言ってくれたけれど、アメリカ人にもイギリス式の発音がきれいだと感ずる感覚はあるらしい。あのときはうっかり言うのを忘れてしまったけれど、ぼかあアメリカ英語ってえのは、やっぱり嫌いだね。

今日のビデオ:Tomorrow Never Knows

14 November 2007

こんにちわアメちゃん

以前、老人党掲示板で、日本軍の将校がオーストラリア軍の捕虜を日本刀で斬首しようとしている写真のリンクを掲載したら、しばらくして確認したところ、ポルノサイトにつながっていたことがある。だれかスパイが仕掛けたトリックであるというぼくの主張を老人党管理人は受け入れず、逆にぼくに対して「警告」を発したものだったけれど、一昨日このブログで紹介したエリザベス・テイラーの記事(ウィキペディアの英語版)をいま確認したら、あのときは確かに British actress (英国の女優)だったのが、今は British-American actress (英国系アメリカ人の女優)と変わっていた。どこのコンピュータが編集に手を加えたのか、その気になれば調べられるが、今はそんなことをしている暇がない。

もちろん前から気づいていたのだけれど、ぼくのことをどこかで見張っているスパイがいるらしい。老人党のポルノサイト事件のときは、単なるウヨクの嫌がらせだと思ったが、今回の場合は、アメリカのことがとっても好きな人間による作業らしい。CIAならこんな子どもだましはしないから、どこかの反戦サイトか愛犬サイトか知らないが、ぼくの反米的平和論(あるいは、反米的イヌ論)を読んで頭に来ているニッポンジンのしわざだろう。本人が自覚しているのかどうか不明だから、ぼくの診断を下せば、その種の日本人の病気を称して、ぼくは「ノータリンウヨク感染症」と呼ぶ。手遅れにならないうちに、精神構造をリセットするといい。生まれながらにノータリンウヨクの日本人はいないのだから。

今日のビデオ:こんにちわ赤ちゃん

13 November 2007

違いのわかる話


カップヌードルのつゆの味が、関東と関西では微妙に違っているというウワサを聞いたことがあるが、同じデジカメでもニッポンと英国では微妙に違っていることがあるようだ。

きょうの写真に写っているのは、富士フィルムのデジカメFinePix S602だけど、これは英国で売り出されたときのもので、ニッポンでは、右の写真のようになっていた。

さて、どこが違っているか気づいただろうか。ちょっと写真が小さすぎてハッキリ見えないかもしれないが、レンズ部の出っ張りの横に書いてある倍率の数字が違っているのだ。その部分を大きくしてみると、こうなる。


これを見ると、このカメラの倍率が13.2倍であると思うのが普通の人の感覚だろう。ところが、英国で発売されたやつをよーく見ると、


となっていて、なぜか6倍になっているじゃないか。てことは、同じS602でも、ニッポンで売ってるやつのほうが機能が優れているってことになるのだろうか。ところがどっこい、中味は全く同じだってんだから、カップヌードルも、道頓堀劇場も、ビックリ仰天なんだな、だんなさん。

この問題も少し学術的に考えてみる必要がありそうだ。そこでもう一度、上の2枚の写真を見比べてほしい。倍率の下に書いてある英語の文字が違っているのに気づいただろうか。ニッポンのやつには、HONYCOM ZOOM(ハニカムズーム)と書いてあり、英国のほうは、OPTICAL ZOOM(光学ズーム)となっている。ハニカムというのは、富士フィルムが開発したCCDの仕組みで、これを使うと、1.6倍の画素数に相当する解像度が得られるという。たとえば300万画素のカメラなら、ハニカムで480万画素ぐらいの実力を持つことになるらしい。

デジカメの倍率には、光学とデジタルの2種類あるが、デジタルのほうは光学と違って、かなり画質が落ちてしまう。一般的なデジカメだと、光学3倍でデジタル2倍ぐらいになっているはずだが、光学3倍までなら画像がハッキリしているけれど(もちろん手振れしなければの話)、さらにデジタル2倍を使って倍率を6倍まで上げてしまうと、かなり荒い画像になってしまう。問題のS602は光学6倍で、デジタル4.4倍になっているから、最大で26.4倍ということになるけれど、そこまで倍率を上げると普通サイズの写真では使い物にならない。しかし、13.2倍ぐらいまでなら、ハニカムのおかげでそこそこ通用しますよってのが、どうも富士フィルムの主張になるらしい。

しかし、そんな曖昧で主観的な発想など英国では通用しないのだ。かの国ではデジカメの倍率といえば光学で示すのが常識であって、その辺をごまかして少しでも数字を大きく見せるなんてのはフェアじゃないってことになる。それがイギリス人のコモンセンスなのだ。実際、ぼくはそのテーマでニッポンの企業を批判している専門家の意見を何かで読んだ覚えがある。きっと富士フィルムも、S602を発売するときに、そういう批判を恐れていたのだろう。

今日の話はなんだかカメラ小僧的になってしまったようだけれど、若い頃のぼくはカメラにはほとんど興味がなかったし、今だって決してカメラマニアではないのだ。ただ、ニッポンと英国の文化の違いを考えるとき、日本人のほうが何かと細かいことに神経質だったり、他人に余計な干渉をする人が目立つように思うのだけれど、大企業や政治家や役人などに対しては、フェアじゃない現実を見せられても全く反応しない人が多いように思う。やはりこれも犬のテーマと同じく、歴史の違いなのだろう。

お昼のラジオ : Lunchtime Concert (BBC Radio 3)

☆ 初めての試みで、BBCラジオの音楽番組につないでみましたが、パソコンによっては、うまくつながらない可能性があります。その場合は、どんなページにつながったか、コメント欄で教えてください。

12 November 2007

お国柄を考えた


「記憶にございません」という言葉がはやった時代は、もう遠い過去になってしまったようだけれど、ニッポンの政治ってえのは、いつまでも変わらないもんだなあと、つくづく溜め息の出てしまう今日この頃、皆さん、お天気ですか、じゃなくて、お元気ですか?

人間の記憶というのは、実に頼りないものであることは確かで、だいたい記憶のスタート時点からしてまちがってる場合が少なくないのだから、そんな記憶など脳みそごと失ってしまったほうが、世の中のためになるのかもしれない。しかし、ハッキリ覚えてるくせに「記憶にございません」と事実をごまかし、平然と責任逃れをするような人間でも社会的に高い地位についていられるとすれば、そんな国はローマ帝国と同じように、堕落と崩壊に向かう歴史を歩むにちがいない。

ぼくはこないだ世直し老人党で、エリザベス・テイラーがイギリス人だと書いてしまったけれど、あとでちょっと調べてみたら、生まれたのは確かにロンドンになっていたけど、なんと両親がアメリカ人だったというから、カバもビックリ、モンダミンだ。... なんだか今日も頭の調子がやや変なような気がする。

それはともかく、少しは学術的にエリザベス・テイラーのイギリス人説を検討してみることにしよう。そもそも日本人だとかイギリス人だとかと人間を区別するときの原理はどうなっているのだろうか。東京の地元には、どこからどう見ても白人(つまりガイジン)に見えるのに、英語はまるっきり話せず、その代わりというわけじゃないのだろうけど、今どきのNHKアナウンサーなんかよりはよほどまともな東京語を話す女性がいた。自宅がフランス大使館のそばにあったのに、フランス語も話せなかったのは、ペットショップの隣りで育っていながらイヌ嫌いになる人間もいることだろうから、そう奇妙なことではないのかもしれない。

さて、そのエリザベス・テイラーだけど、せっかくロンドンで生まれたというのに、7歳のときに英国を離れてアメリカに引っ越してしまったらしい。英国を舞台にしたラッシーの映画(Lassie Come Home)に出演したのが10歳頃だから、当時すでに英語(つまりイギリス語)をすっかり忘れていた可能性が高いように思う。イギリス人の役を演じたはずだから、イギリス英語らしい発音を指導されただろうが、アメリカ人でイギリス式の発音のできる役者は、おとなの中にだって珍しいのだ。

こうして考えてみると、どのような言葉を話すかで、その人のお国柄がかなり明確になってしまうように思う。こんなことは常識であって、今さら検討する必要もないことだったのかもしれない。しかし、たとえアメリカ人の両親をもち、いつしかアメリカの有名な女優となって、幼い頃の英国での生活を忘れてしまっていたとしても、犬や馬を愛するという女性は、アメリカ人というよりは、イギリス人に近いようなイメージがある。これはなぜだろう。

アメリカ人にだって犬や馬を愛する人は多いだろうけれど、アメリカという国は、軍事大国ではあっても動物愛護国とは呼べないだろう。ニッポンはどういう国だろうか。どんな国を目指しているだろうか。アメリカのあとを追って、軍事大国の道を進むつもりなのだろうか。

ところで、日本語のウィキペディアによると、エリザベス・テイラーは「アメリカ合衆国の女優」となっているが、英語のウィキペディアでは、British actress(英国の女優)となっている。ぼくの記憶は英語風なのかもしれない。

今日のビデオ:タイムマシンにおねがい