☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

29 September 2007

読書と文化(3)


その古本屋とはもう関わることがないと思っていたのだが、たまたまそこの経営者のメールアドレスを知ることができたものだから、ぼくはX市の文化のためにも言うべきことを言っておく必要があると思い、早速メールを送ったのであった。その内容は、店長代理に話したことと同じような内容だったと思うけれど、日本橋の丸善で体験したことなども書いたように記憶している。

その体験とは、愛犬BBCがまだ赤ん坊の頃のことで、こともあろうに丸善の洋書売り場でオシッコしてしまったという、余り大きな声では話せない体験であった。イヌという動物は、ビルの中でも平気で小便をすると思っている日本人もいるようだから、イヌの名誉のためにひとこと言っておくと、普通の成犬であれば、そのようなことはしないものだ。当時BBCは生後4ヶ月を過ぎたばかりだった。とにかくいろんな体験をさせようと思い、ぼくの生活圏のあらゆる場所に彼を連れて行ったのだ。まだエスカレーターに乗る訓練もしていなかったから、その日、丸善でぼくはBBC(幼犬にしてはけっこう大きかったと思う)を抱っこしてエスカレーターに乗り、洋書売り場へと向かった。

公園でほかの犬と遊ぶときとはちがって、動作自体は落ち着いてはいたものの、やはりまだ赤ん坊だったのだ。そばにいた店員に声をかけ事情を話すと、その店員はトイレ用の手ふきのような紙をもって来て拭き取ろうとした。だからぼくは、「自分でやります」と言ったのだけれど、その人は「大丈夫です」と言って、黙々と清掃作業を続けるのだった。かなり年輩の男性で、会社での地位も高そうに見えた。

丸善という本屋は、若い頃からぼくの読書遍歴になくてはならない存在だった。特に洋書売り場は、ぼくの聖地だった。まだ円に比べてポンドがひどく高かった時代、ペンギン叢書のようなペーパーバックすらも、選びに選んだのち深呼吸なしには買えなかった。遠い英国の文化が、丸善の洋書売り場では、ぼくのすぐ眼の前に並んでいたのだ。

英国の香り漂う洋書売り場で、吾が愛犬はオシッコをしたわけだが、その後始末を黙々とする店員の姿に、ぼくは英国紳士を見たのだった。丸善は昔からただ英国の本を売っていただけではない。あそこには確かに英国の文化が存在していたのだ。そんなことを思って、ぼくはひどく感動したのであった。

あの古本屋の経営者に送ったメールは、もちろんこれとは異なる文体で書いたのだけれど、内容としてはほぼ同じようなことを書いたと思う。するとすぐに返事が来て、まず驚いたことは、あの店に犬の入店を禁止する規則などないというのだ。つまり、あの店長代理という男はウソをついたことになる。いつかも言ったような気がするけれど、ある種のイヌ嫌いというのは、このように自分勝手なことをする傾向があるようだ。それはともかく、ぼくが何よりもうれしく思ったのは、ぼくのメールを読んで考えさせられたと書いてあったことだ。その経営者が今、風呂場でぼくの真似をして、考える人ごっこをしているかどうか、それは知らないけれど。

今日のビデオ:Pat & Stanley

27 September 2007

読書と文化(2)


イヌという動物は、なぜか知らないけれど、どこにでも一緒について行きたがるものだ。日本式に家の外で囚人のように鎖で犬をつないでいる家庭では、もしかするとその事実に気づいていないのかもしれない。犬のほうも、すでにあきらめているのだろうか、家族に置いてけぼりにされても平気な顔をしているのかもしれない。

きょうの写真に写っている犬は、動物病院の診察台で笑顔を見せる吾が愛犬BBCである。彼には動物病院も楽しい場所になるらしい。時に待合室では、不安そうな顔をしてブルブル震えているような犬を見かけることもあるけれど、BBCの場合は、自分の診察の番になると、遠足に出かける幼稚園児のように楽しそうなのだ。そういうわけだから、たとえば古本屋だって、彼は喜んで一緒に入ってくれる。ただ古本屋の場合は、彼自身の出番がないのが普通だから、ただ静かに伏せて休んでいるだけだが。

X市にはわりと大きな古本屋があって、散歩の途中で何度か寄ってみたことがある。表紙カバーのなかった頃の岩波新書などもけっこう豊富で、こういう古本屋を見つけると、ぼくは旧友に再会したみたいにうれしくなるのだ。若い頃から、気に入った本屋だと、3時間くらいいても飽きることがない。しかし、愛犬には退屈だろうから、彼と一緒の時にはそんなに長居はしないけれど。

その古本屋に10回は訪れていたと思う。ある日のこと、岩波新書の棚の前に立っていたら、男の店員がやって来て、犬を店の外に出してくれと言った。ならばそれまでの10回は一体なんだったのか。イヌお断りなら最初からそう言ってくれれば、そんな店などで本を買うつもりはなかったのだ。

このインターネット時代、居住地の古本屋で探すより、ネットで探したほうが目当ての本が手軽に見つかる。それに、送料を入れても安く買えてしまうことが多い。それでも、昔ながらの古本屋が生き残ってほしいと思うから、ぼくはできるだけネットでは買わないようにしていた。やはりネットなどで見つけるよりは、古本屋の独特な匂いの中で出逢うほうが、同じ古本でも買ったときの喜びが全然ちがうのだ。人間との出逢いなら、映画「哀愁(Waterloo Bridge)」のように哀しい体験が多いのかもしれないが。

「こうしておとなしく伏せている犬さえも入店を許可しないからには、よほどの理由があるのでしょう。その理由を聞かせてくれますか?」

店長代理だというその店員に、ぼくはそう質問したのだが、ハッキリ答えようとはしなかった。どこまでも曖昧な態度で通せると思っているらしい。このテーマは、ニッポンばかりか地球の未来に関わる重大なテーマであるからして、ぼくはもちろん妥協はしなかった。

「どんな犬であっても、犬を怖がる人がいるから、店内に入れてもらっちゃ困るってことですよね?」

曖昧な店員の代わりに、ぼくが代弁した。それでもまだ認めようとしない。一体なぜなんだ? イヌを差別するのは平気でも、客というヒトの気分を害するのは忍びないということなのか。すでにそのような曖昧な態度によって、英国系イヌバカ紳士が、どれほど気分を害していることか。彼のような日本人には想像もつかないのだろうか。

そんな店長代理にぼくのイヌ論が通じるかどうかは怪しかったが、とにかくぼくはX市で暮らすようになってから何度も出逢った攻撃的なイヌ嫌いのことなどにふれ、だいたい次のようなことを話したように思う。

本を読むということは、狭い現実の日常文化から解放されて、広い視野で世界を見るということだ。常識だと思っていたことが、実は非常識なことだったとか。社会的弱者であるかのように見えたイヌ嫌いの人が、実は傲慢な強者であって、利己的な正義を振りかざしながら、動物という弱者をいじめていたとか。そういう現実に眼を開かれることなくして、読書する意味があるのだろうか。本屋というのは、その都市の文化を育てる使命をになっていると言ってもいい。それなのに、因習的な常識に支配されたままに、イヌという動物を差別していていいのだろうか。

「ところで、あなたは店長代理らしいけれど、ここの経営者自身の方針が、犬の入店を認めないということなのですか?」

最後にぼくがそう質問したら、彼は「そうです」と答えた。それなら仕方がない。ただそのような方針で古本屋を経営していることを、ぼくは非常に残念に思う。この都市のイヌ事情が余りにも悲惨な状態だし、愛犬家というのにもたいして期待できないようだから、せめて読書家にはより良い文化をつくる力となってほしいと願っていたのだけれど。そう言って、ぼくは愛犬と一緒に店を出た。

今日のビデオ:Hippo that lives in a house
☆ 英国のスカイテレビのニュースで紹介された映像です。人種差別で有名な南アフリカですが、こんなのを見てしまうと、そんなに悪い国ではないような気もします。このジェシカちゃんは生まれた直後に拾われたようですが、しばらく育ててから野生の世界に帰そうとしたけれどダメだったみたいで、もう7年間ずっと住み着いているそうです。この家のお父さんが言うには、「この子がわしのことをカバだと思っているのか、それとも自分のことを人間だと思っているのか、どっちなのか分かんないね(I don't know whether she thinks I'm a hippo or she thinks she's a human)」。

25 September 2007

読書と文化(1)


こないだ話したX市の図書館長のことだけれど、あの人はまるで加藤周一のことを知らないかのように見えたわけだが、いくら市役所内で長年ただコトナカレ主義でもって出世街道を無難に歩んだ公務員上がりの人だったとしても、まさか加藤周一を知らないなんてことがあり得るだろうか。たとえ新聞か週刊誌くらいしか読まない人だったとしても、加藤周一を知らずに図書館長をやっていられるだろうか。

そこでぼくはまた考える人になってしまったのだ。あの図書館長は、「カトウシュウイチってだれ?」と質問したのじゃなくて、「加藤周一ってナニ?」と言ったのかもしれない。つまり、なぜイヌのテーマで加藤周一が登場するのか理解できなかったのじゃないだろうか。

あの図書館長との怪談、じゃなくて、会談の中で、ぼくの口から加藤周一の名前が飛び出したのには、もちろん理由がある。東京の地元の公園内にある図書館で加藤周一が館長をしていた頃があって、吾が愛犬BBCの時代にはすでに別の人が館長になっていたけれど、その図書館の入り口は、散歩中に雨が降り出したときなど、雨宿りにちょうどいい場所だったのだ。公園内を散歩するとき、BBCはいつもリードにつながれていないし、その図書館の入り口で雨宿りするときだってそうだった。

入り口の大きなガラス窓を通して、中の受付から外の様子は丸見えだ。ぼくが愛犬と雨宿りしていると、受付の女性の中に必ず笑顔でこちらの様子をうかがう人がいた。いつも同じ笑顔だった。きっとイヌ好きの人だったのだろう。ぼくは一度、BBCを外に待たせてひとりで中に入り、その女性と少しお話したことがあった。もちろんぼくはイタリア系ではなく、英国イヌバカ紳士系であるからして、話の内容といえば、「加藤先生はもう館長を辞められたんですよね」とか、今さら質問するまでもないことを話したにすぎない。あちらも、図書館の入り口に犬を置かないでくださいとか、犬をリードにつないでくださいとか、そんな余計なことは言わないで、終始朗らかに会話の相手をしてくれたものだ。

さて、そこで問題は、なぜ加藤周一がイヌのテーマと関係するのかということになる。これはまた話せば長い話になりそうだから、今日のところはそのイントロ部分だけしか話せないかもしれない。

加藤周一の著書に『世界漫遊記』というのがある。これも若い頃に読んだ本の1冊で、最近、また読み返してみたのだが、その最後の章が「英国と私自身」と題してあり、そこにこんなことが書いてあった。
また私の伯父は、海軍中将であったが、座談のおりに英国を賛美することが多く、余暇には英国人の好むというブリッジの遊戯をたのしんでいた。
最近はトランプで遊ぶ人が珍しいようなので誤解のないように言っておくと、ここで「ブリッジ」というのは、レスリングでやるような体勢のことではない。

たとえば英国の有名な車にミニ・クーパーというのがある。正確にはクーパーと名がつくのは1960年代に登場した特別なミニだけであり、ニッポンでミニ・クーパーと呼ばれる車の多くは単なるミニであってミニ・クーパーではない(90年代に復活したことになっているらしいが)。あれ?イントロ部分だけと言っておきながら余計な話を始めてしまいそうだから、そろそろコーダに入るけれど、加藤周一が英国を語る際にブリッジのことに言及したのにはきっと意味があったのだと、ぼくは思うわけだ。一時的な流行で西洋文化の真似をする日本人なら多いのかもしれないが、その人のライフスタイルの中に英国の文化がシッカリ根付いているという場合だってあるのじゃないだろうか。

ミニという英国の車なのに、わざわざ左ハンドル仕様のものを所有して喜ぶ人は、英国とアメリカの区別のつかない人なのだと思う。その種の英国かぶれなら、ニッポンでは左ハンドルの英国車以上によく見かけるように思う。ドッグランなどというものに犬を閉じ込めて犬から自由を奪いながら、人間に対してはイヌを嫌う権利まで認めるようなアメリカである。そのようなアメリカ文化は、英国文化とはかなりちがっているのだ。図書館の裏口の片隅でおとなしく待っているだけの犬を見てさえ、それを迷惑に思うような図書館長のいる都市は、イヌ以外の問題でもきっとアメリカ化しているのじゃないだろうか。

今日のビデオ:涙そうそう(森山良子)
☆ グレン・グールドがベートーヴェンの変奏曲を弾いているビデオをアップしたら、音と映像がずれていたので、別のビデオに替えました。「涙そうそう」はBEGINの歌もいいですが、この歌詞を書いた森山良子も捨てがたいです。BEGINといえば、ぼくが破門された愛犬家グループの中でぼくを応援してくれた女性がいて、そのひとがBEGINファンでした。

24 September 2007

アメリカ映画の話

アメリカ映画にはぼくの趣味に合うものが少ないのだけれど、「ユー・ガット・メール(You've Got Mail)」は好きな映画と言ってもいい。子どもの頃にテレビで見て気に入った「裸足で散歩(Barefoot in the Park)」などに通じる明るさがある。キャロル・キングがこの映画のためにと久しぶりに新曲を書いたのもわかるような気がする。

60年代の音楽を使っているセンスがいい。メグ・ライアンの服装のセンスもいい。なんといってもゴールデン・レトリーバーがいい(英国ゴールデンじゃなく、アメリカンだけどね)。久しぶりにラストシーンを見たら、なんと「虹の彼方に」が流れているじゃないか。先日、ぼくはこの原題をSomewhere Over the Rainbowと書いてしまったみたいだが、正しくはOver the Rainbowのようだ。でも、ぼくと同じようにまちがって記憶している人は多いらしい。

この映画のラストシーンが特に印象に残っているのは、犬がリードをしないで歩いていたからだと思う。そのせいで、流れていた「虹の彼方に」の存在も影が薄くなったのかもしれない。映画が公開されたのが1998年だから、当時すでにアメリカの都会ではドッグランなんかが流行していたはずで、ニッポンと同じように、一般の公園でのオフリードは禁止されていたに違いない。この映画の脚本・監督を担当したノーラ・エフロンは、ハリー・ニルソンのThe Puppy Song(子犬の歌)を使ってることからも想像できるが、どうやら愛犬家らしく、英語圏の愛犬家サイトでよく引用される次の言葉を残している。
You enter into a certain amount of madness when you marry a person with pets.

ペット連れの人と結婚したら、いくらか狂気の世界に入り込むことになるのよ。
きっとノーラ自身もかなり狂っているのだろう。ひとくちに狂気と言ってもいろいろある。英国紳士系とか大日本帝国系とか。ブッシュ系やコイズミ系なんてのもある。

今日のビデオ:The ending of the film You've Got Mail

22 September 2007

自由の国では

もう2年以上前の古い話になるが、英国の王子ハリーは、仮装パーティーでナチの真似をし、BBCなどもこれを問題にしたことがあった。アメリカのビートルズ・ファンのように感情的になって、ハリーの写真か何かを燃やすようなことをするイギリス少女はいなかったとは思うけれど、世間はともかく王室としてはこれがかなりショックだったようで、さすがのチャールズ皇太子も、こんな真似は二度としないようにとハリーに厳しく注意したようだ。

ハリーの卒業したイートン校(Eton College)では、校内にあるパブで生徒がビールを飲む自由がある。コレッジと名前がついているけれど、ここは大学ではなく、13歳から18歳までのいわゆる未成年が学んでいる寄宿学校である。そんな学校内で生徒がビールを飲むなんて、全くトンデモ学校じゃないかと、ニッポンの教育委員かPTAの役員などは文句を言うかもしれないが、英国には子供に飲酒を禁止する法律はないのだ。こんなことを言えば、今度は、トンデモ国家ということになってしまうだろうか。ただ、ハリー王子の場合、イートン在学中から、ややアルコール摂取量が多すぎたみたいで、そのせいなのかなんなのか、最近のイートン校では、食事中以外での飲酒を禁止するようなことになったらしい。

さて、きょうの写真は、英国を代表するタブロイド紙(The Sun)の表紙を飾った証拠写真ということになるのだが、ぼくはそのナチのことよりもむしろ手に持ったタバコのほうが気になってしまった。BBCもそれとなく気にしているような記事を書いている。今の英国では、オトナがタバコを吸わなくなったというのに、コドモで吸うのが増えているらしい。そのうちタバコはコドモの嗜好品になってしまうかもしれない。

王子がナチの真似をしたからって、英国が軍国主義国家になるはずはないし、ニッポンの天皇制のような全体主義国家になるわけがない。だから、ぼくにはタバコのほうが気になったのだ。これがニッポンだと全く事情が違ってくるだろう。秋篠宮が東条英機の真似をしたり、娘の眞子が戦中の愛国婦人会みたいな恰好をしたら、かなり無気味だと思う。

ニッポンの右翼の中には、きっと英国の荒れた王室スキャンダルなどを見て、皇室の品行方正を誇ったりするヨイコも多いのだろう。皇太子に男子が生まれなきゃ万世一系とかのフィクションが最終回になってしまって誰かが困るのか、ぼくにはよく理解できないが、とにかくどうでもいいようなことに気合いを入れて、プリンセス・マサコを苦しめる。これじゃまともな女性ならニッポンの皇室には嫁げなくなってしまうね。

平和で美しい国ニッポンでは、皇室の園遊会などで「恩賜のたばこ」なるものが配られている。この慣習をやめるようなウワサを聞いたのだけれど、どうやら完全に廃止するわけじゃないようだ。この国のやることってのは、何事においてもこの調子で、いつだって中途半端だから、「君が代」や「日の丸」が軍国主義時代の姿のままで生き残り、いまだにNHKは元号を使用してニュースを流していたりもするのだろう。

今日のビデオ:The Happy Prince

21 September 2007

平和な国の話


後藤田正晴も見抜いていたように、安倍晋三が受け継いだ岸信介のDNAこそが問題であった。「A級戦犯」の孫という事実だけでは、本来、その人が政治家にふさわしいかどうかを決めるために、なんの手がかりも与えてくれないはずなのだ。しかし、安倍晋三の場合は、岸ジイサマの残した歴史を無視してその人間性を語ることはできないように思う。

彼の体内のどこかには、(それが頭の中なのか腹の中なのかハッキリしないが)、岸信介の危険な精神が脈々と息づいている。ただ、彼の頭脳は、ジイサマほどには回転がよくないから、一見、平和に見えるだけで、民衆がそれで安心していてはそのうち大変な事態になっていただろう。人類の歴史を振り返るまでもなく、頭の悪いリーダーは、悪賢いリーダーと同じように、国を不幸にするものだ。

去年だったのか一昨年だったのか忘れたが、老人党掲示板で安倍晋三のことを話題にしたとき、例によって右翼が言いがかりをつけて来て、「A級戦犯」の孫というだけで安倍を批判するBBは心が狭いみたいなことを言われた。いつもながらに右翼の読解力にはほとほとあきれてしまったわけだが、右翼こそが「個」よりも「家」を尊び、「民」よりも「国」をだいじにするのじゃないだろうか。だいたい日本語では「国家」という。「国」にまで「家」がくっついている。結婚式では、○○家と△△家の婚礼が厳かに執りおこなわれる。安倍晋三にもその「家」がつきまとっているじゃないか。そんなものにつき合わされちゃ、国民が迷惑だ。

しかし、また平和な月日は流れ、その安倍晋三もジイサマと同じように、いつのまにか首相になっていた。ああ、ニッポン。実に不思議な国であることよ。
戦後の日本は平和国家で、たしかにロクな武装もしていない。まさにその意味では独特な国である。しかし他方では、戦前の軍国主義者がそのまま戦後の指導者として居すわり、街では極右団体が反共演説をぶっているという意味でも、また独特の国である(たとえば西ドイツでは、ヒトラーの内閣の閣僚が戦後の政治的指導者ではなかったし、大きな町のまんなかでナチがポーランド廻廊を返せとか、ズデーテンを返せとか、叫んでいるわけではない)。一体、今日の日本は、本気で、平和主義的なのだろうか。
これは加藤周一が1977年に発表した文章から引用したものだ。「戦前の軍国主義者」というのは、言うまでもなく、岸信介のことだ。戦争が終わって12年後の1957年、この軍国主義者が総理大臣になったとき、加藤周一はどれほどあきれ果てたことだろう。そして、その軍国主義者の孫までもが、21世紀の日本国で総理大臣になってしまった。

安倍晋三はなんの反省もなく、なんの責任も果たさずに、その首相の地位を捨てようとしている。彼がその程度の人間であることくらい、最初からわかっていたことじゃないのか。なぜそれでも首相になれたのか。代わりにその椅子に坐ろうとしている福田も麻生も、ニッポンの指導者として適任の人物だろうか。

自民党は、病気でいうなら、すでに末期症状なのだと思う。半世紀以上のあいだ、適正な治療もせずに、ここまで放っておいた責任は、もちろん、国民にある。なぜなら、この国はいま民主主義国家のはずだから。

今日のビデオ:Judy Garland - 1943 Command Performance USA
☆ 映画「オズの魔法使い」の中で歌ったジュディ・ガーランドは16歳でした。今日のビデオは、それから4年後の1943年、時はまさに太平洋戦争の真っ最中、アメリカ軍が主催した演奏会で歌った時の録画のようです。この時すでにジュディの表情には、有名な女優としてのかげりが見えているように思ったのは、ぼくの気のせいでしょうか。1969年、アメリカがベトナム戦争をやっている最中、彼女は睡眠薬を飲んで死にました。娘のライザ・ミネリが言うには、ハリウッドが大嫌いだった母さんはハリウッドに殺されたのだそうです。

20 September 2007

虹の彼方に


きのうのビデオの中で歌っていた女の子は、なぜ大人を感動させたのだろうか。あの子より技術的にうまく歌える少女なら、ジュディ・ガーランドの名前をあげるまでもなく、星の数ほどもいるだろう(いや、星の数ほどってのは大げさかもしれませんが、ありふれたレトリックとして聞き流していただければ幸いです)。

前歯のない女の子が、どこにも力を入れずに、ごく自然に、まるで小鳥が歌うように、歌った。
虹の彼方に お空は青く
夢見る夢は かなうのよ
あの子はどんな夢を見るのだろう。有名な歌手になって億万長者になることだろうか。ぼくの経験では、6歳の女の子は、ティファニーのハート形ペンダントを贈られるより、一緒に遊んでいるときのほうがずっと幸せそうに見える。まるで犬のように。

前歯のないコニーは、どうして毒舌審査員サイモン・カウエルの心をとろけさせたのだろうか。裕福な家で育ち、大人になって音楽関係の事業で巨額の富を得たカウエル。彼はコニーの声から何を聞いたのだろう。歌というのは、富や名声とは無縁のものであって、本来、美しいものであること。ただ美しいものであること。そういう音楽の基本を思い出したのじゃないだろうか。あるいは、幼い日に遊んだ犬のことなども思い出したかもしれない。このぼくのように。
いつか私は 星に願うの
眼を覚ませば そこではもう
曇り空は なくなって
悩みはみんな消えちゃうの
レモンのしずくのように

Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops
前歯のないコニーがここまで歌わなかったのは、それでよかったように思う。ここの歌詞は、余りにもオトナ的すぎるようだ。

今日のビデオ:Judy Garland sings Somewhere Over the Rainbow

19 September 2007

イヌを嫌う権利(3)


殺人事件の被害者が幼い子供だったりすると、検察は「なんの罪もない未来ある幼児を無慈悲にも殺害した鬼畜の所業」とか言って、死刑を求刑したりする。ならば、図書館の裏口の隅っこで静かに伏せている犬に罪はあるのだろうか。どうやらニッポンでは罪になるらしい。公園内でおとなしく休んでいる犬を見ても、ただイヌというだけで、小学生の少年の口からさえ、「もしものことがあったらどうするんですか」なんてのが飛び出すのが、このニッポンの現実なのだから。

東京にだってイヌ嫌いがいるわけで、なぜそんなにもイヌを嫌うのかと、むかし中学生の女の子に質問したことがあった。するとその子は、「なんだか無気味な感じがするの」と言った。なるほど、そんなものなのかと、ぼくは思った。無気味というなら、ぼくはヘビを見ると、そんな気分になる。有栖川公園には、ガマガエルだけじゃなく、ヘビも暮らしているのだ。散歩の途中で何度か出会ったことがあるけれど、いつもドキッとしてしまう。しかし、決して「キャー!!」とか悲鳴を上げたりはしない。管理人や警察に通報したりもしない。沖縄かどこかに引っ越してほしいとも思わない。ぼくにはそんなことを要求する権利がないように思う。吾が愛犬も同じ考えらしい。

地球はヒトだけのためにあるのだろうか。野生動物や植物が、自然の恵みの中で生かされているのに比べ、ヒトは貪欲に自己の利益のみを追求するかのように、この地球を支配し、かけがえのない自然を破壊しつづけている。イヌという動物は、2万年前に、ヒトが自分たちの生活の場に招き入れた動物であって、もはや野生動物ではないのだ。C.W.ニコルという人は、その著書の中で、ヒトはイヌという動物と太古に契約を結んだのであり、だから人間にはイヌを愛する義務があるというようなことを書いていた。

イヌは人間が守ってあげなければ生きていけない動物なのだ。ペットショップの檻に閉じ込められた子犬を見て可愛いと思うのも人間の主観だろうが、そのような人間に飼われ始めた犬の一生のほとんどが鎖につながれたままで終わるなんて、こんなにひどい話があるだろうか。それをひどいことだと思わなくなっているのが現代の日本人だとすれば、精神的におかしくなってヒト嫌いになってしまった近所の犬なんかよりも、人間のほうがよほど危険な生き物になっているような気がする。

あの新聞配達のオジサンは、ぼくの愛犬が庭で休んでいるのを見て、なぜあんなにも大きな声で叫ぶことができたのだろうか。このニッポンという人間万歳国家では、たとえ自宅の庭であっても、犬をつないでおかないなんてのは非常識なことだと信じていたからだろう。あんなふうに叫んでぼくの生活の邪魔をするだけなら、まだ許せるのだ。しかし、人間にはイヌを嫌う権利があるかのように思っている人を、ぼくは決して許すことはできない。

C.W.ニコルは、イヌ嫌いについて、こんなことを書いていた。イヌを嫌うというのは、その人に勇気がないということだ。勇気というのは、人間にとってとてもだいじなことだと。ぼくは多くのイヌ恐怖症の人を見て来たけれど、ぼくの犬に近づく勇気くらいはあるのが普通だった。それさえもできない人間は、やはり勇気が足りない人なのだと思う。あの新聞配達オジサンに少しは勇気があったのなら、4年近くも見て来た犬を知ることくらい可能だったはずだ。勇気というのは、ひとの助けによっては決してもつことのできないものだと思う。

日本語圏のネット世界で、イヌやネコが地球から絶滅してほしいと叫んでいるのを見たことがある。その種の人間には、勇気というよりも、もっと人間として根源的な何かが欠けているのだろう。彼らならば犬を殺すことも可能だろうし、まして犬のことで警察やガードマンに通報するなんてのは、ネットウヨクの暇つぶしほどにも難しくはないのだろう。

イヌ嫌いに関して、ぼくはかなり以前にも、ニッポンの愛犬家グループで問題にしたことがあった。そこの常連の多くには、管理人も含めて、ぼくの考えが理解できなかったらしい。それは当然だと思う。彼らは犬の飼い主として、いつも愛犬をリードでつなぎ、セケンサマにうしろ指をさされない模範的な飼い主をやっていたわけだから、ぼくのような体験はしていなかったのだ。近所のイヌ嫌いともニコニコと挨拶を交わし、何か犬のことで文句を言われたら、何も悪いことをしていないのに、「すみません」と謝るような人たちだったのだろう。

「なんの罪もない未来ある幼児を無慈悲にも殺害した鬼畜の所業」という検察の主張に同意し、殺人者を死刑にすることになんの疑問も抱かないような人の多いこのニッポンでは、なんの罪もない犬たちが至る所で差別されている。こんな現実を知ると、日本人には社会を改革する勇気が欠けているということを、ぼくは確認できるような思いになって、情けなくなるのだ。

今日のビデオ:Connie sings Somewhere Over the Rainbow
☆ 以前も話題になったサイモン・カウエルは、母国イギリスのテレビ番組(Britain's Got Talent)でも、毒舌審査員をやっているようです。6歳の女の子コニーがステージに登場すると、「こんなチビに歌がうたえるわけがない」というような表情を見せていたカウエルでしたが、....
Somewhere over the rainbow
Skies are blue
And the dreams that you dare to dream
Really do come true

18 September 2007

イヌを嫌う権利(2)


同じX市の体験にはこんなのもある。

その都市でいちばん大きな公園の中に、立派な建物の図書館があった。東京の地元なら、散歩の途中で愛犬と一緒に休憩できるカフェがあったから、散歩に出かける時にはいつも本を携帯し、カフェで休みながら読書するのが日課になっていた。ところが、X市の都市構造は、そのようなライフスタイルに対応していなかった。

その図書館の中の様子を見ると、すわり心地の良さそうな椅子もあって、散歩の途中で休憩するのに恰好の場所に見えた。ただ問題は、愛犬が中に入れないことだ。ぼくには彼の保護者としての責任がある。動物を平気でいじめることのできる人間の存在する地球上で生活するからには、邪悪な人間から絶えず愛犬を守る必要があるのだ。英国でなら、もし愛犬をひとり建物の外につないでおけば、非常識な飼い主とみなされるだろう。動物愛護国にだって犬を誘拐するような人間がいるのだ。英国南部で暮らすぼくの親友は、スーパーに買い物に行く時には、絶対に愛犬を連れていかないと言っていた。英国でもスーパーには犬が入れないのだ。

さて、その図書館だけれど、ぼくはいろいろ思案した結果、人の出入りの少ない裏口の玄関の中に愛犬を待たせておくことにした。その場所なら、中の椅子に坐っていても、ガラス越しに愛犬の様子を見ることができた。彼は子犬の頃からリードにつながれなくてもひとりで待っていられる訓練をしているから、初めての場所であっても、玄関の壁際の隅でじっと動かずに伏せていた。

すると、しばらくしてガードマンがやって来て、「こんなところに犬を置いてるなんて!」というような調子で何やら興奮している姿が見えた。その時までどんな様子だったかというと、吾が愛犬はただじっと伏せていたわけだけれど、それに気づいた子どもたちがガラス越しに見物していたりしていたのだ。中にはガラスをたたくような子もいた。きっと何らかの反応を期待したのだろう。しかし、吾が愛犬はいつもどおり、おとなしく伏せていた。

「誰の犬なんだ?」みたいな声が聞こえたので、ぼくは席を離れてそのガードマンのそばへゆき、「ぼくの犬ですが」と言った。すると、ガードマンは険悪な表情でぼくをにらみ、こう言った。

「こんなところに犬を置いてもらっちゃ困るじゃないですか」

「ぼくの犬が何かしましたか?」

「そういう問題じゃなく、実際、迷惑に思う人がいるのだから、こういうことをしてもらっちゃ困るのです」

なるほど、やはり誰かが通報したようだ。その日は休日だったせいか、図書館内に親子のような人の姿が目立った。

「あなたはガードマンとして、それで職務を果たしているつもりになっているらしいから、ぼくと議論する余地はないでしょう。ここの図書館長と話ができますか?」

ぼくがそう言うと、「いいですよ」と即答したものだから、ぼくは愛犬をリードにつないで、図書館の中に入れようとした。すると、ガードマンはあわてたように、「犬を中へ入れてもらっちゃ困りますよ!」と言った。

「あなたの考えでは、犬を怖がる人がいるからここに犬を置いておくなということになるんでしょ。だから、ぼくは一緒に連れていくんです」

返事も待たずにぼくは愛犬と中に入り、「図書館長室はどこですか?」とガードマンに尋ねた。ガードマンはあきらめたのか、階段を上って案内してくれた。

愛犬と一緒に図書館長室に入り、図書館長だと名乗る男と面会した。その会談の内容は、余りにも情けない内容で、それなら怪談話でもしたほうが時間の無駄にならないだろう。とにかくその図書館長が言うには、彼らの主張こそが「常識」なのだそうだ。ぼくが「あなたもイヌ嫌いなんですか?」と質問したら、「私だって犬を飼った経験があります」と言った。「あなたのような飼い主がいるから、ニッポンの犬はいつまでも差別されるんです」と、ぼくは言った。

こんな具合に程度の低い会談であったわけだけど、ひとつ記録しておかなくちゃならないことがある。それは、ぼくが東京の地元の公園内にある都立中央図書館の話をしたとき、かつて加藤周一がそこで図書館長をしていたことがあったのを言ったのだが、驚いたことに、その図書館長は、「カトウシュウイチってだれ?」と言ったのだ。いやはや、こんな人間が図書館長をしているわけだから、イヌのテーマでも話が通じないのだろう。

今日のビデオ : The Long and Winding Road
-- The Beatles

17 September 2007

イヌを嫌う権利(1)


ニッポンで新聞を配達している人には、イヌ嫌いが多いのだろうか。きっとそんな気がする。イヌといえばいつも登場してしまうX市でこんな経験をした。

さわやかな秋の日だったので、家の庭に愛犬をひとりにしていた時だった。門の外で誰かが叫んでいる。その時ぼくは書斎でパソコンに向かっていたし、何かに集中しなければならない時には電話にさえ出ないのがBB流なのだ。まして外で大声を出すような人間は、車のクラクションを鳴らす人間と同じく、公衆マナーのなっていないヤツとしか思えないからして、ぼくはただ無視してパソコンのキーを打っていた。

しかし、その男はいつまでも叫んでいる。しかも迷惑なことに、ぼくが先祖から引き継いだ家名を大声で叫んでいるじゃないか。実は、最初からおよその見当はついていたのだ。その人は新聞の配達オジサンだった。その日までに何度も散歩の途中で出会ったことがあったし、ぼくが愛犬と庭で遊んでいるところに配達で訪れたこともあったから、病的なほどにイヌ嫌いであるというのはぼくも気づいていたのだ。

パソコンから離れて窓から外を見れば、確かにその人が門の外に立っていた。仕方がない。そういうことなら、きょうこそ言うべきことを言うしかないなと思って、階段を下りて玄関へ向かった。ドアを開けると、そばに愛犬が静かに伏せていた。彼はどんな訪問者に対しても差別せず、決して番犬みたいな真似をして吠えるようなことはしない。門の方を見ると、新聞配達の姿が見えなかった。確認のため門を開けて外に出てみたけれど、まるでスパイダーマンのようにどこかへ消えてしまっていた。

その新聞配達のオジサンは、アルバイトでやっているのではなく、新聞社から委託されて営業しているわけだから、いわば新聞配達のプロといっていい。たとえ過去に猛犬に攻撃され、片足か急所かどこかを食いちぎられた経験があったとしても、4年近くも配達して来た家の犬にさえいつまでも慣れないというのは、プロとして失格じゃないだろうか。オリンピックで金メダルを獲得するなんてのは誰にでもできることではないだろう。しかし、一匹の犬を知るのに4年という年月は充分すぎるほど長いように思う。

あの人は一体どういう思いで叫んでいたのだろう。こんなに大きな犬を鎖につながないで庭に放しているなんて非常識だと考えていたのじゃないか。いや、何も考えていなかったのかもしれない。ただ機械のようにテキパキと配達を済ませたいと願っていただけなのかもしれない。

例の赤ジャージ公園では、多くの子どもたちが、ぼくの愛犬とのつき合いの中で、イヌ恐怖症から救われたものだ。いつだったか、初めて会った小さい女の子がBBCのそばにしゃがんで嬉しそうに彼のからだをなでていたら、やや大きい少年が近づいて来て、「お前、イヌが嫌いじゃなかったのか?」と言った。するとその女の子はすぐに「この犬はだいじょうぶなの」と言った。あとで知ったのだが、彼らは兄妹だった。

公園で愛犬をリードにつながないと言うと、ニッポンでは愛犬家からさえも、まるでマナーの悪い飼い主のように決めつけられてしまうようだ。驚くのは、ぼくのような飼い主のせいでイヌ嫌いが増えるのだということまで主張する愛犬家さえ存在するのが、この美しい国の実態なのだ。あの新聞配達は、ぼくの愛犬のせいでイヌ嫌いになったのだろうか。あの人はずーっと昔からイヌ嫌いであって、死んでもそれを変えない覚悟でいただけのような気がする。

ぼくはなぜあのようなイヌ嫌いに対して妥協しないのか。人の世で絶対に妥協できないようなことはそんなに多くはない。しかし、絶対に妥協できないことがあることも事実だ。これはぼくのオフリード論の核心に迫る話になるから、話せば長い話になってしまうわけで、きょうは深く立ち入らないことにする。ただひとこと言っておかねばならない。人間にイヌを嫌う権利を認めていたら、イヌ嫌いの人間などよりずっと社会的弱者であるイヌという動物を平気で差別する社会になってしまうだろう。実際、ニッポンのヒト社会はすでにそういう社会になっている。

知ろうとしなければ、ひとは何も知ることはできない。ただ自分の主観で脳みそをガチガチに固めながら、食っては寝て、起きてはオナラして、信じるものといえば中味の空っぽなマスコミくらい。そんなふうに年を重ね、やがてこの世を去るのがヒトなのだろうか。ヒトとしてこの地球に生まれた責任を台無しにして。

今日のビデオ : Something
-- McCartney & Clapton
☆ ジョージ・ハリソンを追悼して、ポール・マッカートニーとエリック・クラプトンが、ビートルズ時代にジョージが作った名曲を歌っています。

15 September 2007

哀しいイマジン


おそらく米国のクリスチャンに向かって「ぼくジョン・レノン好きです」なんて言えば、たとえ批判されなかったとしても、こころの中ではきっと「あんたそれでもクリスチャンなの?」と思われるかもしれない。すでに言ったように思うけど、ぼかあそんなのはゼーンゼン気にしない。ひとにどう思われようが、好きなものは好きなんだから。

でも、ぼくはジョン・レノンの美しい「イマジン」を聴いていると、なんだか哀しい気分になってしまう。平和を願うジョンの気持が理解できるだけに余計につらくなるのだ。
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky

想像してごらん、天国は無いと
やってみれば簡単さ
ぼくらの下に地獄はなくて
上にあるのは空だけなんだ

日比谷公園の空は、夜でもなんだか明るいけれど、それでも芝生に寝転んで天を見上げれば、東京にも星空があるってことに気づくだろう。星空を見ていると、それだけでやさしい気持になれる。眼には見えない創造主なる神が、ちっぽけなぼくのことを天から見ているような気分になる。子どもの頃に友だちだった犬たちの笑顔さえ、星空のどこかに見えるような気がするんだ。

安倍晋三はついに首相を辞めるらしいが、あの人は何を信じて生きて来たのだろうか。彼が靖国神社を参拝するのは、岸信介じいさんがそこで神になっていると信じるからじゃないの(いや、岸信介は戦後も生き残っただけでなく、なんと首相にまでなって天寿を全うしていたのだから、いくらアベシンゾーでも、そこまでバカじゃないかな?)。日本人みんなにも同じように靖国をだいじにしてほしいと願うのは、A級戦犯という烙印を押された爺さんの名誉回復を期待するからだろう。もちろんホンネは言わない。「美しい国」だとか「愛国心」だとか、ニッポンジン受けするぼんやりした精神主義でタテマエを繰り返すだけだ。

それにしても、ある種の日本人の精神主義ってやつは、どうしていつも肩肘を張っているように窮屈なのだろうか。なぜ大らかな個人主義が育たずに、いつも不自由な全体主義になってしまうのだろうか。おそらく信じる対象がぼんやりしているから、「全身全霊」だとか、「精神一到」だとか、「畏れ多くも」だとか、なんだか言葉だけでもビシッとしているように見せるんじゃないのかな。視覚的には日の丸のハチマキなんかをして。

靖国参拝に熱心な安倍晋三は、祖父の代から統一協会と仲良しだし、親父の代から慧光塾(えこうじゅく)にも心酔している。きっとテレビの「今日の占い」なども気になってしまうタイプなのかもしれない。彼は、森喜朗と同じく、聖書のいう「神の国」など信じちゃいないだろう。天国も地獄も信じちゃいないだろう。
第一に神の国と神の正義を求めなさい。(マタイ伝6章33節)

But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness. (Matthew 6:33)
ひとは神さえも自分の都合のいいように利用するものだ。「神の正義」と言いながら、実際には「私の正義」になっていることが多いわけで、たとえば靖国派の「神」を見てみれば、そこには余りにも人間的な神の姿しか発見できないはずだ。

問題はクリスチャンだ。聖書にはハッキリと神の正義が記されている。そして、その正義を人間は拒絶する傾向のあることを、聖書は強調しているのだ。この世は神の国ではない。この地上に神の国があるとすれば、それはごく少数の人々のこころの中にしかない。それが聖書のメッセージだ。イエス・キリストよりもビートルズのほうが人気があるのは、60年代に限らず、今だって事実じゃないのか。その事実を指摘されただけでカッとなってしまうのがクリスチャンだとすれば、キリスト教徒もニッポンのウヨクとおんなじだ。

ジョン・レノンの「イマジン」を聴いていると哀しくなるのは、天国の存在を否定しているように聞こえるからだ。もしもこの世がすべてなら、正義なんてのがあったとしても、せいぜい自己満足のためにあるだけで、そんな正義なんかよりは自分の幸福こそがすべてという人間が普通になってしまうのじゃないだろうか。実際、それがヒトの世の現実のような気がする。

ユダヤ教徒とイスラム教徒との争いなどを見るまでもなく、戦争を嫌い平和を願ったジョンが宗教を否定したその気持は、ぼくにも理解できる。実は、ぼくは宗教なるものが嫌いなんだ。なんてことを言えば、いよいよ世のクリスチャンたちから攻撃されてしまうだろうか。

ジョン・レノンはキリストの弟子たちを嫌っていただけだった。あのときジョンがdisciples(弟子たち)という言葉を使ったのは、ペテロやヨハネのような弟子たちのことよりも、クリスチャン一般を思っていたのじゃないだろうか。キリスト教国に生まれ育ったジョンは、クリスチャンや教会の嫌らしさをイッパイ見てしまったのだと思う。キリスト教でさえ醜い宗教なのだとすれば、他の宗教と一緒に、そのうち消滅してしまったほうが、地球はどれほど平和になるだろう。
野のユリはいかにして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだにその装いこの花の一つにもしかざりき。(マタイ伝6章28〜29節)

Consider the lilies of the field, how they grow; they toil not, neither do they spin: And yet I say unto you, That even Solomon in all his glory was not arrayed like one of these. (Matthew 6:28 - 29)

宗教が人間の創造(あるいは想像)にしかすぎないのなら、山上の垂訓でも教育勅語でも論語でも何でもオーケーなわけで、占いだってヒトサマにご迷惑をかけない限り(あるいは、公共の福祉に反しない限り)、別にいいんじゃないのってな話になるのだろう。イヌを食うのもイルカを食うのも、個人の自由ってなことで落ち着くのだろう。

思わずまたイヌやイルカが飛び出してしまったけれど、このままじゃ今日の話はモンテーニュ状態になってしまうから、カデンツァは切り上げて、そろそろコーダに入らねばならない。とにかく少しは結論らしきことを言うとすれば、こうなるだろうか。クリスチャンでジョン・レノンが好きってのは珍しいのかもしれないけれど、キリストならば、ジョンを好きどころか愛していたに違いないよ。問題は、ジョンがそのことに気づいていたかどうかだね。

最後に、ひとことだいじなことを言っておくと、日比谷公園の芝生は立ち入り禁止になっているので、ヨイコは真似しないでね。

今日のビデオ : Happy Christmas (War Is Over)

13 September 2007

ジョンを弁護する


1966年3月4日、ロンドンのタブロイド紙イーヴニング・スタンダードに、ジョン・レノンの長いインタビュー記事が掲載された。その中でジョンは、キリスト教に関して、次のように語った。
キリスト教は、そのうちなくなるんじゃないの。消えてしまったり、ちっちゃくなったりとか... ロックンロールとキリスト教のどっちが先にそうなってしまうのか、ぼくにはわかんないけど。ビートルズは今やイエスさまより人気があるからね。イエス自体は全く問題ないんだよ。だけど、彼の弟子たちはマヌケでつまんない連中だった。ぼくにとってキリスト教を台無しにしてくれたのは、キリスト教をねじ曲げた弟子たちなのさ。

Christianity will go. It will vanish and shrink... I don't know what will go first, rock 'n' roll or Christianity. We're more popular than Jesus now. Jesus was all right, but his disciples were thick and ordinary. It's them twisting it that ruins it for me. (The Evening Standard, March 4, 1966)
英国ではこの発言に対して大衆が過敏に反応するようなことはなかったが、それから4ヶ月後、アメリカのティーン向け雑誌デートブック(Datebook)に、ジョンの発言の一部「ビートルズは今やイエスさまより人気がある」という箇所だけが掲載されてから、米国内では大変な事態となってしまった。多くのラジオ局でビートルズの歌が放送禁止にされたし、ファンの中にも、ビートルズのレコードを踏みつぶしたりとか、燃やしてしまうようなのまで続出した。

ファンというのは、だいたいがこの程度のものなのかもしれない。キリスト教会を代表するような人間までもが、核兵器の使用を認めるような発言をするアメリカなのだから、ひとの発言の真意も確認せずにカッとなって攻撃的な行動に出る自称クリスチャンが目立つ国なのだろう。ブッシュのようなエセクリスチャンが大統領の椅子にすわり、キリスト教徒的な理由を掲げて他国への侵略を指令しているのだ。この現実を、先祖のピューリタンたちは、天国からどのような思いで見ているだろうか。

ぼくはキリスト者として、きょう最初に引用したジョン・レノンの言葉に共感を覚えるのだ。ニッポンというキリスト教徒の非常に少ない国にあってさえ、どれほどマヌケでつまんないクリスチャンを見て来たことだろう。彼らがそれを自覚しているのなら、まだ望みはあると思う。しかし、その種のクリスチャンに限って、ヨイコの代表みたいな顔をしながら、右翼と変わらない精神構造でニッポンジンをやってるのだから、ぼくは有栖川公園のガマガエルさんのようには落ち着いていられなくなってしまうのだ。

タバコの件では、なんとなくジョン・レノンを批判するような態度を示していながら、キリスト教の件では、まるでクリスチャンに敵対するような姿勢でジョンを弁護するこのBBという人間を、アメリカの情動的なクリスチャンやニッポンの右翼的なクリスチャンは、きっとクリスチャンとして認めてくれないのだろうね。それならそれで仕方がない。ネットウヨクだって、もうどうしようもないのだから、ぼくはただオスカー・ワイルドの残した次の言葉を思い出すしかないようだ。
アメリカという国は、中間に文明をもたずに未開から退廃へと向かった唯一の国である。

America is the only country that went from barbarism to decadence without civilization in between. -- Oscar Wilde

今日のビデオ : John Lennon sings Dear Yoko

12 September 2007

喫煙とホンネ

きのうのビデオの中でジョン・レノンやオノ・ヨーコがタバコを吸っているのを見て、何かホッとするような気分になった人がいただろうか。タバコ後進国ニッポンでは、タバコ業者ばかりか、役人や政治家そして医者までもが、長いあいだ喫煙の有害性に無関心であった。この国にはそのような過去があるのに、なんだか急に喫煙者にとって住みにくい世の中になって来たみたいだから、肺の中へ煙を吸入しないと一日が始まらないという人にとっては、遠い1970年代初頭の英国にノスタルジーすら覚えてしまうのかもしれない。

昔の英国では、男も女もたいていタバコを吸っていたようだ。そんな環境で育つ子どもたちもまた、いつしか大人の真似をするようになったのだろう。特に有名人の影響は大きかったはずだ。あのジョン・レノンがタバコを吸ってるのだから、俺も吸わなきゃロックンロールはやれないし、反戦運動だって無理じゃん。とか、そんな気分で平和を愛するヒッピーを気取る少年たちが、世界中にどれほどいたことだろう。たぶん彼らは何も考えていなかったのだと思う。考えるための情報が、当時の地球上では、まだ隠されたままだったのだから。

英国は動物愛護やミニスカートの先進国として有名だが、タバコの歴史においても先進国であって、ヨーロッパでどの国よりも早く喫煙習慣が定着したのが英国だった。そんな英国だったから、喫煙の有害性に気づいたのも早かったようだ。英国では1920年代になって肺がんで死亡する人が異常に増えていた。その事実に無関心ではいられなかった学者がいても不思議ではないだろう。リチャード・ドル(Sir Richard Doll)博士は、1950年に世界で初めて肺がんと喫煙との因果関係に着目した研究成果を発表した学者だ。その画期的な報告の中で、博士はこう書いていた。
肺がん発生の危険性は、喫煙量に比例して大きくなる。一日に25本以上吸う人の場合、喫煙しない人に比べて、50倍は大きくなるだろう。(「英国医学雑誌」、1950年)

The risk of developing the disease increases in proportion to the amount smoked. It may be 50 times as great among those who smoke 25 or more cigarettes a day as among non-smokers. (British Medical Journal, 1950)
ドル博士がこれを発表した当時、英国の成人で80%の人々がタバコを吸っていた。ドル博士自身も例外ではなかったが、自分の研究結果から喫煙の恐ろしさを知り、すぐにタバコをやめた。1954年には、英国政府もドル博士の研究を認め、4万人ほどの医者を動員した大規模で長期的な研究が開始された。それから20年後、ついにドル博士が「英国医学雑誌」で最初に発表した内容を立証する成果が得られたのだ。

ジョン・レノンがオノ・ヨーコと一緒にタバコを吹かしながら、あの名曲「イマジン」を作っていた頃、同じイングランドのオックスフォードでは、ドル博士たちが喫煙の有害性をすでに実証し始めていたのだった。そのような学者たちの努力に応じるかのように、英国では70年代から喫煙率の減少が顕著になり、現在、成人でタバコを吸うのは、25%くらいにまで落ちている。オノ・ヨーコはまだアメリカに住んでいるのかもしれないが、もし今でもタバコを吸っているとすれば、その姿に憧れる若者は、アメリカでも珍しいだろう。

きょうもまたタバコを愛する人には面白くない話をしてしまったようだ。ニッポンでも昔に比べれば喫煙率が下がっているとはいえ、まだ成人男性の50%がタバコを吸っているというし(ぼくがX市で暮らした経験では、もっとずっと多いような気がするけれど)、医者だって20%以上が喫煙常習者だという。英国で医者をやりながらタバコを吸っていたら、たいてい信頼されないだろう。実際、そんな医者はあの国では例外中の例外であって、統計では5%もいない。

一体この違いは何が原因なのだろうか。ニッポンでは、政治家や役人や医者ばかりか、親友でさえもホンネでつき合ってくれないからじゃないのかな。ぼくはそんな気がしている。もちろん、ホンネなんてのは、そう頻繁に出番があるってものではないと思う。ただ、喫煙習慣のように明らかに人の健康を害するものにさえ無関心でいられる人のタテマエってのは、友だちや恋人のいのちをどう見ているのだろうか。

☆ ドル博士の名前を「ドール」と書く人が多いようですが、それはアメリカ的な発音であって、イギリス人なら「ドル」に近い発音をするでしょう。Tintin(タンタン)をチンチンと発音したら、ぼくは喜んでも、正常な日本人はビックリ仰天でしょうね。

今日のビデオ:While My Guitar Gently Weeps
バングラデシュ・コンサートで歌うジョージ・ハリソンです。ビートルズのホワイト・アルバムのときと同じように、ここでもエリック・クラプトンのギターが泣いています。

11 September 2007

ホンネの話はあのねのネ


インターネットで何かを検索すると、ウィキペディアの記事がほぼ最上位に現れることが多いように思う。これだから最近の大学生なども、ウィキペディアからの情報を切り貼りするようにしてレポートを作成したりもするのだろう。そんなことをしても卒業できてしまうのがニッポンの大学であるのは、何も今に始まったことじゃない。だいたいこの国の若者たちは、なんのために大学を目指しているのか。そのホンネを知ることができれば、この実態を誰が不思議に思うだろう。

ホンネといえば、ぼくはなぜか清水幾太郎の『論文の書き方』を思い出してしまう。大学生になる前に読んでいた本だから、その内容はほとんど忘れてしまったが、たしか著者はホンネ(本音)という言葉を使うのが嫌いだというようなことを書いていた(ただし、もしかするとこれはぼくの勘違いで、全く別の人の本に書いてあったことなのかもしれない)。どんな理由で嫌いだったのか、今では思い出せないのだけれど、純朴なBB少年は、なるほどそんなものなのかと単純に信じ込んでしまい、道頓堀劇場の悲劇のことなども忘れて、その後しばらく本音という言葉を敬遠していたようだ。

ところが、いつの頃からか事情が変わってしまった。このブログでもそうだと思うけれど、今のぼくはよくホンネという言葉を使うのだ。カタカナで書くのは、「カラオケ(karaoke)」ほどではないが英語でも通じるようになったこともあるけれど、漢字で書くと、なぜか「音」という文字が気になってしまうからだ。ホンネそのものには、音楽のように、美しいのもあれば醜いのもあるわけだが、この言葉を使うときの文脈というのは、ニッポン人の精神構造に見られるスッキリしない曖昧さと関係することが多く、たぶんそれで「音」という漢字を使いたくないのかもしれない。

それはともかく、ウィキペディアの話にもどれば、最近、米国で開発されたツール(WikiScanner)によって、ウィキペディアの編集に関係した組織をあぶり出すことができるようになったそうだ。CIAやFBIなどが、自分らに都合の悪い情報をせっせと抹消していたことくらい、近所に住むガマガエルみたいなオッサンにでも分かりそうなものだが、ニッポンの官庁や大企業からも同じようなことをやっている連中のいることがハッキリして来たようだから、有栖川公園のガマガエルさんのようには落ち着いていられないオジサンやオバサンも多いことだろう。

いつだったか後藤田正晴のことでウィキペディアを調べていたら、後藤田が安倍晋三に対して批判的な言葉を残していたことを知った。それはまさにぼくが思っていたことと全く同じだったので印象に残ったわけだけれど、しばらくしてその内容を確認しようとしたら、その部分が消えていたのだ。何者かがまた卑怯なことをしてくれたな、とぼくは思った。そんな経験は、ネット世界ではよくあることだけれど。

今もう一度、あの記事を調べてみたら、その箇所が元に戻っていた。けっこう粘り強い性格の人が編集に参加しているのだろう。また安倍晋三の子分か誰かに削除されるかもしれないので、ここにそのまま転載しておこう。
かつての部下である佐々淳行が現首相の安倍晋三を誉めた際、「あれには岸信介のDNAが流れている。君は岸の恐ろしさを分かっていない」という趣旨の発言をしたとされる。ウィキペディアの「後藤田正晴」から引用)

ぼくは後藤田正晴と話をしたことがある。テーマはもちろん「イヌの福祉」だったわけだが、ぼくの嫌いな警察官僚出身の政治家にしては、話のわかるジーサンだなと思った。ウィキペディアにはぼくでも編集に参加できるわけだから、そのことを書き記してもいいのだけれど、正確な話の内容を覚えてはいないし、そればかりか、ぼくはウィキペディアなるものをそれほど信頼してはいないので、その気になれないというのが、ぼくのホンネではある。

今日のビデオ : The making of John Lennon's Imagine album

10 September 2007

主観と食欲


イルカはマグロとちがってヒトの友だちになれる動物だという意見を受け入れられない日本人は、たいていぼくの論旨を理解していないらしい。彼らは言うだろう。自分の友だちだからという理由で特別扱いするのは、余りにも自己中心的じゃないかと。そういう彼らがどれほど「汝の敵を愛せ」を実践しているかどうかは、神のみぞ知ることになるだろうか。

有栖川公園にガマガエルが住んでいることなら、地元の人間であれば、たいてい知っているはずだ。あの公園で遊ぶ地元の犬たちだって、きっと知っているだろう。公園を散歩中、じっと動かない大きなガマガエルを見つけたとき、それに気づかないかのようにそばを通り過ぎようとした愛犬をぼくは呼び止めて、「この大きなカエルさんを見てごらん」と言ったことがあった。彼はもどって来て、ぼくが指さしたカエルに近づき、そのすぐ目の前まで顔を近づけた。あんなに大きな犬にあそこまで接近されれば、ガマガエルとしてもけっこう怖かったのかもしれない。それでも、じっと動かなかった。遊び好きの吾が愛犬と遊ぼうとする気配もなかった。彼もすぐにそれを察してカエルから離れ、再び公園内の散策を続けるのだった。

カラスはかなり長生きするし、それなりにヒト社会での体験も豊富らしく、けっこう頭がいいように見える。それでもカエルと同じように、イヌとは友だちになれないようだ。手に持った杖でカラスを追い払おうとして、逆にカラスから攻撃されたロージンなら見たことはある。スズメバチだって、イヌにもヒトにも友だちになれそうにないが、彼らを敵視してこちらから余計な邪魔をしなければ、攻撃されることはないだろう。

ヒトというのは実に主観的な動物であって、怖がる必要のない犬を見ても「キャー!!」と悲鳴を上げるジョシコーセーがいるかと思えば、デートすらしたことのない韓国俳優に対しても猛烈な情愛を感じてしまうオバサンまでいるらしい。きのうまで親友だったはずなのに、きょうから宿敵になってしまうとか、若い頃にそんな交友関係を繰り返しながらオトナになるのがヒトなのかもしれない。

イルカがヒトの友だちになれるのは、イルカがそういう動物だからである。そこには人間の主観など入る余地はないはずなのだ。もちろん、イルカと友だちになるためには、こちらにもその準備がなくちゃならない。イルカを殺して食べるためになら、準備も何も必要がなくて、ただ自分のけじめのない食欲に身を任せるだけで済むだろう。主観の命じるままに。

今日のビデオ:With a Little Help From My Friends
☆ 1987年、英国のチャールズ皇太子が代表を務める慈善団体プリンス・トラスト(Prince's Trust)が主催したコンサートの最後を飾った演奏です。ビートルズが1967年に発表したアルバム「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の中の1曲として、ポール・マッカートニーが作曲した曲で、そのアルバムの中でもリンゴ・スターがリードボーカルを担当していました。プリンス・トラストの目的は、若い人々が有意義な人生を送れるように援助することです。今日のビデオは、そのプリンス・トラストが著作権をもっているビデオから勝手に拝借したものなんですが、チャールズ皇太子がぼくのブログの目的を知ったとすれば、きっと理解してくれるでしょう。これはぼくの主観ですけど。

7 September 2007

イルカを食うニッポン人へ


イルカは人間と友だちになれる動物である。彼らは遊ぶことを知っている動物だ。まさか今どき、イルカのことをお魚さんだと信じているニッポン人はいないだろうね。イルカと友だちになるよりは、殺して食ったほうが幸福に思う人間は存在するのだろう。そんな人間とつき合うくらいなら、犬と遊んでいたほうがよほど楽しいに違いない。

ブタやウシだって、本当は食べるために殺さないほうがいいに決まっている。そんなことも疑問に思わない人が多いのだとすれば、子どもの頃からブタやウシの肉を食べながら大人になる人が多いからだろう。人間は戦争にさえ慣れてしまうものだ。

ぼくはブタやウシは食べないが、寿司の中トロなら大好きだ。つまりぼくは厳格なベジタリアンではないわけだから、イルカやイヌを食う人間を批判する資格がないってことになるのか。マグロだって殺されれば死ぬに決まっている。だが、イルカやイヌのように、人間の友だちになれる生き物ではないことも確かだろう。

少年が凶悪な犯罪を犯したとき、マスコミや世間は、いのちの尊さを子どもたちに教えるべきだとか、そんな決まり文句を吐いて、それで大人の責任を果たしたつもりになるらしい。死刑を支持する人であれば、凶悪な少年などとっとと縛り首にしてしまえと息巻くだろうか。そうして、この世の中は、いつまでも同じことの繰り返しで、またいずれどこかで誰かが凶悪犯の餌食になってしまうのだろう。

それでも地球はまわる。確かにそうだ。そして、この青い惑星のどこかで、イルカたちが楽しそうに遊んでいる限り、きっといつの日か、ヒトは戦争という野蛮から解放されることになるだろう。そんな夢を見ることも許されない地球なら、ヒトはとっとと絶滅してしまったほうが幸福なのかもしれない。

6 September 2007

少年という男性(3)


かなり昔に聞いた話だけれど、東京育ちの女性に比べると、地方都市の女性の場合、性的な初体験が早いのだそうだ。赤ジャージ公園で目にした子ども事情によれば、女の子たちがあれだけ日常的に年上の男たちにつきまとわれていたら、確かにそうなのかもしれないなあと思ったものだった。

男の子に比べれば、女の子のほうが、精神的にも肉体的にも速く大人になるのは、昔から事実だったのだろう。ただ、昔の女の子に比べて、今の女の子がもつ性的な情報量は、格段に多いようだ。しかも、その種の情報を知り始める年齢というのは、親たちが想像するよりずっと早い時期になるらしい。ぼくは赤ジャージ公園で知り合った小学2年生の女の子の口から過激な単語が飛び出すのを聞いて、眼を丸くしたことがある。

児童公園の遊具というのは、小学校の高学年にもなれば、特に女の子たちにとっては、それほど楽しいものではないように思う。ニッポンの公園というのは、たいてい狭いものだし、これも大人たちの安全信仰のせいだと思うけれど、野球を禁止するような公園が増えてきて、男の子たちにとっても公園は遊んで楽しい場所ではなくなっているようだ。

以前、このブログでサルの赤ちゃんを隔離する実験の話をしたけれど、ヒトの場合も、仲間と遊ぶ経験がないままに大人になれば、社会性に問題のある人間になっている可能性が高いに違いない。サルほどにそれがハッキリと眼に見えるように現れなかったとしても、かなり攻撃性を秘めた人間になっているかもしれない。

ぼくは今ふうの若者たちを見ていると、性的行動のだらしなさというようなものを感じてしまうのだ。たとえば真っ昼間の児童公園で、中学生くらいのカップルが、濃厚な抱擁シーンを見せてくれたりすることがある。数日前まである女子中学生につきまとっていたはずの男が、きょうは全く別の女の子のからだに触れていて、その少女もけっこう喜んでいるように見えたりすることもある。そんな情景などを目撃すると、ぼくには性というものが、やさしく愛らしいものではなくて、何か恐ろしく攻撃的なものに思えてしまうのだ。

X市で出会った東京嫌いの大人たちは、「東京なんかに住みたくない」と言ったものだけど、ぼくはそのX市で暮らすようになって東京の長所に気づいたのだった。たとえば渋谷から吉祥寺までも電車で簡単に出かけることができ、ちょっとした旅行気分を味わうことが可能だし、たまには湘南の海まで電車で出かけることだって、そんなに難しいことじゃない。ところが、地方都市のように電車やバスの便が悪く、しかも料金が異常に高いような環境では、若い人たちの生活圏が非常に狭くなるのだと思う。X市の大人たちは、コンビニに買い物に行くのにも車で出かけるのが普通らしかった。東京の都心で生活する者から見れば、あの都市の大人たちは、歩くことを非常に嫌っているように見えた。

車を運転することのできない少年たちにとって、X市というのは、あまり楽しい都市ではないように思う。それだからきっと、彼らは毎日のように児童公園にやって来ては、少女たちに近づくのだろう。そんな日々を繰り返していたら、少年もやがて年齢的には大人になってしまう。大人になっても、相変わらず少女たちにつきまとうのは、たとえばジャズ喫茶でひとりになるという体験がないままに大人になったせいじゃないだろうか。あるいは江ノ電のホームのベンチに腰掛け、太陽が沈むまで海を眺めた経験がないままに少年時代を終えたせいじゃないだろうか。

ただ問題は、少年がひとりきりになれるジャズ喫茶が、東京にもなくなってしまったことだ。

今日のビデオ : Melancholy Baby
-- Al Bowlly

5 September 2007

少年という男性(2)


BBCが取り上げていたニュージーランドの専門家による研究報告によると、ネット上でチャイルドポルノ関係の画像をダウンロードしている男性の年齢を調べた結果、オジサン層よりは若者層が圧倒的に多くて、特に20歳未満の少年たちが目立つらしい。そのBBCの記事の最後に、「若者たちがこんなことをしてるなんて、ふつう疑ってみないものですからね」という専門家の話が載っていたけれども、ぼくがX市の公園で観察した若者たちの様子から判断すれば、それほど不思議には思えないのだ。中学2年生の女の子が20代前半の男とセックスしたとか、その種のウワサ話がぼくの耳にも入ってきたし、ふつうはウワサなど信じないものだけれど、あの男とあの少女となら、そんな関係になったとしても、渋谷のハチ公だってひっくり返らないだろうなと、なんとなく納得したものだった。

ぼくはストリップ劇場なるものに大人になってから入ったことは一度もないのだけれど、十代の頃なら2回ほど入った経験がある。そのうちの1回が、渋谷百軒店(ひゃっけんだな)の道頓堀劇場だったのだと思う。当時の雑誌に載るヌード写真といえば、ヘアーも公開禁止であって、その部分全体が黒いマジックで消されていたりした。そんなわけだから、生まれながらに好奇心の強いBB少年としては、なんとか大人の女体なるものの正体を確認する必要があったのだ。

しかし、あの日、道頓堀劇場で最初に目にした女体の所有者は、BB少年の母親よりもずっと年配に見えたし、よりによって、最前列の席に陣取ったりしていたものだからして、舞台からも目立ったのだろうか、そのストリッパーは、BB少年に向かって特別サービスしてくれるかのように、目の前で大胆な演技を披露してくれたものだから、ドラキュラのようなオカマに遭遇したとき以上に、ものすごく怖かった。

さて、きょうはこんな恥ずかしい思い出を語る予定ではなかったのだゾウさん。最近の若者たちが、なにゆえにチャイルドポルノに興味をもつようになったのかということを、BB的に考察してみるつもりだったのだ。しかし、なんだか頭の中が混乱してきたみたいで、このままつづけると何をしゃべり出すか、自分自身を信じられなくなってきたから、とりあえずこの辺で中断することにしよう。

今日のビデオ : This Boy
-- The Beatles

4 September 2007

少年という男性(1)


愛犬家なるものにもいろいろあるように、少女愛好家なるものにもいろいろあるのだろう。赤ジャージ公園で小中学生の女の子に近づく若者たちを見ていると、彼らは同年代の女性より幼い少女を特別に愛好しているわけではなくて、とりあえず主義というか、女性にもてない彼らであっても相手にしてくれるような女性という性を、少女たちに求めているように見えた。

埼玉連続幼女殺人事件の宮﨑勤は、高校生の頃、友人から「お前を相手にするのは幼稚園の女の子くらいだ」と言われたことがあるそうだ。短大2年生になった宮﨑は、井の頭公園で女子高生と待ち合わせしたことがあったらしいが、いつまで待っても相手の女の子は現れなかったという。その女子高生は急に気が変わってしまったのか、それとも、最初からその気がなくて、単に宮﨑の勘違いだったのか、それは知らないけれども、そのとき公園内で小学3年生の女の子と知り合い、女子高生のことなど忘れたかのように仲良く遊んだそうだ。

デートの約束をすっぽかされた若い男は、ジャズ喫茶でひとり淋しく時間を過ごすべきか、それとも、公園で幼い少女と楽しく戯れるべきか。それが問題だ。ハムレットならば、どちらを選択しただろうか。ぼくは「シベールの日曜日」を思い出し、少女と一緒に時を過ごす少年のような心をもつ男を支持したい気持にもなるのだけれど、問題は少年とは一体なんなのかということだ。

宮﨑勤は、小学校高学年の頃、家の近所の河原でトンボを捕まえては、その羽をむしり取って遊んでいたという。また、カエルを殺して食べるなんてことまでしていたそうだ。西洋人からすれば、トンボは悪魔的なイメージの昆虫になるらしいし、フランス人などはカエルを食べていたりもするから、いま述べた宮﨑の行動はそれほど異様には思えないのかもしれない。しかし、たとえ生物学的に下等な生き物であったとしても、そのいのちを簡単に奪える少年というのは、少年らしい子どもと言えるのだろうか。

今日のビデオ : Please Send Me Someone To Love
-- George Shearing

☆ ロンドン出身の盲目のピアニスト、ジョージ・シアリングによる演奏です。ぼくはこの曲には特別な思い出があって、若い頃、吉祥寺のジャズ喫茶メグに入ると、よくこの曲をリクエストしたものです。ジャズ喫茶というのは、男ひとりで入るものなんです。なんてのも、もう昔の少年にしか通じないのでしょうか。あのメグも今は、おしゃべり禁止じゃないそうですから。

1 September 2007

少女という女性(3)


少女が恋に憧れるように、少年は女体に憧れるのかもしれない。余りに憧れすぎて自分自身も女になりたいと思う少年もいるのだろう。ニッポンのテレビ界のようにその系統の男が目立つ環境では、いよいよその傾向は強くなって、近い将来、渋谷センター街で男をナンパする少年たちが出現するようになるだろうか。「ヘイお兄ちゃん、お茶しない?」とか言って。

それはともかく、きょうは少年の話じゃなくて、少女の話に決着をつける予定なので、その方面に移ることにするけれど、こないだ取り上げたディズニーリゾートの事件に登場した女子中学生のことが、やはり気になってしまうわけだ。その子が14歳ということは、ちょうど赤ジャージ公園のHマンにつきまとわれた少女と同じ年代ということになる。Hマンは20代で、追っかけマンが30代という違いがあるけれど、男なんてのは、少年時代にどんな少年だったかで、基本構造は死ぬまで変わらないのかもしれない。

本当は自分のタイプじゃない男なのに、恋に憧れる少女は、身近なところで手を打つかのように男に近づく。特にクリスマスが近づくと、石にかじりついてもロマンチックな聖夜を実現させようとする少女が増えるらしい。男のほうは、恋というよりは、女体に関心があるわけだから、たとえばディズニーランドのホーンテッドマンションの暗闇の中でふたりきりになったりなんかすれば、女の子のキャーという悲鳴にさえも欲情をそそられ、ついその気分になって胸などにタッチしてしまうのかもしれない。

あの追っかけマンは、「もしかすると、オレのことを好きかなぁ、と思って…かわいかったので触りたかった」と警察で供述したという。そりゃ十数回もデートしてくれたのだから、男としてはそんな気分になって当然だと思う。問題は相手の女性がまだ14歳ということだけど、戦争で侵略した町でもっと幼い少女を強姦するような男もいるわけだから、哀しいかな、男性という性ってのは、その程度のものなのかもしれない。ただ、ぼくの経験では、少女というのは、ある年齢になると、女性の武器を意識し始めるようになると思う。それに惑わされないためには、男としての修行が必要になるだろう。松下政経塾やカルト教団の修行じゃあダメだが。

そろそろこのテーマも終わりにしたい。最後に、あの事件の少女がどんな心理状態にあっただろうかと、ぼくなりの推論をしてみたいと思う。きっと彼女だってTDRデートを楽しんでいたのだと思う。追っかけマンが抱きついて来たり、ほおにキスをしたりするのは、もし本当に彼女のタイプじゃない男だったとすれば、かなり気持ち悪かっただろうとは想像できるけれども、それでも何度も会っていたのだから、許容範囲内のことじゃなかったのだろうか。

ぼくの推論では、この事件の真相はこうなる。あの少女は母親か誰か保護者に追っかけマンとの関係がバレるようなことをしたのだと思う。たとえばメル友にそのことを話していて、それを母親に読まれてしまったとか。若い恋人同士の関係でも、相手のケータイに保存された情報へのスパイ活動をしているそうだから、年頃の娘をもつ親なら、それくらいのことはやりそうな気がする。

で、関係がバレた娘はどう出るだろうか。もし恋への憧れから真実の恋へと発展していたのなら、相手の男が不利になるようなことは言わないはずだ。しかし、どこかにやはり気持ち悪いという思いがあったとすれば、シナリオはかなり違ってくるだろう。自分を被害者にすることによって、新たな旅立ちへの第一歩を踏み出そうとするかもしれない。

いずれにせよ、この種の事件てのは、余りにもくだらないように思う。しかし、CIAなどにしても、この系統のくだらない情報をニッポンのマスコミに流して、アメリカの国益に反する政治活動を妨害したりもしてきたわけだ。ヒト社会ってのは、少女から大統領まで、実は非常に単純な構造になっているのかもしれない。

今日のビデオ : 黄金の月
-- スガシカオ