☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

31 August 2007

少女という女性(2)

赤ジャージ公園で知らない女性に声をかけられた。ぼくのことを知ってるようなことを言う。その人の子どもが家でぼくの犬のことを話していたらしい。その日、公園に現れたのは、ぼくに会いたくなったわけじゃなくて、その人の長女につきまとう男のことが心配になって様子を見に来たらしい。

ぼくはその男(以後、彼の頭文字を使ってHマンと呼ぶことにする)のことはかなり前から知っていた。赤ジャージ公園の中で、水飲み場の蛇口から水を出しっぱなしにして立ち去ろうとしたので、「水がまだ出ているよ」と注意したのが、Hマンとの出逢いだったと思う。あのときぼくは彼のことをまだ高校生くらいに思っていたのだけれど、すでに十代を卒業していたらしい。彼が公園に現れる目的は、少女たちと遊ぶことだったようだが、いつしかぼくにもよく近づくようになって、訊いてもいない自分のプライベートな話をしゃべり始めたりもした。

女の子たちの様子を見ていると、前回も話したように、小学校低学年の子たちはHマンのことを気に入っているようだったけれど、高学年以上になると、どうやら嫌っているらしかった。その子たちだってもっと小さい頃は喜んで遊んでもらっていたわけだから、ある年頃から急に嫌うような態度になれば、Hマンとしても面白くなかったのだろう。よく女の子たちに怒鳴っている姿を目撃したものだ。

さて、きょう最初に話した母親だけど、その人の長女(中2)にHマンがつきまとっているというのは、すでにぼくも知っていたのだ。その人にはもうひとり女の子(小6)がいて、例によってぼくが質問したわけじゃないのに、いろいろ話してくれていたのだった。その子が言うには、Hマンがお姉ちゃんにつきまとうようになったのは小学校6年生の頃かららしい。お姉ちゃんがHマンのことを嫌っているというスクープまで教えてくれた。

ぼくはそのお母さんとしばらく話をした。その中でこんなことを言ったように思う。ある年頃の女の子というのは、恋に憧れるわけで、恋人的存在の男を求めるようになる。好きな男の子がいたとしても、たいていは恋人関係になれない。すると、身近なところで恋人の代用になる男に近づくようになる。その男のことを嫌っていても、好きだと言われるとまんざらでもない気分になるものだし、ゲームを楽しむような感覚で、自分からも男に近づくようになる。

母親もぼくのそんな話を納得してくれたようだった。長女にはHマンに会わないように厳しく言っていたのに、まるで誘いを喜んでいるかのようにあの男に近づいている。信頼できそうな人ならともかく、Hマンの場合は、どうにも怪しい感じがして信用できない。取り返しのつかないことになる前に、なんとかしなくちゃと思う。母親は、そのようなことをぼくに話すのだった。(つづく)

今日のビデオ : And I Love Her
-- The Beatles

30 August 2007

少女という女性(1)


前回の事件についてもう少し考えてみたいと思うけれど、その前に、ニッポンのX市での経験を振り返る必要がありそうだ。あの都市では犬のことに限らず、いろんなカルチャーショックを体験したわけだが、中でも気になったのは、10代半ばから20代前半くらいまでの男たちが、ほぼ毎日のように公園に集まり、小中学生の女の子たちに近づいていたことだった。

それくらいの年齢の男子というのが、女性という性に非常に関心があるというのは理解できるけれど、あの年齢で自分よりずっと年下の女の子に近づくというのは、ぼくには不思議でならなかった。あれくらいの年頃のとき、ぼくの場合は、年上の女性に憧れたものだし、たまに近所の子どもと遊ぶことがあったとしても、ふだんは同い年くらいの女の子とつき合っていたように思う。

それで、ぼくは愛犬と公園で休憩しながら、毎日のように公園に集まる男子たちをさりげなく観察したのだが、ここだけの話、どいつもこいつも女の子にもてそうにないタイプばかりのように見えたのだ。どういうわけかぼくになつくヤツが多かったことは確かで、人柄としてはそれほど悪かないとは思ったけれど、どう見ても同年代の女子には相手にされそうにない連中が目立った。それは容姿の問題というより、フィーリングの問題だと思う。英国系イヌバカ紳士として、ぼくはそう思ったわけだ。

それはぼくの偏見ではなさそうだった。小学校低学年くらいの女の子たちは、毎日のように一緒に遊んでくれる楽しいオニイサンのように思っているようだったけれど、高学年になるとあからさまに嫌悪感を示すような女の子が多かった。そういう女の子に対して、むきになって応戦している男たちの姿を見て、ぼくは男性という性の哀しさを思い知るのだった。

しかし、それよりも不可解だったのは、嫌っているはずの男たちにも、いつのまにか近づいている女の子たちが目立ったことだ。きょうのテーマはそのことだったのだけれど、長い話になりそうなので、この続きは次回に話すことにしよう。

今日のビデオ : 愛し君へ
-- 森山直太朗&Salyu

29 August 2007

女性という性

元のイヌバカ系に戻ったと思ったら、いきなり死刑問題に発展してしまい、このテーマではまだまだ話したいことがイッパイあるのだけれど、きょうはまた少女系の話題になりそうだから、不思議の国のウサギさんもビックリ仰天だろうか。

というのは、数週間前のこと、どこかのニュースサイトで、とても気になる記事を見てしまい、そのことがずっと気になっていたのだ。このブログがいつのまにか少女系になってしまったのは、ぼくのDNAのせいでもなく、東洋英和女学院のせいでもなく、たぶんあの記事のせいじゃないかと思う。それを今ネットで検索してみたら、分かりやすくまとめているページが見つかった。これを読むと、ぼくがずっと不思議に思っていたことが、やや納得できたような気がした。

東京ディズニーランドには、若い頃に、おそらく20回以上は行ってると思うけれど、ぼくの場合、ひとりで出かけたことは一度もないのだ。それがふつうだと思っていた。もちろん、ぼくは人それぞれの自主独立の精神を尊重するから、何もひとりでディズニーランドで遊ぶ人がみな変人だとは思わない。ただ、その事件の場合、容疑者の男は、年間パスポートまで買っていて、問題の女子中学生と出逢うまでは、なんだかひとりで出かけていたようであり、それがぼくにはすごく不思議な気がしていたのだ。このごろの秋葉原には、少女アイドルの追っかけオジサンが、デジカメ片手に神出鬼没しているらしいから、ディズニーリゾート(この名前はぼくにはピンと来ないけど)の美人ダンサーを追っかけるオジサンがいても不思議ではない世相なのかもしれない。

こんな調子でこの事件を語っていては、世間の良識派と何も変わらないことになって、英国系イヌバカ紳士のブログらしからぬ状況になってしまう。だからというわけでもないのだが、ぼくがずっと気になっていたもうひとつ別の視点から、この事件を考えてみたいと思う。

問題の女子中学生だけれど、この子も年間パスポートを所有していて、たったひとりでディズニーリゾートに遊びに来ていたらしい。そのパスポートの料金は、中学生も大人と同じ75,000円だという。そのような高価な出費を親が許していたということ。しかも、娘がひとりで出かけていたことを、少なくとも黙認はしていたのだろうということ。そして、その少女は胸をさわられるまでに、何度もその男と待ち合わせして、ふたりだけでディズニーリゾートで遊んでいたこと。このようなことを考えると、ぼくには何を今さら青少年健全育成条例違反なのかと思ってしまうのだ。その追っかけオジサンの出番の前に、親たち自身が自分の娘のことさえシッカリ育成できていなかったのじゃないか。

その少女の年齢は14歳だという。これが13歳未満だとすれば、この事件は(たとえ少女としては胸タッチOKの気分だったとしても)自動的に強制ワイセツとして扱われる。強制ワイセツというのは親告罪になるから、逮捕され拘留された容疑者から支払われる慰謝料によって、被害者(13歳未満の少女の場合はその保護者)の多くは告訴を取りやめて裁判ざたにはしないらしい。こないだこのブログで、強制ワイセツ事件には冤罪が多いように思うとぼくが言ったのは、被害者を装った少女たちが実際に存在しているからだ。

カネのためには平気で自分のからだを売る少女たちがいる。カネのためには、自分の子どもに保険をかけて殺す親までいる。こんな人間社会にあっては、本来、弱者を救うためにあるはずの法律までもが、弱い者イジメに使われてしまうこともあるのだろう。

きょう取り上げた事件のことは、ネットで知る情報だけで推測するしかないので、ぼくは何もその女子中学生の保護者がカネ目当てに警察ざたにしたと断言したつもりはない。ただ、女の子が14歳にもなったなら、男とのつき合い方の基本くらいは、まず本人が自覚すべきだし、そのような基本が身についていないために不愉快な体験をしたのであれば、誰よりも本人が自分の至らなさを反省すべきじゃないだろうか。もしそのような反省もなく、一方的に男を悪者にして法律で裁こうとするとすれば、法律を汚すことになりはしないか。いや、法律なんてものよりも、もっとずっと尊いもの、女性という性を、汚すことになるのじゃないだろうか。とにかく、なんだか、哀しい。

今日のビデオ : 会いたい
-- 沢田知可子

28 August 2007

死刑を考えた

一緒に自殺する仲間を集めるサイトがあるかと思えば、一緒に犯罪を決行する仲間を集めるサイトまであるらしい。このニッポンて国では、大学入試の会場に母親と一緒に現れる受験生がいるくらいだから、年齢だけ大人になっても、ひとりでは何もできない人間が多いのだろうか。

携帯電話のサイトに「闇の職安」とかいうのがあったらしく、そこはなんと犯罪仲間を募るのが目的だというから、攻撃的なイヌ嫌いに対してまでヨイコぶる愛犬家だって、ビックリ仰天の仰向け状態だろう。

今月25日午後1時頃、愛知県警本部にこんな通報があった。

「女性を拉致して金を奪い、殺害した。遺体を岐阜県内に埋めた」

通報したのは川岸健治(40歳)という男で、この男は神田司と堀慶末(よしとも)という名の30代の男たちと「闇の職安」で意気投合し、「カネを奪うには女がいい」という基本方針に則り、見ず知らずの女性(31歳)を乗用車で拉致して犯行に及んだ。殺害の凶器はハンマーで、女性の頭を数十回も殴ったという。奪ったカネは7万円。キャッシュカードで現金を引き出そうとしたが、暗証番号が分からず失敗した。

ぼくがこの種の犯罪事件を取り上げるのは非常に珍しいと思う。なぜその気になったのかというと、警察に通報したときの川岸容疑者の言葉、「顔を見られたので殺した。死刑が怖くて通報した」というのを見て、ぼくが思っていたとおりの凶悪犯のホンネを語ってくれたように感じたからだ。

ぼくは死刑廃止論者だ(ピーター・バラカンはBBとは別人なので、過激派の右翼は勘違いして襲わないように!)。それは、どのような理由であれ、人間には人の命を奪う権利はないという基本方針が、ぼくにはあるからだ。それだけじゃない。死刑などによって凶悪犯罪が減るようなことはないという専門家の研究報告があるし、そんなことは専門的に調査しなくたって、人間という生き物の不条理を考えてみれば、予想できることなのだ。

川岸容疑者は「顔を見られたので殺した」と言ったが、もしも女性を殺さないでカネだけ奪ったのなら、かなり重い犯罪とはいえ、殺人罪よりはずっと軽い刑罰で済んだのだ。それなのになぜ殺したのか。「顔を見られたので」と言ってるように、証拠を残してはまずいと思ったのだろう。そのとき彼らの心の中には、ただ警察に捕まりたくないという思いだけがあったのであり、殺人によって極刑になる可能性など考えていなかったのだ(正確には、考えたくなかったということなのだろうが)。

死刑を支持する人は、死刑という極刑があるから凶悪犯罪が抑止されるというようなことを言うけれど、それは頭の中で勝手に思い描いた空論だと思う。犯罪大国アメリカを見ればいい。先進国と呼ばれる国で今でも死刑を存続させているのは、ニッポンとアメリカだけだが、アメリカにおける凶悪犯罪の多さを知れば、死刑による犯罪抑止論を支持するわけにいかなくなるだろう。

川岸容疑者は「死刑が怖くて通報した」と言ったそうだが、これは全く犯罪抑止論には貢献してくれないと思う。殺人を犯した人間が、犯行後に死刑を怖いと思うのはむしろ当然であって、もし死刑が怖いから人間を殺さないという精神があるとするなら、たとえば少女を強姦してから殺害するなんてことはできないはずだ。

こういうことを言うと、さらにこんな反論をする人もいるのだろうか。死刑があるおかげで、人を殺したくても殺せない人間がイッパイいるのだと。ぼくの死刑廃止論への反論の中で、「私は死刑があるから人を殺さない」と言った人が実際にいた。それを聞いて、ぼくは非常に驚いた。ぼくは死刑があるから人を殺さないのではない。人を殺すべきではないと考えるから死刑に反対するのであって、あえてぼくの個人的感情を述べるなら、ぼくはどんな理由であれ、この手で人を殺したいとは思わない。そんな感情論はともかく、死刑を廃止した国で凶悪犯罪が増えていないという事実を、犯罪抑止論者はどう説明するつもりなのか。

「顔を見られたので殺した。死刑が怖くて通報した」という言葉には、ただ人間の自己中心的な欲望だけが見えるのであって、欲望を満たすためには人の命を奪っても平気だという感覚こそが何よりも問題なのだ。そのような犯行に及ぶことのできる人間てのは、犬や猫も平気で殺せるにちがいない。実際、日本人に限らず、殺人を犯す人の多くは、子どもの頃に動物を虐殺しているという専門家の研究報告がある。

ぼくは動物を虐待できるような人間を、これ以上はないくらいに激しく軽蔑しているが、そのような人間を殺したいと思ったことは一度もない(その種の連中がこの地球上から消えてくれれば、地球はずっと平和に近づくだろうとは思うけれど)。愛する者を殺された人には心から同情する。しかし、たとえ自分が同じ被害者遺族の立場になったとしても、犯人の死刑を望むことはないだろう。

復讐などによっては、ひとは決して救われることはない。同じような犠牲者がひとりでも少なくなるような社会を作るために、ひとはいかに生きて、どんな社会を目指すべきか。わずか7万円のために人を計画的に殺すことのできるような人間はどのようにして育ったのか。そのようなことをシッカリ追究するのが、何よりも必要なことのように思う。

今日のビデオ : Killing Me Softly With His Song

27 August 2007

動物と人間の関係


そのインドネシア宣教師は、「犬、蛇、カタツムリ、タニシ、なまずなどを食べるこちらの食習慣」と書いて、あちらの食習慣とやらを認めるようなことを言った。そこに列挙された生き物を見て、何に気づくだろう。イヌ以外には、眼の不自由な人のパートナーになれそうなのはいないように思うが、ぼくの思い過ごしだろうか。イヌ以外には、笑う動物がいないように思うが、ぼくの勘違いだろうか。イヌ以外に、愛する人との別れを悲しむ動物がいないように思うが、これもぼくがヘビやカタツムリやタニシやナマズとお友だちになった経験がないからだろうか。

日本人で動物を愛する(ように見える)人の中にも、イヌを食べる食習慣を疑問に思わないままに、生き物のいのちは平等に尊いなどと主張する人がいる。こんな意見を聞くと、じゃあ、どうして生き物をみーんな平等に食べないというベジタリアンにならないのかと、ぼくは不思議に思ってしまうのだ。ブタだってウシだって殺して食べているのだから、そこにイヌを加えて何が悪いという発想なのだろうか。ふたりの人間を殺した殺人者にとっては、もうひとり殺してもたいして変わらないってことなのか。

ぼくが聴いたジョン・ストットの説教の中で、たしか次のような聖書の言葉が引用されていた。
正しき人は家畜の求めるものを気づかう。
悪しき人はその同情すら残酷だ。(箴言12:10)

A righteous man cares for the needs of his animal,
but the kindest acts of the wicked are cruel. (Prov.12:10)
聖書で「正しき人」というとき、それは「異文化を尊重しましょう」だとか、「イヌ嫌いの人もいるのだから、犬を必ずつなぎましょう」だとか、その種のヨイコ言葉を連発するような人のことではない。聖書のいう「正しき人」とは、創造主なる神に従う人のことなのだ。

ストットは、育ちのいいイギリス人らしく、動物を非常に愛する人のようだ。野鳥観察が趣味らしいが、イヌを食べるような食習慣を認めるような人でないことも確かだと思う。彼はラグビー校(Rugby School)という名のパブリック・スクールに学んでいた頃に、福音派プロテスタントの信仰をもつようになるが、きっとそれ以前から動物を愛する人であったのだろう。

日本人に向かってイヌ肉問題をテーマにすると、愛犬家だからイヌを特別視するのだろうという反論をよく耳にするけれど、ぼくの経験では、ニッポンの犬の飼い主の多くは、このテーマには全く無関心であって、時に関心を示す人がいたとすれば、「異文化を尊重できない人は心が狭い」などと言って、国際人を気取るような人がふつうなのだ。

ストットは、あの説教の中で、創造主の目的にかなうような動物と人間との関係を強調していた。そのような関係を無視する場合、ひとは動物を自分勝手に利用して虐待するようなこともする。そんな内容のメッセージだったように記憶している。

先ほど、日本語圏でなんとかこのようなテーマで語っているサイトがないかと調べたら、まさに目的どおりのページを見つけた。こんなのに出逢うと、日本人も捨てたもんじゃないと思う。これを読んでくれれば、もうぼくは何も言うことはない。

とは言ったけれど、ひとつだけ「家畜」という言葉について少し話しておきたいと思う。きょう引用した聖句にある「家畜」とは、牛や馬のような動物のことだと思うけれど、東京大学では、附属動物病院のことを長いあいだ「家畜病院」と呼んでいた。しかし、患者の多くが犬になってから、さすがにそれじゃ変だということで、今年から「動物医療センター」と呼ぶようになったのだ。犬を人間の家族の一員として創造した神の目的にかなった名前だと、ぼくは評価している。

参考リンク:箴言(動物愛護)

☆ 上で話したウェブページです。この筆者がどんな人かと調べてみたら、その人の戦争責任論を読んで、非常にガッカリしました。ニッポンに多い右翼系のクリスチャンのようです。このことについては、近いうちにこのブログでもキッパリと批判するつもりでいます。ぼくの経験では、右翼的な精神構造の人間には、ぼくのイヌ論は通じない傾向があるのです。だから、この人も口では「動物愛護」などと言いながら、いざとなれば、「他人の食習慣を批判するのは自己中心的だ」とか言って、良識人を気取るのかもしれないです。

今日のビデオ : メロディとの再会

☆ ニッポンのテレビで何度か放映され、ある世代の人たちにはすごく懐かしい映画「小さな恋のメロディ」。その映画で共演したトレイシー・ハイドとマーク・レスターを再会させようということを誰かが考えたようです。この映画は、英国ではほとんど知る人のいない映画で、主演したトレイシーの親友でさえも、かつて彼女がニッポンの映画雑誌で女優人気投票の首位を独占していたことなど全く知らないのです。

いつかこのブログでこの映画の話をしたとき、現在、トレイシーがフランスの田舎に住んでいることを書いたと思いますが、そのとき、きっと犬も一緒に暮らしているだろうと言ったような記憶があります。ぼくはテレビを見ないから、きのうこのビデオを発見するまで、こんな再会シーンがあったなんて知らなかったのですが、トレイシーの家の中から犬の吠える声が聞こえたので、「ほーら見てごらん」と思いましたね。

トレイシーもマークも、ごくふつうのイギリス人という感じで、人柄も良さそうだし、英語もきれいだし、とにかく安心しました。

今日の付録 : 1971 film "Melody" - First of May
Now we are tall and Christmas trees are small
And you don't ask the time of day ...

26 August 2007

イヌ&クリスチャン


先日、たまたま日本人宣教師の書いた文章を見る機会があって、その人はこんなことを言っていた。
こちらの神学生、あるいは寮に入っている中高生たちは特別の時以外は、豚肉、鶏肉などは口に入りません。そのような状況を見る時に犬、蛇、カタツムリ、タニシ、なまずなどを食べるこちらの食習慣も納得できるようになってきました。(高橋めぐみ「カリマンタンだより 2002年3月」より)
「こちら」というのはどこのことかと言うと、インドネシアのカリマンタンのことらしい。実はこないだ、ニュー老人党に従軍慰安婦問題のことで投稿したのだけれど、そのとき、インドネシアを訪問したばかりの安倍首相の歴史認識を批判するようなジャカルタポスト紙の記事を紹介したのだった。その記事の中にひとりの老婦人が登場して、慰安婦問題について無責任な発言を繰り返す安倍首相の顔をひっぱたいてやりたいと言っていたのだ。その女性は、ニッポンに侵略されたカリマンタンで暮らしていたらしく、当時わずか13歳だったのに、日本兵に性的奉仕をするように強制され、それはニッポンが連合国に降伏するまで3年間つづいた。

あれ? きょうは戦争の話をするつもりじゃなかった。ここしばらく少女関係の話題がつづいたので、そんなことじゃあ英国系イヌバカ紳士というより、オックスフォードのコレッジで数学教師をやりながら、学寮長の幼い娘アリスと一緒に散歩することを何よりも幸福に思ったルイス・キャロル系になってしまいそうだから、ここら辺りでまた元のイヌバカにもどらないと、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないと思ったわけだ。

それで、その宣教師だけれども、彼女が日本人としてどのような歴史観をもっているのかは知らないが、関係しているキリスト教会の名前を見ると、どうやら福音派プロテスタントのようなのだ。と、ひとごとのように言っているけれど、実は、ぼくは彼女の名前くらいなら、かなり昔から知っていた。そんなことはどうでもいいのだが、聖書以外には教会の権威を認めないはずの福音派にあって、イヌを食うことにまで素直に納得してしまうという、そのいかにもニッポンジン的な感性に、ぼくは今さらながらヒジョーに驚いてしまったのだゾウさん。

ぼくはロンドンの教会で、動物と人間との関係をテーマに語るジョン・ストットの説教を聴いたことがあるが、どんなテーマであっても必ず聖書の視点からしか語らないストットのメッセージは、そのときもいつもと変わらず、ぼくには創造主の声を代弁しているように思えた。

クリスチャンが本当に創造主を信じるというのならば、イヌという動物は一体なんのために創造されたのかを知るべきだろう。盲導犬として人間に利用されるのが目的だったのかどうか。それはぼくにも分からない。ただ、分かるのは、イヌという動物が自分の生涯を眼の不自由な人のために捧げるほどに、人間を信頼してくれる動物だということだ。

きょう最初に引用した宣教師の文章を最初から最後まで読んでも、イヌの肉まで食べるインドネシア人の食習慣に納得したとかいうその理由が、ぼくには全く納得できなかった。地元の人々と一緒に長く暮らせば、異文化にもそれほど違和感を感じなくなるのだろう。友だちも増えていくのだろう。友だちになると、まちがっていると思えることでもハッキリ言えなくなるのが日本人なのかもしれない。いや、そもそも何が正しくて何がまちがっているのかという基準がハッキリしないのが、日本人の特徴なのかもしれない。

「イヌという動物は、神さまが人間の友だちとして創造してくださった動物です。聖書は友だちの大切さを語っています。友だちを殺して食べるなど、クリスチャンにできることでしょうか」

ぼくが宣教師としてインドネシアで働くとしたら、これくらいのことはハッキリ伝えるだろう。そんなことじゃ、キリスト教が嫌われるだろうって? ニッポンの右翼に嫌われないように、信者にまで靖国参拝を認めているカトリックのようなのがキリスト教だというのなら、教会は聖書を捨てて教育勅語でも拝んでいればいい。

参考リンク : 問題の宣教師によるカリマンタンだより

☆ この中で、宣教師は地元の現状について、「モラルが低く、多くの問題があります」と報告しています。ぼくはマハトマ・ガンジーの言葉をまた思い出しました。
国家の偉大さとモラルの発達程度は、その国で動物たちがどう扱われているかを見れば分かる。

The greatness of a nation and its moral progress can be judged by the way its animals are treated.

今日のビデオ : Too Much Rain
-- Paul McCartney

☆ イギリス人のビデオですが、犬のことで近所のオバサンに何か言われたようです。英国にもイヌ嫌いで威張っている人間がいるというのは知っています。誰かがこんなコメントを残していました。
What a nasty woman telling him off like that...Boo!

なんてひでえオバサンなんだ。あんなふうに犬を追い払うなんて...ブーだゾウさん!
やはりイギリス人のようです。

このビデオを作った人はなぜポール・マッカートニーのこの歌を選んだのでしょう。イヌくらいに幸福と平和の似合う動物はいないのに、権力をもつ人間はそれを理解しないで威張っている。とかくに人の世は住みにくい。ならば、ただ犬のように笑って楽しく生きるしかない。そんな気持だったのだろうか。
It's too much for anyone
Too hard for anyone
Who wants a happy and peaceful life
You've gotta learn to laugh

25 August 2007

あぶない話


70代の老人が小学生の少女のからだにさわるなどして逮捕されたという記事を見て、ぼくはまた風呂場で考え込んでしまったのだ。本当にその老人はいかがわしい目的で少女に近づいたのだろうか。逮捕されたということは、少女の親が警察に訴えたに違いない。その親は事実を正確に把握していたのだろうか。

この種の事件が公表されると、多くの人は「またか」と思い、変態ジジイの醜悪な姿を想像して気分が悪くなるのだろう。特に女性ならば、自分の不愉快な経験なども頭の中で混ぜこぜになって、「男ってこれだから信用できない!」と、今さらながらに、男性なる動物への不信感を再確認するのかもしれない。男性の中にだって、「こんなヤツは男の恥さらしだ!」とか言って、正義の味方を気取る人も少なくないのだろう。とにかく、世論というのは、この種の事件があると、「加害者」の人格を軽蔑するほどにその犯罪性を信じ切ってしまうようだ。

もちろん、いかがわしい性的欲望に支配されて少女に近づくような男は存在するだろう。ぼくもそれは確かだと思うけれど、強制ワイセツという事件には、強姦などに比較すると、ずっと冤罪も多いような気がしている。その種の犯罪による被害者の多くは沈黙しているのがふつうであって、それは確かに大問題だが、警察ざたになるような事件を、マスコミが報道するままに信じるというのは、あぶないと思う。

検事や警官というのは法的にフェアにやっているようでいて、実はそうでもなかったりするのが現実だ。拘留された被疑者が非常に不利になるような仕組みがこのニッポンにはある。刑事から威圧的に自白を強要される場合もあるようだし、また、刑事の甘い言葉に誘導されるがままに供述調書に指印する被疑者もいるだろう。裁判所にしても、刑事事件の90パーセント以上が有罪になるというニッポンの異常な状況下にあっては、本当にフェアにやってるのかなと思ってしまう。実際、この国では、無罪判決を下す裁判官は出世できないというウワサを聞いたことがあるし、裁判官なる人間もけっこう世論を意識しているようでもあるし。

小学生の頃、塾の教師に手をさすられたときに、非常に気持が悪かったわけだけれど、もしそのことをぼくが親に話して、「塾に変態教師がいる」と言ったら、どんなことになっただろうか。あの時代の親たちはまだ安全信仰に洗脳されてはいなかったし、妹ならともかく、「君たち男の子、ヘイヘイヘイ」の男の子なんだもん、スケベ教師に手をさすられたくらいでタマタマがなくなりはせん。てなことで、一件落着となったような気がする。

それに比べて、やはり女の子は大変だね。いや、大人の女性だって大変じゃないかな。ヨン様にお尻をさわられてもセクハラとは思わないオバサンだって、会社の小太り課長に手を握られただけでゾーッとするわけでしょ?

従軍慰安婦問題では、徹底して女性の味方になるBBではあるけれど、ある種の女性たちのセクハラ騒動にだけは、つき合ってはいられないのだ。こんなことを平気でしゃべるから、ぼくにはまた敵が増えて、いつまでも「悪いヤツ」になってしまうのだろうな。

今日のビデオ : 女の子なんだもん(1973)
-- 麻丘めぐみ

☆ 先日の「わたしの彼は左きき」につづき、この人に再登場してもらったわけですが、ぼくは決して彼女のファンではなかったのです。南沙織のようなお姉さんぽい女性は素敵だなあと思っていたのは確かですけどね。幼稚園の先生が初恋の相手であり、小学生の頃には人妻に恋していたというBB少年でしたから、きっと麻丘めぐみってのは、どこか幼すぎるイメージがあったのでしょう。でも、今こうして見てみると、けっこう可愛いですね。ぼくもあぶない年頃なのでしょうか。

24 August 2007

丸善のロリータ

ぼくが「シベールの日曜日」という映画を見た場所は、映画館ではなく、大学の教室だった。たぶん映画同好会のようなサークルが主催したものだったのだろう。どんな映画なのか予備知識は何もなかったと思う。その意味では、いつか話した「ミツバチのささやき」と同じだった。このふたつの映画に共通するのは、少女の哀しさということになるだろうか。ぼくには、少女の哀しさというものが、人間そのものの哀しさにつながっているように思えてしまうこともある。

ナボコフの『ロリータ』は、いつかは読まなくちゃと思っていた小説だ。今ぼくの書棚のどこかには、英国のエブリマン叢書の1冊としてのLolitaが眠っているはずだが、ここだけの話、これを買うのにはけっこう勇気を必要としたのだ。結局、日本橋の丸善で買ったのだけれど、あの店にはいつも大きな犬を連れて入ったので、ふつうより目立つみたいだったし、ぼくがふだん洋書売り場で買う本といえば、アガサ・クリスティの推理小説だったり、シェイクスピアの悲劇だったり、キーツの詩集だったりしたものだからして、「今なぜロリータなの?」という素朴な疑問が、もしかして顔なじみの女性店員の心の奥底に生起する可能性もあるのじゃないかなどと、余計な心配をしていたのだった。

いやはや、たかが小説1冊買うのにこれほどまでに苦労するなんて、ぼくもロリータなる名前に対して世間並みの偏見を抱いてしまっていたのかもしれない。そういえば、BBCのコメディー「モンティ・パイソン」の中に、いかにも紳士ふうのスーツ姿の男(ジョン・クリーズ)が、日常品のような品物をいくつかレジにもって行ったと思ったら、ほんのついでにという軽い調子で、店員に「これも」と言ってエロ本を差し出すなんてのがあったように思う。

さて、その『ロリータ』だけど、予定ではペンギン叢書で買うつもりだったのだが、丸善で実際にその表紙を見てドッキリしてしまったのだ。写真ではなく油絵か何かだったのだけれど、ミニスカート姿の女の子が大胆にパンツを見せているじゃないか。読者よ、そのときのぼくの絶望感を想像できるだろうか。ペンギン叢書ともあろうものが、よりによって、こんな表紙デザインを採用するなんて、これじゃほんとにロリコンじゃん。そうぼくは思ったわけなのだよ。

というわけで、ぼくはほぼ『ロリータ』購入をあきらめかけたのだけれど、そこは天下の丸善。何もペンギンにこだわる必要もなかったのだね。ただ、ぼくは英語関係の洋書は、アメリカで発表されたものであっても、原則として英国の出版社で出しているものしか買わない。それはぼくがアメリカを嫌っているからというよりは、センスの問題なのだ。特にアメリカのペーパーバックってのは、装丁の趣味が悪すぎるように思う。

あの日、ぼくが丸善で買った Lolita は、エブリマン叢書の1冊だった。表紙に怪しげな少女の絵などなかったし、著者のナボコフは、アメリカで有名になったとはいえ、ロシアから英国に亡命してケンブリッジ大学で学んだ人だから、アメリカの安っぽいペーパーバックよりは、英国のクラシックなエブリマン叢書が似合うように思えた。

ところで、きょうの写真だけれど、みゆき座で「シベールの日曜日」が公開されたときのパンフレットの表紙らしい。今でも「みゆき座」という名前は残っているようだけれど、昔の日比谷映画街の匂いは、今の東京には消えてしまったように思う。

今日のビデオ : Goodbye Alice in Wonderland
-- Jewel
So goodbye Alice in Wonderland
Goodbye yellow brick road
There is a difference between dreaming and pretending
I did not find paradise
It was only a reflection of my lonely mind wanting
What's been missing in my life

23 August 2007

シベールの日曜日

こないだ、ぼくの小学生時代の思い出を語り、その種の傾向をもつ男の話をしたわけだけど、ぼくの髪の毛をさわって「やわらかい髪だなあ」と言った教師は、決して変質者ではなかったように思う。ただ、小学生ながらも、ぼくには男同士がベタベタするってのは、どうにも気持ち悪いことのように思えていたのだろう。

ナボコフが『ロリータ』なんて小説を発表したために、ロリコンという言葉が生まれ、その種の傾向をもつ男たちの中から過激派が活動するようになったのは、女の子にとって不幸な時代に入ったといえようか。しかし、ずっと昔から不幸な女の子は少なくなかったようだ。太平洋戦争時、日本兵のために性的奉仕を強制された「慰安婦」たちの中には、13歳未満の少女も含まれていたという。そのような「慰安婦」としてどころか、街中で強姦され殺された少女たちもいたのだ。日本軍の士官の中には、それを黙認し、証拠を残さないようにと指示していたのまでいたそうだ。強姦したあとに殺すというのは、現代の犯罪者たちと変わらない。当時はまだロリコンという言葉はなかったのに。

あれ? きょうはもっと美しい話をするはずだった。「シベールの日曜日」というのは、フランス映画の題名である。1962年の映画らしいから、ナボコフの『ロリータ』が有名になったあとの時代に制作されたことになる。ベトナムの戦地で記憶喪失となった青年ピエールが、親に愛されていない孤独な少女と出逢い、日曜ごとにふたりで仲良く散歩するという話だ。『ロリータ』とはちがって、彼らには性的な関係は何もなかった。ピエールはシベールと一緒にいると、まるで少年のように振る舞うのであった。

しかし、周囲の大人たちは、彼らの関係を怪しむようになる。ピエールのことを変質者のように決めつけた医者がいて、その人は彼のことを警察に通報した。ふたりを尾行した警官の勘違いによって、ピエールは射殺されてしまう。あのとき、ふたりはただ公園の池のそばで、クリスマスを楽しんでいただけだったのに。

ピエールが死んで、シベールはまたひとりぼっちになってしまった。ロリコン時代になって、女の子はやはり不幸になったのかもしれない。

今日のビデオ : 夜空ノムコウ
-- 桑田佳祐

22 August 2007

麻布のイギリス人


麻布で散歩中に知り合った外国人の中には、イギリス人もけっこう多かった。麻布に住んでいるイギリス人もいれば、旅行で訪れたイギリス人もいたのだけれど、彼らはみなぼくと初めて会ったときに、それが当然であるかのように英語で話しかけて来た(時にフランス語で話す人もいたけれど)。当時、ぼくもそれを別に不思議には思っていなかった。ただ、以前このブログで話したことがあったように思うけれど、地方都市で暮らすようになって、そこの街では外国人もカタコトの日本語で話しかけて来るのが普通だったものだから、それで初めてぼくは、東京の麻布という土地柄の特殊性に気づいたわけだった。

どうやら東京で暮らす外国人も麻布の国際性に気づいているらしい。でも、今まで一度も、知り合いの外国人たちから、それをテーマとして意見を聞くようなチャンスがなかった。有栖川公園を散歩中、ピーター・バラカンを見かけたとき、彼はぼくと眼が合って、それからぼくの愛犬をちらっと見て微笑むくらいの余裕はあったようだけど、そのあと急いで公衆便所へ向かって走って行ったものだから、質問するきっかけがもてなかった。まさか便所にまでついて行って、彼の隣りに立ち、麻布の感想を尋ねるわけにもいかなかったのだ。便所で隣り同士になったときは、「息子さんは元気にやってますか?」と言ってニヤリとするのが、紳士のマナーというものだ。もちろん、そのとき相手の領域を覗き込むような真似をすれば、マナー違反である。

それはともかく、だいたいぼくは麻布に住んでいて、外国人を特別に意識したことがなかったように思う。「外国人」という言葉自体、こうして使っていても、いつも違和感を覚えてしまうくらいだ。麻布という町には、どう見ても外見上は西洋人に見えるのに、東京弁しかしゃべれない人間も住んでいる。ぼくは生っ粋の東京っ子のつもりでいたけれど、日本人と結婚して麻布に住むアメリカ人の女性から、「あなたはイギリス人みたいに見えるのよ」と言われたこともある。英国系イヌバカ紳士としては、これを聞いて喜ばないはずがないところだけれど、文脈がちと複雑だったので、ぼくの気持としてもやや複雑だった。これに関してしゃべり始めると、夏目漱石かモンテーニュみたいな長話状態になってしまいそうなので、きょうはやめておく。

実はきょうは全く別の話をする予定だったのだが、先ほどたまたまネットで見つけたサイトで、リバプール出身のイギリス人が、こんなことを言っていたんだ。
やっぱりニューヨークに移ったらニューヨークらしいところに住みたいし、東京に移ったら東京らしいところ、日本的なところに住みたいと思うよね。だから、僕にとっての麻布十番は最適で素敵な街なんだ。

麻布十番というのは、麻布の高台を下ったところにある町で、その中心部には300年以上の歴史をもつ商店街がある。麻布の高台が西洋的であるのに比べ、確かに麻布十番には今も日本的な下町情緒が残っているように見える。イギリス人にはそんな風情が魅力なのだろう。

麻布のような町だと、イギリス人にも違和感なく住めるのだと思う。ただこのような町で育った日本人というのは、ニッポンのほかの都市で暮らすと、地元の人々からは異様な人間に見られる傾向があるのかもしれない。例の地方都市で出会った人がぼくにこう言った。

「東京なんかには住みたいとは思いませんね」

地方都市の人には、どうも東京に対して対抗意識の過剰な人が目立つような気がする。その種の東京批判を聞いても、ぼくはいつもただ黙って聞き流すだけだけれど、心の中では麻布のことを思い、あんなに居心地のいい町はニッポンにはないだろうと思ってしまうのだ。少なくとも、麻布がニッポンでいちばん犬にやさしい町であることは確かだと思う。

参考リンク : 麻布時間

今日のビデオ : 慕 情
-- スガシカオ & Salyu

21 August 2007

視聴率


田原総一郎が視聴率を重視するのは、結局、正義などよりは人気がだいじだと思っているからだろう。いかにもニッポンのテレビ族らしい。先日このブログで「視聴率」なんて言葉が出て来たのは、ニッポンのケージバンの特徴として、テレビ族と同じような価値観で、正義よりは視聴率を優先するかのような管理体制のものが目立つように思ったからだ。とは言っても、ぼくは日本語圏のネット世界にはそれほど馴染んでいないわけで、ごく限られた体験の中でそう思っているにすぎないのだけれど。

しかし、その限られた体験てのが、ひとつは愛犬家グループであり、もうひとつは平和主義の護憲を唱える政治的グループであったわけで、そのどちらもが正義よりは表面的なマナーを重視していて、広く浅く多くの人をメンバーにしようとしているかに見えたのだから、繊細な感性をもつ英国系イヌバカ紳士としては、非常にショックであったのだゾウさん。

愛犬家グループの中で、イヌの命を軽んじるような発言があったとしたら、それを怒るのが本来の愛犬家ではないだろうか。しかも、その発言者ってのが、ことあるごとに他人の発言の邪魔をしながら、「礼儀」だとか「規則」だとか、その種のヨイコ言葉を連発するとしたら、どうだろう。繊細な感性をもつ英国系イヌバカ紳士だって、そんなものを黙って見過ごしてはいられなくなるのだゾウさん。

なんだか、きょうは頭の調子がおかしい。ぼくは時々、自分で何語をしゃべっているのか分からなくなってしまうことがある。このブログでは基本的に日本語でしゃべっているつもりなのだけれど、もしかすると、時々、ゾウさん言葉が出てしまうこともあるかもしれない。

それはともかく、ぼくの感性はゾウさんのように繊細ではあっても、一応、英国系であるからして、逆境にあっても唇かみしめ、stiff upper lip の精神で、アクセス禁止になるまでは、ドン・キホーテのように戦ってしまうわけだ。ドン・キホーテよりは、ロビン・フッドの名前を出したほうが英国系らしかったかもしれないけれど、実は自分でもそんな戦いが時々喜劇のように思えてしまうこともあるんだなあ。

ぼくと同じように繊細な感性をもつ紳士(あるいはレディー)であっても、その人が純粋な日本系であったりすれば、ニッポンのネット世界では生き残れないのじゃないだろうか。もしそうだとすれば、視聴率優先で事なかれ主義でやってるつもりの掲示板なんかでも、実は見えないところでガッタンゴットンと事が起きてるわけで、常連メンバーのマナーというよりは、むしろ感性というか信条というか、そうゆうものに失望して去ってしまう人が多いのだとすれば、動物愛護だとか戦争反対だとかを旗印にするのはやめて、ワイドショー的な立場を明確にしたほうが、最初から誤解されないで済むのじゃないだろうか。

今日のビデオ : 白い恋人達
-- 桑田佳祐

20 August 2007

その種の傾向について


小学6年生の頃だったと思うが、塾の教室で教師が生徒たちに問題演習か何かをさせていたとき、ぼくの席のそばに来たその教師が、「よくできているね」とか褒めながら、ぼくの手をさするようにさわったのだ。きれいな女性の教師なら少しは喜んだかもしれないが、男の教師だったので、ハッキリ言ってかなり気持ち悪かった。

似たようなことは学校の教室でも経験している。いちばんうしろの席に坐っていたぼくの背後に来た担任が、ぼくの髪の毛をなでながら、「柔らかい髪だなあ」と言ったのだ。こうゆうことをしたからって、特にその種の傾向をもつ教師であったとは限らないと思う。ただ、渋谷駅の公衆便所だったと記憶してるけど、用を足しているときに、隣りに立ったおっさんが、ぼくの領域を覗き込みながら鼻息を荒くしていたことがあって、あれはどう考えてもその種の傾向をもつ人だったのだと思う。

母から聞いた話だと、赤ん坊の頃のぼくはどこへ行っても若い女性の人気者だったらしくて、実に多くの女性たちから「抱かせてください」と頼まれたそうだ。なんだかまたネットウヨクを興奮させるような話を始めてしまったような気がするが、母が言うには、それほどに赤ん坊の頃のBBは可愛らしかったという。

可愛らしい赤ん坊が必ずしもハンサムな大人に成長するとは限らないのだから、ひと事のようにこうしてしゃべれるわけだが、おそらく小学生くらいまでなら、ぼくはいわゆる美少年系だったのかもしれないなんてことを言えば、やっぱりネットウヨクが熱湯右翼にゆで上がってしまうだろうか。

それで思い出したけれど、高校時代、友人に変なヤツがいて(というか、ぼくの母校ってのは、変なヤツがむしろ普通だったのだが)、彼には真夜中に家から脱走して近所のポルノ映画館に入るという習癖があった。その豊富な経験の中には、こんなこともあったらしく、空席の目立つ映画館の中で悠々自適の映画鑑賞にふけっていたら、どこかから出現したおっさんが彼の隣りに坐ったそうだ。それだけでもすごく気持ち悪かったらしいけれど、おもむろに彼の太もも辺りをさすり始めたというから、信州の手打ちそばもビックリ仰天だろう。

古代ギリシャまで遡るまでもなく、その種の傾向をもつ人々というのは、昔から特に英国などでは目立つようだし、ニッポンでも森鴎外の『ウィタ・セクスアリス』の中にそれらしき記述があったような記憶がある。しかし(というか言うまでもなくというか)、ぼくには昔から全くその傾向はなくて、女性というすばらしき存在を神さまが創造してくださったというのに、なにゆえにわざわざ男同士で燃え尽きる必要があるのかと不思議でならないのだ。ただ、ホモだからといって特別に見下したりはしないけれど、その気のない少年にまで手を出すのはやめてほしいとは思う。

今日のビデオ : わたしの彼は左きき(1973)
-- 麻丘めぐみ

18 August 2007

歴史と正義


先日、老人党掲示板のスタッフに向かって、「掲示板の品位」をテーマにして、なぜか英国の愛犬家グループの話をしたのだけれど、それはぼくが英国系イヌバカ紳士であるせいもあるが、何よりもニッポンのネット世界にぼくがまだ希望を失ってはいないからだった。

かつてニッポンの愛犬家グループでぼくは何を見たか。「犬を愛する」などと口では唱えながら、結局のところ、人間がイヌという動物を利用してどれだけ自己満足できるかということだけが重要であるかのような雰囲気。そのような空気を感じてどうしようもなかった。犬たちがこの国で幸福であるならば、それでもいいのかもしれない。しかし、このニッポンという国は、余りにもイヌという動物の生きる権利を軽んじてはいないだろうか。犬たちが幸福に生活できるような社会環境がほとんど用意されていないと言ってもいいのじゃないだろうか。こんな状況にあって、飼い主同士が事なかれ主義の薄っぺらな仲良し関係を楽しみながら、ただ自己満足に浸っていてもいいのだろうか。

英国の愛犬家グループでは、犬の幸福が何よりも重要なテーマになる。ニッポンの犬たちに比べれば、英国の犬たちはどれほど自由で幸福であろうか。それでも日々いろんな問題が起こるわけだ。なぜなら、イヌもヒトという非常に危なっかしい生き物の文化に影響されて生きるしかないのだから。

ニッポンの愛犬家グループでは、英国でならば非常識な意見として排除されるような意見が、常連の口から正々堂々と発表される。そうかと思えば、英国では常識として通用する意見が、常連たちから非難されてしまうことも多い。そういう風潮にあくまでも抵抗して発言していると、そのうち管理人までもが多数派の味方をし、アクセス禁止という手段によって、その抵抗を封じることまでする。ふだんその口から「動物愛護」という言葉の出ていた管理人でさえ、いざとなれば犬の幸福よりも人間の「視聴率」を優先するのだ。

「誹謗中傷」などという言葉も、ニッポンのネット世界ではどこでもよく見かけるような気がする。英国ではそんなのを見た記憶がない。激しい議論のやり取りなら時に見かけるが、それは意見の衝突ではあっても、決して誹謗戦争ではないのだ。しかし、もしかすると、ある種の日本人がその場にいたら、「誹謗中傷はやめましょう」などと言って余計な干渉をし、正義を唱える者に向かって「あなたはマナーが悪い」などと忠告するかもしれない。

投稿削除だとか、アクセス禁止だとかも、かの国ではほとんど見た覚えがない。先日、このブログでもちょっと話したかもしれないが、英国の危険犬種法違反で刹処分を命じた判決をテーマにしたぼくの投稿に対して、その判決を支持するような発言をしたメンバーが出現したのだが、掲示板オーナーはその人をメンバーとして認めないかのような姿勢を明らかにした。こういう処置は英国では非常に珍しいけれど、スジを通すという点では、やはりイギリス人らしいと思う。

良識人を気取る日本人はよくこんなことを言う。この世に絶対的な正義などないのだ。いろんな意見があっていい。俺様だけが正しいというのはファシストだと。なんだかいかにも心の広い人のような意見だ。しかし、どういう文脈でその意見が発表されるかが問題だ。

「イジメと正義」シリーズは、予定どおり5話をもって終了したわけだけれど、1億も人間がいれば、あの中で登場した少年たちの「正義」を支持する人だってきっと存在するのだろう。いまだにアサハラを信じる人もいれば、イシハラを敬愛する人もいるし、マエハラに期待する人だっている。それが人の世の不条理というものだ。しかし、ひとつハッキリ言えるのは、あの少年たちの「正義」が本当に正義として通用するのだとすれば、ニッポンの犬たちは不幸なままで終わってしまうということだ。

この地球上、まだまだ犬たちは虐待されつづけているけれど、ニッポンと同じく残虐で貪欲なヒトという動物が支配している国でありながら、英国では犬たちの幸福に生きる権利というものが、国民の常識としてシッカリ守られている。インターネットなどが発明されるよりずっと昔からそうだった。だから、このネット時代にあっても、英国の愛犬家グループでは、犬の幸福のために守るべき絶対的な正義が、常連メンバーに共通して支持されているのだ。

正義よりも表面的な礼儀作法を重視し、一体なんのためのグループなのかと疑ってしまうようなのが、ニッポンのネット世界には多いように思う。それはきっとリアル世界でもそうなのだろう。そのような日本人の世間体感覚の犠牲となるのは、犬たちばかりでなく、子どもたちも同じなのだと思う。英国の子どもたちが、大人たちから動物愛護精神の伝統をシッカリ受け継いでいるのを見るにつけ、ぼくはいつも歴史の違いというものを思って、ただ星空を見上げるしかなくなるのだ。

今日のビデオ : 潮風のメロディ(1971)
-- 南沙織

16 August 2007

戦場に架ける橋

「戦場に架ける橋」(The Bridge on the River Kwai) というイギリス映画を知らない人でも、きっとその主題曲「クワイ河マーチ」(The River Kwai March) のメロディーを耳にすれば、なんとなく懐かしいような気分になるのじゃないだろうか。ぼくが英国系イヌバカ紳士であるせいでもないと思うが、この映画はデコポン、じゃなくて、ハッサク、じゃなくて、傑作だと思う。

これから観てみたいという人のために、ネタバレになるような話はやめておくけど、あの映画で描かれたイギリス軍将校ニコルソン大佐が、英国紳士の典型であるということだけは言っておきたいと思う。「士官である前に紳士たれ」というのがイギリス軍人の心意気であり、つまり、紳士でなければ士官の資格がないというのが英国では常識になるのだ。戦場という非日常の世界でそんなきれいごとが通用するものかと、大日本帝国系の人間は反抗するかもしれないが、それはやはり異文化による紳士観の違いということで説明がつくようなことになるだろう。

英国の紳士教育に多大な影響を与えたパブリック・スクールでは、生徒たちは必ずstiff upper lip の精神を叩き込まれた。直訳すれば、「かたい上唇」ということになるが、それはどういう意味かというと、たとえば悲しくてやり切れないような場面に出くわしたとき、今にも上唇が震えそうになったとしても、そこをグッとこらえて唇をかたくかみしめ、決して人前では涙を見せない。それが紳士道の基本であるというわけだ。簡単にいえば、「紳士のやせ我慢」と表現できないこともない。

しかし、紳士は一体なんのためにやせ我慢するのか。それが問題だ。この話を始めるとまた長くなりそうだから、きょうはグッとこらえてやめておくけど、ひとこと、英国とニッポンでは、その「なんのために」ってのがヒジョーに異なってしまうように思えるということだけは言っておきたいと思う。

映画「戦場に架ける橋」の中でも、ニコルソン大佐のやせ我慢を見ることができるだろう。日本人将校(斉藤大佐)という異文化の怪物のような男に対して,彼は捕虜の身でありながらも、紳士としての尊厳を守り通す。ここは戦場であってイギリス紳士の信条など通用しないという仲間からの助言にも妥協することなく、彼は命をかけて信条を守ろうとする。

ニコルソン大佐の指揮によってついに橋が完成したとき、その橋を爆破しようと待ち構えていたイギリス軍特殊部隊がいた。もうすぐ日本軍の汽車が橋を通過しようとしていた直前、ニコルソン大佐は橋に仕掛けた爆弾のことに気づく。そして、こともあろうに、そのことを斉藤大佐に知らせて、一緒に橋の下に向かうのだ。あのシーンを見て、「なんと愚かなことをするのだろう」と腹を立てるのが普通の観客なのかもしれない。おそらくそれがデヴィッド・リーン監督の狙いだったのだろう。

日本軍の望みどおりに橋を完成させたニコルソン大佐は、あのとき軍人ではなくただの紳士になっていたのだと思う。自分が戦場にいることを忘れていたのだと思う。この世に敵も味方もあるものか。みな同じ人間じゃないか。この橋は必ず平和のために利用されるのだ。きっとそんな気持になっていたのだろう。まるですでに戦争が終わってしまったかのように。

あれ? ネタバレの話はしないはずだったのに、けっこう映画の急所に関係するところをしゃべってしまったようだ。英国系イヌバカ紳士というのは、かくも我を忘れるかのように脱線してしまう傾向がある。長い軍人としての人生の終わりに、軍人として脱線してしまうようなことをしたニコルソン大佐のことを思いながら、さてミルクティーでも飲もうかな。

今日のビデオ : The Bridge On The River Kwai Trailer

15 August 2007

イジメと正義(5)


ある日のこと、赤ジャージ公園の近くで愛犬のウンコを始末していたら、どこかから「きったねえ!!!」と叫ぶ声が聞こえた。見ると、中学校のジャージを着た少年が、遠くからこちらをじっと見ていた。どこかで見たことがあるような気がした。あとで知ったことだが、その中学生は、小学6年生のときに「犬アレルギーの子どもを連れて来い」と子分に命じたあの少年だった。

ぼくと眼が合うと、その少年は逃げるようにして急ぎ足で歩き始めた。ぼくはふだんジョギングなるものをしないのだけれど、たまには走ってもいいかと思い、愛犬と一緒に少年のあとを追った。少年はうしろを振り返り、ぼくが追って来るのに気づくと、本気で走り始めた。ぼくは東京では自動車に乗らずにいつも自転車をこいでいたから、足腰の強さと体力にはけっこう自信があった。必死に走って逃げる少年だったけれど、1キロほど走ったところで、中学校の玄関の中に入って行くのを確認することができた。

ぼくも愛犬と一緒にその玄関の中に入り、用務員らしき人に用件を伝えた。すぐに教頭がやって来て、中に入るように言われた。ぼくは愛犬にそこで待っているように言って、教頭について行った。職員室に入ると、若い教師が生徒の集合写真をもって来て、問題の少年がどの生徒か確認してほしいと言った。それらしき少年が写っている写真を見つけたので、「この子だと思います」とぼくが言うと、「この生徒なら野球部だから、確かにきょう学校に来ていると思います」と、その教師は言った。

そのあとで、ぼくは校長室に案内された。ソファに坐って校長としばらく話をしたのだが、東京から越して来て、その都市のイヌ事情が余りにも違うので驚いたこと、赤ジャージ公園で威張っているイヌ嫌いの大人たちのことなどを簡単に話した。さいわい、その校長はイヌ嫌いではないらしく、ぼくのイヌ論の基本を理解できる人のようだった。最近の子どもたちに、犬のような動物とのふれ合いの体験がないために、動物を異常に見下すような子どもが増えているように思う、と校長は言った。

「ひとつお願いがあります」と切り出して、ぼくは校長にこう言った。

「今回のことで少年たちを諭す場合、どうか教師という権力の立場から一方的に叱るようなことはしないでほしいのです。生徒にとって先生というのは権力者です。だから仕方なく言うことを聞くというのじゃ、ぼくは困るのです。ぼくのように、愛犬を子犬の頃から責任をもって教育している飼い主もいるということ。犬を家族の一員として愛している人間もいるということを、子どもたちに自分の頭と心で理解してもらいたいのです」

数日後、教頭からメールが届いた。その内容はこうだった。調査の結果、7名の生徒たちが、2年間に渡って嫌がらせを働いていたことを認めた。今後は二度とそのようなことをしないと約束したので、わたしは生徒たちを信じたいと思う。どうかそれでご了承いただきたい。

いつかその中学校の前を通ったときに、校舎の窓から数名の生徒たちがこちらに向かって何か叫んでいるようなことがあった。ぼくの犬には友だちの子どものほうが圧倒的に多かったから、きっと知ってる子どもたちが挨拶しているのだろうくらいに思ったのだが、思えば、あのとき何か不穏な空気を感じていたのだった。あれも少年たちの嫌がらせだったのだろう。また、ある日の夕方ひっそりとした公園に愛犬と一緒に入ったとき、突然、中学生らしき少年が3名、走って逃げたかと思うと、大きな音で爆竹が数発鳴ったこともあった。犬が大きな音を怖がるということを彼らは知っていたのだろうか。

犬が危険で悪い動物だというのが真実であるならば、彼らも正義の味方になってしまうのかもしれない。赤ジャージ公園で出会った教師は、「あの子は非常に正義感の強い子なんです」と言っていた。犬はいつもリードにつなぎましょうというのが、まるで社会通念のようになっているニッポンでは、あのような正義を気取る少年が育つのも不思議ではない。

今日のビデオ : バラ色の人生
-- 淡谷のり子

☆ 戦争中も派手なドレスを着てステージに立ったという淡谷のり子。軍歌を歌うことを拒否し、シャンソンやブルースを歌った。真っ赤な口紅にアイシャドー、つけまつげ。「不謹慎だ!」と怒鳴る憲兵に向かって、「素顔でステージに立って、どうなるのですか」とやり返したという。まるで「こんなブスが化粧なしで人前に出られますか」と言わんばかりに。

彼女はプロの歌手として、ステージで涙を見せることをよしとしなかったそうです。しかし、一度だけ例外がありました。特攻隊の基地で歌ったとき、ステージに立つ彼女に向かって敬礼して立ち去った若い特攻隊員を見たとき、こらえきれず、背を向けて涙を流したのです。

きょうは終戦記念日です。そんな淡谷のり子のことさえも戦争を美化するために利用するウルトラ右翼に反逆するかのように、ぼくはきょうも犬の話をしたわけですが、たまには彼女の歌を聴きながら、若い命を無駄にする戦争の愚かさを思うのは無駄ではないでしょう。

13 August 2007

イジメと正義(4)


「とくにわたくしが恐ろしく思ったのは、へいぜい特別に残虐でもなんでもない普通の生活を送っている人間が、興奮したときには何をするかわからない、という事実だった」

これは中島健蔵が『昭和時代』(岩波新書、1957年)の中に書いていることだ。どういう話かというと、ちょうど中島が二十歳の頃に起きた関東大震災の直後、彼が実際に目撃した東京市民の異常行動を振り返っていたのだ。彼は神楽坂(かぐらざか)警察署の板塀に貼ってあった大きなはり紙のことを思い出す。そこにはこう書いてあった。
目下東京市内の混乱につけこんで「不逞朝鮮人」の一派がいたるところで暴動を起こそうとしている模様だから、市民は厳重に警戒せよ。

ぼくは心理学者の書いた本の中で、日本人的精神の特徴としての「先取り主義」という話を読んだ覚えがあるが、神経質にいろんなことを心配して余計なことにまで首を突っ込むというのは、確かに日本人らしいことのように思う。大震災のとき、なぜ朝鮮人の暴動を警戒したのか。それは、へいぜい日本人が朝鮮人をいじめていたからじゃないのだろうか。だから、彼らの復讐を恐れていたのだと思う。

中島はその眼で、ひとりの朝鮮人が東京市民の手にしたトビ口によって頭を直撃されたのを見た。三軒茶屋で歯科医が朝鮮人をピストルで射殺したというウワサも聞いた。しかし、殺人者が逮捕されたという報道はついになかった。それどころか、大震災後の騒ぎの中で、大杉栄という日本人が愛人と7歳の甥と一緒に麹町(こうじまち)憲兵隊によって拉致され、3人とも虐殺されるという事件まであったのだ。大杉は当時、無政府主義者というレッテルを貼られ、権力層やそれに従順な民衆から非国民のように見られていた。当時、ほかにも官憲によって虐殺された社会主義者や労働運動家は決して少なくなかった。

ここでいきなり犬の話になると、また始まったかと思うかもしれないが、ぼくはニッポンのイヌ事情を観察していて、イヌという動物を危険な動物に決めつけているような世間の常識を思い、それに影響されて育つような子どもたちが、犬ばかりか弱い立場にいる人間をも差別し虐待しているような気がしてならない。実際、先日ここでも取り上げたように、ホームレスをいじめていた少年たちは、もっと幼い頃には猫のような小動物を殺していたのだ。野良犬のいない東京だから犬の代わりに猫が犠牲になったのだろう。

これは凶悪少年犯罪の国際的専門家がすでに報告していることだが、人間に対して凶悪犯罪を犯す少年たちの多くが、その前に動物の虐殺を繰り返していたという。むかしぼくがBBCのディスカッション・グループで知り合ったパリ在住のイギリス人も、ぼくとのイヌバカ談義の中で、そのことを指摘していた。

例の赤ジャージ公園は、すでに話したとおり、近所のイヌ嫌いが勝手に「犬の立ち入り禁止」という看板を立てていた。ある日ぼくは愛犬と一緒に、人影のないその公園でただ雨宿りをしていて休んでいただけなのに、それを家の中から観察していた近所の男が、公園で犬のリードを外している飼い主がいると言って警察に通報した。

公園の芝生の上で静かに休んでいたぼくの犬を遠くから観察しながら、「ああ、あれはどう見ても放し飼いだな」と叫んでいた少年たち。彼らの口から、「不良を呼ぼう」、「犬アレルギーの子どもを連れて来い」というようなのまで飛び出したのは、一体、だれの責任だろうか。ニッポンはこれでも本当に平和な国と呼べるのだろうか。美しい国なのだろうか。

参考リンク : 橘宗一少年の墓

この少年は、きょうの話に出た大杉栄の甥です。当時、朝鮮人の暴動というのを「背後で社会主義者が糸をひいている」という流言まであったそうです。社会主義者は権力層にとって邪魔者でしたし、マスコミは完全に権力層に支配されていましたから、一般民衆も社会主義というものを嫌悪するようになったのでしょう。それに庶民にとっては、社会主義も無政府主義もキリスト教も、本質的なことは何も知らなかったのであって、ただ世間に流布する迷信に支配されながら、少しでも反権力的な人間をみな危険人物と決めつけたに違いありません。

大杉栄は、憲兵隊の甘粕(あまかす)大尉によって殺され、他のふたりの遺体と一緒に古井戸の中に捨てられたということになっていますが、ぼくが調べた『日本政治裁判史録(大正)』(第一法規、1969年)によると、実際のところハッキリしないことが多く、「大杉は麻布の第三連隊の営庭で将校にとり囲まれて銃殺された」という説もあるようです。

結局、裁判では甘粕大尉を主犯とする個人的犯行として片付けられたのですが、ぼくの直感では、これは個人的な犯罪ではなく、もっと大きな組織的犯罪のような気がします。検察は本件を甘粕らの個人的犯行とした上で、「私利私欲を離れて国家のためにやった心情には涙すべきものもある」というようなことまで言って、まるで甘粕を弁護するような真似までしたのです。

甘粕大尉は結局、10年の懲役を宣告されたのですが、判決から3年足らずの1925年10月、極秘裏に出所していました。その後、彼はしばらく宮城県の温泉町にひそみ、1928年の春にはフランスに渡ってそこで2年ほど遊び、帰国後は、右翼思想家の大川周明らの世話を受けて満州に渡り、軍部のバックアップのもと満州映画協会理事長などの地位にあって権勢をふるったそうです。しかし、敗戦直後の1945年8月20日、服毒自殺してその生涯を終えました。

今日のビデオ : Tokyo Kid
-- 美空ひばり

12 August 2007

英国イヌ事情


そのブログ主だけれど、英国のイヌ事情を紹介している中で、英国でもレストランには一般の犬が入店できないと断言しているのだ。それに比べてフランスは自由だという話の流れから、前回ここで取り上げたようなコメントのやり取りがあったわけだ。

ぼくはそのコメントにもかなり驚いたのだけれど、それはイヌ観の違いということで説明がつくような話なのかもしれない。しかし、まるで英国もニッポンと同じように飲食店に犬が入れないみたいな情報を流すのは、右翼やカルトがやってるような情報操作にも匹敵する有害情報になると思う。

きょうの写真は、英国の小さなレストランだが、そのホームページには、
Dogs, and owners, always welcome!
と書いてある。日本語に訳せば、「ワンちゃん、飼い主さん、いつでも歓迎!」となるだろうか。

ぼくがむかし聞いた話では、英国にもイヌ嫌いの店主がいるけれども、「犬お断り」の張り紙を出すと店のイメージが悪くなって客が来なくなるから、仕方なく犬も受け入れるそうだ。英国では、「犬お断り」を明言していなければ、犬も入店できるのが原則であったはずだ。そこがニッポンとはまったく違っている。ニッポンでは、犬が入店できないというのが、まるで常識のようになっていると思う。

こないだ話したように、英国でも、1990年代以降、犬にとって少し住みにくい世の中になって来た傾向があるのは、それまでおとなしかったイヌ嫌いの発言権が強くなったからじゃないだろうか。それにロンドンのような都会は、多民族都市と表現してもいいほどに、いろんな文化的背景をもつ人々が暮らしている。日本人もかなり増えているようだ。例のX市のようなニッポンの都市で「公園に犬を入れるな!」と威張っていたような人間も、英国のどこかの都市に住んで、相変わらず変な日本人をやってるかもしれない。

しかし、常識というのには長い歴史が影響するものだから、やはり英国のイヌ事情は、今でもニッポンのように窮屈にはなっていないと思う。常識的な人が見て何も問題のないような犬に対して余計な干渉をする人はいないだろう。イギリス人のマナーの基本には、他人のライフスタイルに干渉しないというのがあるはずだから。

それにしても、あのブログ主は、なぜあんなふうに英国のイヌ事情を紹介したのだろう。ニッポンからボルゾイというロシア系の大型犬を連れて渡英したようだが、おそらくその愛犬のマナーがよくないから入店を許してもらえないのじゃないだろうか。それに彼女のイヌ観は、どうも英国の愛犬家の常識とはかなり違っているようだ。きっと英国では、愛犬家グループから追放されるような、イギリス人らしくない異質の人間としか交際していないのじゃないだろうか。ニッポンの愛犬家グループでなら、まちがいなく常連として歓迎される人だと思うが。

参考リンク(1): ロンドンで愛犬と一緒に入店できるパブ

ここのリストにあるだけで57軒もあります。東京で「パブ」というと、英国のパブとは外観上も全く別物ですが、犬同伴で利用できる店を見つけるのはほぼ不可能じゃないでしょうか。恵比寿にあった本格的な英国パブ(ワンちゃん歓迎!)も、今はなくなってしまいました。英国のパブは法律で全面禁煙になったので、犬連れの愛犬家が増えるでしょうね。

参考リンク(2): きょうの写真で紹介した店のホームページ

こんなに小さな店でも犬を歓迎してくれるのです。「犬は臭いからいや!」なんて思うような客は来なくてもいいと考えているのでしょう。食材にもこだわっているようだし、ベジタリアン向けのメニューもあるようです。もちろん禁煙です。

参考リンク(3): 問題のブログ

ぼくの一方的な感想ばかり話しているとフェアじゃないので、そのブログを紹介しておきます。

今日のビデオ : Dog Friendly Luxury Hotels Dartmoor Devon UK

☆ 犬と泊まれるホテルの紹介ビデオです。英国では決して珍しいホテルではありません。ペットブームに便乗して始めたニッポンのペンションなどとは違って、犬を差別するような規則もなく、家族の一員として歓迎してくれるでしょう。コテッジの説明の中で、ideal for dogs and children(犬や子どもたちにとって理想的)と言ってますが、ニッポンのホテルにこんな説明はないでしょうが、もしあったとしても、「お子さまや愛犬」という順序になるのじゃないでしょうか。馬も英国では幸せそうです。

常識と思考力


英国で愛犬と暮らしているらしい日本女性のブログに、ある人がコメントを寄せ、「犬連れOKなのが、ほとんどなのかとおもいましたよぉ〜でも、食事中にくさいニオイは、きになりますねぇ〜食欲がうせてしまうぅ〜」と言っていた。この口調からして気品に欠ける人のような気がするが、それはともかく、もっと驚いたのは、ブログ主がそれに応答して、「そうなんです。食事中に臭い匂いはちょっとキツかったです。。。」と書いていたことだ。

そもそもなぜこんなやり取りがあったのかというと、ブログ主がパリのレストランで食事をしていたとき、たまたま隣りの席にいた老夫婦の犬が「ちょっと臭かった」らしく、「犬好きの私達でさえ気になったんですから、苦手な人なら相当嫌な思いをするハズです。そういう事を考えるとレストランやスーパーなど食べ物を扱う店ではペット禁止で当然かな、と思います」なんてことを書いていたからだ。まあ、これが日本的な愛犬家の常識というやつになるのだろうし、ニッポン人の思考力の実態を示す典型ともなるのだろう。

ぼくは今までの人生で実に多くの犬に触れて来たけれど、そばにいるだけで不快な体臭を感じてしまうような犬は、全くいなかったわけじゃないが、とにかく珍しかったように思う。フランス人は人間もそんなに風呂に入ったりしないみたいだから、犬もめったにシャンプーしてもらえないのかもしれない。それでも、食事中に不快になるほどに臭い犬に遭遇するなんてのは、それほど頻繁にあることではないんじゃないかな。

日本人てのは、犬のリードの問題にしても、BBのイヌ論のようにオフリード教育の必要性を強調する意見などを聞くと、すぐに面倒な事態ばかりを想像して反対するようなことを言う。公園でぼくの犬を知っている小学生にも理解できるようなことを、大人(しかも愛犬家!)が理解できないなんて、一体どういうことなのだろうか。ぼくは学歴などでひとの脳みその程度を判断するようなことは決してしないけれども、思考力の足りなさそうな大人に出会うと、幼稚園から人生をやりなおしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。

健全な思考力が育つためには、実地の体験の中で美しいものを見ながら、シッカリ考えるという習慣が必要だ。そのような体験も習慣もなく、ただ濁ったオトナ社会の影響を受けながら成人となってしまうと、きょう登場してもらったような思考力の足りないヨイコ気取りの愛犬家が育つことにもなるのだろう。そのヨイコぶりというのも、実は他人のことを思っているのじゃなくて、自分にとって都合の悪いことを世の中から排除したいと思っているにすぎないのじゃないだろうか。

きょうの写真を見ても分かるとおり、犬はレストランでタバコを吸うようなことはしないものだ。愛煙家が自由にレストランに入れるというのに、愛犬家がマナーのいい犬と一緒に入れないなんて、これも常識と思考力が正常な人なら、たいてい不思議に思うのじゃないだろうか。

今日のビデオ : Lovin' You
-- 渡辺美里

11 August 2007

また常識を考えた


予定では、「イジメと正義」シリーズは、そのうち大杉栄らが虐殺された甘粕(あまかす)事件にまで発展し、全部で5話くらいになるはずであった。しかし、なんだか気分が乗らない。夏目漱石は、気分が乗るのを待っていては何も書けないというようなことを何かに書いていたように思う。確かにそうかもしれない。けれども、どうにも調子が出ないのだから、しばらくあの話題から離れるしかなさそうだ。

日本語圏のネット世界から離れて、英国の愛犬家グループの人々と交わると、ぼくはいつも古里へ帰ったかのような気分になってホッとする。英国も決してユートピアではないけれど、かの国で常識的な人たちの常識は、ぼくの常識とほとんど変わらない。常識が通じるというのは、特にニッポンのような国で暮らしていると、そんなに当たり前のことにはならないのだ。

先日、ニッポンの愛犬家グループで、何やら英国での裁判のことが話題になっているのを見た。そして、いつものことながら、愛犬家としての常識を共有できそうにない空気を感じたものだ。そこで、ぼくはイギリス人が同じテーマでどう反応するかを見てみようと思い、その裁判のことをテーマにして投稿したのだ。彼らの反応について話す前に、少し英国のイヌ事情を説明する必要がありそうだ。

イギリス人がイヌバカであるというのは世界の常識だが、1990年代に入ってから、国としての犬への向き合い方にやや変化が見られるようになった。危険犬種法(Dangerous Dogs Act)という法律が公布されたのは、1991年のことで、それまで英国では犬のことで法律が厳しく規制することがなかったのに、ピット・ブル・テリアや土佐犬のような闘犬種に対して非常に厳しい規約が定められることになったのだ。

それにはもちろん理由があった。バブル景気によって莫大な富を得た成り金たちの中に、闘犬種を飼うのをステータス・シンボルのように思う連中が現れたのだ。英国では1835年に法律によって闘犬が禁止されているから、たとえ闘犬種であっても攻撃性を訓練する必要はないわけだが、趣味の悪い成り金連中は、凶暴な大型犬を所有することをカッコいいことだと勘違いしていたらしい。そして当然のこと悲劇が起こった。子どもたちがその種のバカな飼い主の犬に咬み殺されるという事件が数件つづいたのだ。

しかし、たとえ闘犬種であっても、きちんと社会性教育をすれば何も問題のない犬になるわけで、犬種で決めつけるのではなく、実際に危険な犬であるかどうかを判断すべきというのが、英国の愛犬家の常識になると思う。危険犬種法に違反して口輪をはめずに散歩していたピット・ブルの飼い主に対して、その犬の刹処分(安楽死)を命じる判決が2005年にあったが、その犬は専門家によって危険な犬でないことが認められていたことから、王立動物虐待防止協会などがその判決を強く批判していたのだ。

さて、英国の愛犬家グループで、ぼくはそのピット・ブル裁判のことを取り上げたわけだけれど、ぼくの論旨は、あの判決はイギリス人の常識では受け入れられないものだったのじゃないか、ということだった。すると、最初に応答した人(筆名 Friend)は、予想どおりの意見だったのだけれど、次に応答した人が、法律に従うのがスジだというようなことを言ったのだ。これにFriendさんが直ちに反応し、かなり怒りをあらわにしていた。イギリス人には、感情的になることを非常に嫌う習性があるから、彼女は自分のやや過激な口調を気にしたかのように、ぼくに向かって、「ごめんなさい。あなたには全く賛同してますからね」と書いて、そのあとに赤いハートマークが3つ、クリスマスのイルミネーションのようにきらめいていた。

腹を立てたのは彼女だけではなかった。Chrisという人も相当に怒ったようで、「罪のないものが死刑になるなんてことを認めることができるんですか?」と、イギリス人らしく感情を抑えてはいるようでも、かなり強い調子で批判していた。すると、ついに掲示板のオーナーであるGillが登場し、「みなさん、冷静になってください。あなたたちを怒らせたのはデニスです ... 管理スタッフさんたちにお願いしますが、今度また現れたら、彼の投稿を削除してください」と言った。

やはり英国の愛犬家グループは、ニッポンとは全く違っているようだ。FriendもChrisも常連メンバーだが、ただそれだけでオーナーが彼らの味方をしたわけではない。法律に従うのがスジだと主張したデニス(筆名は Langaer になっていた)は、発言の態度としては全く冷静だった。しかし、英国の愛犬家の常識として、彼のような考え方の人間をメンバーとして認めることはできないのだ。

ニッポンではどうだろうか。まずハッキリしているのは、どこの掲示板でも、常連たちとぼくの常識が全くかみ合わないということだ。ぼくを追放したニッポンの愛犬家グループの中には、余りにも常識の通じない常連が多いのでついに怒った(ように見せた)ぼくのことを「荒らし」と呼んで非難する人までいた。オーナーまでもが、ぼくへの追放宣告メールの中で「あなたは異質すぎるのです」と書いていた。

イヌは英国でもニッポンでも、本来、同じ動物のはずだけれど、愛犬家と呼ばれる人間は、全く違う人間になってしまうらしい。英国では、ニッポンでよく見かけるようなイヌ嫌い・ヒト嫌いの犬が非常に珍しいという事実を、ニッポンの愛犬家はどう説明するつもりなのだろうか。英国の常識でなら簡単に説明できるが、ニッポンの常識ではきっと無理だろう。

今日のビデオ : Walking The Dog
-- The Rolling Stones

10 August 2007

イジメと正義(3)


公園に学校の先生が現れたものだから、少年たちはきっと力強い正義の味方が登場したように思って喜んだに違いない。教師のそばに集まった少年たちは、ぼくの方を指さしながら、何やら報告しているようだった。リアル世界でぼくのことをよく知る人の話では、ぼくの口癖は「フェアじゃない」ということになるらしい。ぼくは相手が子どもであろうが、いや、むしろ子どもであるからこそ、フェアじゃない卑怯なことをすれば、それを黙って見過ごすことはできないのだ。それで、ぼくは愛犬にそのまま待っているように言って、彼らの集まっている方向へと歩き始めた。そしてその教師のそばまで来たときに、こう言った。

「失礼ですが、学校の先生でしょうか?」

「はい、そうです」と答えた教師は、30代くらいの男性で、その第一印象が体育会系のように見えた。

「実は少しお話ししたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

「はい、どんなご用件でしょうか?」

その教師はやや緊張した表情を見せたが、ぼくは「それじゃ、あちらで話しましょう」と言って、彼を愛犬が待っている場所へと誘った。

ぼくは子どもの頃から、いわゆる<ちくる>というのが嫌いだった。それは大人になっても全く変わらなくて、そのせいで自分が不利になるようなことも少なくなかった。そのときも、きのうここで話したような少年たちの言動には触れずに、ただぼくが公園内で自分の犬をなぜリードにつながないのかということを、犬の社会性教育の観点から説明し、このように重要なことが日本人にはなかなか理解されないことを話したのだった。

ぼくの話にじっと耳を傾けていた先生は、犬を育てた経験があるらしく、ぼくの話の内容を理解してくれたようだった。そして、その都市の多くの犬たちは社会性教育を受けていないから、いろんな問題を引き起こし、そのために犬を恐れたり嫌ったりする人が増えているという現実に気づいているようでもあった。

「おっしゃることはよく理解できます。と同時に、私は犬を嫌う人の気持も理解できるのです」と、先生は言った。

「ぼくの犬のような犬でも怖がる人のいることは知っています。それでも、ぼくは公園でリードにつなぐことはしません。これはぼくの教育方針であり、それが正しいと確信しています。ぼくの犬は子犬の時期に人間社会で生活するために必要な教育をきちんと受けているので、マナーに反するようなことはしていないつもりです。少なくとも英国のような先進国でなら、ぼくの犬を見て何か問題に思うような人は珍しいでしょう。イヌという動物が猛獣だというのなら、ぼくが間違っていることになるのかもしれませんが」

「私の生徒たちは、きっとまだイヌというものを信じることができないのでしょうね。いつもリードにつながれた犬しか見たことがなかったのだと思います」

「それは分かります。ニッポンではいつのまにかそれが常識のようになってしまったのでしょう。ぼくはその常識が犬を危険な動物にしていて、実際に人間やほかの動物に危害を加えるような犬が増えているように思うのです」

「きっとそうでしょうね。欧米などに比べると、イヌ事情に関して日本はかなり遅れているのでしょう」

ぼくには学校の教師がイヌ嫌いでは困るという信念があるのだけれど、その意味では、この教師は合格であった。すでに話したとおり、ぼくはあの少年たちの言動には特に触れなかったのだけれど、先生の口からリーダー格の少年に関する話が飛び出した。そして、先生はこう言ったのだ。

「あの子は非常に正義感の強い子なんです」

ぼくはリアル世界でもネット世界でも、日本人を見ていてよく思うのは、どこもあそこもヨイコ気取りの人間がよく目立つということだ。彼らは自分の気に入らない人間を「悪いヤツ」とみなして権力者(たとえば管理スタッフとか)に告げ口し、自分がいかに正義感の強い人間であるかを示すことに熱心らしい。しかし、ぼくには彼らの正義というのは、自分勝手な偏見から生まれた偽善にしか見えないことが多いのだ。

毎日のように赤ジャージ公園で遊んでいた小学生の男の子が、あのリーダー格の少年に関して、ある時ぼくにこう言った。

「先生の前ではいい子ぶるのだけど、弱そうな子をよくいじめてるんだよ。ぼくもよくデブだとか言われるんだ」

今日のビデオ : 彩~Aja~
-- Southern All Stars

9 August 2007

イジメと正義(2)


英国を中心とする英語圏のネット世界でほのぼのと楽しい人生を送っていたこのぼくが、何ゆえに息苦しい日本語圏でカルチャーショックを覚えながらも、英国系イヌバカ人生を過ごして来たのか。きょうはそのきっかけとなった出来事を語ろうと思う。不思議なことに、あの体験を話すのは、これが初めてになる。

やはりX市での体験であった。近所のイヌ嫌いが勝手に「犬の立ち入り禁止」と書いた看板を公園の前に立てていたのは、以前も話したことがあったと思う。その看板にはへたくそな字で「○○町内会」とも書いていた。それをそのまま信じるならば、公園に犬を入れてはならぬと決めたのは、その地域の町会ということになる。今どきそんな決定を下す町会があるとするなら、よほどの恥知らずの集まりに違いない。まあ、このニッポンという国は、首相からして「美しい国」とか叫びながら、次から次へと醜態をさらし、岸信介爺さんの戦前型全体主義系DNA全開でがんばってるわけだから、地方都市の町会が戦中戦前のように腐っていても、それほど不思議ではないのかもしれない。

それはともかく、その公園内で数名の子どもたちが吾が愛犬のそばに集まっていたとき、どこからともなく出現した男(ぼくが「赤ジャージ」と名づけたヤツ)が、「子どもたちに病気がうつったらどうするんだ」と言って犬を追い出そうとしたことはすでに話したとおりだけれど、この話にはいくつかの後日談もあったのだ。そのひとつをきょう話そうと思う。

赤ジャージと遭遇した次の日も、ぼくは当然のようにその公園で愛犬と一緒にくつろいでいた。公園内には小さな山があって、そのふもと辺りの芝の上で休んでいたときだった。その場所から15メートルほど離れたところにある回転遊具(子どもたちは「地球儀」と呼んでいた)の上に5、6人の少年たちが乗っかっていて、そのうちのひとりが、「ああ、あれはどう見ても放し飼いだな」と言っている。そして、ほかの少年たちもそれに調子を合わせるように何か叫んでいた。

そのとき吾が愛犬はぼくのすぐそばで静かに伏せて休んでいたのだ。東京でも、ぼくの人生全体で、犬のことで無礼なことを言う人間が2、3人はいたけれど、それは決まって大人の男であって、小学生の少年から犬を差別するような言葉を聞くなんてことは、全く経験したことがなかった。人生にはいろんな出会いがあるものだけれど、これほどに衝撃的な出会いというのは、そうそう体験できるものじゃない。せっかくだから、ぼくは彼らと少しお話しすることにした。

ぼくは彼らが乗っかっていた地球儀のそばまでゆき、頂上にいたリーダー格らしい少年に向かってこう言った。

「何か言いたいことがあるのなら、そんなとこから叫んでないで、降りて来て言ったらどうだ?」

少年たちは6年生くらいに見えたが、それまで一度も見た覚えがなかった。あとで公園で遊ぶ子どもたちから聞いたのだけれど、彼らはふだんは公園に来たことのない少年たちだという。

少年たちは地球儀から降りようとはしなかった。それでもリーダー格らしい気の強そうな顔の少年がこう言った。

「犬を公園で放していて、もしものことがあったらどうするんですか?」

「俺の犬はその<もしも>ってのが今まで一度もないんだな。君らに比べたら、よほどマナーがいい」

かように事実を指摘されても静かに退散しないのは、ニッポンの大人の特徴でもあるから、その背中を見て育つ少年たちにも同様の傾向が観察されるわけで、何やら不可解な反論を始めたようであったけれど、ぼくはそんなのにつき合ってるほど暇じゃないから、吾が愛犬が静かに伏せていた元の場所に戻った。

ぼくは芝の上に仰向けに寝転び、青い空を見ながらじっとしていた。地球儀の上の少年たちは、前よりも大きな声で何か叫び始めていたが、ぼくはただ無視していた。すると、しばらくして少年たちは場所を移動し、ぼくらが休んでいた近くにまで来て、吾が愛犬に向かって挑発するような行動を始めた。もちろん吾が愛犬にはしかと人を見る眼が備わっているから、そんな挑発には乗らない。平然と芝の上に黙って伏せていた。

少年たちとしては、彼らのいう「犬の放し飼い」というものが、いかに迷惑であるかという証拠がほしかったのだろう。全く動こうとはしない吾が愛犬の姿を見て、ついにあきらめたのか、リーダー格の少年が子分たちに向かってこう言った。

「おい、だれか犬アレルギーの子どもをここに連れて来い」

この少年は、地球儀の上に乗っかっていたときに、ケータイを手にしながら、「不良をここに呼ぼう」というようなことまで言っていた。この種のニッポン人は、やはり大人にも珍しくないわけで、自民党や公明党関係の政治家のみなさんだって、証拠を残さずにいろいろ苦心されているはずである。

ぼくは相変わらず、青い空を見上げてじっとしていた。すると、少年たちの声で、「アッ、先生が来た!」というのが聞こえた。見ると確かに教師らしき男性が公園内を歩いていた。少年たちは一斉にそちらに向かって走って行った。リーダー格の少年が「先生、悪い大人のひとがいます!」と叫んでいた。(つづく)

今日の音楽 : 空よ
-- トワ・エ・モワ

8 August 2007

イジメと正義(1)


トーキョー北区の赤羽公園で、ベンチに寝ていた男性のからだにライター用のオイルを入れたビニール袋を置き、それに火をつけた少年たちがいたそうだ。彼らが殺人未遂で警察に逮捕されたのは、ぼくがここで『犬の平和』を語っていたヒロシマ原爆の日のことだったらしい。少年たちは全部で5人。最年長は17歳のタイル職人で、15歳の無職の少年がひとり、あとの3人はみな高校1年生だという。彼らに奇襲された男性は、火だるまになって、「助けてくれー!」と叫びながら、噴水の中に飛び込んだ。いのちは助かったが、受傷面積が30パーセント以上の大やけどで重体だという。

少年たちはかなり以前から、付近のホームレスに向かって花火を投げつけたり、寝床にしている段ボールに火をつけたりしていた。リーダー格の17歳の少年は、警察でこんなことを言ったそうだ。

「ホームレスはゴミだ。人間として最低で、世の中の役に立っておらず、犬や猫と一緒。生きていようが死んでいようが気にしない」

この少年は猫などの小動物を虐待していたこともあるらしい。今でも東京に野良犬がいたとすれば、きっと同じようにいじめたことだろう。3ヶ月ほど前の5月にも、同じ公園内でホームレス女性の寝袋に火をつけていたりと、同様のイジメを繰り返していた。

NHKがやっとこの少年たちのことを取り上げたとき、なぜか上に引用した少年の言葉は省かれたらしい。ホームレスは犬や猫と一緒だという感覚こそが、この事件の核心になるというのに、こんなことさえニッポンのジャーナリズムには理解できないのだろうか。元々犬や猫を見下すような庶民なら、人間さまを畜生と同一視するなど卑劣な少年どもだと、いっぱしの正義感を披露したりもするのだろう。しかし、英国系イヌバカ紳士なるBBならば、全く次元の違う視点からこの事件を見るのであって、動物を見下すような社会だからこそ、このような残虐な少年が育つのだと考え、モンテーニュやガンジーの言葉なども思い出しながら、しばし溜め息をつくわけである。

きょうの写真に写っている少年たちは、X市の大きな公園内で、そのとき初めて出会った小学生たちだ。ちょうど何かの祭りの日だったが、直前まで雨が降っていた。吾が愛犬のおなか辺りが汚れているのは、ぬかるみを歩いたせいなのだ。その公園内でもリードは外していたけれど、少年たちのほうから近づいて来たのだった。みんな全く犬を怖がらないどころか、しばらくそばを離れようとしなかった。じゃあ、記念写真を撮ろうということになって、みんなでベンチに集まったのだ。

今ごろ、みんなどうしているだろう。その後、再び出会うことはなかった。それでも、ただひとつだけハッキリ言えることがある。彼らは今、ホームレスや動物をいじめて喜ぶような少年にだけはなっていないだろう。

今日のビデオ(1): Beethoven - Moonlight Sonata (1)
今日のビデオ(2): Beethoven - Moonlight Sonata (2)
今日のビデオ(3): Beethoven - Moonlight Sonata (3)
-- Wilhelm Kempff

7 August 2007

体験のないヨイコ


イヌ嫌いがやけに目立つあのX市ではあったけれど、毎日のように公園で遊んでいる子どもたちの中には、異常行動を示す子がいなかった。「異常行動」なんて表現は、こころ優しい日本人の耳には、ちと大げさに聞こえるだろうか。しかし、たとえば繁華街を歩いていたときに、わずか30センチの長さのリードでつながれ、ぼくの横を静かに歩いていただけの吾が愛犬を見るなり、「キャー!!」と叫んで彼氏のからだにしがみついた若い女性を見たとき、ぼくの頭の中には、確かに「異常行動」という言葉が浮かんでいたと思う。

ぼくは幼い頃から、どんな状況下にあっても、自分の感情を外に表さないように訓練されていたようだ。六本木だったのか新宿だったのか覚えていないけれど、生まれて初めて女装した男(つまりオカマ)を眼の前に見たとき、ぼくの心臓は恐怖のあまり張り裂けそうだったが、それでも何も見なかったかのように必死にこらえた記憶がある。そんなぼくではあるけれど、音には非常に敏感で、街を歩いていて女性の声でいきなり「キャー!!」とやられると、ショックのあまりオナラを打ち上げそうになってしまうのだ。

それにしても吾が愛犬は偉いもんだ。そんなときにも何もなかったかのように平然と歩いている。自分のでかいからだのせいで、か弱きヒト(♀)に悲鳴を上げさせたことなど、彼にはきっと想像もできなかったのだろう。彼は幼い頃から多くの人間に愛され、共に公園で遊び、共に船に乗ってお台場に出かけ、共に東京湾の大きな花火を鑑賞し、というように、人間と一緒に実に多くの体験をしてきたので、ヒトという動物を全く信頼し切っているようだ。

公園でいつも遊ぶ子どもたちの中にも、犬を怖がるような子はいた。なんといってもあのX市だ。笑うことも遊ぶことも知らないで、四六時中、怒ってばかりいるような犬が目立つ都市だったから、あんな環境では犬を怖いと思うのが当然かもしれない。そんな子どももいるのだから公園内で犬を自由にさせるのはよくないと主張する大人が、ニッポンやアメリカには珍しくないようだが、これもまちがいなく実地の体験がないから、そんなヨイコ気取りもできるのだろう。

狭いワンルームマンションほどの広さの公園ならともかく、たいてい公園というのはけっこう広いのである。先日も言ったような気がするけれど、ぼくの犬は知らない子どもには近づかないのだ。それに彼のように幼い頃からリードなしで遊んでいる犬というのは、ちゃんと安全な遊び方が身についているし、マナーの悪い人間のような真似はしないものなのだ。それに、犬を怖がるような子どもであっても、いつのまにか吾が愛犬に興味を抱いて近づいて来るのが普通なのだ。

犬をヒト嫌いにしたのは、誰よりも公園などで犬を遊ばせなかった飼い主のせいだが、そのような飼い主が育つ社会環境を無視することはできない。「公園に犬を入れるな」と威張る赤ジャージのような人間や、子どもたちと楽しく遊んでいる犬のことでも、ただリードにつながれていないというだけで警察や役所に通報する黒ジャージなどは、彼らのタテマエに隠れたホンネを公開するなら、ただ自己中心的な人間であるのが明らかになるのであって、こんな人間の言い分が通用するような社会では、動物愛護どころか子ども愛護すらも実現しないだろう。また、非常識なイヌ嫌いたちを弁護するようなヨイコ気取りの愛犬家の社会的責任も非常に大きい。それを指摘されてまだ自分の過ちに気づかない愛犬家がいるとすれば、おそらく犬のことに限らず、社会的弱者への差別のために闘った体験のない人間なのだろう。

公園でいつも遊ぶ子どもたちは、初めはぼくの大きな犬をやや怖いと思うような子であっても、すぐに慣れて、ほかの子たちと同じように吾が愛犬と遊ぶのを楽しむようになった。ヒトが本当に高等な動物なのだとすれば、それが当然だ。本来のヒトらしく、子どもの頃によく遊んでいる子は、いろんな体験を通して、いろんなことを学んでいる。そうして、大人の作った変な規則や、大人の偏見には影響されずに、自分の頭と心で考える習慣が身につくのだ。ヒトとして本当にだいじなことを無視しながら、いつもヨイコぶって余計なお世話をするのは、実地の体験もなく頭ばかりが大きくなった大人たちくらいだろう。

今日のビデオ : J.S.Bach BWV 1052
-- Glenn Gould with Leonard Bernstein and the New York Philharmonic

6 August 2007

犬の平和


きょうもまた判で押したように広島では平和記念式典が執り行なわれたことだろう。たしか去年も同じようなことを言ったような気がするが、ぼくは儀式というものが嫌いだ。平和、平和などと、どこかの巨大宗教組織の親分のようにいくら叫んでみても、国のリーダーシップをとるべき政治家たちまでもがボンクラ教祖程度にノータリンでは、夢も希望もないわけで、ニッポンも米国のように核武装すべきだと心のどこかに隠しながら、戦争の準備を計画するアホ首相などが広島に姿を見せること自体、こんなに平和をバカにした話があるだろうか。

ギリシャの喜劇作家アリストパネスは、『女の平和』というのを、今から2600年近く前に書いていたが、ぼくが何か書き残すとすれば、『犬の平和』になってしまうかもしれない。きょうは広島に原爆が落ちてちょうど62年目になるというのに、ぼくのブログは、きょうも犬の話になってしまいそうだ。

きのうの話の中にworldlemonと名乗るアメリカ人のことが出て来たけれど、その人がビデオ投稿者に対して余計なコメントを書いた直後に、たぶんそれを意識していたのだと思うが、Zoecsterと名乗る人が、こんなコメントを残していた。
ワー、このワンちゃん、赤ちゃんが怪我しないように心配してるみたいね!(Aww it's like the dog dont want baby to get hurt!)

この人のこともちょっと調べてみたら、アイルランドの女性で、本名を Anna というらしい。Anna という名前を見ると、ぼくには話したいことが山ほどあるような気もするけれど、それはともかく、この人がアイルランド人だと知って、さすが英国系の愛犬家は、神経質なアメリカ人とは視点がまったく違うもんだと感心し、英国系イヌバカ紳士なるこのBBともお友だち関係がもてそうな予感に心ふるわせ、密かにニヤリと微笑んでみたりもしたものだった。

そこで、たまには英語圏の読者に向かって何か平和メッセージを書き残しておきたいと思う。
Hi Anna, you must be a true dog lover. Americans seem to be too concerned about dogs. Just think of their "leash law". They don't believe dogs are man's best friends, do they? Unfortunately, Japanese people are much more nervous about dogs. Our best friends are forced to walk always on a lead even in a park and have little chance to make friends with humans or other dogs. Have a nice cuppa, Anna, cheers!

やあ、アンナ、君はきっとホンモノの愛犬家に違いない。アメリカ人てのは、犬に対して神経質すぎるみたいだね。「犬の繋留法」を見ても分かるよ。きっと彼らは犬が人間の親友だとは信じちゃいないんだろうな。残念ながら、日本人はもっと犬に対して神経質なんだ。ぼくらの親友は、公園の中でさえもいつもリードにつながれて歩かされ、ヒトやほかの犬たちと友だちになれるチャンスがめったにないのだからね。おいしいお茶を楽しんでね、アンナ、じゃーね。

ちなみに、Hi という挨拶は、元々はアメリカ人が流行させたものだが、イギリス人でも特に仲のよい間柄では、ふつうに使う言葉である。つまり、ぼくの下心が冒頭からして丸見えの平和メッセージではあるわけで、どこかの悪賢いアホ首相よりはよほど正直なBBは、また誰かに単純なオバカさんと笑われてしまうだろうか。

今日のビデオ : All Dogs Need Is Love

☆ 茶色の犬は、こないだのビデオで、赤ちゃんと引き出しで遊んでいた犬のようです。このような光景を日常的に見ることのできる町こそが平和の名にふさわしい町だと、英国系イヌバカ紳士は考えています。

5 August 2007

偏見と恐怖


前回の「今日のビデオ」には、イルカ虐待関係のほかにも変なコメントがあった(先ほどもう一度コメント欄を見たら、日本人への悪口がなぜか消えていた)。それを書いたのは、名前がworldlemonという人で、まるでビデオに登場する犬が赤ちゃんを傷つける行動を起こす可能性があるようなことを言って、それとなく撮影者を非難しているのだ。どこの国の人かと思ってちょっと調べてみたら、やはりアメリカ人だった。

それで思い出すのは、やっぱりX市の経験で、スーパーの入り口などで愛犬と休んでいると、イヌ好きの小さい(まだよちよち歩きの)子どもが近づいて来ることがあった。すると、その様子をやや離れた場所から見ていた老人が、非常に険しい表情でぼくをじっと見るのだ。他人をただ見つめるだけでも失礼なのに、ひとをまるで幼児誘拐者か何かのように疑うがごとく、険悪な顔つきで観察するなど、これほどマナーに反することがあるだろうか。

X市の犬は、たいてい笑わないし、いつも怒っている。それはすでに言ったとおりだ。だからといって、イヌという動物が本来そういうものだと信じるとすれば、アサハラや細木数子を信じる人間でさえも、お利口さんになってしまうだろう。だいたい、小さい子どもの母親だって、よほどのノータリンでなければ、ぼくの犬が人間に咬みつくような犬でないことくらい百も承知で二百も合点なのだ。ところが、そんなに賢い母親とぼくのような英国系イヌバカ紳士をさしおいて、「ダメよ、犬にさわっちゃ!」と、外野席から警告を発する婆さんまでいるのだから、老人党ケージバンの管理人もビックリ仰天だろう。

ぼくは不思議に思う。あの老人たちは、子どもの頃、どんな遊びをしていたのだろう。まさか家の中に閉じこもってテレビゲームで遊んでばかりいたはずはない。その頃はまだ、ニッポンの町にも野良犬がいたのじゃないか。学校の帰り道、友だちだった野良犬に会って、ランドセルから給食の残りを取り出し、それを犬に与えて微笑む子どもがいたのじゃないか。サン・テグジュペリが『星の王子さま』に書いてるとおり、大人はみな子どもだった頃のことを忘れるらしい。それとも、どんな犬をも敵視するような老人てのは、子どもの頃には、野良犬に石をぶつけて喜ぶような子どもだったのだろうか。

X市の公園には、こんな公園もあった。中にゲートボール場があって、その横に子どもの遊び場がある。ぼくの愛犬BBCは、東京で散歩中、公園に立ち寄ると、滑り台の上で休憩するのが好きだったので、その公園でも滑り台を発見すると、その頂上まで登ろうとした。そのとき子どもの姿はなかった。ところが、ゲートボールで遊んでいた老人の中に、こちらを険悪な表情でじっとにらんでいる男がいたのだ。のちにあの辺に住む愛犬家から聞いた話だと、子どもたちと仲良く遊んでいるような犬のことでも、「放し飼いにするな!」と怒鳴る老人が、あの地域には珍しくないらしい。

さて、きょうの話の最初に出たworldlemonというアメリカ人だが、その名を漢字で書けば、「世界檸檬」となるわけだけど、ぼくがニッポンのネットケージバンで出会った檸檬さんという女性は、ぼくのオフリード論もよく理解してくれるひとであり、子どもの頃は犬が苦手だったらしいのに、いまは英国系イヌバカレディーと呼んでもいいほどに犬を愛する人になっている。しかも、まさに絶世の美女なのだから、BBもこんなに嬉しいことはない。

ぼくのイヌ論を理解できる人は、おそらくニッポンのケージバンの体質には馴染めない傾向があるのかもしれない。日本人で本当に自由を知っている人は少ないし、実におせっかいで口うるさい人が多すぎると思う。マナーというものが分かっていないくせに、ルールルールと叫ぶ人が目立つ。リアル世界では世間体の微笑みの向こうに隠れている実体が、ネット世界ではハッキリと現れてしまうのだろう。檸檬さんもあのケージバンに姿を見せなくなった。彼女のような人が自由に発言したいと思えないようなケージバンにどんな価値があるというのだろうか。

今日のビデオ : American Baby Girl With a Good Dog

☆ この母親の解説を読むと、自分の赤ちゃんが犬を全く怖がらないので驚いたと言っていますが、赤ちゃんというのは、本来、そういうものなのです。おそらくヒトのDNAの中かどこかには、イヌがヒトの親友であるという事実が記憶されているのでしょう。そして、イヌらしい犬というのは、赤ちゃんのように小さい子には特別に優しいものです。この事実を破壊させて、イヌとヒトとが犬猿の仲であるかのように決めつけるのは、人間の歪んだ文化です。ついでに、このママ(アメリカ人)は、犬が赤ちゃんの顔をなめるのを嫌っているようですが、これも人間の偏見にすぎません。科学的に見れば、イヌの唾液は、ヒトのそれ以上にずっと衛生的であり、まずヒトに病気をうつすようなことはあり得ないと言ってもよいのです。むしろイヌのような動物との接触を経験せずに人工的な環境でばかり育つヒトの体質は、環境適応力を失う傾向があるはずです。

4 August 2007

犬も笑えば

ぼくはいつか「犬は笑う」というような話をしたと思う。ニホンザルのような一般のサル類は笑うという表情を見せないが、チンパンジーやゴリラは笑うらしい。

アメリカの心理学者ハーロウ(Harry Frederick Harlow, 1905 - 1981)は、アカゲザルの赤ちゃんを仲間から引き離し、一頭ずつ隔離することで、数ヶ月後にどのような社会的行動を示すかを調べた。隔離期間は、3ヶ月、6ヶ月、12ヶ月の3種類に分けて観察した。すると、次のようなことが明らかになった。

1)3ヶ月隔離された赤ちゃんザルの場合: 3ヶ月後にケージから外に出すと、すぐにパニック状態になり床に伏して動かなくなった。しかし、仲間と一緒に遊んでいた赤ちゃんザルを近づけると、すぐに遊ぶようになり、その後は正常な子ザルとして成長した。

2)6ヶ月隔離された赤ちゃんザルの場合: 自分のからだを締めつけたり、咬みついたり、からだを激しく揺り動かすなどの異常行動を示した。仲間の集まる場所に放しても、一緒に遊ぼうとはせず、8週間後になってようやく遊ぶようになった。しかし、幼児期の心理的障害はその後も続き、過度の恐怖心や攻撃性を示すことが多く、しばしば攻撃行動を起こした。

3)12ヶ月隔離された赤ちゃんザルの場合: 異常行動はより激しくなった。自分の手足を咬み切るほどの攻撃性を示したかと思うと、じっと動かなくなり、好奇心のかけらもないような子ザルになってしまった。仲間のいる遊び場に入れても、10週間たっても遊ぼうとしなかった。もはや正常なサルとしての社会的行動は全く見られなくなった。

サル類は、本来、仲間とよく遊ぶ動物なのだ。子どもの時期に遊びを通して社会的行動の基本を学ぶことになる。そういう体験があってこそ、おとなになっても社会性のある行動をとれるようになるのだ。ニホンザルの場合は、おとなになると遊ばなくなるが、チンパンジーやゴリラはおとな同士も遊ぶ。きょう最初に「犬は笑う」という話をしたとき、チンパンジーやゴリラも笑うと言ったけど、ぼくは遊びと笑いには何か関係があるような気がしている。

ニッポンのX市では、赤ジャージがぼくに忠告してくれたように、犬は公園の中には入らずに、いつも一般の歩道をリードにつながれて歩くのがマナーになっているそうだ。確かに赤ジャージ公園の中でほかの犬を見る機会はほとんどなかったが、通りではよくすれ違ったもので、そのたびにぼくの犬に向かって、「なに英国紳士ぶって歩いてんだ、ここはニッポンだぞ、このクソ犬ゴールデン!」と激しく吠えまくる犬が多かった。小さな子犬さえも外の犬小屋につながれていて、ぼくがそばを通るごとに、「足が長くたって所詮クソ人間だろ、この英国かぶれ野郎!」と、人間嫌いの母犬の真似をしながら、激しく吠えるのであった。

ぼくはそんなX市で何を知ったか。それは、犬が笑うどころか、いつも怒っているということ。そして、あの都市の犬たちは遊ばないということだ。

今日のビデオ : Dog & Baby Girl

☆ こんな可愛らしいビデオなのに、コメント欄に誰かが日本人の悪口を書いていました。日本人はイルカを食っているとか。確かにそんな話を聞いたことがあります。イルカはクジラの仲間なので、その肉はクジラのと似ているそうです。でも、今どき、日本人でクジラの肉を食べたいと思う人がいるのでしょうか。いや、いるんでしょうね、きっと。驚くことに、愛犬家の中にさえも、犬の肉を食べたいと思う人がいてもいいじゃないかと、平然と言い切る人の多いのが、このニッポンですから。

3 August 2007

ヒトの家畜化

このブログに貼る写真だが、どうも時に全く同じ写真を貼ってしまうことがあるようだ。微妙に似ていて実は違うという写真なら、意図的に貼っていたつもりだけれど、全く同じやつを何度か公開していたとは、ぼくの記憶力もそろそろ認知症状態か。

野生動物と家畜の脳を比較すると、野生動物のほうが格段に発達していて脳容量も大きいという。ちょっと考えてみれば、それは当然のことで、家畜は生活環境が人間の支配によって管理されることによって、運動もしないし、生きるために活動することもしないのだから、脳を働かせる必要がないわけだ。脳というものは、どんなに可能性として高等なものであっても、それを実際に働かせなければ、ノータリン状態になってしまう。

ところで、人類学に「自己家畜化」という言葉がある。ドイツの学者アイクシュテット(Eickstaedt, 1892-1965)が、1934年頃に言い出した言葉だ。元々は進化論的な主張らしく、簡単にいえば、ヒトは文化を創出する動物であるが、自分がつくり出した文化の影響を受けることにより、野生動物とは違った独特の進化の過程を歩んでいるというわけだ。ぼくは進化論そのものには非常に懐疑的だけれど、このアイクシュテットの理論は、とても重大なテーマを示唆しているように思う。

アイクシュテットは、文化がヒトをつくりあげるという過程を、野生動物の家畜化と比較し、両者が同じ現象じゃないかと主張したのだ。そこで生まれたのが「自己家畜化」という言葉であった。ぼくがいま「重大なテーマ」と言ったのは、英国系イヌバカ紳士として、愛すべき犬と人間のすばらしい共存のために、犬と社会のことを考えていくときに、ヒトの自己家畜化という問題は核心的なテーマになると思うからだ。

人間は自分のつくった文化によって家畜化され、野性を失ってしまった。都市がどんな構造になっているか、ちょっと考えてみれば分かるように、およそ自然とは正反対のきわめて人工的な空間で、日々、人間は生きている。そのような環境にもヒトは適応できるのだと人間が信じるのは勝手だけれど、実際には、非常に多くの危機的問題が次から次へと積み上げられ、ヒトという動物をおかしくしているのが現実のように思う。

人類の歴史を振り返れば、現代のような都市空間でヒトが生きるというのは異常なことであって、ヒトはずっと長いあいだ自然環境の恩恵を受けて生かされていたのだ。現代でも人間が都会を離れて緑の多い自然の中に入るとホッとするのは、ヒト本来の感性を取り戻すからじゃないだろうか。

ヒトはなんだか変な動物になり始めているような気がする。物質文明の便利さにどっぷり浸かり、何も考えないで生きているような人が目立つように思う。安全信仰と呼べるくらいに、安全というものに異常に神経質で、それでいて危険を克服するために必要な経験を失っているようだ。実際には危険でないものに対してまで過敏に反応し、それをヒト社会から追い出そうとして、いよいよヒトの生きる環境を自然から遠ざけている。公園で子供たちと楽しく遊んでいる犬のことでさえ、ただリードにつないでいないというだけで「放し飼いだ!」と非難するような大人を見るたびに、ぼくは犬や子供たちに申し訳ない気持になりながら、ヒトの未来のことがとても気がかりになってしまうのだ。

そのようなヒトによって育てられたイヌまでもが、なんだか変な動物になり始めている。ぼくのイヌ論では、こういう問題をいつも考えているのだ。ヒト社会でイヌが実際に危険な動物になっているとすれば、その前にヒト自身が危険な動物になっているに違いない。これはぼくが風呂場の中で自分勝手に想像したことじゃなく、実地の体験を通して考えていることなのだ。

今日のビデオ : Mozart - Ave verum corpus
-- Vienna Boys Choir

2 August 2007

ドッグラン誕生物語


1970年代のニューヨークでは、ホームレスが異常に増えたという。彼らの多くはマンハッタンの公園に住み着いていた。犯罪に過敏な住民は、ホームレスのせいで公園が利用できなくなったじゃないかと、ニューヨーク市に苦情を投げかけるようになった。それを受けた当局は、防犯対策として犬を同伴しての公園利用を提案した。そのために公園内に犬が異常に増えるようになって、新たな苦情が出始めたのだ。つまり、犬のウンコ問題だ。

自分の安全のために犬を飼うような人間が、本当の愛犬家と呼べるだろうか。そんな飼い主が犬をきちんと教育するとは思えないし、かえって防犯対策として凶暴な犬を連れて歩こうとしたかもしれない。もちろん犬の名誉などに関心はないわけで、糞を放置しても平気でいられたのだろう。

ぼくは愛犬のウンコを必ず始末するが、それはイヌ嫌いのためにやっているわけじゃない。吾が愛犬はたいていの紳士以上にマナーがいいが、たったひとつだけ問題があるとすれば、それは自分のウンコを片付けることができないということだ。だから、ぼくが彼の名誉のために助けてあげるしかない。

さて、そのニューヨーク市だが、犬のウンコ対策として考え出したのが、犬を運動させる場所を限定することだった。公園内にフェンスで囲んだ場所をつくり、犬をその中に閉じ込めるようにしたのだ。犬は運動したあとに排便するのが普通だから、ドッグラン内で用を足していただければ、しばらくは大丈夫ってことになる。こうして始まったのがドッグランだ。そんなに昔の話じゃなく、1990年代に入ってのことらしい。

犬を教育することもできない自分勝手な飼い主が増えたということは、犬は飼い主に似るものだから、マナーの悪い危険な犬が増えたということだ。アメリカでドッグランが生まれた頃、ニッポンでも、80年代バブル期に始まるペットブームで犬が異常に増え始めていた。その多くの飼い主は、アメリカと同じように、犬を教育する知識もなければ意欲もない連中だった。ただ自分の犬だけは可愛いと思う程度で、その感情に飽きてしまえば、平気で犬を捨てる飼い主も少なくなかった。

いま、ニッポンで先進的な愛犬家を気取る連中が、アメリカのようにドッグランを普及させることが理想だとか主張しているらしい。アメリカの真似をすれば、犬も飼い主に似てバカになってしまうという現実に気づいていないのだろうか。バカな飼い主によって犬は危険な動物になってしまうというのに、イヌ嫌いの人もいるから普通の公園で犬をオフリードにすべきじゃないとか、そんなヨイコぶったことを主張して模範的な飼い主を気取る連中のせいで、犬をきちんと教育するために必要な社会環境がいよいよ失われ、犬への差別がますます強くなっている。こんなことじゃ、そのうち渋谷のハチ公もビックリ仰天で仰向け状態になってしまうに違いない。

今日のビデオ : Who Knows Where The Time Goes
-- Fairport Convention

子供たちに笑顔を

東京を離れてX市に住むようになった頃、通りを歩いていて余りにも犬を怖がる人が目立ったものだから、こんな都市では犬と一緒に暮らせないから、とっとと退散しようかと思ったのに、結局、5年近くも住むことになってしまった。そのあいだ、ぼくは何を体験し、何を学んだか。それは、子供たちは、本来、動物に優しいという事実だ。たぶんぼくがあんなに長くX市に留まったのは、子供たちの笑顔があったからだと思う。

きょうの写真に写っている女の子は、そのX市でぼくが「赤ジャージ」と名づけた男が威張っていた公園で出会った子だ。ぼくも愛犬BBCも、知らない子たちには、こちらからは絶対に近づかない。この女の子も、気づいたら、いつのまにかそばに来ていた子だった。

赤ジャージ公園は、どこかのイヌ嫌いが「犬の立ち入り禁止」という看板を勝手に立てていた公園で、初めの頃、ぼくが愛犬と一緒に中に入ると、子供たちの中にも、「この公園には犬が入れないんだよ」と親切に教えてくれる子もいた。いやはや、とんでもない都市に引っ越して来たものだと思った。市役所にそのことを連絡したら、その日のうちに看板を撤去してくれた。ぼくは看板があってもそんなものは無視するつもりだったのだけれど、役所にはイヌ嫌いの反社会的行為が理解できるようだったので、少しは安心した。

ぼくはその公園のことで、いくつかの小・中学校を訪問し、校長や教頭と話をしたのだけれど、赤ジャージ公園というのは、中高生の不良グループの溜まり場になっていて、児童たちには入らないように指導していたという。確かに、ぼくもそのような中高生をよく見かけた。小学生の女の子たちと遊びながら、タバコを吹かしている連中がいたので、「小学生の前でくらい、少しは兄貴らしくしたらどうだ」と言ったことがある。また、公園内をバイクで走っている高校生がいたので注意したこともあった。

ぼくがいつも不思議でならないのは、犬のような動物のことでは神経質に文句を言う大人たちが、なぜあのような中高生たちには何も言えないのかということだ。ウワサでは、あの赤ジャージという男は、とにかく口うるさいヤツで、近所のスーパーなどでも、よく店員に向かって文句を言っていたらしい。

そのスーパーで思い出したが、初めて中に入ったとき、店内がタバコ臭いのに気づいた。むかし東京でも時にコンビニなどで、スタッフ室のほうからタバコのにおいが漂って来るような店があったけれど、あんなに大きなスーパーの中がタバコ臭いなんてのは、経験したことがなかったように思う。なんだか珍しいスーパーだなあと思っていたら、ある日、なんとレジのすぐ横にあるタバコ売り場に置かれたベンチに坐り、プカプカやってる夫婦らしき男女がいるじゃないか。

ぼくは他人のことにはほとんど干渉しないのだけれど、これはさすがに見過ごすことはできなかったので、店員に質問してみたのだ。このスーパーでは店内でタバコを吸ってもいいのですかと。すると、確かにあのベンチでタバコを吸うのはかまわないという話だった。それを聞いて、ぼくはこう言った。

「このスーパーには、犬を入れちゃダメなわけですよね。その理由はきっと衛生上のことなんでしょ。ぼくのように幼い頃から、家族の一員として犬と暮らして来た者には、犬の何が不衛生なのかと思ってしまうのですが、それはともかく、タバコの煙というのが有害なものだというのは、犬が好きか嫌いかに関係なく、科学的な事実じゃないですか?」

その後、ニッポンでもタバコの煙に関して法律がうるさくなったので、きっとあのスーパーでも、店内での喫煙を許可しなくなったことだろう。あの口うるさい赤ジャージは、そんなことは何も問題視していなかったのじゃないだろうか。だから、家のすぐ眼の前の公園が不良の溜まり場になっていても全く平気で、犬のような弱い動物のことでは余計な文句を言えたのだと思う。

赤ジャージ公園は変わった。不良はいなくなった。犬を怖がる子供もいなくなった。そんな子供たちが少し大きくなって、犬を知らない子どもに、犬とのつき合い方を教えるような場面を何度も見たことがある。きょうの写真のように、大きな犬の背中に乗りたがる子供が多かったのだけど、初めての子にぼくは必ず「体重をかけないように乗っかってね」と注意していた。その子が大きくなって、小さい子供に同じことを注意していた。初めの頃、公園内でぼくの犬を発見すると、まるで津波から逃げるかのように、10メートル先で孫を抱えて逃げ去った老婦人も、やがて孫をそばに近づけて、「おとなしいワンちゃんね」と言うようにもなった。

人間社会を本当に変えるのは、法律や規則の前に、人間自身の生き方だと思う。少なくとも子供たちは大人の生き方を見ている。

今日のビデオ : You Are So Beautiful
-- Joe Cocker

1 August 2007

ヒトの教育


ニッポンのX市の公園でこんなことがあったのを思い出した。その公園には、赤ジャージ公園とは違って、頻繁に訪れることはなかったので、ぼくの犬のことを知らない子供が多かった。それでもたまに立ち寄ってみると、いつか会ったことのある子供たちが近づいて来て、吾が愛犬との再会を喜んでくれたものだ。こんなに大きな犬がリードにつながれずに公園に入って来るなんてのは、あの都市ではまず経験できないことだったのだと思う。その日も、初めて見るような子たちが数人、草の上で休んでいるぼくの犬のそばに集まっていた。

すると、そのうちのひとりが、愛犬の眼の前で、「ワー、こえー!」と叫んだ。それを何度も繰り返すので、ぼくはその子に言った。

「この犬が君に何か怖いことをしたのかい?」

その少年は首を横に振った。

「この犬は、子供に咬みつくどころか、吠えたことすら一度もないんだよ。見て分からないのかな。こんな犬でも、公園に入れるなと言って追い出そうとする大人がいるんだ。君もそんな大人になりたいのかい?」

その子はまた首を横に振った。そばにいた小さな女の子が、「このワンちゃんは絶対かまないよ」と言った。

ぼくの犬を見て怖がった少年は、近くの託児所の子供らしかった。託児所と言っても、乳幼児じゃなくて、小学校1年生から3年生までの子供を預かっている施設らしい。その施設には、「犬にさわっちゃいけません」という規則があることを、そこの子供たちから何度か聞いていた。

しばらくして、その公園内の別の場所に移動して休んでいたら、また数人の子供たちが集まって来た。その中に、ぼくの犬には近づかずに、3メートルくらい離れたところから、「ワー、くせえー!」と叫びながら走って逃げて行き、また戻って来ては、同じことを繰り返す太った少年がいた。犬を知らない人のために言っておくと、家の中で家族の一員として生活している犬というのは、不快な体臭のしないのが普通なのだ。そのX市で数えきれないほど多くの子供たちと出会ったが、吾が愛犬に抱きつきながら「ああ、いいにおい」と言った女の子なら何人かいたけれど、遠くから「くせー!」などと言われたのは初めてだった。

ぼくはもちろんその程度のことで感情的になることはない。ただ、子供の教育を考えたときには、そのまま見過ごすことができなかったのだ。だから、ぼくはその少年に向かって、こう言った。

「犬にさわっちゃダメなんて、大人が変な規則を作るから、君のように失礼な子供ができてしまうんだろうな。君がもし初めて会う人から、くせー!なんて言われたら、いやじゃないか?」

その少年は首を縦に振ってうなずいた。

日本人の大人たちを観察していて、よく思うことがある。子供だとか、子犬だとか、とても可愛がるのはいいのだけれど、彼らを教育しようという意識の欠けている人が多い。子供や子犬が小さいうちに、ただ可愛いと思って満足していたら、そのうち大変なことになるだろう。可愛いなんて感情は、結局、自分が心地よいだけのことだ。本当に子供や犬の幸福を願うのなら、彼らをきちんと教育することが必要だろう。その教育というのが、ヒトの場合は、知識を詰め込む受験教育にすぎず、イヌの場合は、リードで自由を奪う管理にすぎないのが、このニッポンの特徴になるのだと思う。

きょうの話に登場したふたりの少年たちに、ぼくはこう言った。

「犬にさわっちゃいけないというのは、大人の作った勝手な規則で、そんなことじゃ、犬はみんな悪いヤツになってしまうよね。犬にさわってみたいと思ったら、飼い主の人に聞いてみるといいよ」

今日のビデオ : The patience of a golden retriever
You are so beautiful ...