☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

30 July 2007

メディアのバカ


今月24日に高松市で3人の児童が四国犬に咬まれ負傷したと思ったら、翌日、今度は同じ香川県内で小学2年生の男児が別の四国犬に咬まれて重傷を負ったそうだ。四国犬なんてのは東京では余り見たことがないような気がするけれど、問題はそんなことよりも、この事件に関してテレビで叫んだとかいう、みのもんたのコメントだ。ぼくはそんなテレビなど見ないから、例によって友人からの情報なのだが、みのはこんなことを言ったそうだ。「みなさん、犬はいつもリードにつないで散歩してくれなくちゃ困りますよ!」

ニッポンという国では、アメリカでもそうらしいけれど、愛犬家と呼ばれる人の中にさえ、犬をリードにつないで散歩させるのが当然だと思っている人が多いから、まして一般人がこれを聞いたら、リードをしないで散歩するヤツは非常識だと、いよいよ確信することになるだろう。そして、犬をイヌらしく教育する社会的環境がますます消えてゆき、今回の事件のように人に咬みつく犬が増えるに違いない。

さて、その四国犬の事件だが、四国新聞による記事を引用するとこうなっている。
犬は近くの女性(58)が飼う体長約70センチのメス。狂犬病の予防はしているという。女性の長女(33)が散歩させようと犬に首輪をかけた際、かけ方がゆるくて首から抜け、400メートルほど離れた広場に向かって逃げ出したらしい。当時広場には、児童約10人と保護者がラジオ体操に訪れていた。男児は、犬に気付いて逃げたところを後ろから数回かまれたという。

子供に咬みつくような犬を自由にさせてならないのは常識だが、この記事を見ても分かるように、この種の事件を起こす犬というのは、飼い主から逃亡するような犬であり、ふだんは必ずリードにつないで散歩させているものなのだ。本当ならば、このような危険な犬の場合、リードにつなげばよいというのではなく、その攻撃性をなおすことこそが飼い主の義務となるべきなのだ。英国では、安全な犬のリードを外すことは許されるが、危険な犬の場合は、つないでおけば許されるのではなく、法律によって飼い主に矯正トレーニングの義務が課せられている。

今年、英国でも子供が犬に咬まれる事件があった。その直後に、BBCの子供向けサイトを見てみたら、むやみに犬を恐れる必要のないことを子どもたちに向かって助言していた。そして、イヌという動物は、決してヒトを獲物にしようと思って襲う動物ではないこと。犬を怖がらせるようなことをすると、犬によっては自己防衛のために咬みつく場合もあること。そのようなことを注意していた。さすがにBBCだと思った。子供の教育というのは、こういうことなのだ。

英国にもニッポンと同じように危険な犬がいる。それは、そのような危険な犬に育てた飼い主が悪いのであって、イヌという動物が元々危険な動物であるというわけではない。こういうのが常識として通用する英国では、犬をイヌらしく育てる社会的な環境があるから、危険な犬というのは非常に例外的な犬ということになる。

ところが、ニッポンのように、最初から人間社会がイヌを信用せずに、まるで猛獣のようにみなすのが常識になってしまうと、実際に危険な犬がどんどん増えていくことになる。見かけ上、犬たちはリードで自由を失っているから、なんとなく大丈夫そうに見えるのだとしても、何かの拍子にリードが外れて逃げてしまうと、今回の四国犬の事件のようなことになってしまうのだ。犬に咬まれるという事件は、まずまちがいなく、ふだんはリードや鎖につながれている(あるいは檻に閉じ込められている)犬たちが引き起こしているはずだ。

マスメディアの社会的責任というのが、ニッポンの場合、アホ首相やアホ大臣の社会的責任と同じように、ほとんど実体として存在していないから、この国はいつまでも醜い国のまま、地球の常識から外れて、ひたすら経済的発展のみを追求することになってしまう。

今日のビデオ : Dishwasher

☆ イギリス人というのは、科学文明の利器なるものを嫌っているのじゃないかと思うことがあります。この英国の家庭では、機械式の便利な食器洗い機よりも、愛犬のボランティア活動に頼っているようです。

人生の夕暮れに

3時間ほど前、小田実が死んだ。その名前は若い頃から知っていた。作家として特別に愛読していた人ではない。ただ、国家という魔物によって自由を奪われ、いのちを失う人々をなんとか助けようとして、果敢に発言し行動する人であったように思い、その一貫した生き方に、遠くから拍手を送っていたつもりではあった。

彼が動物の自由やいのちにまで関心があったのかどうか、それは知らない。しかし、もしそのテーマで朝まで議論するような機会があったとすれば、きっとぼくの動物愛護論もオフリード論も理解してくれたのじゃないだろうか。たとえ奥さんが北朝鮮出身の女性であっても、ぼくがなぜ人間は犬の肉を食べるべきではないと考えているかということも、小田実ならばきっと分かってくれたのじゃないだろうか。あの人はいつも強者の欲望によって虐げられた弱者のことを考えていたはずだから。そんなことを今、勝手に思っている。

こないだここで紹介した Goodbye, Mr Chips(チップス先生さようなら)のビデオをもう一度見てみたら、字幕の翻訳に少し問題があるような気がした。特にこの部分、
And the question I shall ask only you can answer
Was I brave and strong and true like you... like you?
字幕では、only の解釈がまちがっているようだったし、それはまだいいとしても、だいじな単語 brave(勇気のある)という言葉を省略していたのは、あんこの入っていない今川焼を食べているような気もした。ただ「強い」といえば、そこに「勇気」の意味も含まれると考えたのだろうか。

ぼくは勇気あることと強いこととは別のことのように思う。宗教改革者ルターは、腐敗した教会権力に向かってその罪を責めたとき、からだが震えるほどに恐怖におののいていたという。内村鑑三も、あの不敬事件を起こしたとき、キリスト者としての良心と日本人としての礼節のあいだで非常に悩み、同時に凶暴な国家権力の報復を恐れていたようだ。彼らは共に決して生まれながらに強い人であったわけではない。ただ勇気ある人たちであった。

ぼくが字幕翻訳家だとすれば、あの部分をこう訳すかもしれない。
そして君にしか答えられない質問をするよ
僕は勇敢だったかな
強かったかな
誠実だったかい
君のように ... 君のように

今日のビデオ : Candy The Golden Retriever

☆ 英国ゴールデンの子犬です。生後3ヶ月だというから、まだ2回目のワクチンを接種してまもない頃だと思うので、公園でほかの犬と遊んでいないかもしれません。子犬は生後2ヶ月頃までは、一緒に生まれたきょうだいと生活する必要があります。ところが、ニッポンのように、ペットショップで展示販売することが許されるような国では、ほとんどの子犬が乳児期のだいじな経験を省略されてしまいます。そのような子犬の中には、公園などで会うほかの犬を怖がる犬が多いのです。それを矯正して本来の犬らしく育てるためには、犬に優しい社会的環境が必要です。「公園に犬を入れるな」と威張るような赤ジャージ男や、ただ犬のリードを外しているというだけで警察に通報するような黒ジャージ男が棲息するようなヒト社会では、イヌは健全に育たないことになってしまいます。つまり実際に危険な犬が増えることになるのです。

29 July 2007

続・どうでもいい話

きのう貼ったMr.ビーンの写真を見ると、確かにそんなに背の高い人には見えないような気もする。それで、たまにしかウソつかないあるBBの評判がこれ以上悪くなったら、愛犬のBBCが困るから、誰もが納得できるような証拠写真を貼ってみた。隣りにいる女性は彼の奥さんだ。このアトキンソンなら、身長が185センチくらいには見えるのじゃないだろうか。やっぱり、どうでもいい話だけど。

ニッポンの学校では、整列するときは、たいてい背の低い順に並ばされるのだと思う。そのせいじゃないかと思うのだけど、日本人には身長コンプレックスの人が多いような気がする。芸能人なんてのは、それをかなり意識しているのか、身長をごまかしてる人がけっこういるようだ。

ぼくは東京で散歩中によく芸能人に会ったことがあるけれど、たとえば木村拓哉という人は、せいぜい170センチくらいにしか見えなかったのに、公称176cmということになってるらしい。恵比寿のレンタルビデオ屋で声をかけられた羽賀研二なんてのも、そんなに大きい人には見えなかった。なのに、公称183cmだという。ぼくは彼と10分くらい立ち話したけれど、たぶん178cmくらいだったと思うな。あのとき一緒にいた梅宮アンナは、公称168cmだとか。でも、これも違うと思うね。おそらく165cmくらいじゃないかな。家の近所のコンビニでよく見かけたTokioの長瀬智也が185cmというのもかなり怪しい。ぼくの愛犬BBCが言うには、たぶん180cmくらいじゃないかって。

女性の場合は、かえって背が高すぎる人は、身長を低めに発表していることもあるらしい。藤原紀香の場合、最初169cmと公表してたようだけど、実際には172cmくらいはあるそうだ。観月ありさも公称169cmだとか。これもどうかな。大人になった彼女を見たのは一度きりだと思うけど、足が長くてバービー人形みたいな体型だから、もっと背が高いようにも見えた。彼女が港区の小学校に通っていた頃、何度か見かけたような気がするのは、その頃から同学年の子と比べて異様に背が高かったからだと思う。

中森明菜は公称160cmだという。近所のコンビニでアイスを買っていた姿を見たときの印象では、もっと低いような気がする。168cmの男が170cmと公表するようなものかな。神宮外苑の並木道を散歩中に、江角マキコが笑顔でBBじゃなくてBBCを見ていたけれど、けっこう背が高い女性に見えた。でも、もうこんな話は、どうでもよくなってきた。

なんだか適当にキーを打ってるけれど、どうでもいい話というのは、こっちは疲れなくても、読むほうとしては疲れてくるかもしれない。それじゃあ、隠れキリシタン、じゃなくて、隠れBBファンのために、ぼくの幼稚園時代の話を少し公開すると、幼稚園で整列している写真を見ると、なぜかぼくはいつも先頭に立っていて、すぐうしろの子より頭ひとつ分は背が高いように見える。そこである日、母にたずねてみたのだけど、母が言うには、「あなたは先生のことが大好きで、いつも先生のそばにいたかったのよ」ということらしい。そう言われてみると、小学生の頃、あの先生が結婚したというウワサを耳にしたとき、胸の奥の何かが壊れそうなくらい淋しい気持になったのを今でも覚えている。

今日のビデオ : Gandhi spinning wheel portrait

☆ イギリス人の画家がガンジーを描いています。彼の愛犬も登場するのは、いかにも英国らしくて、しばらく日本的な不自由から解放された気分になりました。

28 July 2007

どうでもいい話


日本的な環境にいると、ぼくはとても疲れてしまう。犬の問題だけでもそうなのに、そこに政治まで関係してくると、もうどうしようもない。今回の参院選は、投票前に何か大事件でも起こらない限り、そこそこの投票率でも自公は大敗するだろう。今しばし、日本的愛犬家のことも忘れ、日本的政治のことも忘れ、何か軽い話題でボケーッとしてみようか。

こないだちょっとマドンナのことが話題になったけれど、彼女のことをすごく大きい女性に思っている人が多いらしい。確かに映像や写真で見た感じでは、筋肉質でたくましいからだに見えるから、きっと背も相当に高いと思われても仕方ないかもしれない。ところが、マドンナの身長は、5フィート3.5インチというから、161cmくらいだ。アメリカ人としては小柄なのだ。

それで思い出したけれど、ぼくに「Mr.ビーンのことを小男だと思っていた」と言った友だちがいた。ぼくはそうは思っていなかったから、ビーンを演じるローアン・アトキンソンの身長を調べてみたのだけど、6フィート1インチ(185cm)ということだから、イギリス人としてもやや背の高いほうになる。いやあ、人ってほんとに見かけによらないものですね。

見かけによらないと言えば、このアトキンソンてひと、Mr.ビーンではあんなにアホっぽい役を演じているけれど、実はオックスフォード大学で理学修士号を取得している秀才なのだ。ふだんの彼の英語は、いわゆるオックスフォード英語と呼ばれるやつで、すごくインテリっぽいのだから、アベもアソウもビックリ仰天だろう。

Mr.ビーンてのは、きょうの写真のように、いつもツイードのジャケットを着ている。靴も英国紳士御用達って感じの伝統的なやつだ。つまり彼のアホっぽさとは正反対のインテリ系のファッションになるから、ますます変なヤツに見えてしまうわけだ。

ぼくはMr.ビーンを見ていると、とても他人とは思えなくなる。そういえば、最近、ヒュー・グラントに関しても、同じようなことを言ったかもしれない。となると、正常な読者には、BBのイメージが曖昧になってしまうだろうか。それでは申し訳ないので、ひとつ考えるヒントを出しておくと、Mr.ビーンと「ノッティングヒルの恋人」を演じたときのグラントを足して2で割った感じが、まさにBBそのものだとでも言っておこうか。

今日のビデオ : Goodbye, Mr.Chips

☆ こないだ歌ってもらったペトラ・クラークがヒロインを演じた映画の最後のシーンです。きょうの話のついでに、ペトラの身長を調べてみたら、5フィート1インチ(155cm)でした。イギリス人としてはかなり小柄です。一方、彼女と共演したピーター・オトゥール(今日のビデオに登場する紳士)は、6フィート2インチ(188cm)となっていたから、こちらはイギリス人としても大柄です。どうでもいい話ですが。

26 July 2007

動物の権利


これまで多くの人間を観察して来たことからハッキリ言えるのは、自由と権利ということを正しく知っていて、それをどんな場合にも絶対に守ろうとする信念で生きている人というのは、もの静かな人であるということだ。そういう人は他人に余計な干渉をすることがない。自分の好き嫌いという感情には支配されずに生きている人だ。しかし、いくらもの静かな人とはいえ、彼らにも断固として闘うべき敵がいる。それは弱者を虐げる横暴な強者たちだ。

リンカーンという人は、アメリカ大統領としては珍しく立派な人であった。彼はこんなことを言っていた。
私は人間の権利と同じく動物の権利を支持する。

I am in favour of animal rights as well as human rights.
リンカーンは動物をとても愛した人で、そのために肉をいっさい食べないほどだった。英国には非常にベジタリアンが多いが、彼らは自分の健康のために肉を食べないのではなく、動物を殺すべきではないと考えているのだ。そのひとり元ビートルのポール・マッカートニーは、地球上から人間による動物虐待をなくそうと一生懸命に活動している。彼のような有名人に限らず、英国にはそのような活動をする無名の庶民がたくさんいる。彼らの中には、遠いニッポンの国で虐待されている動物たちにも同情して、動物愛護運動のためにお金を寄付している人も少なくない。聞いた話だと、日本人から集まる寄付金よりも、彼らイギリス人から送られてくる寄付金のほうが多いそうだ。

ニッポンでも動物愛護という言葉はよく聞かれるようになった。英国系イヌバカが、日本系愛犬家に失望して、政治運動の世界で「動物愛護」をくり返し主張するようにもなった。同じような思いでニッポンの悲惨な現状を改革しようとする人が増えて来たように感じている。ただ、動物のいのちをだいじにしようという人が多くなって来たとはいえ、動物の権利を守ろうという日本人は、まだまだ少ないように思う。リードの問題を見れば明らかだろう。日本人の中には、愛犬家と呼ばれる人でさえ、イヌ嫌いもいるからという理由を掲げて、相変わらず犬の権利を認めようとしない人が目立つ。彼らはそれで人間の権利を守っているつもりなのかもしれない。しかし、彼らは気づいていないのだろうか。

彼らが守ろうとしているイヌ嫌いの多くは、実は、ただ犬がこわいと思っているにすぎず、彼らだって優しい犬に出会えば、恐怖の表情がやがて親愛の表情に変わるのだ。ただしイヌ嫌いの中にも確信犯がいる。そのような連中は、犬がこわいのではなくて、犬が大嫌いだったり、犬の飼い主が大嫌いだったりするだけなのだ。たとえば、特に足が長くてカッコいい飼い主が大嫌いだとか、自分がパチンコで数万円も失ったというのに、やけに幸福そうに大型犬と散歩している飼い主なんかを見てしまうと頭に来るとか、その程度の人間が、犬のことで警察に通報したりするのだ。そんな連中の権利を守ろうとする愛犬家がいるとすれば、犬と暮らすのはやめるべきだろう。犬が余りにも哀れじゃないか。

世の中には危険な犬もいれば、全く安全な犬もいる。危険な犬というのは、飼い主の育て方やその社会環境がまちがっていたから、そうなってしまったのだ。イヌは、本来、ヒトよりもずっと安全な動物である。犬の評判が悪い人間社会があるとすれば、犬を責める前に人間こそが反省すべきだ。それなのに、相変わらず危険な人間どもが威張りながら、犬という弱者をいじめている。こんな現実を知って怒らない人がいるとすれば、動物愛護などという言葉を使わないでほしい。憲法9条の平和主義などとも関係しないでほしい。そんな人に地球の平和を委ねるわけにはいかないのだ。

自由と権利を知っている人はもの静かな人だ。そういう信念をもった人は、よほどのことがない限り、他人のライフスタイルに干渉することはない。例外があるのは、彼らには状況に応じて考えることができるからだ。絶対に許しておけないことを目撃したら、彼らは黙ってはいないだろう。

自由と権利を知らず、信念というものもなく、ただ規則や法律の文字にしか従うつもりのない人は、口うるさい人である。なぜなら、彼らには考えるという習慣がないからだ。彼らは他人のライフスタイルに干渉することによって、自分こそが模範的な市民だと確信するだろう。そういう人であっても、近所づき合いの中では、英国系イヌバカに向かっても、笑顔で「こんにちは」と言うかもしれない。しかし、ネット上の英国系イヌバカに対しては、彼らの本性を鮮やかに見せてくれるものだ。

今日のビデオ : Official Dance Tonight Video
-- Paul McCartney

☆ ポール・マッカートニーの公式サイトから公開しているビデオです。すでに100万人近い人がこれを見たのだから、さすがですね。コメントの中に、アメリカから lovsexy と名乗る性格異常者が何度か登場しているようです。こんな人間がアメリカでも犬のことで警察に通報したりするのでしょう。ともかくぼくとしては、ポールの影響で、動物虐待が少なくなることを願っています。

25 July 2007

紳士の口からアホ?


英国の牧師ジョン・ストットが、ロンドンの教会で The Emotions(感情)と題して語っているのを聴いた覚えがある。いま内容を正確には思い出せないのだけれど、「心(愛情)のない理性は価値がない」ということを言って、こんな話をしていたと思う。ストットが学んだイングランドのパブリック・スクール(ラグビー校)では、男子たるもの公衆の面前で感情をあらわにしてはならぬという精神(stiff upper lip)を叩き込まれた。ところが、イエス・キリストは、偽善者に向かっては敢然と怒りをあらわにしたし、みんなが見ている場で二度も涙を流したことさえある。きっと彼はパブリック・スクール出身ではなかったのだろう(そのとき聴衆がワーッと笑ったのを今でも覚えている)。

ニッポンでは、クリスチャンといえば、酒もタバコもやらないまじめ人間で、その口から汚い言葉など出るはずがないとか、何かそのようなお上品なイメージがあるのかもしれない。実際、ニッポンのカトリック信者の中には、安倍政権を支える右翼思想に対しても全く違和感を覚えることなく、靖国信仰を支持する人さえいるらしい。また、プロテスタントの中にも、性というものに極度に神経質になって、礼拝堂の座席をまるで銭湯のように男用と女用に分けている宗派まであるそうだ。

それで思い出したけれど、ぼくは学生時代に一度その宗派の女性信徒に会ったことがあり、どういうわけかその人に何か質問したのであった。ところが、何を意識したのか、その女性は気安く声をかけられると迷惑だというような態度を見せたのだ。「ねえ彼女、お茶しない?」なんて言った覚えはないし、「君のBWHは?」などと余計な質問をしたわけでもないのにだぞ。ぼくは今だからキッパリ言っておくけどね、ここだけの話、あの女性なんて全くぼくのタイプではなかったのだゾウさん!

それはともかく、ストットはあの話の中で何を言いたかったのだろうか。キリスト者というものは、信条がしっかりしていることは絶対に必要だけれど(ストットは英国国教会の牧師だが聖書の絶対権威を信ずる福音派だ)、しかし、頭の中にただ教理が詰まっているだけで、怒り、喜び、悲しみのような感情をもてないような冷たい人間になってはならない。いくら理性的な紳士淑女に見えたとしても、その理性に愛情が伴わなければ意味がない。そういうことを言いたかったのだと思う。

アメリカのジャーナリストがこんなことを言ったそうだ。「私が日本の総理になるとすれば、部下にはジャーマン・シェパードが5匹いれば充分だ。日本人はみな羊のようにおとなしく従順だからね」

ちょっと余計な解説をすれば、ジャーマン・シェパードといえば、ニッポンでは警察犬のイメージしかないのかもしれないが、元々はその名で分かるように牧羊犬だった。

今日のビデオ : Nine Puppies

☆ この女性、アメリカに住んでるらしいですが、ちょっとイギリス人のような感じでしゃべっているし(歌の中では vase をアメリカ式で発音していますが)、この子犬たちはどう見ても英国ゴールデンです。アメリカにも英国かぶれがいるのでしょうか。ぼくの愛犬BBCが小さかった(子犬にしては大きかった)頃を思い出しました。

紳士と常識


先日、参院選の自民党候補者の中に紳士を見つけるのは不可能に思うというようなことを言ったと思う。ニッポンのアホ首相や、その仲間のアホ大臣たち、そして、首都トーキョーのアホ知事を見ても明らかなように、このニッポンで紳士に出会うのは、月でウサギさんに出会うよりも難しいかもしれない。

いつの頃からか、犬はつないで散歩すべきだというのがこの国の常識のようになってしまったようだ。そのような人間の勝手な常識のせいで、ヒトの親友として生まれてくるイヌが、まるでテロリストか何かのように恐れられるようになった。地球上の美しいものさえも醜くしてしまうのは、人間の特技と言ってもいい。

ニッポンに紳士は珍しい。ニッポンに紳士的な犬は珍しい。だからといって、紳士がいないわけじゃないし、紳士的な犬もいないわけじゃない。庶民はそれほどバカじゃないのだ。実際に紳士に出会ったり、紳士的な犬に出会ったら、「何かちがう」と感ずるのが、本当に常識を生かせることのできる人だろう。

最近どこかの掲示板で言ったような気がするけれど、ネット上では多弁なBBではあっても、リアル世界のぼくはただ黙って自分のライフスタイルを実践しているだけなのだ。現実に、ぼくをマナーの悪い人間だと思う人は珍しいだろうし、ぼくの犬のライフスタイルを迷惑に思う人も珍しいはずだ。ただ例外があるようで、イヌという動物をテロリストのように嫌っている人だけが、ぼくを非常識な人間だとみなすらしい。

ぼくがそのような人間を許すことができないのは、ネットウヨクが言うように「俺様権威」で威張りたいからではない。そんな人間が常識人として通用する社会では、いよいよ弱い者が虐待されてしまうからだ。実際、このニッポンでは、動物虐待だけでなく、幼児虐待なども増えている。学校だけでなく、警察のような役所や普通の会社でも、弱い者イジメが流行らしい。

日本人と議論していていつも思うのは、何事においても体験の足りない人が多いらしいということだ。都市はいよいよコンクリート化し、いかにも日本的な貧弱な公園でさえも、犬は自由に遊べない。子供も自由に遊ばなくなった。そんな子供がそのまま大人になったとすれば、ぼくが体験したような日常の現実を理解することは不可能になってしまうに違いない。

いくら山で自然を愛したとしても、都会で犬を愛せないような人は、紳士になれないだろう。むかしあるイギリス人(John Northbrooke という人)はこう言った。
犬を愛さない男は紳士たりえない。

He cannot be a gentleman which loveth not a dog.
16世紀に生きた人なので、今なら who does not love a dog と書くところを、欽定訳聖書のような言い方をしているけれど、ぼくのような英国系イヌバカ男には、涙が出るほどに嬉しい言葉である。

犬を愛するということはどういうことであるか。愛犬家の中にさえそれを知らない人がいるらしい。何事も体験を通して考えることが必要だ。ひとつ考えるヒントをあげておけば、人間という独裁者の横暴から犬という弱者を守るためにベストを尽くすこと。それも犬を愛するために必要なことだと言っておこうか。

今日のビデオ : Skateboarding Bulldog

☆ このビデオでしゃべってる女性の声は、明らかにアメリカ英語です。まちがいなくこのブルドッグは、アメリカ人でしょう。こんな犬と街で出会って、喜ばないどころか、「放し飼いだ!」と怒鳴る少年がいたとすれば、まちがいなく紳士にはなれないでしょう。

24 July 2007

戦争と動物


戦争で不幸になるのは人間ばかりじゃない。醜い人間の歴史に巻き込まれて、動物たちもどれほど戦争の犠牲になったことだろうか。

1936年、上野動物園から1匹のクロヒョウが逃げ出した事件があった。東京中が大騒ぎになったらしく、同じ年に起きたニ・ニ六事件、阿部定事件と共に昭和11年の三大事件のひとつになっている。この事件の影響もあったのか、戦争が激化していた1943年、空襲時に破壊された檻から動物たちが逃げ出すことを恐れて、猛獣とみなされる動物たちを殺すように軍からの通達があった。

その「猛獣」の中には、ゾウも含まれていた。ライオンやクマたちは毒殺されたが、ゾウは毒入りの食べ物を食べようとしなかったし、注射で殺すことも無理だった。それで、餓死させるしかないということになってしまった。子供たちの人気者だった3匹のゾウ、ジョン、トンキー、ワンリーは、空腹の中で、食事をもらおうと彼らお得意の芸を何度も見せた。しかし、ついに3匹とも餓死してしまう。

2004年に発生したスマトラ沖地震で、大津波の被害で多くの犠牲者が出たが、そのとき、観光用のゾウに乗っていた人たちは助かったという。海岸に津波が押し寄せるのを察知したかのように、突然、ゾウたちは観光客を乗せたまま遠く丘のほうへと走り始めたそうだ。

ゾウは優しい動物だという。決して猛獣なんかじゃないのだ。もちろん、彼らもパニック状態になれば、暴走して危険な行動をとることもあるだろう。しかし問題は、なぜ東京ではロンドンのように、たとえ戦時中ではあっても、動物のいのちを守ろうという発想が生まれなかったのかということだ。

戦争が終わって60年以上が過ぎたというのに、日本人というのは、ペットショップの店頭におもちゃのように並べて売り出される犬のような動物までも、売ったあとには知らんぷりで、犬たちがまるで猛獣のように扱われて社会から差別されているのにも無関心でいられるらしい。たとえ愛犬家であっても、このニッポンという国では、ペット産業でただ金儲けすることしか頭にない連中と同じ気質の人間が多いのかもしれない。この国で生きる動物たちは、いつになったら幸福になれるのだろうか。

今日最後のビデオ : Way Back Into Love
-- Hugh Grant & Haley Bennett

☆ マドンナが大好きだという英国の親友は、ヒュー・グラントが嫌いだと言ってました。ぼくはグラントを見ていると、とても他人とは思えなくなってしまうんですが。

米国のイヌ事情(2)


それで、そのアメリカの掲示板てのは,元々どんな場所だったのかというと,愛犬家グループなんかじゃなくて,都市情報関係の掲示板だったのだ。そのスレッドを立てて最初に質問した人は,「デンバーって犬に優しい都市なの?(Is Denver dog friendly?)」と題して次のようなことを書いていた。
私は10年ほど前にデンバーに引っ越そうかと考えたことがあったのだけど、そこが犬にすごく優しくない都市だと知ってやめたのです(これは多くの不動産業者と話してみたり,アパート案内を調べてみて分かったことです)。いま、デンバー周辺に多くのドッグランがあるのは分かるのですが,私が調べたアパート賃貸情報では,まだペット可の物件よりは,「犬お断り」や「ペット不可」というのが目立つようです(私には今、ネコが1匹いるだけですが)。どなたか、デンバーがまだペットに優しくない都市かどうかご存知でないでしょうか?
この質問に数名の人が答えていたのだけど,いちばん最初に応答した人が,「デンバーが犬に優しくないと思ったことはないですね。ただ、ほかの州と同じように,犬をリードにつなぎなさいという法律はありますが」と書いていたのだ。それで、ぼくはその言葉を引用して,こう質問したのだ。
邪魔して申し訳ないですが,質問してもよろしいでしょうか。アメリカではオフリードで散歩している犬を普通どのように見ていますか。行儀のいい犬であっても,ただオフリードであるというだけで文句を言うようなイヌ嫌いがいますか。通報で公園にやって来た警官が,オフリードでただ静かに休んでいる犬を見た場合,どのように対処しますか。
すると、すぐにふたりの人から返事があったのだけど,なんと最初の人は,このスレッドを立てて質問していた本人だった。その人はこう書いていた。
アメリカでの問題は,きちんと訓練されていない(あるいは全く訓練されていない)犬が非常に多いということ。そして、きちんと訓練されていない子供も非常に多いということ。彼らが公共の場で出くわすと,最悪な組み合わせになるのです。というわけで、アメリカでは,ワンコをリードにつないで散歩するのが無難だということになるのです。
これを読んでニッポンのイヌ事情を思い出したのは、ぼくの反ウヨク精神のせいじゃないと思う。日米に共通するのは,社会的な教育を受けていない犬が非常に多いということだ。そのような社会環境だからイヌ嫌いも増えている。その根本的な原因を解決しようとせずに、ただ犬をリードにつないで管理しながらイヌ嫌いのご機嫌を取り,一方では,ドッグランのような場所に犬を隔離しながら愛犬家のご機嫌を取っている。そんな状態では,英国のようにゆったりと楽しいヒトとイヌとの共存関係は育たないに違いない。犬が家族の一員だとか人間の親友だとかということも、単なる言葉の上ではそれを認める人がいたとしても,現実の社会でそれが常識として通用することもないのだろう。そんな社会でも、犬のいのちが本当に尊重されているというのだろうか。

参考リンク:BB(別名BadBloke)アメリカへゆく(?)

今日のビデオ : My Girl
-- Frères

☆ 映画「マイ・ガール」の主題歌になった有名な古い曲ですが,それをフランスのふたり組が見事に歌い上げています。ギターのアレンジがすごくカッコいいです。途中で彼らの親友も登場しますが、これがまた非常に感動的であります。

米国のイヌ事情(1)


ぼくが初めて参加したニッポンの愛犬家グループには,イギリス人と結婚してロンドンに住んでいるという女性がいた。その人は,生物学の教科書に書いてある食物連鎖を引き出して来て,ヒトは食物連鎖のトップにいるのだから,何を食べようが人間の自由だというような主張をした。つまり、イヌの肉を食べるのも人間の勝手だというわけだ。これが愛犬家の中でさえも,日本人の平均的な考え方だということは,その後,ぼくもハッキリと知ることになるのだが、そのような日本的な思考法に慣れていなかった当時のぼくには,非常にショッキングな経験であったわけで,しかも、その女性がロンドンに住んで愛犬家をやってるようなことを言うのだから,そのままにしておくわけにいかなかったのだ。で、ぼくは何をしたかと言うと,キッパリと彼女の発言を批判したのであった。

最近は,日本人も英国に住む人が多くなったようだが,英国に住みながらも,相変わらず日本人をやってる人は少なくないようで,困ったことに,多くの日本人は、今やニッポンは英国よりも先進国だと勘違いしているみたいだから、「日本式で何が悪い!」と威張るような国粋系の人間が,ロンドンの公園で犬を散歩させていたりもするのだろう。あの女性はぼくからの批判を読んで,かなりショックを覚えたらしい。ぼくこそ彼女のせいで死ぬほどショックだったのだけれど,ぼくはネット上でもどこでも,原則として,「ボクすっごくショック!」みたいに感情を表現したりすることはない。ただ言うべきことをズバッと言うだけだ。

きょうの題名が「米国のイヌ事情」でありながら、なぜロンドンに住む女性の話ばかりしているのかというと,あの女性は、ぼくの第一印象が相当に衝撃的だったらしいけれど,さすがにロンドンに住んでいるだけあって,ぼくのオフリード論には特に反論はないように見えた。そして、ぼくの過激な論調にも,きっと英国の過激な風刺精神とユーモアを感じ取ってくれたのだろうか,いつしか映画の話題などで楽しい会話ができるような関係になっていたし,常連たちから攻撃されているぼくをかばうかのような意見を言うこともあった。

ある日,その人がこんな経験談を投稿したことがある。休暇でアメリカに旅行したとき,大型犬の飼い主が愛犬にリードを引っ張られながら苦しそうに散歩している姿が目立った。英国ではまずそのような光景を見る機会がなく,大型犬であっても,飼い主の横を静かに歩いているのがふつうだ。

これはぼくのオフリード論と深く関係している話で,犬はオフリードの状態でもマナーよく散歩できてこそ,リードでつないでも落ち着いて歩くことができるのだ。それに、落ち着きのない犬というのは,たいてい自由に遊ぶ経験が足りないものだ。いつも犬の自由をリードで奪っているような環境では,本当にマナーのよい犬は育たないと言ってよいと思う。

アメリカのイヌ事情をテーマにしてみようと思ったのには訳がある。先日,たまたま見つけた米国の掲示板で,犬のリードの話が出ていたので,ぼくはスレッドの趣旨をよく考えもせずに,ちょっと質問してみたのだ。するとすぐに返事があって,それを読むと,アメリカにはぼくが予想していたとおりのイヌ事情があるらしいことが分かった。驚いたことに(というか、前から気づいていたような気もするけれど),それはニッポンのイヌ事情と非常によく似ているのだ。(つづく)

今日のビデオ : American Pie
-- Madonna

☆ このマドンナという女性,確かにアメリカ人のはずだけど,ロンドンに住んでいるんですね。そりゃニューヨークよりロンドンのほうが、犬も人間もずっと住みやすいに決まってるのですが,いつか質問してみたいような気がします。なぜロンドンが好きなのか。

長いあいだロンドンで仕事をしていて,いま英国南部の故郷にある古めかしい屋敷に住んでいるぼくの親友がいるんですが、彼女はマドンナが大好きだと言ってました。ぼくはそれほど好きでもないんですが。

23 July 2007

ぼくが微笑むとき


あれは渋谷から家に帰る途中,バスの中でのことだった。渋谷駅前で乗ったそのバスはそこが始発の停留所だったので,ぼくは座席に坐ることができた。渋谷を出たときには,すでに立っている乗客も目立った。すると何番目かのバス停で、おなかの大きい妊婦が乗り込んで来た。彼女は坐る席がなくて立っていたのに,そばにいた乗客は誰も席を譲ろうとしなかった。ぼくが坐っていた席はうしろのほうだったのだけど、席を立ってその女性に近づき,「席が空きましたからどうぞ」と言った。女性は礼を言い,その席へと向かった。

しばらくぼくは吊り革につかまって立っていた。すると、ぼくよりも先にその女性がバスを降りることになった。彼女はぼくの背中に向かって「ありがとうございました」と言った。振り返った瞬間,眼が合って,その眼が微笑んでいるように見えた。ぼくもきっと微笑んだのだと思う。

これも若い頃の思い出だ。なぜこんなことまで覚えているのか不思議な気がする。たぶんその女性が、Mちゃんのママに似ていたのかもしれない。

学生時代,女学校に通う妹がぼくにこんなことを言ったことがある。「あたしの友だちのあいだでは,お兄ちゃんて、なーんか近づきがたい感じがするって評判なのよね」。それを聞いて,ぼくはどう思ったのか。きっと何も妹の友だちに気に入られる必要などないと思っていたのだろうか。こんなことまで覚えているのには,何か理由がありそうな気もする。あのとき妹は,確かこうも言った。「眼が合ったときくらい,少しはニッコリしてみたら」

あのバスで出会った女性の赤ちゃんも,今では立派な大人になっているだろう。なぜか理由は分からないけれど,なんだか女性のような気がしている。ぼくのブログをどこかで読んでいるなんてことは,きっとあり得ないだろうな。

今日のビデオ : Smile

レディーについて


レディーの話の前に,ジェントルマンの復習をしておくと,前回,慶應女子コースだとか日比谷高校だとかが登場したわけだけど,最後になって犬の話になったのは何か変じゃないかと思う人がいたとすれば、その人はかなりネットウヨク体質のようだから,手遅れにならないうちに,聖路加病院で診てもらったほうがいいかもしれない。もしも読者の中にあれを読んで,「全くそのとおりよ、BBさま素敵!」とか感動した人がいたとすれば,その人はかなりぼくのビョーキに感染しているような気がするから、すでに手遅れかもしれない。

それはともかく、きょうはレディーの話をするわけだけど,例によって、このテーマでもどんな結末になるかは,ぼくでさえまだ知らないのだから,余り期待しないでほしい。シェリー酒でも飲みながら,気を楽にして、できれば頭の中を真っ白にして,ゆったりと読んでもらいたい。

ケネディ大統領という人は、紳士なら必ずかぶることになっていた帽子を嫌ったらしい。アメリカ人てのは単純で流行が好きだから、やがて男は野球帽しかかぶらなくなってしまったようだ。おそらく東京の銀座でも紳士向けの帽子が売れなくなったのは,そんなアメリカ文化の影響があったのだと思う。ケネディが暗殺されたのは,1963年だったが,60年代後半のアメリカで始まったウーマンリブ運動によって、レディーなるものの気質も,ジェントルマンのと同じく変わってしまったのかもしれない。

先日,英国の紳士教育では,子供の頃から男の子を紳士として扱うというような話をしたはずだけど、その例をあげれば,かの国では、大人の女性のためにドアを開けてあげるというようなことをする少年が存在したのであり、その行為を快く受け入れるレディーもまた存在していたのだ。つまり、レディーとジェントルマンの関係は,互いに他を補ってこそ成り立つものであって,一方だけがいくら真剣になっても,他方がその気でなければ,ドン・キホーテ状態になってしまうだろう。

そういえば、My Girl というアメリカ映画の中で,やもめのパパがデートの帰りに女性を車で送ったとき,家の前に到着しても、彼女は自分で車のドアを開けて出ようとしなかったシーンがあったように思う。このごろの女性は男に車のドアを開けてもらうのを嫌うとかいう話を,たしかデート対策として小学生の娘から聞かされていたパパは,女性の期待にも気づかずにじっと動かなかった。あの映画は70年代のアメリカの田舎町を舞台にしていたはずだ。きっと自由と伝統の関係がぎくしゃくしていた複雑な時代だったのだろう。

紳士はいなくなった。確かにそうなのかもしれない。それでも、紳士という言葉は,淑女という日本語よりはまだ死語になっていないような気がする。紳士というのが言葉としても意味をなさなくなる前に,紳士を育てるレディーの存在が必要になるのじゃないだろうか。

今日のビデオ : Yellow Lab Puppy

22 July 2007

ジェントルマン再考


また広辞苑がどこへ消えたのか行方不明だから,ネットで調べてみたのだけど,「ジェントルマン」についてこんな説明があった。
ジェントルマン [gentleman]
〔ゼントルマンとも〕教養のある立派な男性。紳士。⇔レディー
ためしに、英国の辞書(Oxford Advanced Learner's Dictionary)で調べたらこうなっていた。
a man who is polite and well educated(礼儀正しく,教養のある男性)
日英ともに「教養のある男性」ということで共通するようだ。ということは、こないだちょっと話題になった学歴とも関係するのだろうか。ぼく自身は、学歴と教養は必ずしも関係がないように思っているけれど、学歴というテーマでニッポンと英国の違いを考えてみるのは悪くないかもしれない。

イギリス人が私立の名門校に子息を入れようとするのは,社会的な成功が目当てというよりは,彼らの息子を紳士に仕立て上げたいと願うからだ。イートン校のような名門校の教師は,たいていケンブリッジやオックスフォードの大学を卒業した紳士たちと決まっているけれど,授業中,ニッポンの中学生くらいの年頃の少年たちに向かって gentlemen と呼びかけていた。相手が子供であっても、互いに紳士同士のつき合いをしようじゃないか、という気持なのだろうか。

ニッポンではどうだろうか。ぼくの東京での散歩コースの中には,慶應女子コースというのがあって,慶應女子高のそばには慶應中等部があるから、慶應中等部コースと呼んでも別にかまわないのだけれど,中等部にはちゃんと男子もいるわけだから、きょうのテーマにはちょうどいいかもしれない。それで、慶應の男子中学生たちを見ていていつも思うのは,彼らは紳士としての教育を受けているのだろうかという素朴な疑問があるのだ。

若い頃、都バスに乗っていたら,慶應幼稚舎の学校前でそこの生徒たちが大勢乗り込んで来ることがあった。彼らの中にはバスの中で大声でふざけ始める子も目立った。慶應の校風には今も福沢諭吉の「独立自尊」があるはずだけど、慶應の小学生たちからは社会的なマナーを身につけている印象は余りなかったような気がする。そこがやはり英国の紳士教育とは根本的に違っているようだ。

慶應女子コースの途中には,『赤頭巾ちゃん気をつけて』の庄司薫が住んでいるマンションがある。今なら,ピアニスト中村紘子の夫と説明したほうがいいだろうか。しかし、きょうは音楽じゃなく紳士がテーマだから,庄司薫にスポットライトを当ててみるけれど,彼は日比谷高校から東大に進学したそうだから、旧型東京エリートコースを歩んだ人になるだろう。日比谷と言っても,今の東京っ子にはピンと来ないかもしれないが,昔は「天下の日比谷」と呼ばれ,日本一の名門校と見られていた時代があった。あの学校にも自由な校風があったと聞いているけれど,さて紳士教育という点ではどうだったのだろうか。ぼくには日比谷も国家主義教育のレールに乗った単なる立身出世主義の学校にしか思えないのだが。

ニッポンのエリートコースを歩んだ人々の多くは,やがて高級官僚となり,あるいは政治家となった。英国とは違って,この国ではいまだに動物愛護をきちんと議会で論じ,人間の虐待から動物たちを守るための法律を作ろうとする気配がない。政治家のブログなどを眺めていても,動物愛護のために発言しているのを見たことがないように思う。同性愛者への差別には敏感な政治家であっても、犬への差別には全く無関心の人が多いらしい。やはりニッポンには紳士教育はなかったのだと思う。

今日のビデオ : Dinu Lipatti plays J.S. Bach

☆ リパッティの映像はないですが,彼の演奏を聴くと,ぼくは子供の頃のいろんな思い出が見えてくるような気持になります。小学校の校庭に捨てられていた小さな犬の赤ちゃん。その子を拾って来て,家の物置に隠したこと。近所の人にもらってもらおうと、子犬を抱っこして歩き回ったこと。うちで育ててもいいという許可が下りたときの喜び。仲の良い兄妹のように、いつも一緒に遊んだこと。そして、ある日,白血病になっていたのを知ったこと。あの子を助けられない自分の無力さに絶望したこと ...

すべてが終わり,無気力になっていたぼくに,もう一度、いのちの力強さを教えてくれたのは、白血病と闘いながらピアノを弾きつづけたリパッティでした。きょうのビデオにコメントを残している人の中に,「この人の演奏を聴くと,私はいつも眼に涙が浮かんでしまう」と書いているイギリス人がいました。ぼくは分かるような気がします。それは悲しい涙とは違うんですね。リパッティの弾くピアノは,あまりにも美しすぎるのです。

21 July 2007

紳士とは


前回,紳士とは一体どういう人かというようなことを言っておきながら,具体的な紳士像について何も語らなかったと思う。かつて老人党掲示板でも書いたように思うけれど,ぼくのイメージとしての紳士は,卑怯なことや残酷なことをしない人ということになる。それだけでなく、卑怯なことや残酷なことをしている人間がいれば,その人がどこの国の誰であろうが関係なく,また子供であろうが老人であろうが関係なく,キッパリと批判するような人。それが紳士であると,ぼくは考えている。

むかし英国空軍の将軍がこんなことを言っていたのを思い出した。

「動物に対して残酷なことをするヤツは,子供であろうが許しちゃおかない」

軍人は人間を殺すのが仕事の野蛮人じゃないかと,ジョン・レノンが生きていたら突っ込まれるかもしれない。ジョンのような反戦スピリットは,ぼくも支持したいとは思う。なんといっても,ぼくは憲法9条の平和主義を支持し、ガンジーの非暴力主義を讃える人間なのだから。しかし、そうではあっても、ぼくがあの将軍に紳士の模範を見るのは確かであり,ニッポンにおける動物虐待の現状をぼくが嘆いたとき,「どこの国にも残酷なヤツはいるものさ」と言った将軍は、今も忘れられない英国紳士のひとりなのだ。

ぼくは英国かぶれ系のイヌバカとしてネット世界でも知られるようになってきたようだが,ある人はそんなぼくを批判して,こんなことを言うかもしれない。「犬に対してそれほどまでに優しくできるのに、なぜ人間には優しくなれないのか?」

なるほど、そう言われればそうかもしれない。先日このブログでも言ったように思うけど,ぼくは世間から「いい人」に見られる人を攻撃する傾向があるのだ。それはなぜかと言うと,ニッポンの「いい人」の中には,自分では気づいていないらしいが,弱い者いじめをする社会を容認しているような人が目立つように思うからなのだ。そう思うにはちゃんとした理由があるのであって,そのことを理解してもらうためには,ぼくがリアル世界で体験したようなことを知る必要があるだろう。ところが、世の中には,そんなことには全く関心のない人が多いらしい。ネットウヨクなんてのは,そのような人間の代表だから,ただぼくの発言を遠くから罵ることしかできないのだろう。

卑怯なことや残酷なことを見過ごしているくせに、目先のちっぽけな問題で良識人ぶったことを言う人間が,ぼくは大嫌いなんだ。なんてことを言うと,「つまりBBは自分こそ紳士だと自画自讃してるだけじゃん」とか言いながら,ぼくを遠くから罵って喜ぶのも,またネットウヨクの日課になるのだろうか。

今日のビデオ : A Sign of the Times
-- Petula Clark

☆ ペトラ・クラークという女性を初めて見たのは,映画「チップス先生さようなら」の中だったと思います。当時のぼくは彼女が歌手だということを知らなかったはずです。1960年代の英国は、ビートルズのようなバンドだけでなく,ペトラのような女性歌手たちが活躍した時代だったようです。きょうのビデオなどを見ると,いかにも60年代という感じがしますね。アメリカのテレビ番組に出たときの映像らしく,ペトラがイギリス人であることを意識したのか,英国のスポーツカーが並んでいるのはいいけれど、どれも左ハンドルです。英国車が左ハンドルだと,ぼくの大好きな中トロの寿司をソースにつけて食べるくらいに,許しがたいことに思えます。

紳士の国


明治時代のニッポンのエリートたちが,ロンドンのシティを歩く山高帽の紳士たちを見て,本当に自分もあのような紳士になりたいと思ったのかどうか、それは確かではないけれども,ぼくはあの三文役者コイズミが山高帽をかぶっているのを見たことがあるような気がするから,今でも日本人の紳士観の中には英国紳士の残像が映っているのかもしれない。

英国の政治はいま保守党と労働党による二大政党制になっているが、両党にイデオロギーの違いはあっても,人間として共有すべきだいじなものは、右と左の区別なく,英国の政治家には備わっているのがふつうのように思う。政治家がそれほど庶民から好かれていないのは世界共通であって,英国も例外ではない。ただ英国の場合、庶民の中にも政治に関心のある人が非常に多いし、彼らの信頼を失っては大変なことになるという危機意識が、どの政治家にもあることは確かだと思う。つまり、男の政治家でいうならば,紳士として失格になるようなことをすれば,それで政治生命も終わりということになるのがイギリス人の常識になるのだ。

そこで問題になるのは,紳士とは一体どういう人になるのかということだと思う。むかしBBCのディスカッション・グループでも,紳士とは何かというようなテーマで議論したことがあったけれど,あのときぼくは、英国にも紳士がいなくなったというような声がちらほら聞こえている世相ではあっても,ぼくは紳士たれという精神の不滅を信じているというような意見を言った記憶がある。

ニッポンの現実を見てみると,政治的な支配者層の中に紳士を見つけるのはほぼ不可能な気がする。先日,参院選の自民党候補者がNHKを通して国民に向かって挨拶している映像を見たけれど,よくもまあこれだけ情けない風貌の人間を集めたものだとあきれてしまった。紳士はもちろん外見だけが勝負ではない。しかし、人間というもの、それなりの年齢にもなれば,その内面が顔や態度にも表れるものじゃないだろうか。自民党の候補者からは、美しく崇高なものは何も感じ取れなかった。彼らの姿を見ていると,田舎の町会で威張っているような,ちっぽけな人物像しか思い浮かばなかったのだ。参議院でこれじゃあ,ニッポンはいまだ紳士の国になっていないということになるのだろう。

今日のビデオ : God Rest Ye Merry Gentlemen
-- St. Philip's Boys Choir

☆ 今は Libera と名前が変わったらしいですが,彼らはロンドン出身の少年聖歌隊です。このビデオは,英国のテレビに出演したときの映像のようです。

20 July 2007

子供のためとは


子供たちが遊んでいる公園には犬を連れて入らない飼い主が多いらしい。彼らはたいてい犬を怖がる子供のことを心配しているようなことを言う。そんな飼い主のことをニッポンでは「マナーの良い飼い主」と呼ぶようだ。きょうの写真に見える大きな犬は,まちがいなくぼくの犬である。リードでつないでもいない。ということは、ぼくのようなのは「マナーの悪い飼い主」ということになるだろうか。

3人の子供が写っているけれど,みなぼくの子供ではない。特に手前に背中を見せているふたりの子供は,このとき初めて会った子たちだ。最初は離れていたところで遊んでいたのに,段々,ぼくの犬に近づいて来たのであった。ふたりはきょうだいのようだった。小さい弟がぼくの犬を指さして,「わんちゃん」と何度も言った。だから,ぼくはその子に向かって,「友だちだよ」と教えてあげた。

もしあの子たちがぼくの犬を見て,「放し飼いにしてる!」とか、「犬がいるから遊べない!」とか叫んだとしたら,どうだろう。ぼくの経験では,たとえ少しはイヌ恐怖症気味であっても,そんな子はいなかった。むしろこのような状況でぼくの犬に近づくことで,イヌ恐怖症だった子供でも、ぼくの犬にはさわれるようになるのがふつうだった。

犬を怖がる子がいるから児童公園には入らないという愛犬家の犬を観察してみると,確かに,入らないほうがいいと思える場合が多い。彼らの犬は子犬の頃からいつもリードで自由を奪われ,公園で子供たちと遊ぶ経験もないから,子供を嫌う傾向があるように思う。それを飼い主も知っているのだろう。

タテマエではどんなことでも言えるのが日本人の特技らしい。ホンネはどうかといえば、自分の犬が他人の子供に咬みついたりしては大変なことになる。そんな面倒なことには関わりたくない。責任を取らされるようなことは,まっぴらごめんだ。きっとその程度のことじゃないのだろうか。子供たちのことより,自分のことを心配しているだけなのだ。なんてことをハッキリ言ってしまうと、ぼくはやはり悪いヤツにされてしまうんだろうね。

今日のビデオ : Cakewalk
-- Oscar Peterson Quartet (Tokyo, 1987)

☆ オスカー・ピーターソンという人は,ジャズ・ピアニストにしては珍しく,スタインウェイではなくベーゼンドルファー製のピアノを愛用しました。きょうの演奏は東京でのライブですが,やはりベーゼンドルファーを弾いているようです。アメリカ人ではなく,カナダのモントリオール出身なので,ヨーロッパ文化の影響が強いのでしょうか。

19 July 2007

読解力の問題


きのうの写真にぼくの足の一部が写っているのは,何も日本人離れした長い足を自慢しようとしたわけじゃない。以前も似たような写真をこのブログに貼ったと思う。それを英国の愛犬家グループでも公開したら,そこの管理人から「素敵なブーツね」と言われたけれど,このブログの読者からも同じような反応を期待したわけでもない。ただ題名が「自己主張」だったから、それとなく自分を主張してみたにすぎないのだ。きょうのような写真を貼ってしまうと,犬の習性に関して,いろいろ話したいこともあるのだけど、それを始めるとまたネットウヨクを興奮させてしまいそうだから,どうせならもっと興奮させるような話をしたいと思う。

日本人の子供たちの教育に関して,よその国々と比較したとき,特に読解力が弱いということが問題になったことがあったように思う。それは今に始まったことじゃなく,昔からそうだったのじゃないだろうか。その「昔」とは、戦後以降に限らなくて,教育勅語などで国家主義教育を始めた遠い明治の時代のことを,ぼくは思っている。ニッポンの教育の特徴は,ひとことで言えば,昔から管理教育だったのだ。知識だけでなく,思想信条までも,大人たちがよしとするものを、ただ子供たちに押しつけていたにすぎないように思う。

他人の書いたものを正しく理解するには,柔軟な思考力を必要とするだろう。また、それなりの体験が必要な場合があるだろうし,文字だけでなく,人のこころを読み取る感性も必要になるだろう。大人たちの用意した型にはまった管理教育の中では,そのすべてを失ってしまう可能性がある。昔はそれでも子供たちの日常は自然に近かったから,まだ子供らしく育つこともできたのだと思う。現代では,コンクリートで造られた都市の中で,安全第一主義の大人たちから自然体験を奪われた子供たちは,子供らしく育つ自由を失いかけているようだ。

日本国憲法を米国からの押しつけだとして非難するのは、右翼の決まり文句だけれど,この憲法によってニッポンの子供たちは歴史上初めて,国家主義の押しつけ教育から解放されることになったのだ。いや、解放されることになるはずであった。しかし、現実として,本当にそうだったのだろうか。

ぼくは日本人の多くはまだ憲法が保障している自由や権利を知らないでいるという気がしてならない。人間が個人として,自由や権利を本当に自分のものにするためには,シッカリ自分の頭で考えるという習慣が身についている必要がある。世間で常識になってるから,そのとおりにやるってのは,自由人らしくない生き方だ。それに、ニッポンて国では,その常識ってやつが非常に問題だらけであることが多いのだから。

ぼくが犬のリードの問題で日本式の「犬はつないで散歩しましょう」という常識に反抗するのは,これもアメリカ化した国々を除いて国際的には常識に反することだし、何よりもそのような日本的な常識が,日本人からいよいよ考えるという習慣を奪うことになっていると考えるからだ。実際,公園で子供たちと仲良く遊んでいるような犬を見てさえ,ただリードをしていないというだけで警察や役所に通報するような人間が存在するというニッポンの恥ずかしい現状があるわけだし、さらに驚くべきは,そのような通報者の常識を支持するような愛犬家までがいるのだから、これは手遅れにならないうちになんとかしなくちゃ、そのうち日本人の脳みそは完全に退化してしまい,気がついたら日本国はサルの列島になってたってなことも充分あり得ると思う。そうなればいよいよ日本国憲法も台無しで、誰もそれを読むヒト,じゃなくて、サルがいなくなっているだろう。

さて、きのうのぼくの作文だけど,あれを読解する場合にも,いろんな問題があるように思う。学歴コンプレックスだとか,英語コンプレックスだとかをテーマに語ったようでいて,実際のところ,ぼくがそれをどう考えているかってことに関しては,それほどハッキリと書いていなかったはずだ。だいたいぼくはこのブログで科学的な論文を書いているつもりはない。気が向いたときに、下書きもなくいきなりキーボードに向かってるわけで,気分としては,気ごころの知れた親友と,シェリー酒かミルクティーを飲みながら、ゆったりとおしゃべりしてる感じなのだ。だから、そのような空気を感じ取ることができなければ,きっとぼくの言いたいことを読解することができないだろうと思う。それにたぶん、ぼくという人間のリアル世界での姿を想像できるイマジネーションのない人には読解不可能なことを書いているのだと思う。

今日のビデオ : London Underground Dinner Party

☆ ロンドンの地下鉄で,いかにもイギリス的な悪ふざけをした連中がいたようです。ここに大きな犬も仲間に加わっていれば完璧だったと思います。東京の地下鉄で同じようなことをしたら、きっと誰かに通報されるでしょうね。

18 July 2007

自己主張


ニッポンのテレビ界で活躍する外人タレントの多くを管理している会社の社長が言うには,自己主張の強い外人のその本性が強すぎると日本人には嫌われるから,それを余り出さないように訓練しているそうだ。つまり、ニッポンのテレビに登場する外人てのは,日本人向けに加工された偽物ということになるだろうか。まあ、日本人タレントにしても偽物が普通なのだろうから,こんなことをテーマにしても仕方がないわけで,テレビなど見ないのがいちばん健康にいいということで落ち着くしかないだろう。

前回,ぼくは自分自身のためにネット世界で発言しているわけじゃないというようなことを言ったけど,さりげなく自分が写ってる写真などを貼ったりもしたわけで,これをしてネットウヨクはどう反応するかといえば、BBは自己主張が強いだとか、もっとひどいのになると,自画自讃してるだとか、きっとそんな反応をしながら興奮するのかもしれない。とはいえ、ぼくは何もネットウヨクの溜まり場を日常的に見物してるわけじゃない。ただ、愛犬家グループや護憲派グループのような,本来ならネットウヨクとは無関係のはずの場所でも,その系統の人間に出くわした経験が非常に多いから、ついそんなふうに想像してみたりもするのだ。

それで、これまで多くの日本人を観察してきた結果,いろんなことが見えてきたわけだけど,ひとつ日本人の特徴としてハッキリしているのは,学歴コンプレックスの強い人が多いということがあると思う。で、ぼくは自分の学歴をネット上で公開したことはないはずだが,どういうわけか勝手に東大卒のように解釈している人がいて,BBは選民エリート志向だとか決めつけてることがあるらしい。

それで思い出すのは,むかし東横線の電車内で隣りに坐っていた婦人から、「慶応の学生さんですか?」と言われたことだ。これは不思議な話だけど,リアル世界では同じようなことをよく経験していて,ぼくの悪友の解説によれば,「お前はいかにも慶応ボーイに見えるのだからしょうがない」ということらしい。こんな話をすれば,いよいよネットウヨクが興奮し始めて熱湯ウヨクにゆで上がってしまうかもしれないけど,ぼくとしては、しょうがないとしか言えないのだ。

ぼくがイギリス英語を話すなんてことを言っても,自画自讃になるらしい。それじゃ、東京言葉をしゃべると言っても、自画自讃になるのだろうか。地方出身の人で耳のいい人にはハッキリ分かるらしい。夏目漱石の坊っちゃんを例にとるまでもなく,昔から東京っ子は,地方では嫌われる傾向があったようだ。そこにイギリス英語などを持ち出すと,いよいよ鼻持ちならない都会人の代表にされてしまうのだろうか。それに、どうやら日本人には,学歴コンプレックスに加えて,英語コンプレックスの人も多いようだから。

東京の地元には麻布学園があったから、学園祭が近づくと,郵便受けにその案内が入っていることがあった。生徒たちが自主的に作った案内状らしく,日本語だけでなく,英語でも書いてあった。きっと麻布周辺の国際的な環境を意識していたのだろう。しかし、その英語は実に日本語的な英語だった。英語で考えたのじゃなくて、東大受験生が日本語で考えた文章を、英文法の規則に従って,強引に英語にしたかのような文章だった。

天下の麻布高校の生徒たちでもあの程度の英語なのだから,日本人一般の英語力はだいたい想像できる。そこにBBのようなヤツが現れて,イギリス英語ペラペラよーんてな調子でやられれば、ぼくでも確かに気持ち悪い感じがする。そういえば、あの作家なだいなだでさえ、ぼくがむかし読んだ本の中で,日本人が人前でタイムズを読んでるなんてのは鼻持ちならないとか,そんなことを書いていたと思う。

結論として、こういうことになるだろうか。ぼくは自己主張が強くて,自画自讃するタイプで,いい人に対して冷たい男で,ただ犬と英国が大好きな偏屈人間だと。これほど鼻持ちならないヤツの味方になるような人は,よほど変わった人間になるのだろうね。ぼくのリアル世界での体験から言えることは,心からぼくの味方になるような人は,確かに日本人の大人の中には珍しいようだけど,彼らは共通して自主独立の人という特徴があり,正義感が強く、マナーもよく,服装などの趣味もよく,特に女性には心優しい美人が多いのだ。ネット世界でも,きっと同じような傾向があるような気がしている。

再び今日のビデオ : Our House
-- Crosby Stills & Nash

☆ 前回のビデオに登場した連中が年を取ってこんな感じになりました。ピアノを弾きながら歌っているナッシュはイギリス人で,あとのふたりはアメリカ人です。ナッシュだけは太っていませんね。英語もイギリス式で、vaseを「ヴァーズ」と発音しています。アメリカ人は「ヴェイス」と発音するのが普通でしょう。

日本人は優しいか

日本人は議論が苦手らしいというのは、いまや世界の常識になっているけれど,そもそも日本人てのは議論が嫌いなのだと思う。思ってることを正直に言ったら,近所の人と正常なつき合いができない。そう思う人が多いのじゃないだろうか。だから、ニッポンの社会では,いつもタテマエというものの陰にホンネが隠れてしまうようなことになってしまう。

ところがこのネット時代になって、ネットウヨクに限らず,本性を現す日本人もけっこう増えてきたようだ。問題は,その本性に対する人々の反応ということになるけれど,相変わらずタテマエを振り回して,ヨイコぶる人が目立つのが,ニッポンのネット世界には多いような気がする。といっても、ぼくはあまり日本語圏のネット世界には関係してこなかったから,ごく限られた範囲での体験からそう思うわけで,もしかすると誤解なのかもしれない。それでも、ぼくが体験した限りでは,愛犬家グループにしても,護憲派グループにしても,共通してリアル世界の不自由なタテマエ主義がはびこってる印象はあるように思う。

そんな世界に,ぼくのような悪いヤツが登場すれば,きわめて日本的な感性の人間には、きっと刺激が強すぎることは確かだろうから,時に騒ぎになってしまうこともあるわけだ。で、そんな時ぼくはどういう態度をとるかというと,良識派を気取る連中をキッパリと批判するような意見を放つのだから,争いを好まない優しい性格の日本人には嫌われるということになってしまう。困ったことに,ぼくは世間から「いい人」に見られる人を攻撃する傾向があるから,いよいよ悪いヤツ全開状態になってしまうわけで,ネットウヨクなどはBBを評して「俺様権威」とレッテルを貼り、一人前の御用学者気分にもなったりして、彼らの優越感を満たすことにもなるのだ。

ぼくは話の通じない人には何も弁解するつもりはない。ぼくがネット世界でしゃべることの多くは,自分自身のためにやってるわけじゃないのだから、ぼくの評判なんてどうでもいいのだ。ニッポンのリアル世界での経験から,犬のような動物の権利や自由を認めないという日本人には、共通して人間の権利や自由も理解できない傾向のあることを、ぼくは断言できるのであり,そのような体験もない人間が,頭の中でさも社会的弱者のことを思っているような発言をすると,無性に許せない気持になってしまう。そのようなタテマエ型の人間は,ニッポン社会では「いい人」になってしまうわけで、ぼくがそのような人間を攻撃すると,多くの人はその人に同情することになる。あんなに優しい人を非難するとは,BBってヤツは,ほんとに悪いヤツだってなことになるわけだ。

ぼくは自分が悪いヤツに思われてもまったくかまわない。ただ、ニッポンの現実の中で、自由を奪われ,いのちを奪われている犬たちをなんとか助けなくちゃと思って,ぼくのやり方で発言し続けるしかないのだ。星の王子さまが見抜いていたように,大人はだいじなことはなんにも分かっちゃいない。特にニッポンのように管理主義の学校で育ち,学校を卒業してからも管理社会に順応してきたような大人たちに何が理解できるというのだろう。毎日のように公園で遊んでいる子供たちや犬たちのほうが,よほど地球のことを知っているのだ。大人がガキっぽいとみなして見下すようなことにこそ,この地球を美しくするエネルギーが潜んでいる。子供たちの多くはそれを知っているらしい。だからまだ希望はあると思う。本当に恐ろしいのは,犬ではなく,大人のようになってしまった子供たちである。

今日のビデオ : You Don't Have to Cry
-- Crosby Stills Nash & Young (London, 1970)

16 July 2007

三人姉妹の真ん中


ずーっとむかし、うちの裏の空き地にショートケーキのような家が建てられた。その家のパパはどこかの会社の何代目かの社長らしく,その人のことは全く覚えていないのだけれど,若くてきれいなママのことは,今でも忘れられない。そのママは高校生の頃にその社長に見初められたらしく,高校を卒業してすぐに結婚したらしい。

その人のことをママと呼んでしまうのは,ぼくがマザコンだからじゃなくて、彼女には3人の娘がいたのだけど,特にその真ん中のMちゃんは、あの家の誰よりも先に,ぼくが親しくなった女の子だったからだ。当時,ぼくは大学受験をめざして勉強中のはずだったけれど、受験に関係のない哲学書などを岩波文庫で読みあさり,ギーゼキングの弾くモーツァルトのピアノソナタを聴きながら,なんとか同じように弾こうと無駄な努力をしていた。

Mちゃんは当時まだ小学校2年生だったと思う。どういう経緯で彼女と出会ったのか忘れてしまったけれど,Mちゃんはよくうちに遊びに来て,練習中のピアノを聴かせてくれたりした。ぼくはそんなMちゃんに得意のココアを作ってあげたりしていたと思う。

いま思い出すのは,ある日,Mちゃんが何かレコードを聴きたいと言ったとき,ぼくが「何が好きなの?」と訊いたら,「シューベルトが好き」と答えたことだ。残念ながら,今でもそうだけれど,ぼくはシューベルトには余り関心がなくて,ほとんどレコードがなかったのだ。あの時は確かベートーヴェン第5のレコードのB面に入っていた未完成交響曲を聴いてもらったと思う。指揮はやはりフルトヴェングラーだった。

数年後,しばらく家を離れて久しぶりに帰ったとき,Mちゃんの家には誰もいなくなっていた。母にたずねたら,パパの会社が倒産して,その直後にママが離婚し,3人の娘を連れて家を出たのだとか。しばらくパパはひとりで暮らしていたけれど,ついにその家を売ってどこかへ引っ越したらしい。

Mちゃんは今でもシューベルトが好きだろうか。ぼくの心の中では,Mちゃんはあの頃のまま、ポニーテールの似合う小さな女の子の姿で何も変わっていない。初めてママを紹介してくれたとき,なんて笑顔の美しいママだろうと思った。いまMちゃんは,ぼくの知らないどこかの町で,あのように美しい笑顔のママになっているのだろうか。

今日のビデオ : Cría cuervos

☆ この映画は邦題「カラスの飼育」として公開されました。主役の女の子はアナ・トレントといって、ぼくがむかし六本木の小さな映画館で見た「ミツバチのささやき」で初めて知った子役です。闘牛のせいでスペインはあまり印象のいい国じゃなかったのですが、「ミツバチのささやき」でかなりイメージがよくなりました。シェリー酒が好きになったのも、ちょうどあの頃だったかもしれません。といっても、シェリーの場合は、スペインというより、やっぱり英国かぶれですけどね。ついでに、きょうのシーンに登場するいちばん小さい子は、男の子じゃなくて、一応、女の子です。

15 July 2007

これも世間体?

X市で出会った女性の中にこんな人がいた。その人の愛犬は心臓を患っていて、獣医の診断では余命が残り少ないという。けれどできる限りのことをして長生きさせたい。そんなふうに言っていた。

その犬は雷とか花火の音とかを怖がるらしく、彼女はとても神経を使っているように見えた。ある日、散歩の途中、公園でその人に出会ったとき教えてくれたのだけど、夏になると隣りの住人が庭でバーベキューをすることが増えるらしく、その際、子供が爆竹を鳴らして遊ぶものだから、彼女の愛犬はその音にすごくおびえるのだとか。それを聞いたぼくは、こう言った。

「お隣にお願いすればいいんじゃないですか。うちの犬の心臓が弱いため,爆竹で遊ばせるのはやめていただけないでしょうかと」

すると、彼女はそんなことは絶対に不可能だという表情を見せて言った。

「よその町内会ならともかく、同じ町内会ですからね。とてもそんなお願いはできませんよ」

これを聞いたとき、ぼくがどれほど驚いたかお分かりだろうか。顔の表情にこそ表さなかったと思うけれど、ぼくはもう少しで東京湾花火大会規模のオナラを打ち上げそうなほどにビックリ仰天状態だったのだ。

隣人と対等な人間同士のつき合いをするというのなら,病気の愛犬のことも理解してもらう必要があるのじゃないだろうか。そんなことすら理解できない隣人であるなら,友人になる資格のないことがハッキリするだけのことで、何もそう心配することもないだろう。それに、たとえ病気の犬がいなかったとしても,夏の夜の静寂を破壊するような行為を子供に許すような親は、頭の中か心の中かどこか知らないけれど,あるべきものが何か足りないような気がするのだが、ぼくの気のせいだろうか。

今日のビデオ : Miserere mei, Deus
-- King's College Chapel Choir

☆ ケンブリッジ大学キングズ・コレッジのチャペルで録音されたものです。キングズ・コレッジは,歴史的にイートン校と関係が深く,1440年に国王ヘンリー6世が貧しい少年たちを教育するためにイートン校を創立したのですが、そこを卒業した生徒たちはキングズ・コレッジに進学することになっていました。貧しい少年たちを無料で教育するという伝統は,現代にも生きているようです。トヨタの海陽中学校はイートン校を意識しているらしいですが、金持ち階級出身の子供を日本型のエリートに育てることしか考えていないような気がするのは,これもぼくの気のせいでしょうか。

14 July 2007

中国はお好き?


昨夜はいろんな場所で作文ばかり書いていたようで,もう新しく何かを書く気分じゃなくなってしまった。それで、数時間前、反戦メーリングリストに投稿したやつを、ここにコピーすることにした。つまり手抜き工事というわけだけど、耐震強度偽装マンションほどではないと思う。

***

皆さま,こんにちは

消えかけた「中国好き嫌い」論争の火に油を注ぐつもりはないのですが、ひとこと感想を述べさせていただきたいと思いました。

ぼくが中国の靖国批判を弁護するようなことを言うと,中国大好き人間のようにみなして攻撃してくる日本人がいます。

ぼくが中国の動物虐待を批判するようなことを言うと,異文化を尊重できない偏狭な人間とみなして攻撃してくる日本人がいます。

「一体、君は中国が好きなのか嫌いなのか、どっちなのだ?」と訊かれても,ちょっと困ってしまいます。好きか嫌いかという感情論よりは,もっとだいじな問題があるように思うのです。

子供の頃,日本兵が中国人に対して行なった残虐行為を知って,いくら戦争とはいえ,余りにも残酷で卑怯すぎると思ったものです。そして、あの戦争の責任を曖昧にしてきた戦後ニッポンの歴史を見てきて,ぼくらの世代の日本人も中国に謝罪する必要があると思うようになりました。

子供の頃,中国人が犬を殺して食べていることを知って,そんな残酷なことはやめてほしいと思ったものです。ぼくにとって、犬は単なる動物ではなく,家族の一員であり,親友でもありました。その思いは今も変わらず,中国人に向かってずっと動物愛護精神を期待してきたのですが、その過程でハッキリと知ったのは,日本人も同じように動物愛護精神に欠けるという事実でした。

いま中国製の食品・医薬品が大問題になっていますね。ぼくはずっと昔からこの問題をニッポンの愛犬家を中心に訴えてきました。しかし、愛犬家の中にさえ,中国で虐待されている動物たちに同情する人は珍しいというのが,この美しいニッポンの現実なのです。

マハトマ・ガンジーは言いました。
国民の偉大さとモラルの発達程度は,その国で動物たちがどう扱われているかを見れば分かる。
ぼくにとっては、中国との交際は,好きか嫌いかの問題ではありません。よく聞く批判ですが,愛犬家は犬が好きだから、犬が特別に見えるだけじゃないかと。しかし、ニッポンの愛犬家は自分の犬だけは特別なのかもしれないですが、犬という動物一般のいのちをたいせつにする精神が見られないのが普通のようです。

中国との交際を思うとき,「いいお天気ですね」の挨拶を交わす程度の隣人同士の関係を超えて,本当の友人として交際できたらいいなと願うわけで,そのためには人間としてだいじなものを理解し合えるかどうかが問題です。地球人の常識は動物愛護へと向かっていると信じます。それがニッポンや中国で実現するのはいつになるでしょう。あと1世紀は必要でしょうか。

ひとこと感想を述べる予定が,けっこう長い演説になってしまったようです。このMLにはふさわしくないテーマで語ったように思われたでしょうか。ぼくとしては、平和を考えるときに,動物愛護はとても重大なテーマになると思っているのですが。

今日のビデオ : Alone Again
-- Gilbert O'Sullivan

12 July 2007

やさしさとは


アメリカの英語教育関係の団体が、英語のスペルをやさしく変えようという運動を始めているらしい。たとえば、have を hav に、you を u に、people を peeple に、というように、単語を発音どおりに書くようにすれば、子供たちが助かるだろうと主張しているという。その団体の代表的人物の名は、マシャ・ベル(Masha Bell)という女性で、Understanding English Spelling という本の著者として知られている人らしい。

こんなバカげたことを主張する人間は、アメリカ人に決まっていると思っていたら、どうやらこのベルという人は、ドイツ生まれで、両親はリトアニア人だそうだ。英国のガーディアン紙によれば、ドーセット出身の元英語教師のようなことを書いていたから、一応、イギリス人ということになるのだろうか。そういえば、彼女がBBCに登場したとき、poor は por と書くべきだと主張したらしいから、この人の発音はきっとイギリス式なんだと思う。アメリカ人なら、poor を「ポー」とは発音しないだろう。

英語の単語を発音どおりに書くといっても、だいたいイギリス人とアメリカ人では発音が違っているし、同じイギリス人にしても、方言の違いがあるのだ。たとえば、bus を「バス」ではなく「ブス」と発音する地方まであるらしいから、日の丸自動車のバスガイドさんだってビックリ仰天の仰向け状態だろう。

ぼくは若い頃、アメリカ南部出身の子供ふたりと一緒に東京ディズニーランドに出かけたことがあった。彼らは髪の毛をムースか何かでパンク調に固めていたけれど、方言丸出しの純朴な小学生だった。聞き慣れない発音に最初はかなり戸惑ったものだ。アメリカ人だって、地方によって発音の違いがあるのだから、発音どおりのスペリングにするってのは、やはりどう考えても無理があるように思う。

この不可思議な英語改革運動をしている元英語教師の名前(Masha)にしても、アングロサクソン系の名前じゃないから、実際のところ本人がどう発音しているのかハッキリしない。最初ぼくはロシア系の人かと思ったが、すでに言ったように、リトアニア人だというから,いよいよ困ってしまう。もし「マーシャ」と発音するのだとすれば,自分の名前も Masha じゃなくて、Marsha と変更しなくちゃならなくなるだろう。

イギリスで育った人でも,アメリカの影響を受けると,頭の中が単純になってしまうのだろうか。頭の構造が単純であっても,余計なことを考えなければ,まだ希望はあると思う。しかし、金持ちから税金をいっぱい取る英国を嫌ってアメリカに移住するようなイギリス人は、テムズ川をクルーザーに乗って浮かれる成り金たちと同じく,おそらく英国かぶれのBBには嫌われるイギリス人なのかもしれない。

そういえば、1946年から2004年までBBCラジオでLetter from Americaという番組を担当したアリステア・クック(Alistair Cooke)も、若い頃は英語の発音までアメリカ化していた時期があったようだ。1963年のケネディ暗殺を報告したときの録音だったのか,記憶がハッキリしないけれど,まるでアメリカ人のような発音でしゃべるクックの声を聞いた覚えがある。しかし、晩年には美しいイギリス英語に戻っていたから、きっと若き日の愚行を悔い改めたのだろう。

きょうは英語の話をしたけれど,やっぱり英国かぶれ調になってしまうのは,ぼくのビョーキだからしょうがない。久間元防衛大臣の「しょうがない」発言に比べれば,きっと神さまも許してくれるだろうと勝手に思い込んでいる。でも、犬のオフリードを認めないアメリカ人はやっぱり単細胞人間で、本当のやさしさというものを知らない偽善者だと主張したら,ニッポンの愛犬家からは嫌われるだろうか。それならそれで、しょうがない。ぼくは悪いヤツだから。

参考:Should we simplify spelling?

今日のビデオ : Waterloo Sunset
-- The Kinks

☆ むかしネット上で淋しい独り言を書いてる人に出会いました。その人はどこか遠い国から英国に来ていて,ロンドンで暮らしていたようです。友だちができなくて淋しそうでした。それで、ぼくはそのひとにこう言ったのです。「あなたはロンドンに住んでいるだけで幸福だ」と。そのとき書き添えたのが,この曲の歌詞でした。
Dirty old river, must you keep rolling
Flowing into the night
People so busy, makes me feel dizzy
Taxi light shines so bright
But I don't need no friends
As long as I gaze on Waterloo sunset
I am in paradise

きたなくて老いた川よ
うねりながら君は流れてゆくのか
夜の闇の中へと
忙しそうな人々を見てると
ぼくはめまいがしてくるんだ
タクシーのライトがすごく明るい
ぼくは友だちがいなくても平気さ
ウォータルー橋で夕陽を見ている限り
ぼくは天国にいる気分だから

10 July 2007

危険なヤツら


ハチ公パパ上野教授が住んでいた渋谷の松濤という町は、今では統一協会のような危険なカルトの本部があったり、爆発する温泉施設があったり、すぐ隣町にはラブホテルが密集していたりするけれど、一応、東京では高級住宅街ということになっている。そこに松濤公園という小さな公園があって、渋谷に用事があるときは、ぼくも時々そこで愛犬と遊んだものだった。

最近、また日本語圏の愛犬家グループで、相変わらずの日本的な愛犬家たちを観察していると、むかし松濤公園で出会った大型犬の飼い主のことを思い出してしまった。その男は値段の高そうなスーツを着ていて、そばには用心棒のような怖い顔の男が立っていた。すぐにヤクザだと分かった。その大きな犬は、ぼくの愛犬と同じく、リードにつながれていなかったのだけれど、危険な犬には見えなかった。ぼくはそのヤクザの親分のような男としばらく立ち話をした。何を話したのか、今ではほとんど思い出せないけれど、ひとつだけハッキリと覚えているのは、その男が、「しかし、犬はしょせん犬だから信用できない」というようなことを言ったことだ。

ぼくのこれまでの人生を振り返ったとき、いろいろな人間や多くの犬を見てきたけれど、その経験で断言できるのは、犬ほどに信用できる動物は珍しいということであって、人間くらいに信用できない危険な生き物には出会ったことがないように思う。特にヤクザの親分の口から「犬は信用できない」という意見を聞いてしまうと、ビックリ仰天でオナラが発射してしまいそうになるわけで、なんとかオナラを抑えて何か反論するとすれば、こうなるだろうか。

「そりゃあんたの世界がおよそ信用なんてこととは無縁の世界だし、あんたはヒトの中でも格別に危険な人種だから、イヌまでも信用できなくなってしまうんじゃないの?」

この程度のことなら言えそうな気がするけれど、ヤクザにこんなことを言ったら、ぼくがヒジョーに悪いヤツに思われてしまいそうだし、それはともかく、何を言っても通じないように思えるのは、カタギの愛犬家にも同じようなのが多いのがニッポンの現実だから、やはりただオナラを発射するしかなくなってしまうのだ。

今日のビデオ : 危険なヤツ

9 July 2007

いつになったら ...


アン・ロスという名のイギリス人を知る人は、ニッポンにも英国にもほとんどいないだろう。彼女が東京に来た1969年当時、ニッポンの医学研究で実験に使われていた動物たちは、まさに虐待を受けていたと言ってもいいほどに、惨めな環境に置かれていた。管理室の檻に閉じ込められた犬たちの中には、熱中症で死んだり凍死する犬も珍しくなかったという。そればかりか、残飯とはいえ食事が与えられていたはずなのに、餓死する犬までいたそうだ。

アンはそんな動物たちに同情し、日本人に向かって実験動物福祉の重要性を訴えつづけた。「たとえ死ぬことが分かっていても、動物を絶対に粗末に扱っちゃダメ!」とか、「同じ犬の中にも、人間に愛されて一生を過ごす犬もいるのよ」という彼女の言葉は、ニッポンの実験動物技術者たちにとっては初めて耳にする言葉であって、そんなことを一度も考えたことすらない日本人が普通だった。英国とは余りにも常識の違うニッポンで暮らしながらも,アンはできる限りのことをして動物たちを守ろうとしたらしい。彼女は毎日のように動物管理室の室内や檻の中をきれいに掃除したり、自分で用意した缶詰の食べ物や牛乳を犬たちに与えていたそうだ。

アンはこのブログでも紹介している王立動物虐待防止協会のメンバーであり、ニッポンの動物愛護団体とも関係していたようだ。来日する以前にも、動物福祉の遅れた国々で活動していた。だから、人間がどれほど動物に対して残虐であるかということはすでに経験済みだったとは思うけれど、それにしてもニッポンの実態は余りにも悲惨すぎたのだと思う。彼女はそれこそ命を削るようにして動物たちのために尽くした。実験後の犬を一晩中看護しても死んでしまうようなとき、彼女は死んだ犬に向かって「ごめんなさい」と謝っていたという。

周囲の人間がもっと彼女を理解してくれたのなら、精神的にはずっと楽になれたのだと思う。しかし、ぼくが現代のニッポンの愛犬家たちを観察していても、ほぼ絶望的になってしまうくらいだから、当時の日本人にイギリス人の動物愛護精神を理解することを期待しても、ペンギンに空を飛ぶことを期待するようなものだったのだろう。

アンは東京大学から始めて、東北大学に移り、それから大阪大学でも動物たちのために活動した。しかし、彼女はその大阪大学でついに力尽きて倒れてしまい、英国に帰ることになったのだ。精神的にも肉体的にも、極限状態を超えていたのだろう。彼女の数少ない理解者のひとりだった実験動物技術者の佐藤良夫は、中途半端なことや曲がったことの嫌いなアンが母国に帰るということを知って、よほどの重病に違いないと思ったそうだ。彼女がニッポンを離れるとき佐藤に残した言葉は、「動物たちのことをよろしくお願いします」だった。

ニッポンにいた頃、テレビ局からの依頼でテレビカメラの前に出たとき、その録画中に、「こんなところに出ている最中にも犬たちは苦しんでいる」と言って司会者を困らせたアン。そんな彼女が天に召されたのは、ニッポンから英国に帰った直後のことだった。

いま、ニッポンの動物実験施設は、外見上、むかしのような悲惨な状態ではないのが普通だろう。アン・ロスの努力は決して無駄ではなかったのだと思う。しかし、日本人は彼女のように動物を愛するひとの精神を本当に知ったのだろうか。犬という動物に対してさえ、愛するどころかまるで危険な猛獣のようにみなして社会から排除しようとする人間が目立つニッポン。そのようなイヌ嫌いを弁護するかのように、人間の勝手な都合に合わせたマナー論を唱えて犬の管理に熱心な愛犬家たち。彼らの主張が常識として通用する限り、見かけ上どんなに実験施設が立派になったとしても、また、たとえ公共のドッグランが普及するようになったとしても、ニッポンは決して動物愛護国にはならないだろう。

今日のビデオ : Mozart Piano Concerto KV466 (II)
-- Friedrich Gulda with Munich Philharmonic Orchestra

7 July 2007

やはり不可解だ


リビング・ウィズ・ドッグズ(LWD)という愛犬家サイトは、かつて紹介したときにも言ったと思うけれど、日本語圏のイヌ関係サイトとしては、例外的に上質なサイトだ。ところが、そこに集まる常連の中には、例によってスジの通っていない曖昧な人が目立つ。「例によって」と言ったのは、イヌ関係に限らず、政治的なサイトでも、同じような気質の人間がよく観察されるのが、ニッポンの特徴だからだ。

LWDでは、イギリスやフランスのような動物愛護先進国のイヌ事情がよく紹介されている。だから、あちらの愛犬家たちがオフリードで散歩している様子なども報告しているわけだ。そんなヨーロッパのイヌ事情を紹介するLWDの意図は、決してオフリードそのものをマナーの悪い行為だと批判することではない。むしろ動物愛護先進国の文化から日本人も学ぶべきことがあるということを、彼らは主張しているのだと思う。

ぼくは今、そのLWDでオフリードをテーマに投稿しているけれど、今のところ、ぼくの意見に全面的に賛同する人はひとりもいないらしい。それどころか、一方的に非難するような人のほうが多いのだ。ぼくの意見をキッパリ支持すると発言する人がひとりも現れないということは、これも日本人の重大なテーマになると思うけれど、それよりも問題なのは、LWDの常連としてそこの管理人に感謝しているようなことを言う人の口から、ぼくのオフリード論を非難しながら攻撃的イヌ嫌いの味方をするような意見が飛び出したり、まるでスタッフのようにコラムを担当している人の口からも、動物愛護先進国の法律や常識を否定するような意見が飛んで来ることだ。

彼らは一体LWDの基本方針をどう見ているのだろうか。あのサイトでヨーロッパのイヌ事情が紹介されていても、それは日本人には学ぶ必要のない他人事のように思っているのだろうか。それとも、LWDは単なるタテマエでヨーロッパ文化を紹介しているだけで、ホンネはオフリードを支持していないと考えているのだろうか。ぼくには、このような日本人の感覚が、どうにも理解できないのだ。結局は、イヌの幸福だとか言っても、人間同士の無難なつき合いが何よりも大切だというのが、日本人の常識になってしまうのだろうか。

今日のビデオ : 英国の公園のイヌ事情

☆ 英国の公園では、犬をオフリードにすることが禁じられていないのが普通です。犬をドッグランのような場所に閉じ込める代わりに、このビデオに見られるように、児童の遊具のある場所の周囲がフェンスで囲まれていたりすることがあります。

登場する犬は、どうやら地元では有名な野良犬のようです。最初はどこかの男とブランコで遊んでいたようですね。ところがその男のバッグにおいしそうなタルトが入ってるのを知って、そのタルトを横取りしようとしたようです。犬を追い払っているように見えますが、もちろん石をぶつけようとしたりなんかしません。実はけっこう楽しんでいるのだと思います。コメントを書いてる人の中に同じ地元の人がいたようで、その犬がローラという名の女の子であることを伝えていて、なんだか冗談を言ってるみたいですが、「彼女がまだそこにいてくれて嬉しい」と言ってます。

英国では野良犬を保護しても殺したりせず、愛情深い里親を見つけてくれますが、野良犬の自由な生活を守ろうとするイギリス人もいるようです。「児童公園で犬を遊ばせるとは非常識だ」なんて文句を言うイギリス人は珍しいでしょう。英国に住む日本人なら珍しくないかもしれませんが。

6 July 2007

憲法と動物愛護


天から降って来たような日本国憲法によって、日本人は初めて国家の束縛から解放された自由を知った。いや、知ったはずであった。しかし、ぼくはいつも思う。日本人の多くはまだ自由を知らないのじゃないだろうか。

日本国憲法の中には動物愛護のことは何も書かれていない。けれど人権というものを本当に理解する人ならば、動物の権利についても考えることのできる人なんだと思う。右翼思想に染まった連中は言うだろう。戦後の日本人は権利ばかりを要求して義務を忘れていると。彼らは相変わらず人間の権利を知らないようだ。もちろん自由も知らないに違いない。

なぜ日本人には、愛犬家の中にさえ、犬はいつもリードでつないで散歩するのが常識のように思ってる人が目立つのだろうか。ぼくはこれも人間としての自由の問題のような気がする。人間個人が自由に生きるということはどういうことなのか。自主独立とはどういう意味なのか。1世紀以上も前に内村鑑三のような人が知っていた自由を、今に生きる日本人の多くがまだ知らないらしい。

もちろん自由には責任が伴う。危険も伴う。自由に生きるということは自分勝手に生きるということではない。個として独立した大人ならば、自らの責任で自由に生きることを知っているはずだ。問題は、ニッポンの社会構造ではそのような大人が育たない傾向があるらしいということであって、それを自由や権利のせいにして国家主義的な義務を強要するとすれば、いつまでも日本人は幼児のまま成長しないことになるだろう。

英国にはニッポンのような成文憲法がない。それでも、英国の市民は自由を知っている。人権というものを知っている。それは彼らの先祖が、権力との闘いの中で自ら自由を勝ち取ったからだ。市民革命を経験し民主主義の基礎を作った英国から動物愛護の法律が生まれたのは偶然ではなかったように思う。それに比べてニッポンはどうだろう。犬から自由を奪うようなことをする飼い主が、まるで模範的な飼い主であるかのように思っている人間が、愛犬家の中にさえ珍しくないという現実。この現実こそが、自由をいまだ知らない日本人の姿を映しているかのようだ。

今日のビデオ : Puppy attacks mirror

5 July 2007

DoubleTalk


従軍慰安婦問題でも、スジのない安倍首相のフニャララ発言を、米国ワシントンポスト紙は、Shinzo Abe’s Double Talk(安倍晋三の曖昧な発言)と題して批判したけれど、アメリカ人に限らず、日本人の曖昧さには、ほとほとあきれ果てている人が地球上に増えていることは確かだと思う。

ホンネとタテマエという日本語は、カラオケほどではないとしても、かなり英語圏で定着してきたようだ。だいじな問題でもホンネとタテマエを使い分けるような日本人は、欧米人には決して信頼されないだろう。NOVAのような英会話教室に通って日本的企業のdouble-talkにだまされるくらいなら、何よりも欧米人とのつき合い方の基本を習得すべきだと思う。ただニッコリ笑って "Nice to meet you"なんて言えたとしても、友だちができるとは限らないのだから。

かつてイギリスのあるネット愛犬家グループで、ウサギの肉が話題になったことがある。実は言い出しっぺはぼくだったのだけど、そのときぼくは何を言ったかというと、だいたいこんな意見だったと思う。たとえ絶世のイギリス美人がウサギ料理を作ってくれたとしても、ぼくはそれを食べないよ。映画なら一緒に見てもいいけど。

読者よ、欧米人と友だちになるためには、だいじなところで自分をごまかしちゃダメなんだ。自分をごまかさなければ、嫌われる場合だってあるかもしれない。けれど、そんな君のことを信じてくれる人が必ずいるんだよ。言うべきことはハッキリ言わなきゃ通じないんだ。『幸福の王子』のツバメさんが、好きになった奇麗な足、じゃなくて、葦に向かって、"Shall I love you?(君を愛してもいいかい?)"と言ったように。

今日のビデオ : We Love You
-- The Rolling Stones

4 July 2007

日本人とは何か


最近、加藤周一の『日本人とは何か』を読み返す機会があった。
日本人とは、日本人とは何かという問を、頻りに発して倦むことのない国民である。
これはその『日本人とは何か』の最初に出てくる文だ。思えば、ぼくの<考える人>人生の多くは、このテーマに費やされていたように思う。ぼくは生粋の日本人のはずであった。しかし、若い頃からあまりにも普通の日本人とは考え方も常識も違いすぎるように感じていた。そんな経験が多かったから、「日本人とは何か」という問いは、ぼくには自然な問いであって、その問いを今でも繰り返しているということは、明確な答えがいまだ発見できていないということになるのだろうか。

講談社学術文庫で読んだ『日本人とは何か』の中には「天皇制について」という小論があって、その中に次のような文章がある。
日本の宗門史には、天草の乱を除いてめだった殉教の例がなかった。おそらく殉教の理由が少なかったからであろう。超越的な彼岸思想を通じて、人間的価値を絶対化することは、神道の仕事ではなかった。人間の理性も、自由も、また生命さえも、それ自身絶対的な、究極的な価値としては意識されなかった。そこではすべてが相対的であり、要するに感覚に従い、便宜と慣習によって決定され得るはずのものであった。そういう感覚的・心理的傾向は、儒教がその綿密な論理によってすべてのものの相対性を理論化した時に、日本の意識の根底となったのである。天皇制は宗教としてではなく、宗教にかわる一種の微妙な代用品として、そういう意識に受け入れられた。
日本人と議論していていつも感じるのは、絶対的なプリンシプルというもののない人があまりにも多いということだ。彼らはハッキリと断固とした意見を言う者に対して,独善的だと決めつけるに違いない。おそらく人間に関するテーマの多くは、プリンシプルなど必要ないのだろう。政治的な掲示板だからといって、いつも堅苦しい作文を投稿する必要はないし、時にはミニスカートのオリヴィア・ニュートンジョンをテーマにするのも健康的なことだとは思う。ただ、天皇制、憲法、動物愛護のようなことをテーマに語るときには、スジが通っていなければ、ニッポンを変えるような運動につながらないのじゃないだろうか。ただの議論ごっこなど、ぼくには全く関心がない。だいじなテーマでは議論する相手を選ぶのが普通だから、ネットウヨクやヒマジンなどにかまっている暇はないのだ。

加藤周一が天皇制について日本人の曖昧な宗教観との関係を指摘したことは、天皇制に限らず、「日本人とは何か」を考えるときには必ず再考すべき重大なテーマになるように思う。ぼくはよく「天皇教」と言ったりするけれど、日本人の宗教観はいつも曖昧であって、天皇教の場合も例外ではないし、日本人の精神構造には今もその影響が残っているから、キリスト教徒のように本来は絶対的なプリンシプルに立っているはずの信者からさえも、同じような曖昧さを発見することが非常に多いように思う。しかも困ったことに、「原理主義」などという単語を使って、人間の凶暴性を証明できたつもりになっている日本人が増えてきたようだから、いよいよ曖昧な相対主義は日本人の精神構造を支配することになるかもしれない。

おそらくニッポンの多くのクリスチャンは聖書をそれほど信じてはいないのだろう。現代神学に影響された多くの牧師が聖書の権威を否定しているのだから、信徒が聖書を信じていないのは当然だと思う。かつて日本人が天皇を神と信じたつもりになって天皇教徒を演じていたように、ニッポンのキリスト教徒はキリストを信じているつもりになってクリスチャンを演じているのだろうか。それとも、日本的な愛犬家が自分こそがまともな愛犬家だと信じているように、彼らも自分こそが正真正銘のクリスチャンだと信じて右翼思想に染まっているのだろうか。

天皇を神と信じているつもりになって天皇制を熱烈に支えた人々のその精神構造は、戦後の庶民の中にもどうやら生き残っているらしい。キリスト教のように、本来は人種や民族の特殊性には関係せずに、個人と絶対的な神との関係で成り立つ信仰でさえもが、ニッポンの特殊な文化の影響を受けてしまっているようだ。人間である以上、生まれ育った環境の影響から全く自由になるということは難しいのだとしても、キリスト教の本質を失うほどに日本的な精神構造のままにクリスチャンをやっているとすれば、聖書など捨てて、代わりに教育勅語でも信じていたほうが、スジが通ることにならないだろうか。

問題は日本的なクリスチャンだけではないように思う。宗教を否定する日本人の中にも、なんだかピンと来ない宗教臭を漂わせている人が目立つような気がする。そのような人の信ずるものは何かといえば、自分自身であったり、有名な作家であったり、腹黒い占い師だったり、まぬけな政治家であったりするようだから、鎌倉の大仏もビックリ仰天だろう。

今日のビデオ : A tribute to a dog called Zorba

2 July 2007

音楽に国境はない

武満徹という人は日本を代表する現代音楽家ということらしいが、ぼくは彼の作品を本気で聴いた覚えがない。あえて「本気で」などと言ってみたのは、たまたま耳にしたという程度になら聴いたことがあるからだ。たとえば「環(リング)」という曲がある。そのときの印象をひとことで言えば、日本的な音だなあという感じだろうか。

「環」という作品は、副題に「3人の奏者のための」とあるように、フルート、ギター、リュートという素朴な楽器で構成されている。どれも日本古来の楽器ではない。それでいてなぜ日本的な音に聞こえてしまうのだろうか。フルートは尺八のように、リュートは琵琶のように聞こえたなんてことを書くと、ちと大げさかもしれないし、だいたいぼくは琵琶なんて楽器を本気で聴いた経験がないのだから、かなりいい加減な感想になってしまうだろう。

武満徹は、日本的な音を作ろうと意識していたのだと思う。ジョン・ケージがアメリカ的であろうと意識して、あんなヘンテコな音を生み出したように、武満は日本的であることを意識していたに違いない。ヨーロッパの伝統に対抗するかのように。

欧州にはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンという音楽の伝統があるけれど、ニッポンにはそれがない。クラシック音楽愛好家の多くは、日本人であっても、ヨーロッパ音楽が好きだ。しかし、だからといって、ニッポンの作曲家がヨーロッパ的な音を作れば、単なる物真似にしか見てくれないだろう。きっとそのような思いが、武満にもあったのじゃないだろうか。

日本人のピアニストの中には、海外でのコンサートで和服を着て演奏する人もいるらしい。これなども日本的であることを、視覚上も意識しているからだと思う。他人の哲学や趣味にとやかく言うつもりはないけれど、テニスをやるときに、ねじり鉢巻にふんどしじゃ、ウィンブルドンどころか麻布のコートでもかなり衝撃的なように、和服姿でピアノを弾いている女性なんかを見てしまうと、ぼくならショックのあまりオナラを発射してしまうかもしれない。

ぼくは子供の頃から、年上のいとこの影響だったのか、西洋の音楽ばかりを聴いていた。記憶では、小学生のときに初めて買ったLPレコードは、ローリング・ストーンズだったと思う。そのストーンズは、それを意識してバンドまで作ったトニー・ブレアほどには熱中できなかったのだけど、ビートルズの曲などは、学校の授業中にもメロディーが聞こえてくるほどに夢中になったものだ。そんなぼくもいつしかクラシック音楽の世界に魅せられるようになり、やがて少年時代を卒業する頃には、モーツァルトは親友のようになっていた。

神棚も仏壇もない家に生まれ、キリスト教の幼稚園に通い、生まれてから一度も初詣に出かけたことのないぼくのような人間にとって、日本的であるということは、たとえ意識したとしても、しっくり来なかったりするし、西洋的であるということは、ぼくの中ではむしろ自然なことであるように思う。BBのことを平均的日本人は「英国かぶれ」と呼び、ネットウヨクは「非国民」と呼ぶらしい。ぼくは自称「地球人」なのだけど。

武満徹は、黛敏郎と親しかったようだ。黛敏郎といえば、ぼくには「題名のない音楽会」くらいしか記憶にないのだが、実は右翼組織「日本を守る国民会議」とも関係していた人だった。「題名のない音楽会」は、子供のころ好きな番組だったけれど、司会者の黛に何か異様な空気を感じていたのは、ぼくの反右翼人生の序曲がすでに始まっていたからなのかもしれない。

今日のビデオ : ロンドンの反戦デモ