☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

30 June 2007

カルトと右翼


「<キリスト者学生会>被害者の会」なんてのがあるそうだ。学生時代にキリスト者学生会(KGK)に関係していたぼくとしては、なんだかカルトの仲間になったみたいな気がしないこともないけれど、これも2ちゃんねる系のタワゴト活動だと思えば、今さら驚くまでもない話になる。しかし、KGKに対して恨みを抱いているにちがいないカルト(たとえば統一協会とか)は、このニッポンには少なくないだろうから、この活動も彼らの仕業だとすれば、きっぱりと言うべきことは言っておかねばならない。

キリスト者学生会の基本的な活動は何かと言えば、福音派プロテスタントの信仰に立って聖書を学ぶことにある。組織的に政治活動をすることはないし、決して信仰の押し売りもしない。強制によっては決してキリスト信仰は得られないことを知っているからだ。カトリックの場合、カトリックの家に生まれれば自動的にカトリック信者にされてしまうようだけど、プロテスタントはまったく違う。たとえ牧師の子供であっても、個人として信仰をもたない限り、キリスト者とは認められない。

このように個人の自由を尊重する福音派プロテスタントの活動から「被害者」など生まれるはずがないのだ。何か問題があるとすれば、人間的な不和や誤解くらいだろう。そんなものは、およそ人間の集まりであれば、どこにでもあることだ。それに、ひとはキリスト信仰をもつまではキリスト教を誤解するものだから、中途半端にキリスト者学生会に関係すれば、その活動を勘違いするってことも少なくないのかもしれない。

ニッポンには非常に多いカルト宗教は、洗脳によって信者を増やしている。まるで悪魔に支配されたかのようなカルトからすれば、福音派プロテスタントの活動は邪魔になるのだろう。目的のためには手段を選ばない彼らがネットを利用しないはずがない。「<キリスト者学生会>被害者の会」などという架空の組織を名乗って福音派プロテスタントを攻撃しつつ、彼らの勢力をさらに伸ばそうとしているつもりなのかもしれない。まるでネット右翼と同じだ。統一協会のようなカルトと日本会議のような右翼組織が仲がいいのは、彼らには共通の目的があるからだ。

今日のビデオ : Hélène Grimaud spielt auf dem Hammerklavier von Clara Schumann

☆ オオカミを愛するエレーヌが、クララ・シューマンの愛用したピアノを弾いています。最初の女性はクララのつもりらしいですが、ピアノは別のピアノだし、なんだか余計な演出のような気がしますが。

29 June 2007

誹謗中傷って?

「2ちゃんねる」というのは、ぼくの関知しない世界だけれど、時にあそこで発信される下世話がぼくのとこにも届く理由は、ここだけの話、イギリス情報部の許可がない限り秘密にしなければならない極秘情報になる。

先日、その2ちゃんねるのことでまた変な話が届いた。アニメ制作会社ガイナックスの取締役が、2ちゃんねるでの非難か何かに反応して、mixi日記に「キモヲタ死ね!」と書いたらしい。いかにもアニメ系のオタクっぽい反応だ。当然のこと、同じ精神構造の2ちゃんねらーはこれに激怒し、いよいよ同社への攻撃が盛り上がったという。そしてついにその取締役は辞任することになったのだとか。

こんな出来事を知ってしまうと、ぼくはいつものように、「ああ、ニッポンのケージバン」と溜め息が出てしまう。アニメ制作会社の取締役の感性も情けないけれど、この程度のことで2ちゃんねらーの攻撃に負けてしまう会社の体質もまた情けない。きっとこの程度の会社だから、この程度の人間でも取締役になれたのだろう。

ぼくがブログにこんな話題を取り上げたのは、もちろん2ちゃんねるなどに関心があるからではない。一見、紳士ふうを気取っているような掲示板にも、同じような精神構造の人間が仮面をかぶって常連として発言していたりするのがニッポンのケージバンだし、もっと驚くのは、その種の人間の口から頻繁に「誹謗中傷」という言葉が飛び出し、それに管理人までもが応答して、四六時中、「誹謗中傷」を理由に投稿を削除しまくっているというその実態、それが問題だ。

本来、誹謗中傷と批判とは違うことのはずだ。しかし、日本人は自分が批判されると、自分の人格や名誉までもが傷つけられたように感ずる傾向があるようだ。特に人前でそれをやられると、ズボンのチャックを下ろしたまま銀座の歩行者天国を歩いたとき以上に、激しく恥ずかしい思いに落ち込んでしまうニッポン人が多いらしい。ジーパンのチャックなら自分の不注意だけど、ケージバンでの批判は自分のせいじゃないと思う人が多いようだから、一度でもその体験をすると、もうその相手を生涯ゆるせなくなってしまう。そして、復讐の機会を狙って、2ちゃんねらーのようにケージバンを見張るというようなことをする。

問題はこのように情けないニッポンのケージバンの現状に、もう議論する気力もなくなって、ただただ批判するしかなくなったとき、それを受ける管理スタッフのみならず、立ち読みする常連の中にさえ、そのような批判を「誹謗中傷」や「悪態」などと解釈する人間が多いという日本人の精神構造だ。また、そのような批判行為を恥ずべきことのように感じるというその感性も問題だ。

世に恥ずかしいことがあるとすれば、正義に反することを見ても見て見ぬふりをすることであり、もっと恥ずべきは、不正に対して怒る人間を非難して良識人を気取る連中のその感性である。ニッポン社会の無責任構造は、そのような人間によって支えられているのだろう。

ニッポンはどこもあそこもナタデココも、誹謗中傷過敏症になっているらしい。誹謗中傷にしてしまえば、批判であってもなんであっても、とにかく排除できると思っているのだろうか。ぼくには親の過保護によって環境適応力を失った子供の集団に見えてしまうのだけど、リアル世界で自由を知らずに大人になってしまった人間が常識人で通用するニッポンのような国では、この状況はまだ200年はつづくのかもしれない。

今日のビデオ : A Von Trapp Farewell

28 June 2007

正義はないのか

久しぶりにモンテーニュに会ったら、彼は議論する相手を選べと言った。若い頃にもそう聞いていたはずだけど、すっかり忘れていたようだ。

学生時代、原理運動のようなカルト信者たちと、どれほど議論したことだろう。そのすべては、結局、無駄なことであった。議論に値しない人間と議論するくらいなら、夢の中でスキャンティーのことでも考えていたほうがいい。ネット掲示板というのは、こちらとしては議論したいと思えない連中が、まるで田舎の街灯に集まる虫のように、どこからともなく飛んで来る場所らしい。虫は無視するに限る(きのうも言ったかな?)。しかし、余りにもうるさいときは、追い払うしかないだろう。ところが、いくら追い払おうとしても、それを邪魔するヨイコたちがニッポンには少なくないようだ。ぼくはまたネット世界で日本人の現実を知った。虫よりも迷惑なのは、正義よりも公序良俗をだいじにする管理人である。

ある種の日本人に言わせると、この世に絶対的な正義などないらしい。たしかに自民党や公明党のような組織を見物していると、正義なんてものは存在していないかに見える。しかし、それは彼らがいつも正義を無視して、自分たちの利益を守ろうとすることに余りにも熱心であるからだと思う。もちろん表向き彼らはそんなふうには見せないだろう。どこまでも彼らに正義はないのだから。

問題は、このニッポンの現実を変えようと願っているかに見える人々の精神だ。彼らの精神の中にも正義が宿っていないのだとすれば、もし彼らの目的が達成したとしても、この国は何も変わらないように思う。

今日のビデオ : Yer Blues
-- John Lennon

☆ ジョン・レノンがローリング・ストーンズのミック・ジャガーと対談したあと、エリック・クラプトンと共演しています。1968年頃の映像らしく、当時はまだビートルズが存在していて、クラプトンはその年までクリームというバンドで活動していました。ビートルズはもちろん、クリームも今はなき伝説的なバンドですが、ローリング・ストーンズだけは今でもコンサートをやってるのだから、老人党もビックリ仰天でしょう。

27 June 2007

批判と議論


いつか老人党掲示板でタバコ産業を批判したとき、スタジオジブリの鈴木敏夫もついでに批判したことがあった。子供を含めて若い人たちに影響力のある有名人が、今どきヘビースモーカー丸出しでは困るというような話をしたと思う。そんな話のついでに宮崎アニメについて思うことをちょこっと書いたのだけど、老人党を始終監視しているどこかの掲示板だったのか、それとも2ちゃんねるだったのか知らないけれど、そのことが話題になったらしい。BBの宮崎アニメ論は、例によってトンデモ発言なんだとか。

こんなふうに他人の発言に言いがかりをつける人間は、よほどヒマジンなのだろうね。だいたいぼくはあのとき宮崎アニメ論などを語ったつもりはないのだ。寿司屋で中トロの代わりにトトロを注文したら面白いかもしれないけれど、本気で注文したら、板前だって怒るかもしれない。やはり議論マニアというのは困ったものだと思う。

先日、映画の話をしたとき、英国では警察ものでも拳銃の撃ち合いがほとんどないと言った。例として「モース警部シリーズ」を出したけれど、実は原作者のコリン・デクスター(Colin Dexter)は推理作家なのだから、銃の撃ち合いがないのは当たり前じゃないかと反論されれば、「どーも失礼すますた」と言うしかないだろう。きっと議論マニアなら、アメリカの「刑事コロンボ」などを持ち出して、「アメリカにだって銃の撃ち合いのないのがある」とか、誇らしげに語るに違いない。

このように、ぼくの発言に茶々を入れようと思えば、ヒマジンには朝飯前だろう。問題は、そのようなヒマジンの精神構造であり、その議論の目的が何かということになる。

そういえば、老人党掲示板で宮崎アニメを語った直後に、筑紫哲也と宮崎駿の対談を見る機会があった。なぜか最初から最後までシッカリ見てしまったのだが、なんだか中味の空っぽな対談だと思った。テーブルの上に灰皿が置いてあって、その中に吸い殻がたくさん見えた。しかし放送された映像の中には、全く喫煙シーンがなかったのだ。そこでぼくは風呂場で考えたのだけれど、編集の段階で意図的に喫煙シーンをカットしたために、あのように内容のない対談が出来上がってしまったのじゃないだろうか。

やはりヘビースモーカーは、タバコを吸ってるときしか脳が活動しないのかな。養老孟司に質問したとしたら、どう答えるだろう。養老教授はタバコが大好きで、「正義」という言葉の大嫌いな学者らしいから、ぼくの質問は無視されるかもしれない。虫を集めているらしいし。

今日のビデオ : 昔のTVコマーシャル

☆ 1949年のアメリカでは、こんなコマーシャルが流されていたのです。医者が好きなタバコは何よりもキャメルなんだとか。養老教授は、こんなのを見ても、医学者としての社会的責任を反省することはないのでしょうか。

26 June 2007

出会い


X市の街中では、西洋人に話しかけられるとすれば、たいていはモルモン教徒であった。だからアメリカ人ではあっても、日本語で話しかけてきたものだ。ある日の夕方、デパートの前のベンチで休んでいたら、「可愛い犬ですね」と声をかけてきたふたり組の白人がいた。ふたり一緒にスーツ姿で、まじめそうな顔。どこから見てもモルモン教徒に見えた。

彼らはしばらくぼくの犬のことで、いろいろ質問した。モルモン教の宣教師はユタ大学かどこかでかなり日本語の訓練をされているようで、なかなか発音がいい。けれど、「ゴールデン・レトリーバーですか?」とか、あまり日常的ではないカタカナの単語が入ると、その部分だけいきなり英語の発音になってしまう。ぼくが日本語の発音で、「そう、ゴールデン・レトリーバーです」と答えると、彼は、「わたしにも同じ犬がいました」と言った。

そのときぼくの愛犬はリードをしないで休んでいたのだけど、いくら法律でリードにうるさいらしいアメリカからやって来た人間でも、ある種の日本人のように、「逃げて行かないんですか?」みたいな変な質問はしない。見れば分かるような質問はしないのが欧米人の常識だと思う。どんなにおとなしい犬でもこわがる人がいるからリードにつなぐべきだとか、他人に余計なお世話をしないのも、彼らの特徴になるだろう。イギリス人に比べれば、かなりおせっかいな傾向のあるアメリカ人でさえそうだ。

街頭で話しかけてくるモルモン教徒は、もちろん犬のことが主目的なのではない。彼らはまず「英語に関心がありますか?」と質問するだろう。ぼくも何度同じような質問を受けたことか。彼らはぼくをモルモン教会でやってる英会話教室に誘おうとしてるのだから、ぼくとしては「関心があります」と答えるわけにいかない。だから、それまで話していた日本語から英語に切り替えて、しかも思いっきりイギリス式の発音で、英語を習う必要はないということを伝えることになってしまう。

まるで英国式スパイダーマンのように変身したぼくの姿を見て、さすがのモルモン教徒も、一瞬、彼らのマニュアルを忘れたかのような表情になった。それでも気を取り戻して、彼らの本論、つまり、モルモン教の宣伝を始めたものだ。しかし、これもぼくがクリスチャンであることを告げられてしまうのだから、彼らはよほどついていない。普通ならこれであきらめるだろう。でも、相手がクリスチャンと知ると、むしろ元気になるのが異端派の特徴になる。そのときの彼らも同じで、マニュアルどおりに彼らの伝道を開始した。

キリスト教をテーマに議論するとすれば、彼らのマニュアルを超えた話になるだろう。ぼくとしては、たいていそんな議論をする気にならないのだけど、しばらくしゃべっていなかった英語を使うチャンスになるから、少し相手をすることにした。思ったとおり、相手は日本語では対応できなくなって、英語でしゃべり始めた。

しばらく話をしたあと、突然、彼は英語で「あなたが好きです」というようなことを言った。こんなふうに日本語にすると、なんだかドキッとするけれど、英語で言われるとそれほどでもない。つづけて彼はその理由らしきことを言った。それは、ぼくが「優しい人だから」だとか。

どうしてそんなふうに思ったのだろう? おそらく、ぼくの英語の発音がイギリス式だし、しゃべり方にしても、ヒュー・グラントと区別がつかないくらいに(と自分では思ってるくらいに)イギリス式だから、耳に入る音として、なんとなく優しい感じに聞こえたのじゃないだろうか。それと、ぼくは決して彼らを異端視して拒絶するような態度をとらなかった。もちろんぼくは彼らの信仰が本来のキリスト教とは別物だと思っているけど、彼らが信ずるものを頭ごなしに否定するようなことは絶対に言わない。ただ、ぼくの信仰は彼らのとは違って、ただ1冊の書物「聖書」のみに立っていることを言ったのだ。

実は、その1年ほど前にも、別のモルモン宣教師から街頭で話しかけられて、2時間くらい英語で議論していた。彼は非常に熱心な人で、モルモン経典を開きながら、なんとか彼らの正しさを証明しようとしたものだった。そのたびに、ぼくは聖書の言葉を出して、彼らの主張が、一見、聖書から出ているように見えることを話した。つまり、どうして聖書とは別の経典が必要になるのかというのが、ぼくの論点だった。ついにぼくを説得することに失敗した宣教師は、最後に、手に持っていたモルモン経典をぼくに贈りたいと言ったのだけど、ぼくには読むべき本が多すぎるから、もらっても読めないと思うと答えた。しかし、それでもいいと言うものだから、仕方がなく、もらうことにした。

きょう最初に話したモルモン教徒たちとの話はそれほど長くはなかったのだけれど、ブッシュ大統領は福音派(evangelical)なのかというぼくの質問に、彼らは明確には答えられなかった。それで、ぼくはこう言った(実際には英語で)。

「ブッシュ大統領は戦争が好きそうだから、福音派には見えないですね。福音派クリスチャンは、戦争を嫌うものです」

別れるとき、彼らは、Nice to meet you と言って握手を求めた。ぼくと握手して笑顔で去った彼らの後ろ姿を見て、ぼくはこう思った。なぜ彼らのようにまじめそうな青年たちをキリスト教の異端にしておいて、神さまはわざわざぼくのように悪いヤツを選んで、イエス・キリストと出会わせたのだろうかと。

今日のビデオ : ひびき
-- Mr.Children

25 June 2007

なんか変な人たち


ぼくは若い頃からずっと右翼に厳しい考えをもっているけれど、何も天皇教徒に向かって信仰を捨ててしまえと強要するつもりはないのだ。そんなに「君が代」が好きなら、勝手に歌えばいい。靖国神社が好きなら、勝手に参拝すればいい。しかし、「君が代」斉唱を拒否したり、政治家の靖国参拝を批判するような日本人に対して余計な干渉をするような右翼がいたとすれば、(実際、右翼ってのはそういうものだろう)、ぼくは黙っちゃいない。特に彼らの口から「非国民」だとか「反日」だとか、その種のウヨク言葉が飛び出したら、ぼくのブラックリストに彼らの名前を記入して、ことあるごとに批判することになるだろう。筑波大教授の中川八洋は、その代表と言ってもいい。

しかし、そのような右翼に対してよりも、ぼくがもっと激しく批判的になるのは、平和運動の団体だとか、愛犬家のグループだとか、そのような集団の中に出現する<なんか変な人たち>だ。ぼくは個人の個性を尊重したいとは思う。しかし、ある種のニッポン人は、ぼくの許容範囲を超えて、あまりにも変すぎるのだ。口で平和を唱えながら、その同じ口で戦争を弁護するような人々。口で犬の幸福を唱えながら、その同じ口で攻撃的なイヌ嫌いの味方をするような人々。この種のニッポン人が出現すると、ぼくは人間の偽善をいやというほどに感じてしまい、夜空に向かって、「オーイ、星の王子さま!」と叫ばずにはいられなくなる。

中川八洋という学者はかなり討論に自信があるらしいけれど、ぼくはあんな人間と議論したいとは思わないのだ。コモンセンスが違いすぎるのだから、いくら討論したって時間の無駄になるだけだ。さいわい、これまでの人生、ぼくは彼と同席するような不幸を経験せずに生きてきた。しかし問題はこのネット時代、平和運動の掲示板でも、愛犬家の掲示板でも、どうにもコモンセンスのかみ合わない人間がひとの発言に対して反論らしきものを飛ばしてくることが多いってことだ。ほんとに反論なら、ぼくは大いに歓迎する。しかし、ひとの意見に反論するためには、そのひとの意見を正しく読解することが必要条件になるだろう。それなのに、その条件を満たしていない連中があまりにも多いから、オナラの貯蓄がなくなってしまうのだ。

そんなに右翼の精神を尊重したいのなら、右翼の溜まり場で思う存分やればいい。そんなに攻撃的なイヌ嫌いの味方をしたいのなら、2ちゃんねるとかで、(いや、ニッポン的な愛犬家グループでもいいかも)、勝手にすればいい。彼らにふさわしい場所なら掃いて捨てるほどあるだろう。ああ、それなのに、何ゆえに彼らはどこにでも出没するのだ。ペンギンが空を飛ぼうとしたって無理に決まってる。それでもペンギンは可愛いじゃないか。もし空を自由に飛ぶツバメを妬んで、「あんなのは鳥じゃない!」なんて非難するペンギンがいたら、旭山動物園のペンギンさんたちだって、人気が落ちてしまうかもしれない。

今日のビデオ : 変な犬

☆ インテリの中に変な人がいるように、賢い犬の中にも変な犬がいるようです。

24 June 2007

銃社会とドッグラン


アメリカ映画で警察ものといえば、たいていは悪いヤツが鉄砲で撃たれて一件落着ということになる。子供の頃からこんな映画ばかりを見て育ってしまうと、正義を守るためには武器が必要だと錯覚してしまうのかもしれないし、悪いヤツは殺してしまえというのが常識として通用することにもなるのだろう。とにかく全米ライフル協会は、当分のあいだ支持者を失わないで済みそうだ。

ぼくはアメリカ映画を見ることはほとんどなくて、英国を中心にヨーロッパの作品に親しんで来たのだけれど、特に英国の場合、たとえば「モース警部シリーズ」のような警察ものであっても、まず拳銃の撃ち合いのないのが多かったように思う。英国では、制服警官は拳銃をもたないのが普通なのだ。彼らは拳銃の代わりに警棒を携帯している。ニッポンも銃社会ではないはずなのに、お巡りさんは警棒だけでなく拳銃まで携帯しているけれど、これを不思議に思う日本人は、やはり世間の常識では理解されない人間になってしまうのだろうか。

最近、英国で警官が鉄砲で撃たれて死亡した事件があった。英国でも銃による犯罪が増えて来たらしく、一般のお巡りさんも拳銃を携帯すべきじゃないかという意見も目立つようになったようだ。賛否両論の意見が飛び交ったけれど、結局、今までどおりでよいということで落ち着いたらしい。今回の事件にしても、たとえ警官が銃を携帯していたとしても防げなかったという意見が支持されたようだ。イギリス人には、危険なことを経験しても、アメリカ人のように手っ取り早い防衛策を講じない傾向がある。

英国の古いジョークにこんなのがあったと思う。なぜ拳銃をもたないのかと悪人に質問したら、彼はこう答えた。「お巡りでさえ拳銃をもってないのに、おれたちがもつなんて、そんな悪いことはできねえ」

犬のリードの問題にしても、アメリカ人が犬をドッグランのような場所に閉じ込めることを考え出したのに比べ、イギリス人は犬をどこまでも人間の愛すべき親友とみなし、ヒトとイヌとの大らかな共存社会を守ろうと努力する。ニッポン人の愛犬家とイヌ嫌いの中には、だいぶアメリカナイズした考えの人が増えて来たようだ。

今日のビデオ : UK dog ad

☆ 英国のテレビで流された広告です。アメリカの低級な巨大ペットフード会社であっても、イギリスの愛犬家を意識すれば、こんなにも英国的なコマーシャルが出来上がるという見本になるでしょう。でも、このブランドの商品を買うイギリス人は、愛犬家の中には珍しいでしょうが。

23 June 2007

組織と日本人


日本人の特徴といえば、組織に染まる傾向があるように思う。学校というのも例外ではなく、たとえば松下政経塾のような学校で学べば、どういうわけか右翼的な人間が出来上がってしまうらしい。民主党の議員の中にもあの学校を卒業した者がいて、前原誠司や松原仁などはその典型だと思う。

前原と松原の公式サイトを見れば、彼らがいかに元号を愛しているかが分かるだろう。元号に何も疑問を感じない日本人は、天皇制ファシズムを反省したことのない人間に決まっている。そんなのは自民党員なら珍しくないのだろうけれど、政権交代をめざす民主党の中にもこの種の人間が混じっているという事実は、ニッポンの政治がいつまでも変わらない原因を考えるときに、決して無視することのできない重大な問題になると思う。

前原は憲法9条を変えてニッポンが軍隊をもち、米国と一緒に戦争ができる国になることを願っているようだし、松原は南京虐殺や従軍慰安婦を否定していて、前原と同じように中国に対して好戦的な体質をもっているようだ。もちろん今の平和の時代、彼らも口では「平和」を唱えるかもしれない。自分たちは中国に対して好戦的なのではなく、中国こそが好戦的であるから警戒すべきなのだと主張するのだろう。いわゆる中国脅威論というやつだ。自民党右派の連中と何も変わらない。

右であろうが左であろうが、ニッポンの政治的組織の中に、同じ右翼的信条をもつ人間たちが混じっているとすれば、たとえ政権交代が実現したとしても、ニッポンの本質は変わらないのじゃないか。右翼崩れが首都の知事になり、右翼かぶれが最高裁の判事になれるニッポンの現実は何も変わらないのじゃないか。

今日のビデオ : 奇跡の地球
-- 桑田圭祐 & Mr.Children

7 June 2007

夜明けは遠い


「作家には近づくな」と誰かが言ったように思う。作家も人間である限りは、やはり信用できないということなのだろうか。友だちも、恋人も、愛人も、そんなに気軽に作らない方がいいのかもしれない。市民運動なんてのも、特に日本人と一緒にやる場合には、正義よりは無難な人間関係を優先できる根回し上手でなけりゃ、やっていけないようだ。

「朝まで生テレビ」なんてくだらない番組がまだ続いていたとは知らなかったけれど、先日、その最新のやつの一部を見る機会があった。ちょうど田原が社民党の辻元清美に天皇制に関して質問しているところだった。日本国憲法に書いてある「天皇」をどうするつもりかという質問だった。しかし、辻元は「どうしましょうね」と言うだけで、なんら意見を言わなかったのだ。彼女の恐れを見て取った田原は、まるで「意気地なしめ!」と見下すようにして話題を変えたのだった。

田原総一郎に見下されるようじゃ、社民党はいつまでも政権から遠く離れた場所で、せいぜい自民党の揚げ足取りくらいしかできないのじゃないだろうか。野党がこんな情けない状態だから、このニッポンという国では、自民党や公明党のような見るからにふがいない議員が勢揃いした政党でも与党になれるのだと思う。

作家がもし政治に関係するのなら、ロマン・ロランのように最後まで組織とは関係せずに無党派でやるべきかもしれない。少なくとも、その方が読者を裏切らないで済むだろう。

今日のビデオ : Alexis singing her ABCs