☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

28 February 2007

英国的かもしれない話


2月24日の「今日の音楽」でピアノの弾き語りをしていたのは、アル・ジェイムズというスコットランド人だった。ピアノと英国が関係する以上、どうしても使用しているピアノのことを知りたくなってしまったのは、ぼくのビョーキだから仕方がない。メールを送って質問してみたら、すぐに返事が来て、レコーディングに使ったピアノは、ヤマハのP150ということだった。

質問のメールの中で、ポール・マッカートニーの弾くブリュートナーの音を思い出したなどと、ちと大げさなことを書いてしまったせいか、彼が言うには、「僕はそれほどいいピアノだとは思わなかった(I didn't think it was that great)」。ヤマハと知って、ぼくはお礼のメールの中で、こう書いた。
ぼくは時々、自分が日本人であることが信じられないんですね。ちなみに、ぼくの愛犬はスコットランド人で、いつかバッキンガムからやって来た女の子が言ってたように、すごく奇麗な犬なんですよ。

Sometimes I can't believe I am really Japanese. My dog is a Scot by the way. He looks very gorgeous indeed as a girl from Buckinghamshire once told me.
ふつう、Scot という単語は、人間のスコットランド人を意味するのだけど、文脈上、あえて愛犬に使用したのは,受けを狙ったわけだ。実は、むかし東京の英国風パブで出会ったスコットランド人にはすごく受けた経験がある。今回はどうだっただろう。メールだから、相手の表情は見えない。相手のことをよく知らなくても、この種のいたずらができてしまうのは、かなり英国的だと、ぼくは勝手に信じているのかもしれない。それとも、単に僕的なだけだろうか。

今日のビデオ : Al James のレコーディング

26 February 2007

嗚呼、伊勢佐木町ブルース


だいたい好きで反権力や反右翼をやってるわけじゃない。英国でなら、ぼくはタイムズを開いて、保守党の政策にも「なるほどな」とうなずくこともあるだろう。でも、キツネ狩りは早く禁じてね。そう思ってたら、ほんとにそうなった。たとえ労働党政権下で決まったことではあっても、やはり英国の歴史は正しい方向へ動いていると感心するわけで、NHKが「その時歴史が動いた」なんてのをやってはいても、一向に歴史の動く様子のないニッポンの現状を見るにつけ、青江三奈並みに深い溜め息の出てしまう今日この頃、みなさん、いかがお過ごしですか。(ちなみに、あの青江三奈の激しい溜め息は、NHK紅白で禁止されたらしい。ぼくは子どもの頃から紅白を見たことがないので、目撃はしていないけれど。)

この国で右翼的な支配者層が小さくなってるってのなら、ぼくは彼らのことなど忘れて、モーツァルトの音楽にα波ブブッと発散し、愛犬との散歩をタリラリラーンと楽しみ、老人党掲示板などに出没するウヨクの邪魔などもゼーンゼン平気になって、幸せイッパイ、夢オッパイで、エレーヌ・グリモーちゃんとオオカミ・デートしてる夢なんか見ちゃって、アリエナイザー人生を送れるだろうに。

現代の戦争は、経済戦争である。この地球をその強大な経済力で支配している特権階級の財産を守るための戦争だ。もちろんカネのために戦争をやるなんて言ったら、彼らのおこぼれで生計を立てている連中くらいしか納得しないし、そうゆう連中ってのは、自分では戦地にゆく覚悟はないわけで、貧乏人の息子を兵士に仕立て上げるためには、平和のための「聖戦」ということにして、「愛国心」教育するしかなくなるのだ。日本会議と「つくる会」が仲良しなのには、ちゃんと理由がある。

カネのために、自国民のいのちまで売るヤツがクジラ、じゃなくて、イルカって?チャリティで寄付をするようなお金持ちの中にだって、その手の人種が混じっていると思うね。トンデモ発言、と思うだろうか。でも、今の体制の仕組みが崩壊したら、その財産ばかりか、名声までも一挙に失ってしまう名家が、アメリカやニッポンには、けっこう存在してるみたい。彼ら必死なんですね。

人知れず暗躍する日本会議なる右翼組織。その会長の三好達は、元最高裁長官だ。この事実は何を意味するか。ニッポンでは、政界のみならず、司法までもが、右翼に支配されているということ。

「君が代」問題に無関心のまま、NHK紅白の「不健全な」パフォーマンスに苦情を申し立てる、健全な国民のみなさま。あなたがたを右翼だとは、ぼくは決めつけはしないけれど、このニッポンを支配している特権階級は、あなたがたの一票によって支えられていることは確かです。

今日の音楽 : 伊勢佐木町ブルース
-- by 青江三奈

夢をふりまく、灯がともる ...

25 February 2007

皇国老人


黒川紀章も石原慎太郎も、太平洋戦争が終わったときは、まだローティーンの子どもだった。彼らの世代のニッポン人が天皇教に洗脳されていたのは、当時の大人たちの責任だけれど、棺桶に片足を突っ込んだ状態でも懲りずに皇国老人をやってるようじゃ、彼らを弁護できるのはネット右翼くらいだろう。

黒川や石原のことを右翼と決めつけたら、ホンモノの右翼が怒るかもしれないが、あの手の右翼っぽい連中がいちばん始末が悪いわけで、軍国主義というのは、いつも彼らのような策士が音頭をとるものである。彼らは太鼓を鳴らしながら、何やらきれいごとを唱えるわけだけど、戦場に送られるのはもちろん彼ら自身ではなく、彼らの息子や孫でもなく、「お国のために立派に死になさい」と彼らに叱咤激励される庶民の息子たちである。

今日の音楽 : Masters of War
-- by Bob Dylan

Masters of War の歌詞

24 February 2007

流行について


ハンターの長靴がニッポンの若い女性たちのあいだにも知られているのは、ケイト・モスというスーパーモデルの影響らしいことは、すでに書いたとおりである。そこでぼくは思った。もし、ニッポンの女性週刊誌の記事の中で、ハンターを履いているケイトの写真を解説して、あらまあケイトちゃん、なんてカッコ悪い長靴なんて履いてるの。まるで築地のマグロ商人みたいじゃない。ブーツを履くなら、やっぱグッチくらいにしてくれなきゃ、スーパーモデル台無しよ。スーパーの「ス」は、スグレモノの「ス」でしょ。なんて書いてあったとしたら、世の若い女性たちは、どのように反応しただろう。そんなことを、ぼくは風呂場の椅子で「考える人」ごっこをしながら、思ったわけだ。

実際の記事は、もちろん違っていた。「ケイト・モスの影響で世界中でHUNTERのブーツが売り切れ続出!!」だった。ぼくは街を歩いていても、あまり他人の視線を意識したことはないのだけれど、最近、長靴を履いて歩いていると、特に若い女性の視線をビビビーンと感じることが少なくない。どうも彼女たちは、ぼくの日本人離れした高い鼻ではなく、なんだか下半身を見ているような気がする。下半身にもいろいろあって、もしかして、ぼくの日本人離れした長い足に見とれている可能性もあるけれど、どうやら真実は、ぼくの履いているHUNTERのロゴを見ているということらしい。

というわけで、ニッポンでも当分のあいだ、Hunterの長靴は「スグレモノ」として高く評価されるのだろうけど、流行が去ったときには、また「変な長靴」にもどってしまうに違いない。ぼくなどは、早くそうなってほしいと思うのだけど。

アメリカの大統領もニッポンの総理大臣もトーキョーの知事も、みーんなマスコミのヤラセでその地位を得るみたいだから、このヒト社会ってのは、どこもかしこもヴァーチャルになっているんだなあ、と思う今日この頃、みなさん、風呂に入ってますか?

今日の音楽 : Raindrops Keep Falling on my Head
-- by Al James

Because I'm free ...

22 February 2007

黒川紀章のこと


うちの犬は、岩登りが大好きだ。頂上まで登ると、静かに伏せて、周囲をじっと見つめる。その姿は、どこか星の王子様のように見えることもある。カッコいいと思う。少なくとも、風呂場の椅子で「考える人」のポーズになるぼくの姿よりは。

黒川紀章が都知事選に立候補するというニュースを知って、ぼくはふと思った。石原慎太郎の対立候補のように見せかけておきながら、実は、石原を当選させる策謀じゃなかろうかと。

黒川紀章というのは、しばらく忘れていた名前だけれど、ぼくのブラックリストに載っている名前である。石原と同じく、怪しげな右翼的発言をしていたと記憶している。きっと互いに付き合いもあるはずだ。黒川は石原の評価できる面は引き継ぎたいと言っているらしいが、「君が代」を強制する現在の教育委員会のやり方などは、きっと高く評価しているのじゃないだろうか。

石原の対立候補は、何よりも教育問題において、反右翼の立場に立つ人でなけりゃならない。東京キッドのポッケに夢を入れてくれる人であるべきだ。黒川紀章など、立派なビルディングの設計はできても、人間を育てることのできる人だとは思えない。

彼は本当に知事になるつもりでいるのだろうか。石原慎太郎の対立候補を装いながら、これから立つであろう本当の対立候補に流れる予定の票を可能な限り横取りして、石原を当選させる助っ人役を演じようとしてるのじゃないだろうか。

こんなことを想像するぼくはひねくれ者だって? いいえ、ぼかあただの悪いヤツです。

今夜の音楽 : That's What Friends Are For
-- by Dionne Warwick with Gladys Knight, Stevie Wonder and Elton John

怒りについて


新約聖書のエペソ書に、次のような言葉がある。

 父たちよ、子どもを怒らせてはならない。
 そうでなく、主の教育と訓戒によって育てなさい。

その前に、子どもたちへの教えが書かれてあり、「両親に従いなさい」とか「父と母を敬いなさい」とか、まるで教育勅語のようなことを言ってるじゃないか。今でも教育勅語を支持するニッポン人は、あれのどこが悪いのかというようなことを言う。戦後60年が過ぎても、まだ目の覚めない連中が存在するのだ。「勅語」とは、天皇が臣民に向かって、有無を言わせず従わせようとする言葉だ。その天皇は臣民のために何をしたか。まさか、天皇のおかげで戦争が終わったと、今でも信じる人がいるのだろうか。

いくら良い言葉であっても、それを語る人によっては、どうしても従えない場合がある。父と母を敬えと言われても、できちゃった結婚か何か知らないが、子どもを豆腐か、せいぜいパチンコの玉くらいにしか思っていないような父母を、どうして子どもは信頼できるだろうか。そんな大人を目の前にしたら、むしろ怒るのが普通だと思う。子どもはまだ純粋なのだから。

ニッポンの社会を眺めたとき、尊敬に値しない人間が、ずいぶん高い地位に居座って威張っているのが、あまりにも眼につく。やはり教育勅語の伝統は残っているようだ。安倍総理大臣、石原都知事、このふたりの姿を見ただけで、怒り心頭に発する人こそが、ニッポンを愛する人であり、ニッポンを美しくする人であるにちがいない。

1960年代、ニッポンの学生たちも、そのような醜い大人社会に向かって、大いに怒ったのである。その怒りに応えるどころか、かえって学生たちを悪いヤツに決めつけ、相変わらずノータリンなマスコミの援護によって、自らの地位を確保したのが、戦前から何も変わらないこの国の支配者たちだった。

学生たちがヘルメットをかぶるようになったのは、警官隊の暴力から身を守るためだった。正義の叫びが通じない社会。国家権力ばかりか、マスコミにも、庶民にも。そんな社会で生きる若者たちは、ただあきらめるしかなかったのだろうか。過激な運動に走った連中の責任を、彼らだけに負わせてもいいのだろうか。

 父たちよ、子どもを怒らせてはならない。

ぼくは再び聖書の言葉を思う。そして、このニッポンという国が、いつまでも反聖書的であることを哀しむ。この社会を変えようとして立ち上がった群れの中にさえ、不義への怒りの通じない権力が居座り、その権力を支持するヨイコの目立つことを、ぼくは哀しむ。

今日の音楽 : Colours
-- by Donovan

Freedom is a word I rarely use
Without thinking, oh yeah
Without thinking, mm hmm
Of the time, of the time
When I've been loved

21 February 2007

東京はだれを選ぶべきか


国際的とは、英語を話せるということではない。アメリカ人のように聞き苦しい英語でペラペラとしゃべるニッポン人で、ぼくから思わず「イナカッペ野郎!」とタオルか何かを投げられそうになった人は、それほど珍しくはなかったように思う。

国際的とは、海外生活の経験が豊富であることでもない。海外に生活しながらも、ニッポン人の狭い共同体に閉じこもり、子女を日本人学校に閉じ込め、帰国しても世間から異質に見られないよう絶えず準備している人は珍しくないだろう。

国際的とは、広い心をもつことだと思う。広い心とは、地球人として恥ずかしくない心。残酷なことや卑怯なことを嫌い、時には自分の利益を犠牲にしてでも、困っている人や動物のために行動するような、そんな生き方を可能にしてくれる心。それが広い心であって、そういう心をもつことが、国際的であることになる。地球人の心の基準が美しいものであるなら、きっとそうあるべきだろう。そうでなきゃ、地球はこんなに、豊かないのちに恵まれた惑星のはずがない。

石原慎太郎は、まったく国際的な人ではないと思う。そのような男がニッポンの首都の知事になれたということは、都民がいかに国際的でないかという事実を暴露していることになる。それはそうだろう。今の東京に暮らす人の多くは、仕事や学業のために、地方から移住して来た人たちである。彼らにとって東京とは、古里ではない。東京が沈没しても、彼らには帰る国がある。

東京っ子は、本来、国際的であるはずだ。特に港区のように、昔から西洋の影響を受けている地域はそうだろう。それだけじゃない。東京では江戸時代から、ニッポンのいろんな地方の人々に接する機会が多かったはずだ。東京っ子が、国内の異文化に対しても寛容な傾向があるのは、江戸時代から受け継ぐ伝統じゃないだろうか。

広い心をもつためには、心の中心にしっかりとスジが通っている必要がある。そのときどきの流行に流されることなく、絶対的なプリンシプルに従う覚悟をもっていなくちゃならない。イスラム原理主義だとか、キリスト教原理主義だとかを持ち出して、原理(プリンシプル)を非難する人もいるようだけれど、本当に広い心を実践するためには、何ものにも動じないプリンシプルが必要になるだろう。広い心をもっているように見せかけるだけなら、「寛容」だとか「礼儀」だとか、その程度の単語を連発すればいい。

石原慎太郎が東京の知事になれたのは、東京を古里としない人々の勢力によることは確かだろうけれど、もうひとつ、彼の自己演出、つまり、スジを通す男という脚色が、ホンモノの東京っ子にも魅力的に見えたせいもあるだろう。江戸っ子は、スジを通す人間が好きなのだ。ただ、江戸っ子の弱点は、単純すぎてだまされやすいこと。その弱点をうまく利用して、東京の知事の椅子に居座っているのが、石原慎太郎である。

港区に共産党支持者が多いとすれば、この地域が東京でもひときわ国際的な場所であるだけでなく、きっと江戸っ子のスジを通す気質が残っているせいもあるだろう。ニッポンのふやけた政党群の中にあって、共産党にはスジを通すというイメージはある(もっとも、そのスジに問題を感じる場合もあるにはあるけれど)。知事選で石原慎太郎に勝つために、どのような候補者を立てるべきか。政党の宣伝用ポスターの「スジ」など、石原の芸能プロダクション系「スジ」とたいして変わらない。テレビカメラの回っていない場所でこそスジを通す人間。そのような役者の出現を期待したい。

やはり無名の人では石原の再選になってしまうだろうから、有名人でだれかを立てるとすれば、久米宏くらいになってしまうのだろうか。しかし、彼の場合、喫煙問題などでも妙なスジを通してタバコ飲みを援護していたような印象があった。タバコの有害性に鈍感なのは、ニッポンのテレビ人間の悪いところだし、国際的に見ても遅れているとしかいえない。今でも変わっていないのだろうか。もし久米がタバコをやめていて、民主党などの推薦によらずに単独で立候補し、選挙に余計なカネもかけず孤軍奮闘してくれたら、きっとホンモノの東京っ子は彼のスジを支持するだろうに。

今夜の音楽 : Susie Q
-- by CCR

東京タワーの見える町


戦争で焼け野原となった東京の町に、粗末な家が建ち並び始めた頃、東京タワーがニョキッと現れた。当時の東京っ子たちにとって、あのバカでかいテレビ塔は誇りであったらしい。テレビのある家が近所の憧れであったように。

あれから50年が過ぎた。東京タワーの立っている港区の人口は、戦前の半分になってしまったけれど、この町はずいぶん都会的な姿になったものだと思う。思わず「都会的」という言葉が出たけれど、港区のイメージというのは、東京っ子にとっても、どうやら「都会的」というので意見が一致するらしい。

港区の有名人といえば、今では六本木ヒルズに住むホリエモンになるのだろうか。ぼくの場合、お金持ちですぐ思い出すのは、うちの近所にバカでかい家を建てていた西武の堤家になる。どちらにしても、彼らが港区の代表だとしたら、なんだか情けない気分になってしまうのは、ぼくだけだろうか。

港区のイメージには、「お金持ちの多く住む区」というイメージもあるようだ。たしかに区の税収は相当なものらしく、たとえば、申請すれば子どもの医療費が全額返ってくるなんてのは、財政が豊かでなきゃ不可能だろう。始めこの制度を考案したとき、所得制限をつけるべきだという意見もあったようだけど、それをしたら、港区の場合、多くの家庭が対象外になってしまうということで、結局、金持ちも貧乏人も区別なく、申請すれば平等に子どもの医療費がタダになる仕組みになった。ぼくとしては、イヌの医療費に関しても、なんとかしてほしいと思ってはいるけれど、コドモの医療に関しては、港区は英国並みの福祉を実践しているといえるから、英国バカのBBとしては、お鼻クチュクチュ、じゃなくて、鼻タカダカな気分にもなってしまう。

港区の議員名簿を見ると、ある特徴のあることに気づく。ニッポンの一般的な地方自治体と比較して、共産党の議員数の多いことだ。共産党といえば、その支持者は、教員のようなインテリ層を除けば、どちらかというと、社会的弱者が多いようなイメージはないだろうか。お金持ちの多く住む港区に共産党支持者が多いというのは、何を語っているのだろう。風呂場で考える話題としては、これもけっこう面白いと思う。次の資料を見てほしい。

港区議会・議員名簿

おそらくニッポンの地方自治体の現状は、自民・公明の議員が圧倒的多数派を占め、共産党はといえば、マルクスが天国で貧乏揺すりをするほどに、その存在感が小さいのが普通じゃないだろうか。

いきなりアメリカの話になるけれど、ブッシュの所属する共和党支持者は、軍需産業などに関係する一部の富裕層を除けば、多くは田舎に住む人たちらしい。ぼくはアメリカのことは詳しくないので断定はできないのだけれど、アメリカ人てのは、国際的な感覚に欠ける人が多いように思っている。特に地方に居住する人たちは、アメリカ全土のことにすら関心はなく、ごく狭い地元の三面記事などにしか興味のない人が目立つのじゃないだろうか。一方、反ブッシュの民主党支持者は、ニューヨークのような都会に多いという話を耳にしたことがある。

実は、きょうの話を始めたとき、東京の知事,石原慎太郎のことを書こうと思っていたのだけれど、今は時間がなくなってしまったようだ。

今日の音楽 : Boy From New York City
-- by Janice Sands

20 February 2007

動物警察の話(3)


先日の写真に写っていた白い犬を抱っこしていた女性は、RSPCAのおまわりさん (inspector) である。このような笑顔を見てしまうと、ぼくがイギリス人だったなら、絶対にRSPCAに就職して、彼女の彼氏、じゃなくて、イヌのおまわりさんになっただろうなと思ってしまう。

それはともかく、RSPCAがふつうの警察とちがうのは、彼らインスペクターには動物虐待の犯人を逮捕する権限のないことだ。しかし、警察と協力して犯人を逮捕することは可能であるし、RSPCAとしても個人としても被疑者を告訴することはできる。

RSPCAの活動目的は、悪いヤツを処罰することにあるのじゃなくて、動物虐待などなくなるような社会を目指して、人間を教育することにあるそうだ。ニッポンでは、犬のリードや交通信号の話題でさえ、「法治国家」などという大げさな単語を引っ張り出して議論する人もいるようだけど、この世に社会を良くするものがあるとすれば、法律や規則ではなく、もちろん処罰でもなく、ヒトの人間性を美しくできるような教育になるのじゃないだろうか。ぼくのいう「教育」とは、家庭や学校などで受ける教育だけでなく、自分自身を教育する体験なども含める。

英国のブレア政権は、国内における毛皮工場の全廃を決議した。すでに2000年には、毛皮用の動物飼育を禁じる法律を制定していたが、最近になって、残っていた数カ所の毛皮工場もすべて閉鎖されることになったらしい。これで英国内には毛皮工場が存在しなくなる。ひとつの新しい歴史が始まったのだ。

今から180年前、ひとりのイギリス人代議士リチャード・マーティン (Richard Martin) が動物虐待防止法案を提議した頃、英国内には、動物への虐待を見せ物にするような商売もあった。当時、動物愛護などという考えは、一般のイギリス人にはなかったらしい。それどころか、そんなことを主張する人間は変人と見なされたのだ。当時のイギリス人にとって、動物は人間のための商品にすぎなかった。

マーティンは、人間の食用のために殺される動物たちに同情していたようだ。いくら殺されるとはいえ、できるだけ恐怖や苦痛を与えないようにすべきだし、飼育のやり方にしても、動物たちを惨めな環境に閉じ込めるのは野蛮なことである。彼はそう考えていたにちがいない。彼を中心にして始まったRSPCAの歴史は、イヌのような動物の育て方や社会的な権利に関しても、どれほど貢献したことだろう。

毛皮工場の廃止・キツネ狩りの禁止というような最近の英国内の動きは、明らかに180年前に始まる動物愛護運動の伝統を受け継いでいると思う。金儲けのためには動物を苦しめてもかまわないとする商業主義は、少なくとも英国内では認められない。ニッポンよりよほど自由の国,Great Britain。かの国では、動物を虐待する自由は許されていないのだ。彼らは、たしかに、自由を知っているのだと思う。

ぼくはまたマハトマ・ガンジーの言葉を思い出す。

「国家の偉大さとモラルの発達程度は、その国で動物たちがどう扱われているかを見れば分かる(The greatness of a nation and its moral progress can be judged by the way its animals are treated)」

偉大なる英国。動物愛護の先進国として、その影響が地球全体に広がることを、ぼくは夢見る。

英国風スーツを着た総理大臣が「美しい国」などと叫んでも、国民はいよいよ自由を失い希望を失っていくニッポンの現実。この現実を変えるためには、どこかでニッポンの歴史を新しく始める必要があるだろう。

    ネコを抱くリチャード・マーティン

今日の音楽 : Oh Pretty Woman
-- by Roy Orbison

19 February 2007

音の話


先日、友だちにメールを送ったとき、学生時代に行った(と思っていた)パウル・バドゥラスコダのコンサートの話を書いたのだけど、さっき思い出してみたら、あれはスコダじゃなくて、イェルク・デムスだったような気がしてきた。昔の思い出は、まるで夢のよう。イヌがオオカミになったり、ぼくがジェームズ・ボンドになったり、エレーヌ・グリモーが別れた恋人になったり、ほんと、何がなんだか自分でもあきれてしまう。

パウル・バドゥラスコダの話をしたのは、ベーゼンドルファーのピアノを思っていたからだ。ニッポンでフルコンサートピアノといえば、スタインウェイが有名だと思うけど、ウィーンのピアニストは伝統的にベーゼンドルファーを好むらしい。ジャズを愛したあの異端児フリードリッヒ・グルダもそうだった。

ベーゼンドルファーの音はよく「暗い」と言われるらしい。でも、ぼくはそのように感じたことはないのだ。そこで例によって風呂場で考えてみた。ぼくはアマチュア音楽好きにすぎないから、プロの意見とはかなりちがっているだろうけれど、ベーゼンドルファーの音を「暗い」と感じるのは、スタインウェイやヤマハの音を聴きすぎているせいもあるのじゃないだろうか。

ベーゼンドルファーの生産台数は、非常に少ないという。人気がないから作らないというのじゃなくて、スタインウェイやヤマハのように現代的な生産工程では作っていないからだと思う。今でも昔と変わらず、職人たちが手作りで組み立てているらしい。だから、実際にベーゼンドルファーの音を聴くチャンスは非常に少ないわけで、一般人が体験するピアノの音といえば、スタインウェイだったりヤマハだったりするのだろう。ベーゼンドルファーの音は確かにちがうのだ。そのちがいを「暗い」と表現するのは、何かちがうような気がする。

学生時代から愛用していたスピーカーが老朽化したため、数年前、新しくスピーカーを買う必要があったとき、予算が限られていたので英国製のやつをあきらめて、結局Denonを選んだ。その頃、ぼくは慣れない地方都市に住んでいたので、試聴もせずにネット通販で買ってしまったのだけど、荷物が家に届いてビックリ仰天。日本製だと思っていたら、なんと中国製だったのだ。

もちろん、ぼくはどこかの右翼連中のように、中国人を見下しているわけじゃない。イヌのことで中国を批判するときだって、彼らを同じ人間と信じ、隣人としてつき合っていきたいと願うからこそ批判もするのだ。ちまたに氾濫する中国製の商品に関しても、ぼくはかなり厳しい意見を持っている。ある種の商品には、伝統的な職人のワザが必要じゃないだろうか。スピーカーというのは、単なる機械ではない。音を鳴らす楽器のようなものだと思う。ぼくは決してオーディオマニアじゃないつもりだけれど、ぼくが手にした中国製のDenonは、見た目はカッコ良かったけれども、肝心の音には非常にガックリした。Denonならそこそこの音を鳴らしてくれるだろうと期待していたのに、完璧に裏切られたような気分になったものだ。

そういうわけで、そのスピーカーで音楽を聴くことはほとんどなかった。ここ数年はパソコンに接続しているハーマンカードン製の小さなスピーカーで、それこそ「そこそこ」の音を楽しんでいた。しかし、ついにがまんができず、先日またスピーカーを買ってしまったのだ。今度のもDenon(ぼくは別にDenonかぶれじゃないけど)。ただし今度のは中国製ではなく、made in England と書いてある。

このスピーカーは前のDenonよりもずっと昔に作られたもので、中古で買ったのである。金属部分がところどころ錆びていて、見た目はけっこう年寄りじみている。けれど、音を聴いてビックリ仰天。ものすごく心地よい音を鳴らすのだ。十代の頃、初めてビートルズの英国製レコードを聴いたときのあの感動がよみがえったかのような経験だった。当時、東芝EMIと英国EMIをビートルズのレコードで聴きくらべたとき、英国製の方が圧倒的に良い音だった。これはぼくが英国かぶれだったせいじゃなく、きっとオーディオ専門家も認めるにちがいない。

中国製の商品の質が悪いのは、中国人のせいじゃないだろう。質の良い物よりは、とにかく値段の安い物を大量に作って売りさばこうとする貪欲な企業が、ニッポンなどから中国に進出するからだと思う。Denonがわざわざ英国でスピーカーを作っていた時代とくらべて、今の時代は明らかに文化の質がちがっているようだ。


今日の音楽 : Konzert für Klavier und Orchester Nr.25 - II
-- Friedrich Gulda, New Symphony Orchestra of London

17 February 2007

動物警察の話(2)


去年の夏、RSPCAのサイトを訪ねたら、英国のどこかの町で起きたばかりの、自動車の中で熱中症で死んだ犬の事件を取り上げていた。毎年夏が近づくと、そのようなことが起こらないように警告しているのに、今年もこんな事件があって非常に残念だ。記事を書いた人は最後にそう言っていた。

ニッポンではどうだろうか。こんな事件を新聞かテレビのニュースで見たことのある人がいるだろうか。たぶんそのような経験がないのがふつうだと思う。それじゃ、ニッポンの方が英国よりも犬のいのちを大切にしていることになるだろうか。このクソ暑いニッポンのことだから、毎年、どれほど多くの犬たちが、無責任な飼い主の車内で死んでいることだろう。ヒトとちがって汗をかかないイヌは、ヒトの赤ちゃん以上に熱中症になりやすいという。このようなことをだれが知らせているのだろう。熱中症で死ぬ犬のことを、どこの新聞社が記事にしてくれるだろう。

英国では時に動物虐待のニュースがBBCのようなマスメディアでも取り上げられる。そんなのを見ると、英国人の中にも動物を平気で虐待できる人種の存在する事実を知るわけだけど、そのような現実を切り取って、だから英国の方がニッポンより動物虐待国になるなどと結論づけたら、だれがそんな暴論を信じるだろうか。ところが、意外に一般人の中にも、そのようなマスコミのトリックに気づかない人も少なくないらしい。特に、日頃から英国に対してコンプレックスか何かを抱いているようなニッポン人の中には、それ見たことかと言わんばかりに、そんな記事を根拠に英国を非難する傾向があるようだ。

ニッポンにはRSPCAのような動物警察は存在しない。マスメディアも動物虐待には無関心である。そんな状況で、一般市民が動物虐待の実態を正しく知ることができるだろうか。ぼくは例のニッポンの地方都市で暮らしていたとき、中学生が他人の飼い犬に放火して殺したという事件を、たまたまその地元の人から聞いたことがあるけれど、そのような事件すら地元紙でさえ取り上げていなかった。

ニッポンのニュースの中では、母親がパチンコをしている最中に、赤ちゃんが車内で死んでしまうという事件を何度か見たことがある。英国では、ぼくが知る限り、その種の記事を見たことがない。まさか英国のマスコミは動物虐待にばかり関心があって、ヒトの虐待には無関心であるわけじゃないと思う。何がちがうのだろうか。

マスコミはその国の市民のコモンセンスを反映していると思う。市民が動物虐待に無関心であれば、読者の受けをねらう傾向のあるマスコミもまた無関心になるだろう。しかし、何よりも問題なのは、虐待に関心があるような態度を見せるニッポン人の中にさえ、現実をしかと見定めていない人の目立つことじゃないだろうか。ぼくはそう感じている。

英国では、ヒトのことでも、動物のことでも、時に信じられないほどに残虐な事件がニュースになる。かつて英国空軍の将軍がぼくに言ったとおり、残酷な人間はどこの国にもいるのだ。しかし、ニッポンの問題は、ごくふつうの一般人が残酷な現実に無関心すぎることじゃないだろうか。ぼくはそのような一般人にこそ大きな責任があると思う。たとえ彼らが自らの手では虐待行為をすることがなかったとしても。(さらにつづく)


昼前の音楽 : Don't Be Cruel
-- by Jamie Aaron Kelley

動物警察の話(1)


ニッポンの警察の歴史を眺めると、警察ってのはそう簡単に信頼できないような気がしてくる。これも日本人として情けない限りだが、ぼくには心だけじゃなく眼もあり鼻もあり口もあるから、国粋主義者のように、何がなんでも一直線にニッポンをたたえることなど不可能なわけで、日本を愛するからこそ余計に情けなくもなるのだ。

だからぼくは基本的に警察(正確には警察権力)が嫌いだ。近所の交番のおまわりさんには、性格のいい人も目立つようには見えたけれど、警察というものは軍隊と同じで、上からの命令には絶対に服従しなけりゃならないから、いい人がいつも正義の味方でいられるとは限らない。どんなに「いい人」であっても、上の命令によっては、正義の味方を逮捕することもあるだろうし、本当に悪いヤツを知っていても、見て見ぬ振りをすることだってあるだろう。

ニッポンの警察の歴史は、市民のための警察ではなく、国家権力のための警察として始まった。そして、その国家権力というのは、国民の思想や信条に関しても、余計な口出しをするものだったから、警察も軍隊と一緒になってヤクザのように威張っていたのが、たかだか60年ほど前までのニッポンの姿であった。

太平洋戦争が終わって、憲法が変わってから、この国も近代国家並みの風貌をもつようになったけれど、それはあくまでも風貌であって、総理大臣がいくら英国ふうのスーツを着てもどうしようもないように、現在の警察にしても、中味をさらけ出したら、ビックリ仰天どころの騒ぎじゃなくなるはずだし、いつまたおかしなスイッチが入れられて、戦前のように市民をいじめるようになるとも限らない。近所の「いい人」っぽいおまわりさんも、何をするか知れたものじゃないから、いつまでも雑煮を食べている場合じゃあない。「いい人」が歴史を醜くするというのは、そんなに珍しいことじゃないように思う。

あれ? きょうの題名は「動物警察の話」であった。ぼくの話は、政治も経済も教育も、どんなテーマでも一直線に動物の話に変わってしまう傾向があるのに、きょうは少し変だ。やはり雑煮の食べ過ぎかな。とにかく本論に入ろう。

英国には、180年前からRSPCA(王立動物虐待防止協会)というのがあって、このブログのおすすめリンクでも紹介しているけれど、この組織は、いわば「動物警察」と呼んでもいい活動をしている。RSPCAにはinspectorと呼ばれるスタッフがいて、この単語は警察の場合「警部」の意味になることから想像できるように、彼らは動物愛護のために警察官のように働いているのだ。

RSPCAに連絡を取る電話番号0870 55 55 999は、cruelty line(虐待通報)と呼ばれる。999という番号は、イギリス人にとっては、ニッポンの110と119を合体させたような番号になり、かの国では警察も消防も救急もみな999でつながる。だから、RSPCAの番号は、少しでも動物愛護に関心のあるイギリス人ならきっと覚えているはずの番号で、実際、たとえば真夏の車内に置き去りにされた犬を発見したりしても、それを通報して犬のいのちを守ろうとする市民は珍しくないだろう。ニッポンのようにただ犬のリードをしていないだけで警察に通報するような人種がいたとすれば、いくら変人には寛容な英国ではあっても、警察にはもちろん一般市民からも相手にされないにちがいない。(つづく)


早朝の音楽 : The Laughing Policeman

☆ 英国の子どもならたいてい知っている古い歌です。

I know a fat ole policeman
He’s always on our street
A fat old, jolly red-faced man
He really is a treat
He’s too fine for a policeman
He’s never known to frown
And everybody says
He is the happiest man in town

He laughs upon point duty
He laughs upon his beat
He laughs at everybody
When he’s walking in the street
He never can stop laughing
He says he'd never tried
But once he did arrest a man
And laughed until he cried

Oh, his jolly face had wrinkled
And then he shut his eyes
He opened his great mouth
It was a wondrous size
He said, I must arrest you
He didn't know what for
And then he started laughing
Until he cracked his jaw

So if you chance to meet him
While walking round the town
Just shake him by his ole fat hand
And give him have a crown
His eyes beam and sparkle
He'll gurgle with delight
And then you’ll start him laughing
With all his blessed might

15 February 2007

飼い犬に咬まれる


世界で最初に顔面移植手術に成功した国はフランスで、手術を受けたのはイザベル・ディノワールという名の女性だった。ぼくがこのニュースを初めてBBCで見たとき、その女性の顔が犬に咬まれていたと書いてあったので、きっと狂犬に襲われたのだろうくらいに思ったものだ。しかし、そのあとで知ったのは驚くべき事実で、なんとその犬は彼女の愛犬であり、しかも睡眠中に襲われたという。ぼくはこれを知って、もし本当にそんなことがあり得るとすれば、何かよほどの理由があったにちがいないと思った。

そこでぼくはメンバーになっている英国の愛犬家グループに投稿して、真相を知ろうとした。するとすぐに返事があって、イザベルという女性は、当時、精神状態が正常ではなく、自殺願望の傾向があったらしいという。事実はハッキリと公表されていないらしいけれど、おそらく睡眠薬で自殺を図ったのじゃないか。飼い主のからだの異常さに気づいた犬は、なんとか眼を覚まさせようとしているうちにパニック状態になり、思わず顔面を強く咬むようなことをしたのじゃないだろうか。返事を書いてくれたメンバーの短い文面から、ぼくはそのようなことを読み取った。

議論マニアはよく「根拠」を要求するけれど、ぼくが今までの人生で知ったイヌという動物の性質を考えると、寝ている飼い主の顔に咬みつくというようなことは、襲撃以外の何か特殊な理由がなければ想像もできないことなのだ。ニッポンのイヌ嫌いの人なら、そんなものは根拠にならないと言うかもしれないけれど。

その犬は刹処分されたそうだ。ぼくに返事を書いてくれたイギリス人は、殺された犬に深く同情していた。ぼくもこんな事実を知ると、たまらなく哀しくなる。アガサ・クリスティの推理小説の中に、Dumb Witness(もの言えぬ証人)というのがあって、名探偵ポワロが犬を頼りに事件を解決する。それを思い出しながら、ぼくはこんなふうに返信した。

犬が真実を話すということに気づかない人が多いのはとても残念です。フランス警察は一刻も早くポワロを雇うべきです。

参考:世界初の顔面移植手術に成功 フランス

今朝の音楽 : Sleep Little Child

14 February 2007

高慢と偏見


きのう話した愛犬家グループの話の続きをしよう。

管理人に追放されてしまった人の筆名は、たしかMt.Dogだったと思う。愛犬と一緒に山登りを楽しんでいる人のようだった。あの愛犬家グループでは、どうやらぼくよりかなり前からメンバーになっていたらしい。過去に何かあったのだろう。しばらく投稿は控えていたのに、ぼくの出現がきっかけでまた意見を述べ始めたようだった。

ぼくの考えでは、Mt.Dogさんのような人は、リアルの世界では紳士的でマナーの良い人であり、そのような人を怒らせるようなニッポンの現実(リアルにもヴァーチャルにも共通する現実)こそが問題だと思っている。

彼がグループから追い出されたとき、ぼくはすぐに投稿し、Mt.Dogさんの気持が理解できること、そして、彼がどんなに無礼な人に見えたとしても、リアルの世界では彼のような人こそが犬を幸せにできるにちがいないことなどを、公開の場で管理人に向かって書いた。それから、こうも言ったと思う。ぼくに対して無礼なことを書く人がいても、どうか追放しないでくださいと。

その直後だったけれど、メンバーになったばかりの人が、ぼくの投稿に不快感を示し、もっと楽しい場所だと期待していたのにガッカリしたというような意見を書いてよこした。そのころ、ぼくは「世田谷美人」と自称する人と、リード問題で論争中だった。そして、小型犬の飼い主にありがちな大型犬への偏見を批判しているところだった。あの新参者も、ニッポンでは珍しい種類の小型犬の飼い主だった。

当時の細かい成りゆきはもう覚えていない。ただ、管理人も常連も、犬の社会的な幸福よりは世間体や自分のプライドなどにこだわる体質のあることを知って、ほとほとあきれ果ててしまい、率直に思っていることをぶちまけたことは確かだと思う。そして、とうとうぼく自身も破門されてしまったのだ。

グループの管理方針が気に入らなきゃ、自主的にそこを出るなり自分でグループを作るなりすればいい、と主張する人がいる。しかし、愛犬家グループを名乗るからには、社会的な責任があるのじゃないだろうか。その責任を、ただニッポンの特殊な現状に迎合する程度で果たしたつもりになっていては、そのうちに取り返しのつかないことになるだろう。そうなる前に、なんとか問題の本質を見きわめて、社会を改革する必要があるのであり、そのためには、だれよりも愛犬家を自認する人間の常識が変わる必要がある。しかし、ニッポンの現状では、そのような社会的責任よりも、管理人のプライドの方が優先されるらしい。

参考:Mt.Dogさんのホームページ

☆ 初めて読む人は、Mt.Dogさんの意見の中に、やや攻撃的な調子を感じ取るかもしれないですね。彼は東京在住のようですが、ぼくの地元とはだいぶ社会的環境がちがうようです。地方都市で生活した経験から、ぼくには彼のやりきれない心中が理解できるような気がします。

今日の音楽 : A World Without Love
-- by Peter & Gordon

☆ これはジョン・レノンとポール・マッカートニーが作った曲ですが、ビートルズ自身は録音していません。無名だったPeter & Gordonは1964年2月にこの曲を発表し、4月にはイギリスでシングル・チャート1位になってます。

A World Without Love の歌詞

13 February 2007

Arrowの思い出


ニッポンの現状では犬恐怖症になる人が多い。これは事実である。だから、ある程度はそのような人々を気遣う配慮が必要だろう。しかし、有無を言わせず犬の自由を認めない社会では、イヌへの誤解が常識のように通用し、イヌばかりかヒトをも不幸にするにちがいない。

ぼくの人生最初の愛犬はジャーマン・シェパードだった。あまりにも小さい頃の思い出だから、ハッキリ覚えていないのだけれど、たしかクリスマスか誕生日のプレゼントだったと思う。今でも覚えているのは、箱の中に小さな黒い子犬を見つけたとき、飛び上がるほどにうれしく感じたこと。あのときの自分の笑顔が見えるような気がする。

あの犬はArrowという名前だった。思い出が少ないのは、一緒に過ごした月日が短かったからだ。ある日、近所の公園かどこかで散歩していたとき、Arrowに襲われそうになったという人から苦情があったらしく、都会でジャーマン・シェパードを育てるのは難しいと考えた両親は、Arrowを田舎の牧場主に譲ることに決めたのだった。ぼくをどう説得したのかは覚えていない。ただ、ぼくもArrowが田舎で自由に生きるのなら、きっと楽しいだろうと思ったのかもしれない。

こういうわけだから、Arrowの思い出は少ないのだ。たいてい犬との思い出は楽しいものが多いはずだけど、Arrowの場合は、別れのときの悲しい思い出ばかりが残っている。ぼくは父の車の後部座席からうしろを振り返った。Arrowが牧場主の隣りにぽつんと座っていて、こちらをじっと見ていた。遠ざかる車をいつまでも、じっと見ていた。

家のアルバムに残っているArrowの写真を見ると、近所の小さな子どもたちに向かって「一緒に遊ぼうよ」と微笑んでいる。まだ子犬ではあっても、大きな犬であることは確かだし、ニッポンでは警察犬くらいのイメージしかないジャーマン・シェパードだ。遊ぼうとして近づいても、こわがられて襲われたと勘違いする人もいたのだろう。ぼくは例の地方都市で、犬同士が楽しく遊んでいるのに、喧嘩していると誤解する飼い主を何人も見たことがある。

ニッポンでは盲導犬というと、黄色のラブラドールと、判で押したように決まっているらしい。黒のラブラドールだと、こわがる人がいるとか、ゴールデンだと毛が長くて世話が大変だとか、きっとその程度の考えなのだろう。しかし、世界で最初の盲導犬は、ジャーマン・シェパードだった。第一次世界大戦で負傷し眼が不自由になった兵士のためにドイツ人が考え出したことらしい。今でも、ヨーロッパでは、盲導犬として活躍するジャーマン・シェパードは珍しくない。

Arrowとの別れから数年が過ぎても、ぼくは思い出すたびにつらい気持になった。今ごろどうしているだろうか。自由に楽しく遊んでいるだろうか。会いに行きたいな。そんなことばかり考えていた。でも、一度も両親にArrowに会いたいとは言わなかった。会えば必ずまた別れがある。ぼくがつらいというより、Arrowを二度と悲しませたくなかった。ぼくのことを忘れてくれた方がいいんだと、そう自分に言い聞かせていたようだ。

あれはぼくが中学生になっていた頃だったろうか。「牧場からArrowが死んだ知らせが届いた」。そう父がぽつんと言った。ぼくは何も言わなかった。たぶん風呂場かどこかでひとりになったとき、何かを考えていたかもしれない。Arrowの死を知らせてくれた牧場主は、きっとArrowのことを最後まで大切にしてくれたにちがいない。きっとそんなことを考えていたのだと思う。

今夜の音楽 : I Don't Want To Talk About It
-- by Rod Stewart

嫌煙権と嫌犬権


ぼくが登録メンバーとして参加していたニッポンのネット愛犬家グループの管理人は、犬のリードのテーマでタバコを例にとり、タバコの嫌いな人に気配りするように、世間には犬嫌いもいるのだから、いつもリードをするのが当然だと言っていた。それを読んで、ぼくは非常に驚いたのだけど、ぼくが返事を書く前に別のメンバーが反論して、管理人はそれが気に入らなかったのか、即座に彼を追放してしまった。

彼の場合は、反論というよりも、あきれ果てたという単刀直入な感想にすぎなかった。こんなことを言われれば、ふつうは気分が悪くなるだろう。しかし、問題は、どうして彼が管理人の発言にあきれ果てたのかということだ。ぼくも同じようにあきれ果てたのだ。

タバコはJTがどうがんばっても、有害物質であることに変わりはない。しかし、イヌは人間の教育の仕方によって、全然ちがう動物になる。イヌの遺伝子には、ヒトと平和に共存できるような仕組みが備わっているのに、ニッポンのようにイヌに生活権を認めない環境では、彼らの能力が生かされず、いや、生かされないどころか、かえってイヌ本来の穏やかな性質が失われて、ヒト嫌い・イヌ嫌いの危険な動物になってしまう。そのようなイヌが目立つ現状を、まずヒトが反省すべきなのに、ただイヌを悪者にするってのは、ニッポンの政界や財界やマスコミを見れば分かるように、いつも最高責任者を曖昧にするこの国の伝統らしいけれど、民衆もそれに惑わされていていいものだろうか。

ぼくはあの愛犬家グループで、イヌをリード無しで教育することの重要性を、論理的に科学的に経験的に語っていた。それを読んでいたはずの管理人が、タバコなどを例に出してきたのだから、ぼくは本当にビックリしてしまった。以来、ビックリ仰天癖がついてしまったのだ。

あの管理人は、自分のホームページで動物愛護のことも語っていたし、時には掲示板でも、具体的な運動を紹介していたりもしていた。ニッポンにはどうして不幸な犬が多いのか。囚人のように鎖につながれたまま、ヒトとの自由な交際が許されていない彼らが、どうしてヒトの親友になることができるだろう。また、ヒトはどうしてイヌを親友として認めることができるだろう。飼い主も、自分の犬でさえ信用できないのだ。いつもリードで自由を奪っているのだから、そんな状態で信頼関係が生まれるはずはない。ニッポンに不幸な犬が多い原因はそこにあると、ぼくは考えている。

イヌはヒトの親友である。これは英国人にはコモンセンスとして通用する。なぜだろう。彼らはイヌを知っているからだと思う。もし天国を信じるとしたら、イヌこそがそこに入るにふさわしいと言った西洋人がいる。これも英国人には通じるだろう。ニッポン人ならどうだろうか。近所の犬から、そばを通るだけで鬼畜米英のごとく吠えられる経験をしていては、とてもじゃないがイヌを親友とは思えないし、天国を信じることもできなくなるだろう。問題は、そのような主観を、そのまま放置しておいてもいいのかということだ。飼い主でさえ犬のいのちを粗末にするニッポンの現状を、そのまま放置しておいてもいいのだろうか。これはニッポン人の人間性に関わる重大な問題だと、ぼくは思う。

今日の音楽 : Amazing Grace

12 February 2007

ラーメンの横には

「子犬の横には、あなた、あなた、あなたがいてほしい」と歌った女性がいた。なぜこんな歌を思い出したのだろう。

ことの始まりは、NHK FMの番組「私の名盤コレクション」に出演していた黒須洋壬のことを調べていたら、寺田恵子のブログにたどり着き、そこでラーメンの写真を見たことにある。それはバカでかいどんぶりのラーメンで、そのでかさ加減を伝えたかったのか、どんぶりの横にマルボロの箱が置いてあった。寺田ファンのひとりが、「姐さんの吸ってる煙草の銘柄が分かって嬉しかったりして」とかコメントしていた。

寺田恵子がボーカルをしているSHOW-YAには、今の今までまったく興味を持ったことはないけれど、イメージとして、たしかにタバコなどをスパスパ吸ってそうな女性バンドの雰囲気は感じる。しかし、ぼくが驚くのは、自分のブログでタバコの写真などを平気で公開できるその精神である。ぼくは老人党掲示板でも平気で「オナラ」とか書いたりしたけれど、自分のブログで我がオナラの音をmp3ファイルにして「今日のオナラ」と名付けて公開するほど大胆にはなれない。ぼくのオナラの音で病気になる人はいないと思うけれど。

まさかぼくのブログを寺田ファンが読んでいるとは想像もできないけれど、もしそういうことがあったら、きょうの話はきっと不愉快に思うだろうか。大好きな人を批判されたら面白く思わないという気持は理解できなくもない。でも、ほんとうに大好きな人なら、からだに悪いことをやめてほしいと願うはずじゃないの?また、セレブの立場に立つなら、ほんとうにファンのことを大切に思っているなら、タバコなど吸わない大人になってほしいと願うはずじゃないの?それとも、ファンもセレブも、タバコの有害性を知らないわけ?

そうなると、やはりNHK始めニッポンのマスメディアの社会的責任が問題になってくる。しかし、いまだに元号を使用してニュースを流しているようなNHKには、ぼくの問題意識は通じないだろうか。

参考:大きなラーメンの横には、小さなマルボロ

今朝の音楽 : Yesterday Once More
-- The Carpenters

When I was young
I'd listen to the radio
Waiting for my favourite songs
When they played I'd sing along
It made me smile

Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they'd gone
But they're back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well

11 February 2007

セレブとは


ポール・マッカートニーは、若い頃はタバコを吸っていたけれど、今は若い人への悪影響を心配して、アルバム Abbey Road のジャケット写真を修正し、手に持っているタバコを消すことまで考えている。タバコ産業は、ビートルズが活躍していた1960年代にはすでに喫煙の重大な有害性に関する科学的事実を知っていたが、それを自主的に公表しようとはしなかった。だから、多くの人は、コーヒーを飲むようなつもりでタバコを吸っていたのだろう。

しかし、現代は事情がちがう。ニッポンのJTは今でも事実をハッキリ公表しようとしないけれど、英国のように人権意識の進んだ国では、BBCなどのマスメディアが率先して喫煙の有害性を国民に知らせてきたし、タバコ会社も、パッケージに Smoking kills と印刷するほどに有害性を認めている。

ポール・マッカートニーがタバコをやめたのは、自分の健康を心配したというより、きっと有名人としての社会的責任を感じていたからだろう。そうでなきゃ、ビートルズの写真の中でも格別に有名な Abbey Road のジャケットを修正することまで考えつかなかったはずだ。

ケイト・モスの恋人は現代っ子として英国に育ち、子どもの頃からタバコの有害性の事実を知っていたはずだ。それでも堂々と喫煙し、ロックを歌っている。きっと彼のファンにもタバコ飲みが多いのだろう。恋人のスーパーモデルも愛煙家なのだから。

ニッポンでは、「セレブ」という言葉を例によってマスメディアが間違った意味合いではやらせたようだが、英語で celeb(celebrityの略)といえば、「有名人」の意味しかない。有名人が金持ちである可能性は高いかもしれないけれど、借金で今にも家を失いそうな有名人だっているだろう。ヨーロッパのセレブには、有名人であるがゆえの社会的責任を感じている人が、昔から目立つように思う。39歳にして映画の世界から引退したBB(ブリジット・バルドー)もそうだろう。そして、ヨーロッパのセレブには、動物愛護運動にお金を寄付する人が少なくないようだ。

西洋人に動物のことで批判されると、ここはニッポンだとか、クジラを食うのは伝統文化だとか言って、居直る人がいるらしい。しかし、セレブの人間性を比較しただけでも、西洋の方がずっと上等に思うのは、ぼくが英国製の上等な長靴を愛用していることと関係しているのかもしれないと思う今日このごろ、みなさん、いかがお過ごしですか。

参考:攻撃されるBB

今朝の音楽 : Nobody Does It Better
-- by Carly Simon

10 February 2007

動物愛護運動とは


クジラの生活は、ふつうのニッポン人の知らない世界である。クジラは、イヌやネコとはちがって、日常的に見ることのできない動物だ。イヌやネコのことでさえ、そのいのちを尊ぶことのできないニッポン人はたくさんいる。イヌ好きやネコ好きの人間なら、どこの国でも珍しくはないだろう。しかし、彼らでさえ、自分に直接関係する動物のことくらいしか関心がなかったりする。

子猫殺しのニュースを聞けば、腹を立てるネコ好きは多いだろう。しかし、腹を立てるだけでは何も始まらないのだ。全く無反応の人間よりは、腹を立てる人の方がいい。しかし、毛皮やクジラのことになると、無関心どころか、かえって動物愛護運動家を非難したりするネコ好きやイヌ好きがニッポンでは目立つようだ。彼らは、イヌやネコも毛皮にするために殺されている事実を知っているのだろうか。知ろうとしたことがあるのだろうか。イヌやネコのいのちも、クジラのいのちと関係することを、風呂場で考えたことがあるだろうか。

ニッポンの掲示板を見ていていつも思うことがある。平和だとか、自由だとか、著作権だとか、なんだか近代市民的なテーマがずらりと並んではいても、議論のための議論みたいなことが多く、そればかりか、本質的な問題提起に茶々を入れるような邪魔が非常に目立つことだ。たとえば、動物愛護運動の掲示板で、クジラなど助ける必要はないという意見をいう人間が威張っていたらどうなるだろうか。動物愛護運動は、具体的に動物を守るために何をすればいいかを考え発言し行動すべき運動であるはずだ。それに反対する運動なら星の数ほどあるし、多くの無関心な人々は、そのような運動の味方になっているじゃないか。わざわざ動物愛護運動の掲示板にまで登場して邪魔をする必要はないはずだ。

ニッポンの動物愛護家の中には、ぼくから見ればポーズだけの中途半端な人間が目立ち、犬のリードのテーマでさえ、イヌ嫌いもいるからとか、世間の評価を気にする人が多すぎるように思う。きわめて日本的なマナー観の常識に縛られている人が目立ちすぎるのだ。勝手に自分の常識に閉じこもっているだけならいいのだけれど、その種の人間に限って余計な口出しをする傾向があり、我こそは常識人とばかりに、動物愛護運動に水をさす。これでは、いつまでも動物は不幸なままだ。

ニッポン人は、かわいいとか、かわいそうだとか、自分の感情レベルでいろいろなことを感じてはいても、具体的に社会を変えていこうという発言と行動に欠けているように思う。そればかりか、実際には社会を変えようとする言動の邪魔をしているくせに、自分は平和運動をしているつもりになっている人が目立ちすぎる。愛犬家を自認しながらも、イヌの肉を食べる人間を支持するのが良識人のあり方だと信じている人とか、クリスチャンを自認しながら、好戦的なニッポンの右翼と区別のつかないような人だとか。

多くの人がクジラの生活を知らなくても、クジラが生きていて、彼らが平和に生活しているという事実は変わらない。動物愛護運動は、かわいいとか、かわいそうだとか、そのような感情レベルの話じゃないのだ。この宇宙でたったひとつだけのこの地球という場所で、動物たちと共存するために人間はどう生きるべきかというテーマなのだ。


今夜の音楽 : Cold Cold Heart
-- by Norah Jones

クジラはお魚じゃないぞ


現代の地球人の中に、天動説を信じている人がいても、かまわない。白鳥とアヒルの区別がつかない人がいても、かまわない。しかし、クジラとマグロの区別がつかない人がいたら、天国か地獄かどこかへ行く前に、まず事実を知るべきだと思う。

クジラが哺乳類であり、高等な動物であるという事実を指摘すると、牛や豚を食う西洋人は黙ってろみたいなことを叫んで、急に怒り始めるニッポン人がいる。ずっと昔、まだインターネットが普及していなかった頃、ニッポンのニュースグループで思わず捕鯨問題に参加したとき、西洋人と勘違いされたぼくは、四方八方から大日本帝国軍の総攻撃を受けた経験がある。そのときのぼくのペンネームは、ふつうのニッポン人には知られていないイギリス小説に登場する探偵の名前だったし、メールアドレスに uk がついていたので、イギリス人とまちがえられたようだ。

上の写真に写っているのは、ロンドンのテムズ川に迷い込んだクジラを救助しようとしているイギリス人たちである。この救助の模様はテレビでも放映され、現場には多くの人々が集まり、心配そうな表情で見守っていた。どうしてイギリス人は、これほどまでにクジラのいのちを尊ぶのだろうか。それは彼らがクジラのことを知っているからだと思う。困っているクジラは助けるべきだと、多くのイギリス人は思うにちがいない。ちょうど困っている人を助けるべきだと思うように。

ニッポンには、今でもクジラの料理を出す店が存在する。クジラを単なる大きな魚としか考えていなかった大昔のニッポン人の伝統を守っているつもりかもしれないが、グルメ大国ニッポンで、今クジラを食べなきゃ生きていけないような人が存在するのだろうか。

クジラはヒトと同じように肺で呼吸するから、時々海面に姿を現す必要がある。それを狙って狩りをするのが、捕鯨船だ。こういうやり方自体、ぼくには卑怯に思える。それに、あのバカでかいからだだから、もりを撃っても即死するということはあり得ないだろう。ヒトと同じように恐怖や痛みを感じるクジラは、ヒトの圧倒的な権力の前になす術もなく、生きたまま船に引き上げられる。その現場を実際に見たなら、なんとかしてクジラを助けようと願うのが、人間じゃないのか。海にひとり残された子クジラのことを哀れにおもうのが、人間じゃないのか。ヒトが高等な動物だとしたら、きっとそうあるべきだと思う。

参考:仲の良いクジラの親子

今朝の音楽 : Ne me laisse pas l'aimer
-- by Brigitte Bardot

9 February 2007

今のBBは美しい

今朝、「きっこの日記」に関連して、BBことブリジット・バルドーのことを書いたら、ある人経由から「きっこの日記」の中にBBについての記述があるのを知った。下のリンクをクリックしてほしい。

きっこの日記(2002年10月12日)

きっこは、坂東眞砂子の「子猫殺し」事件について、猛烈に怒っていた。たまたまそれを読んだぼくは、動物愛護にも関心のある人のように思えて、うれしく感じたものだ。ところが、毛皮とかクジラのことになると、彼女の動物愛護観はまったくちがってくるらしい。4年以上前の話だから、もしかすると、現在のきっこはちがう動物観をもっているかもしれないけれど、ぼくはニッポンのネット愛犬家グループでも、同じような感性の動物愛護家たちを見てきたので、「オー、きっこよ、お前もか!」と、やや失望感を味わっていることは確かだ。この種の失望感は、動物の話に限らず、ニッポンではよく経験することで、このテーマは風呂場で「考える人」に変身してから、じっくり取り組む必要がありそうだ。

さらにタバコの話


「きっこの日記」を読んでいたら、きっことぼくとに共通点があることに気づいた。「じゃなくて、...」と書いてふざけるところとか、ふつう漢字で書くような言葉をカタカナにするところとか。まさかきっこがぼくの真似をしたとは思えないけれど、きのうぼくが「...今日このごろ、みなさん、お元気ですか」と書いたのは、きっこを真似たつもりだった。しかし、ホンモノのきっこの場合は、「お元気ですか」じゃなくて、「いかがお過ごしですか」と書いてるのを、さっき気づいた。

彼女とぼくとで共通するようでかなりちがうところは、互いにクリスチャンということになってるけれど、彼女の場合は、聖書をそれほど信頼してはいないらしいこと。これは大きなちがいになるだろう。それと、彼女はタバコを吸うらしいけれど、ぼくは吸わないばかりか、タバコ産業を軍国主義ほどにも敵視していること。それと何よりもちがっているのは、彼女のブログは有名だけど、ぼくのはゼーンゼン知られていないこと。

ぼくがもしきっこの友だちだったなら、何はおいても、タバコはやめたほうがいいぜと言うだろうな。今や彼女は有名人だからね。社会のためには自分の好みを犠牲にすることも必要じゃないだろうか。「きっこだって吸ってるんだから」ってな具合に、世の若いニコチン中毒者を安心させちゃあ、JTは喜んでも、JR、じゃなくて、JJ、じゃなくて、BBは悲しむよきっと。BBとは、もちろん、ブリジット・バルドーのことだけど。

参考:タバコとは直接関係ないけれど、
BBも応援!「動物実験No!」メーカー化粧品

早朝の音楽 : How Can I Tell Her
-- by Lobo

スッパモデル


直感というものがある。当たらないこともあるけれど、細木数子の占いよりはずっと当たることが多い。

ぼくが初めてケイト・モスを見たとき、彼女のどこが美しいのかさっぱり理解できなかった。確かにからだがスリムで、スリムであるというのは、英国では上流階級っぽいイメージになるけれど、ケイト・モスに金持ちのにおいは感じても、育ちの良さは感じなかった。

きっと彼女はタバコを吸うだろうなと、ぼくは思った。後進国ニッポンでは、いまだに喫煙をカッコいいと勘違いしている女性も少なくないようだけど、今どきタバコを吸っていたら、英国では非常にイメージが悪くなるのがふつうだ。いわゆるワルのイメージを演出するには、タバコを吸うとそれらしく仕上がるかもしれないし、映画 About A Boy の中で、ヒュー・グラントがタバコを吸っていたのは、ただ女のからだを目当てに生きているようなダメ男を演じる役としては、あれで良かったのだろう。

ケイト・モスに憧れる人や、愛煙家からすれば、きょうのぼくの話は腹立たしく思うかもしれない。それに、根拠が好きな議論マニアは、ここでも根拠を要求するかもしれない。そこで先ほどネットで探してみたら、イメージどおりの写真を発見した。それが上に貼り付けた写真である。直感したとおり、タバコを吸う女性だった。

右にいる男は、ケイトが交際中のロックシンガー(ピート・ドハーティ)らしい。この男は、歩きながらタバコを口にくわえていたりして、ニッポンの規則大好き人間の正体をさらけ出したようなイメージのある男だ。タバコだけじゃなく、ヘロインやコカインも好きらしい。この種の男とつき合っていれば、女も似たようになるのがふつうで、ケイトもとうとうデイリー・ミラー紙のカメラマンによってコカインを吸ってる現場写真を撮られてしまったようだ。

スーパーモデルとはいうけれど、ただ流行のものを身につけて、からだがスリムで、見た目がカッコいいというだけじゃ、美しいとはいえないのじゃないだろうか。それに、恋人同士が本当に愛し合っているのなら、タバコなどやめなさいとアドバイスするのが愛じゃないのだろうか。世の不良諸君から見れば、ぼくのこんな意見は青臭く、いい子ぶっているように感じるかもしれないけれど、タバコなどに飲まれてしまっている人たちを見ると、タバコ産業の戦略にまんまとだまされている「いい人」のイメージしか、ぼくには浮かばないのだ。


深夜の音楽 : You're Beautiful
-- by James Blunt

8 February 2007

Hunterの話


Hunterの長靴が、ニッポンの女性にも注目されていたとは、最近まで知らなかった。ケイト・モスとかステラ・マッカートニーとかの影響らしいのだけど、ぼくだってステラがポールの娘であることくらいなら知ってはいたし、そりゃイギリス人なら女性でもHunterの長靴を愛用していて何も不思議はないのだけれど、若い頃から流行には無頓着に生きているぼくとしては、やや戸惑っている今日このごろ、みなさん、お元気ですか。

しかし、Hunterの長靴(イギリス人は wellingtons と呼ぶ人が多い)が優れていることは確かで、これは体験してみれば、その履き心地の良さに、だれもが驚くにちがいない。まるでスキーブーツのように足にしっかりフィットして、とても歩きやすいのだ。

ただ、ぼくは昔から、Hunterという名前が気に入らなかった。ぼくの正体を知る人には、その理由を説明するまでもないだろう。BBCのディスカッション・グループでもチャールズ皇太子のキツネ狩りを批判したことのあるBBである。Hunterの魅力に背を向けて、一時はBarbourを履いていたけれど、同じくスコットランド製でも、Hunterの履き心地にはとてもかなわなかった。

先日、ニッポンで売られているHunterの解説を見ていたら、こんな説明があった。

全て手づくりのため、このように高さが異なる場合がございます。ご了承ください。このブーツは女性専用モデルでサイズは23センチ/24センチのみとなります。色によっては25センチの在庫もある場合がございます。

Hunterの長靴といえば、色はグリーンと決まっていたはずだけど、一昨年だったか、発売50周年を記念して、ピンクだとか黄色だとか、ウィスキーで酔った勢いか何かで、おかしな色のものを作り始めたらしい。高さがちがっているというのは、ぼくは初めて聞いたけれど、こんな説明をするのはいかにもニッポンだなあという気がする。しかし、証拠写真を見せられると、おいおいスコットランド人、もうちっとはまじめにヤレー!と、笑わずにはいられない。やっぱり好きだなあ、英国。


今日の音楽 : Rhythm of the Rain
-- by The Cascades

Rhythm of the Rain の歌詞

7 February 2007

異文化にも通じるもの


天皇制の話題はいつも気が重くなる。それでも避けて通れないのは、日本人としての宿命とあきらめている。自由と平和。このテーマは、天皇制から逃げて語れるものではない。

しかし、今夜はぼくの好きな英国の話をしよう。上の写真は何を写しているのかといえば、ケンブリッジ大学オリガミ同好会(Cambridge University Origami Society) の活動風景である。

ぼくは最初このソサエティを知ったとき、おさげ髪の少女っぽい学生たちの集まりを想像したのだけど、実際には、むさ苦しい男たちが妙に目立つ集まりであった。こんなおかしな人間の営みが、英国では至る所で発見できるのであって、これがぼくにはたまらなく楽しいのだ。


今夜の音楽 : Just The Way You Look Tonight
-- by Tony Bennett

実は変人ではなく


きのうの作文の題を「変人もいろいろ」としたけれど、実はあの種のニッポン人は、ごく普通の顔で日常生活をしているのだと思う。太陽の塔にたてこもるような人とか、老人党でイヌの話ばかりするような人に比べれば、まったく普通のニッポン人なんだと思う。きっと世間の人からも「いい人」で通っているのかもしれない。

「いい人」にも、結局いろいろあるのだろうけれど、長いものに巻かれながらニコニコしている「いい人」を見ると、ぼくは情けない気分になってしまう。戦前の治安維持法になんの疑問も感じないばかりか、特高警察といっしょになって「非国民」狩りに協力していたのは、あの種の「いい人」たちだったのじゃないかと、そんな気持にさえなってしまうのだ。

昭和天皇の「お人柄」の良さを、戦後のマスメディアは何度も強調した。まるで天皇のおかげでニッポンに平和が訪れたかのような調子だったらしい。ちょっと前までは、「お人柄」なんてとんでもない。天皇はしもじもの臣民とは別格の「神」であることを触れ回っていたマスコミが、戦争が終わったとたんに、天皇を「いい人」にしてしまった。

昭和天皇は、もしかすると「いい人」だったのかもしれない。自分の手では、子どもを殴ったり、犬を殺したり、少女を強姦したりしたことが一度もなかったのかもしれない。しかし、天皇は日本軍の最高責任者(大元帥)だった。その軍隊が犯した野蛮な行為の責任が、天皇にはあったはずだ。それをただ軍人のせいにして自分は「いい人」でおさまるなんてのは、いくら象徴か人形かに変身したにしても、あまりにも情けないじゃないか。ああ、ニッポンでは、ノブレス・オブリージュの精神は生まれないのだろうか。

天皇の戦争責任を問題にしなかった戦後ニッポン人の非近代性は、今も至る所に見られる。子どもを殴ってもよいとぬかす人間が、首都トーキョーの知事になれるニッポン。「女性は産む機械」というような言葉が思わず口からこぼれる人間が、社会福祉の責任を担う大臣になれるニッポン。靖国神社でまた戦争の準備をしようと企む人間が総理大臣になれるニッポン。こんなに美しい国は、地球上にそう多くは存在しないだろう。

しかし、何よりもニッポンの特質を支えているのは、石原慎太郎ではなく、柳沢伯夫でもなく、安倍晋三でさえなく、そのような男たちを「いい人」と認める世間の「いい人」たちの常識なのだと思う。

今日の音楽 : A World Full of Love
-- by Julie Andrews

Look around, at the sky and the ground
Every leaf, every tree
Look around, there's joys to be found,
Shining anew, waiting for you

Everywhere I look,
I see a world full of love
Everywhere I turn,
I see a world full of love
Simple things become appealing
What a simply super feeling
Everytime I take a look at love

When I smile at a friend
There's a face full of love
Hold a child in my arms
There's an arm full of love
When you're willing to care
You'll find joy everywhere
In this wonderful world full of love

Take a friend by the hand
There's a hand full of love
Hold the hope in your heart
There's a heart full of love
Every bird flying by
Flies and lights up the sky
In this wonderful world full of love

6 February 2007

変人もいろいろ

わけの分からぬメールというのは、わけの分からぬ掲示板の意見と同じく、どこまでもわけが分からぬものである。

かなり前のことだけど、毎日どこかから飛んでくるわけの分からぬメールの中に、BadBlokeさんは佐藤真申さんですねみたいなことを言ってるのが混じっていた。もしぼくが佐藤真申さんだったなら、老人党掲示板で英語の訳を自分に向かってお願いし、大胆にも自分のブログでその願いに応じ、ずっと以前には、犬の話でも一人二役をこなしたことになる。

政治経済の世界には、これ以上の策略をする人間がごまんといることは確かだけれど、ぼくがそんなことをすると平気で言える人間が老人党掲示板を覗いているというのは、なんだか気持が悪い。しかし、これが現実。これが人生。この種の人間にも慣れなきゃ、ヒトをやってはいられない。

もちろん、ぼくはそんなメールにいちいちつき合ってはいられないのだ。ただ問題は、その種の人間てのは、ぼくが反論しなければ、自分の信仰を正しいと勘違いする傾向のあることだ。それでも、ぼくは管理人に言いつけたりはしない。実は自分のブログでこんなことを書くのも、かなり気持が悪いのだけれど、このような現実は、非常にニッポン的なことだと思うし、風呂場で考えるテーマとしては、それほど無意味ではないと思うので、あえて公開した次第である。

これ以上は何も言う必要はないので、たまには写真の解説をするなら、今夜の写真は、ロンドンのハイドパークの夕暮れである。

今夜の音楽 : Streets of London
-- by Ralph McTell

歴史をくり返す美しい国


天皇制を批判すると、どこからともなく湧いて出てくるのは、右翼とも特定はできない曖昧なニッポン人の曖昧な反論である。彼らはぼくが英国バカだと知ると、それじゃあ英国の王制は一体どうするつもりだというようなことを言う。それでぼくの首を取ったつもりらしいが、まだ首がくっついてるぼくとしては、あいた口がふさがらないわけで、仕方ないから、ミルクティーをもう一杯お代わりするしかないのだ。

英国の国王も、昔はずいぶん国民に向かってひどいことをした。外国にも迷惑をかけた。しかし、英国の歴史には、過去の暗黒時代には決して逆戻りはしないだけの基礎がシッカリでき上がっている。それに比べて、ニッポンはどうだろうか。中国への侵略戦争で責任ある立場にいた岸信介が、戦後に総理大臣にまで出世し、弟の佐藤栄作も同じ地位を得て、そして今その孫までが、戦後生まれ最初の総理として、同じ椅子に座っている。

もちろん「A級戦犯」の孫という理由だけで、首相にふさわしくないとは言えないけれど、安倍晋三の場合は、祖父の戦争責任を反省している様子は見えないし、かえって祖父のやり残した策謀(憲法改悪とか)を実現しようとしているから、ぼくとしては雑煮、じゃなくて、ミルクティーをさらにもう一杯お代わりするしかなくなるのだ。

ヒトラーに孫がいたとしようか。その孫が今もヒトラーのことを尊敬していて、ドイツの大統領になっていたとしたら、世界はどう思うだろうか。単なる孫と祖父という関係なら、だれをどう尊敬しようが個人の自由である。しかし、一国の代表者たるものが、「おじいちゃんはいい人だった」程度の先祖崇拝でやってもらっちゃ国民ばかりか地球全体が困るのだ。

ぼくは英国のポンドで支払いをすることが多く、安倍晋三が総理になってから異常に円安になってるので、カネに無頓着なぼくではあっても、かなり損をしているような気分になっている。今ニッポンは国際的な信頼を失う方向へ向かってるような気がしてならない。米国がまさにそうだろう。その米国の言いなりで「勝ち組」援助交際、じゃなくて、援助経済をやってるニッポンの自民公明政権。米国の精神的支柱が腐りきったキリスト教だとすれば、ニッポンの場合は、亡霊のような天皇制であり、ハイエナのような創価学会になるのじゃないか。

その種の宗教的に腐敗した群れを批判することもできないのがニッポンのマスコミや大衆の特質だとすれば、この国の歴史は、いつでも過去へ逆戻りする可能性に満ちているといえよう。見よ、女性蔑視発言を平然とやってのける柳沢大臣の戦前ふうの顔を。

今日の音楽 : ACROSS THE UNIVERSE
-- by John Lennon

5 February 2007

芸術にも自由はないのか


先日、北海道新聞のサイトで次のような記事を見た。

第二次世界大戦中、旧日本軍の従軍慰安婦だった韓国人女性たちが描いた絵画と写真の展示会が二日、道内で初めて帯広市の藤丸百貨店で始まった。主催する実行委は当初、市役所内の市民ホールの使用を申請したが、市は「使用目的にそぐわない」として却下した。実行委は「平和を願う活動を、なぜ市は理解してくれないのか」と憤慨している。(北海道新聞、2007年2月3日)

これなども、太平洋戦争を美化しようとするニッポンの右翼思想が、地方の市役所内部で権力を握っている現実の一例となるだろう。ぼくは北海道のある都市で、古本屋の店主と話をしたときのことを思い出した。最初は犬の話から始まったはずだけど、いつのまにか「君が代」から天皇制の話に変わっていた。彼は言った。「いまどき天皇を崇拝するような日本人はめったにいないですよ」。つまり、そういうわけだから、子どもたちが学校で「君が代」を歌わされても何も問題はないというのが、彼の意見らしかった。

あの店主は40代前半くらいの年齢で、明らかに「戦争を知らない」世代であった。高度経済成長後の豊かなニッポンで育った人にちがいなかった。地方の小さな古本屋にしては、岩波新書などもけっこう充実していて、一見、左寄りのような雰囲気のある本屋であった。その店主にして、「君が代」に関しあの程度の感想なのだ。多くのニッポン人は、きっと同じような考えなのだろう。だから、国旗国歌法のような法律ができてしまったのだし、安倍晋三のような右翼が総理大臣になれるわけだし、教育基本法は改悪され、ついに憲法九条までも破壊されようとしているのだ。

従軍慰安婦の作品展を拒否する勢力は、どこから生まれたのか。あの戦争の最高責任者であった昭和天皇に向かって、日の丸の旗を振って歓喜した戦後ニッポンの国民たちから生まれたのでなければ、一体どこから生まれることができただろう。

今日の音楽 : Unforgettable
-- by Nat King Cole & Natalie Cole

☆ このページで音楽を聴くときは、いちばん上の写真に見えるプレイボタンをクリックしてください。映像付きで音楽が始まります。その下にあるナット・キング・コールの写真の下に見えるプレーヤーで聴く場合は、左端のボリュームボタンで音量を上げてから、プレイボタンをクリックしてください。

3 February 2007

イヌと平和


「イヌ嫌いもいるから」という理由で犬の入店を許さないことに賛成したり、公園内でリードをしないで散歩させることに反対するような人は、「イヌの肉が好きな人もいるから」という理由で、その種のグルメを支持するにちがいない。あるいは、その場合は、「外国の文化は尊びましょう」と、学校の教室かどこかで聞いたようなスローガンを唱えるだろうか。

イヌに法律で義務教育は課せられていないけれど、イヌにはヒトと共に生活する上で教育が必要である。公園は、イヌにとっては、学校のようなもの。家族以外のオトナやコドモ、イヌやネコやハトやカラスやカエル、そしてジョシコーセーなどと援助交際、じゃなくて、仲良く共存することを学ぶ場所である。子犬にとって社会を学ぶということは、遊びを通しての体験が重大な意味を持つのであり、これは本来コドモにおいても同じなのだ。

ところが、ヒトはこの事実を忘れて、コドモたちを大学受験に合格させることが教育だと信じてしまっているらしい。教育がその程度のものなら、コドモたちに自由を学ばせなくても、教育は可能になるだろうし、「愛国心」などを強制して戦争の準備をすることだってオーケーになってしまう。

いつもリードにつながれて自由を体験する経験のないままに成犬になったニッポンの犬たちを見ると、ぼくは哀しくなる。犬がどうしてイヌ嫌いにならなきゃいけないのだ。犬がどうしてヒト嫌いになってしまうのだ。イヌの遺伝子には、そんな予定はなかったはずだ。

人間の側の勝手な理由で自由を奪われている犬たち。毎日、殺されている犬たち。彼らのいのちは、本来、人間と平和に生きるために創造されたものだ。これは、ぼくが知った数少ない絶対的な真理の中でも、最高に重要なものになる。なぜなら、この真理は、ヒトの教育だけでなく、政治経済にも関係して、地球の平和につながっているからだ。疑う人は、犬たちの眼を見よ。

今日の音楽 : Good Old A Cappella
-- by Cambridge Revelation Rock-Gospel Choir

Good Old A Cappella の歌詞

2 February 2007

イヌ嫌いをまた考えた


世に「イヌ嫌い」というけれど、ぼくの経験では、真性のイヌ嫌いというのはむしろ例外であって、多くの人はただ犬がこわいと感じているにすぎないようだ。

ニッポンのある地方都市で(ぼくのイヌ論では何度も登場してしまう都市だけど)、散歩の途中で女子高生の群れにキャーと叫ばれたときは、本当にビックリした。クロネコヤマトも、小便小僧も、自由の女神も、何もかも総動員しても足りないくらいに、ぶったまげてしまった。

そのときぼくの犬は、長さ30センチほどの短いリード(英国で traffic lead と呼ぶやつ)をして静かに歩いていただけなのだ。しかも、その女子高生の群れというのは、ぼくらの位置から20メートル近くは離れていた。その群れの方向へ歩いていたのは確かだけど、「キャー、犬だあ!!!」と叫んで逃げて行かなきゃルーズソックスが泣くのだろうか。

世にかように重度のイヌ恐怖症の人が存在するという理由で、イヌの生活権を制限すべきと主張する人が、本気で人権だとか弱者だとかを大切にする社会を願っているのだとすれば、英国にはその種の社会は存在しないから、英国よりもニッポンの方が人権国家ということになる。そんなことを信じることのできるのは、国粋主義者くらいだろう。

あのとき、ぼくは天地がひっくり返るほどにビックリしたわけだけども、それでも彼女たちを睨みつけるとか、つばを吐きかけるとか、オナラをぶっかけるとか、そんな復讐心に燃え盛るということはなかった。ただ残念に思ったにすぎないのだ。ニッポンの文化が哀しくなったにすぎない。

ぼくの経験では、彼女たちのようなイヌ恐怖症の人は、ただイヌをこわがるだけで、おとなしくしている犬の飼い主を睨みつけるとか、何か苦情や文句を言うというようなことはしないものだ。イヌのことで神経質に苦情を言うのは、イヌ恐怖症の人ではなく、ホンモノのイヌ嫌いである。あるいは、愛犬家嫌いである。彼らはイヌという動物を見下しているらしい。イヌを知らないのだろう。知ろうと努力したこともないらしい。自分の狭い経験から捻出した主観(あるいは偏見)を通せば、地球は平和になるとでも信じているのだろうか。

そのようなイヌ嫌いという人種ばかりか、社会を良くしようとボランティアなどをしているような日本人の中にも、ぼくのイヌ論がどうしても通じない人がいる。彼らは「イヌ嫌いもいるから」という理由を断固として主張し、イヌに必要な自由を認めようとはしない。それでイヌばかりか、ほかの動物たちや、ヒトの子どもたちさえも、地球で生きる基本を失いつつあることには気づいてはいないらしい。だからぼくは湘南の海に向かって、じゃなくて、月に向かって吠えたくもなるのだ。

今日の音楽 : Klaviersonate Nr.17-II (Mozart)
-- by Glenn Gould