☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

28 January 2007

メディアの独自性を考えた

納豆のヤラセ番組は、納豆業者の利益を図ったというより、単に番組のネタがなかったというだけの話なのかもしれない。

東京のうちの近所にまたコンビニができたとき、その入り口に犬のリードをつなぐフックを用意していたので、イヌバカのぼくは喜んだわけだ。ぼくの犬はリードでつながなくても店の外でじっと待っているけれど、犬のことまでも考えてくれる店の親切がうれしかった。そうなると、ふだんはコンビニを敬遠していたぼくでも、つい利用しようという気持になってしまう。ぼくは犬的というか、けっこう単純な男なんです。

ところが、その店内に入って驚いた。店内放送とやらをしきりに流していて、占いまでもやってるじゃないか。おとめ座のあなた、きょうの服装に赤色のものを身につけると、きっといいことありますよだとか。コピー機でノートか何かをコピーしていた女学生の制服はネイビーブルーで、リボンにも赤色は入ってなかったようだ。ふだんなら、女学生の服装チェックなどしないぼくだけど、その日そんなことまでしなきゃならなくなったのは、若い人たちへの占いの悪影響を心配したからだ。

以前からあった近所の小さなコンビニでは、店内のスピーカーからいつも小さな音でジャズを流していた。一度質問してみたら、やはり店長が大のジャズ好きだとか。これなら許せる。しかし、ニッポンの街には、騒音が多すぎるような気がしているし、コンビニの店内で聞きたくもない占いを聞かされるなんてのは、いくら店員に可愛い女の子が混じっていても、ぼくは許せない。というか、その可愛い女の子のためにも、なんとかしなきゃと思う。

そこでぼくはコンビニの本社と連絡を取り、担当者と会うことにした。こちらの希望の場所を指定してほしいというので、散歩の途中でよく立ち寄るカフェを指定した。茶系のツイード・ジャケットの中に黒のタートルネックを着ていて、コーデュロイのズボンをはいてる男の足下に、大きな犬が伏せていたら、それがぼくです、と言って。

コンビニの社員は約束の時間どおりに現れた。けっこう長い議論になったので、まずぼくの主張を簡単にまとめるとこうなる。

1)占いは特殊な趣味であり、その種の趣味をもつ人が主体的に関わりを持てばいいのであって、強制的にコンビニの店内で聞かされるとすれば、非常に迷惑な騒音になる。

2)占いはニッポンでは異常に氾濫しすぎているし、特に若い人たちへの影響を考慮した場合、占いの害から彼らを守るのが大人の責任だと思う。

3)テレビや雑誌だけでなく、ネット上でも占いだらけなのがニッポンの現実であり、いつもみんな一緒に同じことをやるというニッポン人の文化は情けない。

で、これに対して、コンビニマンの意見はこうだった。占いが若い人に対して悪影響だという意見に関しては、すぐには同意できないけれども、日本のメディアで占いが氾濫していることは事実で、店内放送でも安易に占いを流すとすれば、我が社の独自性としては問題があるかもしれない。

そういうわけで、彼は本社に帰り、このテーマで会議を開くことを約束してくれた。数日後、メールで伝えてくれた会議の結果はこうだった。結論として、なんでもすぐに占いを利用するという安直さは独自性がないということで意見がまとまり、店内放送で占いを流すのをやめることにした。

納豆のことから占いの話になったのは、ニッポンのメディアを支配している業者ってのが、結局、独自な発想に欠けるスタッフの集まりでしかなく、そのような体質だから、ヤラセでもやらなきゃ番組にならないような構造になってるのじゃないだろうか。実際、コンビニマンが教えてくれたけれど、店内放送の内容はその種の業者に任せていたそうだ。

きょうの話はもう5年以上も前の話だ。こんなことでひとりで行動を起こすぼくは、やはり変なヤツなのかもしれないけれど、ぼくとしては、ニッポン(というのが大げさなら東京の一部)の変なところを少しでもなくそうと努力しているつもりなのだ。

今日の音楽 : Jesu Joy of Man's Desiring (J.S.Bach)
-- by Jacques Loussier Trio

27 January 2007

健康ブームがヒトを殺す


フジテレビの番組で納豆のダイエット効果でヤラセをやったとか。こんなニュースを聞いて、日本国民はどんな反応をしているのだろうか。いや、それよりも、ジャーナリストたちは、何をしているのだろうか。

ぼくがジャーナリストだったなら、なぜそんなことまでして納豆を売り込む必要があったのか、その動機を調べて、納豆で得をする人脈をたどり、その最高責任者をあぶり出そうとするだろう。ひょっとすると、こんなところにも政治屋か暴力団か、はたまた怪しげな宗教団体などが関係している可能性もあるのが、美しいニッポンの現実じゃないのだろうか。

どうしてニッポンのジャーナリストは、そこまで行動しないのだろう。もういやというほど指摘されてきた記者クラブの存在は大きいにちがいない。こんなものが日本国ではまかり通っているから、記者たちは特権階級意識でふんぞり返り、特権階級と同質の精神構造でマスメディアを支配することになる。

日本国民は、どれほど記者クラブの実態を知っているのだろう。たぶん、納豆のダイエット効果ほどには知らないにちがいない。それはそうだろう。ニッポンのテレビでは、記者クラブの健康に関して、何も問題にしてこなかったのだから。

健康ブームなどというものの問題点も、心ある識者は、ずっと昔から指摘していた。そういう良心の声は、ニッポンのマスメディアでは流されない。だから、みのもんたのような男の笑顔を信じて、健康管理にいそしむのが、この国の大衆の特質になってしまうのだろう。

韓国人が犬の肉を食べるようになったのは、中国からの影響だという。ぼくは英語圏のネット掲示板で、韓国人から直接聞いたことがあるのだけど、中国人の犬肉業者は、犬の肉を宣伝してお決まりのコピーを流しているらしい。つまり、犬の肉は、精力増進に効果があり、人間の寿命を延ばしてくれるとか。

ぼくはずっと昔から、アジア人の中に犬の肉を食べる慣習をもつ社会を批判してきたけれど、それは愛犬家としての自己中心的な感情に支配された言動ではなかったつもりだ。犬のような動物すらたいせつにできない人間社会に、本当の慈愛が育つはずがないと信じるし、いくらいのちの尊さだとか平和だとか口では唱えていても、何かのスイッチが入ると、戦争宣伝に同調してしまうような人間が大半を占めてしまうのも、きっと犬のいのちと関係しているように思うからだ。

ひとは精力増進と長寿を願いながら、イヌを殺し、ヒトを殺す。そして、自覚していないらしいが、自分自身を殺している。

今日の音楽 : We're All Alone
-- by Rita Coolidge

26 January 2007

友だちだった


きょうの写真は、全然ぼくの知らない子どもたちだけど、なんとなく懐かしいような気がするのには、理由がある。

小学生の頃だった。近所にアメリカ人の家族が住んでいて、ぼくと同い年くらいの女の子がいた。いまアメリカ人と言ったけれど、当時、白人はドイツ人であろうが何であろうが、みんなアメリカ人ということになっていたし、アメリカ人にしておかないと、最近のぼくのブログの流れからして困るのだ。

彼女はどういうわけか、うちの裏の塀を乗り越えて出現した。ぼんやりとした記憶だけれど、家族のだれかが、彼女のそんな登場の仕方を見て、「さすがアメリカ人だ」と言って笑っていたような気がする。ぼくは彼女の名前を覚えていない。友だちになるほどの付き合いはなかったようだ。それにあの家族はいつのまにかどこかへ引っ越してしまった。

ひとつだけ記憶がハッキリしているのは、ある日、彼女が自転車を貸してくれたことだ。当時の日本人の子どもが乗るような自転車とは、まったくちがっていた。サドルの位置が高く、ハンドルの位置が低かった。ぼくはその自転車をこぎながら、遠い異国の地を感じていたのかもしれない。不思議なことに、今でもあのときの感覚がよみがえってくる。

彼女の家がどこかに引っ越してから数年の月日が過ぎていただろうか。ある日、彼女が交通事故で亡くなったという知らせを聞いた。そのときぼくが何を思っていたのかは覚えていない。ただ、いま思うのは、彼女の声を思い出せないということだ。

彼女がおとなになるまで生きていて、どこかで再会することがあったとすれば、きっとぼくのきらいなアメリカ英語で、そして、アメリカ人らしく大げさな表情で、再会の喜びを表現してくれただろうか。ぼくもきっと喜んだにちがいない。その喜びをどう表現していいのか戸惑いながら、何かを言っただろう。イギリス英語で。

今日の音楽 : Alone Again Naturally
-- by Gilbert O'Sullivan

24 January 2007

アメリカ英語と宗教の話


BBCラジオを聴いていたら、ブッシュ大統領の演説が始まった。ぼくは昔からハリウッド映画の中でさえアメリカ英語が許せないくらいだったから、蓄膿症か何かで鼻が詰まったようなアメリカ英語を、こともあろうにBBCから聞くなんてのは、許せないどころの話じゃない。ああ、ぼくはなんて心が狭いんだろう。

ブッシュの演説の内容よりも、ぼくが気になったのは、その厳かな声の調子だった。米国でもついに人気を失ってきたブッシュが、まるで殉教者を気取るかのように、切々と何かを訴えていた。我こそは米国の平和を守る真の愛国者であると、牛のオッパイ、じゃなくて、心のどこかに建立した自由の女神か何かの乳をしぼり出すかのように。

ブッシュが「自由」と「平和」を語るとき、ぼくはアメリカの英語辞書を、いつも以上に信じられなくなってしまう。ネットで辞書を利用するようになってから、時には(1年に3回くらい)アメリカの辞書を調べてみることもあるけれど、十代の頃からイギリスの辞書とつき合ってきたぼくの英語は、やはりアメリカ英語とは根本的にちがっているのだろうか。

今年最初のブログへのポストで、統一協会と仲良くできるブッシュ大統領のことを書いたけれど、その前に、ぼくは聖書に書いてある「あなたの敵を愛しなさい」という言葉を引用していた。きょうのアメリカ英語への偏見に満ちたぼくの作文を非難するのは、特にニッポン人のヨイコには朝飯前だろう。統一協会という邪教にも寛容なブッシュ大統領。一方、聖書の権威を強調しながらも、アメリカ英語に嫌悪感を示す悪いヤツ。

さて、ブッシュはなぜ統一協会と仲良くできるのか。統一協会(そしてその政治団体の勝共連合)が反共主義であるという事実と無関係ではないだろう。彼は政治的な目的のためには、聖書ではっきりと警告している反キリスト的宗教とも仲良くできるわけだ。

ぼくが「反キリスト」などという言葉を使うと、多神教あるいは無神教の人々は、やっぱり頑固なキリスト者は心が狭いと思うのだろうか。聖書は偶像崇拝を禁じているけれど、聖書の神以外を偶像と見なすのは、一神教のおごりとしか見えないのだろうか。そう思われても仕方ないかもしれない。ぼくも無神論者の頃はそう感じていたにちがいない。

しかし、ニッポンの宗教的現実を見渡すときに、ぼくは聖書が警告している偶像崇拝のしがらみを思わずにはいられない。権力と結びついた創価学会ばかりか、目立たないところで、ニッポンくらいに怪しげな宗教がはびこっている国は珍しいのじゃないだろうか。しかも、総理大臣や知事なども、その種の宗教に関係しているのだ。それを「信教の自由」と表現して、日本人の優秀さを誇る国粋系の人間はいるのだろうけれど、ぼくはそんな自己満足につき合ってはいられない。なぜなら、このニッポンの現実が、日本人から本当の自由を奪っているように思うからだ。

占いにしてもそうだろう。ニッポンくらいにマスメディアでも日常的に占いを見かける国は珍しいと思う。聖書は、占いも禁じている。なぜ禁じているのか。ここでも聖書は心が狭いなどと言って批判することは簡単だろうけれど、日本人はもっと宗教や占いの恐ろしさを、せめて風呂場の中くらいでは、考えた方がいいかもしれない。

今日の音楽 : AMERICA
-- by Simon & Garfunkel

23 January 2007

夢一夜

こんな夢を見た。

ぼくはなぜか生徒として学校の教室の席に座っていた。ほかの生徒たちが制服を着てるのに、ぼくだけがツイードのジャケットを着ている。そこに女の先生が現れた。先生はぼくが制服姿でないことに気づくと、少しにらむような表情を見せたが、すぐに授業を始めた。すると、しばらくして(いや、夢の中だから、画面が突然変わったような感じだったけど)、先生がほかの生徒たちのそばに立っていて、ひそひそ話をするかのように、「制服を着てこないであんな変な恰好してるなんて、悪い生徒ですね」とか言っている。

それを見たぼくは、席を立って先生のそばへゆき、こう言った。「ぼくに何か言いたいことがあるのなら、面と向かって言ったらどうですか」。それから、呆然とする先生にとどめを刺すかのように、「それに、このジャケットは、変な恰好というより、英国製のオーソドックスな服ですよ」と言った。

夏目漱石の『夢十夜』は、きっとフィクションだと思うけれど、ぼくのは本当の話だ。先ほど目が覚める直前に見たばかりの、ホヤホヤのほんとにあった話なのだ。BBウソつかないあるね。たまにしか。

どうしてこんな夢を見たのだろう。教育基本法の改悪と関係があるのだろうか。現実は夢以上に不条理な世界だから、目が覚めると、風呂場に入るまでは、ぼくの脳みそは働いてくれない。

今日の音楽: ALL I HAVE TO DO IS DREAM
-- by Bob Dylan and George Harrison

16 January 2007

みんな仲良く ...


この世に絶対的なものはないというのが、現代人のたどり着いた哲学の結論だとすれば、哲学ってのはなんて無意味なものだろう。すべては相対的なものにすぎないことを万人が理解すれば、それで地球は平和になり、戦争もイジメも誹謗中傷も、何もかもがこの世から消え去るという信仰でもあるのだろうか。相対主義というその信念こそが絶対的なものになっている可能性はないのだろうか。

思えば、ぼくの十代の読書遍歴は、ずいぶん背伸びをしていたようだ。夏目漱石を岩波の全集で読んでいた文学少年は、三木清との出会いによって、哲学少年に変貌した。三木が読書案内ですすめる哲学書を、片っ端から岩波文庫で読み始めたのだ。のちに丸山真男を読むようになって、ある小論の中で、哲学書というものはあまり若いうちに読むのは有害だというような意見を述べているのに出会った。確かにそうなのかもしれない。しかし、ぼくの場合は、若い頃の哲学書の濫読によって、すでに哲学のむなしさをも感じていたように思う。

たとえばデカルトの『精神指導の規則』のようなものを読んだらどうなるか。なんだか自分の脳みそのスペックがチューンナップされたような気分になったものだけど、頭の回転がよくなったからって、それで自分が以前よりも幸福になるわけじゃないし、まして地球が平和になるものでもない。我おもう、ゆえに我あり。問題は、何をおもい、我という存在の意味が何かだ。

この世に絶対的なものはないということが真理であるなら、ひとはその時々の自分(あるいは世間)の判断のみを基準にして、すべてを決めるしかないだろう。英国ではイヌはヒトと同じように殺してはならない動物になるけれど、ニッポンでは日々、税金を使いながら殺されている動物の代表がイヌになる。イヌのいのちの価値が絶対的なものではないのだとすれば、ニッポンの現実は何も問題にはならなくなるし、イヌを食用に殺すのもアナタの自由ってなことになるだろう。実際、ニッポンの愛犬家の中には、イヌまで食べたいという食欲旺盛な人間に対しても寛容な人々が、いかに多いことか。ぼくはあるネット愛犬家グループで、その現実を体験している。

改憲の議論にしても同じだろう。憲法に絶対的な原理がないのなら、何をどう変えようが、岸信介系DNAの勝手でしょってなことになる。ところが、憲法九条は、絶対的な原理すなわち戦争は悪であるというプリンシプルに立っているのだ。改憲派はそのプリンシプルを変えようとしている。つまり、彼らの頭の中では、悪にならない戦争を想定しているのだ。愛国心教育なるものは、そのような戦争を始めるための準備体操にすぎない。

そのような改憲派が今や権力の中枢に居座っている現実の中で、平和を旗印にする群れまでもが、曖昧な態度を取っていて大丈夫なのだろうか。この世に絶対的なものはないだとか、こんな場合にも、校則のような処世訓を唱えながら良識派を気取る連中がいる。ぼくは不思議におもう。そんなにみんなと仲良くしたいのか。みんな仲良く戦争に向かいたいのか。

今日の音楽 : On the Sunny Side of the Street
-- by Tom Gally

13 January 2007

好きです英国


題名と写真が微妙に無関係だったりするのが、ぼくのブログの特徴ともいえるけれど、きょうの場合は、すごく関係があるのだから、エリザベス女王もビックリ仰天だろう。

2006年の秋、それまでマック一筋で生きてきたぼくは、ついにWindowsのパソコンを手に入れようと思い立った。ところが何をどこで探していいのかさっぱり見当がつかない。そんなとき、たまたま英国のネットで見つけたのが、きょうの写真にあるIBMのThinkCentreだった。IBMはアメリカの会社のはずなのに、このコンピュータの名前のつづりを英国式にしている。今さらいうまでもなく、それはとってもいいことだ。しかし、たったそれだけのことでこの機種を選ぶほどに、ぼくは純朴な人間ではない。

そのサイトでの解説の中に、ethical rating(倫理的な評価)というのがあって、これが何よりも重要であるかのように、いちばん目立つ場所に書いてあった。そこを見ると、animal testing(動物実験)にも触れていて、どうやらIBMは英国人の動物愛護基準からして合格のようであった。

というわけで、ぼくが初めて所有することになったWindows用のパソコンは、IBMのThinkCentreとなったのである。あのサイトで見た機種は3年ほど前に発売されたマシンだったので、中古で手に入れたのだったけれど、ぼくの書斎でいちばん威張っているマックからやや離れた場所に、まるでダークスーツ姿の英国紳士のように、静かにたたずんでいる姿は、けっこう素敵だ。

先ほど、それをデジカメで撮影しようとしたら、電池が切れていた。きょうの写真は、ネットで見つけたやつに少し手を加えたものだ。ぼくのマシンは、ディスプレイをIBMとは別のものにして、Cambridge SoundWorks製のスピーカーをつないでいる。サブ機であっても音にはこだわるのだ。

今日の音楽 : Let It Snow
-- by Dean Martin

7 January 2007

それでも地球は回る


サダム・フセインの処刑は、その現場写真を見ただけで、人の世の哀しさを覚えずにはいられないものだったけれど、驚いたことに、自称クリスチャンという人たちの中にさえ、このイベントに歓喜する人がいたらしい。

BBCのウェブサイトの中に、Have Your Say という名のページがあって、いろいろなテーマを投げかけて、読者から意見を募っている。フセインの処刑については、ふだん以上に多くの意見が寄せられたらしく、ぼくもざっと目を通してみたけれど、英国人に限らず、多くの人がフセインの独裁に批判的でありながらも、死刑には反対する立場で発言しているのが目立った。そうであるからこそ、中に自称クリスチャンが登場して来て、処刑を喜ぶような意見を言っているのが、余計に衝撃的であった。

ここに問題の発言をそのまま転載してみよう。

Although I am christian, I have jewish relatives. We are all jubilant.(私はクリスチャンですが、ユダヤ人の親戚がいます。みんな大喜びです。)

あえてユダヤ人の親戚がいると言ってるのは、中東のイスラム勢力によってユダヤ人がひどい目にあってきたことを主張したいのだろうけれど、じゃあユダヤ人たちはアラブ人に対して何をしてきたのか。やられたからやり返したまでとでも弁解するつもりだろうか。

それはともかく、イエス・キリストが「あなたの敵を愛しなさい」と言ったのを、クリスチャンは忘れてしまったのか。「なんじ殺すなかれ」と、モーセの十戒に書かれてあるのを、ユダヤ人は覚えていないのか。

なぜ聖書というものがあるのだろう。キリスト教原理主義などと、まるで聖書に忠実であるかのように見られる自称クリスチャンたちが、アメリカでは幅を利かせているのかもしれないが、その代表みたいなブッシュ大統領が統一協会と親しい関係にあるという事実は何を語っているのだろうか。統一協会の教祖は、聖書がハッキリ主張する偽預言者としか思えないぼくは、心の狭いウルトラ原理主義者にすぎないのだろうか。

とにかく、新年早々、こんなテーマで書かなくてはならないとは、人の世はあまりにも哀しすぎる。とりあえずは、雑煮でも食べて気をシッカリ保つしかないか。

今日の音楽 : Grandfather's Waltz
-- by Bill Evans

My New Year greetings