☆☆ BB's Blog ☆☆ KV 2

ぼくの名前はBBです。「悪いヤツ」と呼ぶ人もいます。でも、犬には「いいヤツ」だと思われているかもしれません。これでいいのだ。バカボンのパパなのだ。ちなみに、バカボンもBBみたいですが、ぼくはバカボンとは別人です。

28 December 2006

バナナの叩き売り


ヒトは権力をもつと、人が変わるらしい。ベンツのハンドルを握ってさえ、人が変わるヒトもいるほどだ。

主権在民とは、日本国憲法でうたっている事実である。ニッポンの義務教育で、その事実を子どもたちにどう教えているのかは知らないけれど、議員とは国民の権力を代表する使命をもつ人間であるはずなのに、それらしき様相が、なんだかバナナの叩き売りを見るように騒々しく響き渡るのは、選挙期間中くらいなもので、肝心の議会が始まるころには、議員がいつのまにかバナナからセンセーに昇格していて、国民を子ども扱いして見下すのが、この美しいニッポンの伝統らしい。

それでも彼らは民主的にやってるつもりなのだろうか。たしかに彼らも選挙で選ばれた議員たちではある。しかも、普通選挙制という、いかにも近代的な選挙のあり方によって。

しかし、何かが変じゃないだろうか。ずっと前から議員たちの様子が何かおかしくはないだろうか。彼らが主権在民の意味を知らないのは、もしかすると、国民自身がそれを知らないせいかもしれない。ニッポンの国民は、自らを子ども扱いされることに喜びを覚える民族なのだろうか。権力に支配されて安心する人種なのだろうか。

そういえば、ニッポンのネット掲示板には、管理人に告げ口をして、「悪男君が変なこと言ってるから、削除してください」などと、変におとなぶったヨイコが目立つようだ。こんなのは、少なくとも、英国の掲示板では見たことがない。それに、「誹謗中傷」だとか「揶揄」だとかという言葉が、これほどに飛び交う国は、英国と比べるまでもなく、きっと珍しいのじゃないだろうか。

問題は、そのようなヨイコが、どうしてニッポンには珍しくないのかということになるだろう。ここに心理学者などが登場すれば、日本人の精神構造に関していろいろな問題点が指摘されるのかもしれないけれど、ひとことで言うなら、やはり、ニッポンジンが近代化されていないからとしか言えないように思う。もちろん、ここでいう「近代化」とは、木造の平屋が高層ビルディングに変わるというようなことじゃなく、個人の自主独立というようなテーマが、イヌの自由のテーマと同じく、いまだにニッポンジンには分かっていないということになろうか。ちなみに、ぼくの場合は、バナナの叩き売りってのを、実際にこの眼で見たことがあったかどうか、今ではよく分からないのだ。

今日の音楽 : Teach Your Children
-- by Crosby, Stills, Nash and Young

Teach Your Children の歌詞

18 December 2006

ニッポンのヨイコ


教育基本法のことで心配しているのは、いつものことながら、マスコミではなく、大衆でもなく、教育家でもなく、歴史家でもなく、政治屋の「愛国心」や「美しい国」などのスローガンにだまされない、この国を真に愛する一部の日本人だけである。元号法が成立したときもそうだったし、国旗国歌法のときも同じだった。いつだって、ニッポンジンは権力の支配に従順だ。軍国主義の戦前もそうだったし、民主主義の戦後も変わらない。

権力に抵抗する日本人は、どうして例外的な存在になるのだろうか。権力への抵抗は、どうしていつも無視されるのだろうか。それはニッポンの権力構造の問題というより、ニッポンジンの精神構造の問題だと、ぼくはずっと思っている。

権力の横暴に対して腹の底から怒った人がいたとしようか。言葉も失い、論理も失い、根拠も失うほどに、全身全霊で怒った人が、ただ「バカヤロー!!」と叫んだとしようか。大衆はこれにどう反応するだろうか。多くはただ不思議な顔をして黙って通り過ぎるだけだろう。彼らには、その人がなぜ怒っているのかさえ理解できないのだ。理解しようともしないのだ。

大衆の中には、黙っていない人もいるにちがいない。「バカヤロー」とは、なんて無礼なヤツなんだ。マナーの悪いヤツなんだ。こんなヤツがいるから、ニッポンの社会はよくならないんだ。彼らはそんなヨイコぶりを発揮して、ただ遠くから非難するだろう。この種のヨイコは、たとえばイヌのことが問題だと思えば、公園の管理人に告げ口をするのだ。ケータイが普及したおかげで、警察に通報するヨイコさえいるらしい。

公園で犬を放している人も、人生のように、イロイロだろう。犬の社会的教育のことなど考えたこともなく、ただ自分の犬だけが可愛くて、自由にさせているような人たち。そういう人は、ほかの犬がリードをしないで近づいてくると、いやがる傾向がある。第一、社会性のないその人の犬こそが、ほかの犬との交際をきらうにちがいない。

一方では、子犬のころから、愛犬の社会的な教育を意識して、公園内で自由を学ばせてきた人もいるのだ。そう、自由とは、ヒトもイヌも、小さいころに学ぶ必要があるのだ。自由を学ぶということは、算数を学ぶこと以上に、たいせつなことだ。これほどにたいせつなことが、ニッポンジンには、いつまでも通じない。それが問題だ。

世の中の現象をいつも規則や法律でしか判断できない人間は、自由の意味を知らない。自由の意味を知らないから、彼らの眼には、本当の自由人の行動が、ただ自己中心的にしか映らない。自由人と自己中心的な人間との区別がつかないのだ。彼らがヨイコとして発言するとき、彼らこそが自己中心的である事実にさえ気づいていない。

規則や法律は、決められたことを一方的に決めつけるしか能がない文字にすぎない。だいじなのは規則や法律を適用するときの人間の判断力だ。しかし、考えない人間の脳みそは、紙に刷り込まれた規則や法律の文字と同じで、愛犬家にも人生のようにイロイロなタイプがあるという現実を理解できない。理解しようともしない。

あれ? イヌの話じゃなくて、教育基本法の話をしていたのだった。

なぜ教育基本法は、権力者たちの勝手な計画どおりに、時代錯誤も甚だしい姿に変えられてしまったのか。ひとつは、ニッポンの権力者たちがバカ者ばかりだからだ。「バカヤロー」では足りないくらいに大バカ野郎どもだからだ。しかし、何よりも問題なのは、ニッポンの大衆の多くが、風呂場でさえ「考える人」をまねたことのない、考えない葦になっているということだと思う。ただ風に吹かれるままに、右へなびき、左へなびく。自分は右でもなければ左でもない。中立な立場の常識人。マナーのよい紳士淑女である。そんな誇り高きヨイコが多すぎることこそが問題だ。

権力者たちは、ずっと昔からすべてを準備していた。元号法や国旗国家法の前から、ずっと計画していたのだ。教育基本法に関する政治屋たちの策略が、最後の詰めの段階に入ったったところで、急にそれに抵抗しようと慌てても遅すぎるのだ。ニッポンの紳士淑女諸君、あなたたちは、元号が法律で定められても何がいけないのかと無関心だった。「君が代」が国歌で何が悪いのかと無関心だった。今は現代よ。戦前とはちがうのよ。だれが天皇を神のように崇めますか。そう確信するあなたたちは、なだいなだの「とりあえず主義」をも誤解し、老人党掲示板にまで登場して、ヨイコぶりを発揮してくれたのだ。

今の時代、天皇を神として崇めるような博物標本的人種は、たしかに例外だろう。しかし、それは明治のころも同じだった。当時だって天皇のことを考えたことすらない日本人が多かったのだ。それが国家主義的な義務教育によって変わってしまった。天皇を神として崇めなければ「非国民」とみなされるほどに、ニッポンは変わってしまったのだ。変わってしまったニッポンはどこへ向かったか。ヨイコたちはもう忘れてしまったのだろうか。「記憶にございません」で済ませるつもりなのだろうか。

教育は、ヒトでもイヌでも、これほどに大きな力をもつのだ。だからこそ、教育問題は、日々、日常の生活の中で考えなければならない重大な問題になる。たとえ常識に反するようなことでも、子どもたちや子犬たちの将来を思えば、実践すべきことも、このニッポンのような教育後進国では、必要になる場合が少なくないのだ。

しかし、ニッポンがいま向かっているのは、国家の決めたことが常識どころか真理であるかのように、国民全体に強要する社会である。それはちょうど戦前の天皇制超国家主義の時代と似ている。戦後のニッポンは変わったのだ。そう大衆が信じていても、ニッポンを変えようとしなかったのが大衆である限り、この国は今後も変わりはしないだろう。国家の決めたことに同調するヨイコが今まで以上に目立つ、全体主義国家への道を突き進んでゆくにちがいない。その先には、戦前の時代と同じように、戦争が待ち構えているだろう。戦争も、気づいたときには、もう手遅れになる。

ぼくらはこのような現実と闘わなければならない。闘わなければならない国家構造を、ニッポンの権力層はいつも勝手に準備するからだ。

今日の音楽 : The Best Things In Life Are Free
-- sung by Jack Hylton; recorded by HMV (London 1928)

The moon belongs to everyone
The best things in life are free
The stars all shine for everyone
They are shining for you and me
The flowers in spring
The birds that sing
The sunbeams that shine
They're yours, they're mine
And love can come to everyone
The best things in life are free

17 December 2006

Smoking kills


タバコのパッケージに大きな文字で「喫煙は殺します」なんて書いてあったとすれば、どうだろう。ニッポンでは信じられない話になるのだろうけど、英国で販売されているタバコには実際に Smoking kills と大きく印刷されているのがある。これは子どもにも分かる簡単な英語だが、日本語に訳すのはむずかしいと思う。「喫煙は殺します」と訳してみたけれど、これは直訳であって、日本語としてはおかしい。タバコを吸えばだれを殺すことになるのか。ふつうは喫煙者自身になるのだろうけど、英語であえて目的語としての you を省いているのは、受動喫煙を意識しているからだと思う。喫煙者の煙によって、タバコを吸わない人も殺される可能性があるのだから。

ニッポンの JT は、今でも相変わらず、喫煙の有害性をごまかすような文書を公開しているらしい。たとえば、ある研究者のある論文の信憑性がある裁判で無効にされたとか。そりゃそうだろう。2兆円も出してわざわざ英国のタバコ会社まで買い込んで地球上に勢力を伸ばそうってんだから。

英国では、1970年代から喫煙率が減少し始め、最近のおとなはタバコを吸わなくなってきたけれど、逆に子どもの喫煙率は上昇しているようだ。特に女の子でタバコを吸うのが増えているという。これはニッポンの現象に似ているかもしれない。ただし、おとなの喫煙率に関しては、ニッポンの現状は、英国の1970年代初頭なみに高い。

子どもの喫煙率が増加しているのは、タバコ産業の戦略が子どもをターゲットにしてきたからで、ニッポンでもかなり前から「タバコは二十歳を過ぎてから」などと法治国家的ヨイコふうの張り紙を出してるわけだけど、実はこれ自体が子どもを狙った広告であった。中学生くらいの年頃になれば、背伸びをしておとなぶってもみたくなるものだ。それに、ダメと言われりゃ、余計にやってみたくなるのも、人間の性向ではあるだろう。

英国の俳優ヒュー・グラントの主演した映画に About a Boy というのがある。原作は、ニック・ホーンビー (Nick Hornby) という名のとっても英国的な作家の書いた小説なのだけど、例によって、カネを用意して制作を主導したのがアメリカ人たちのようで、ぼくの嗅覚では、この映画にもハリウッドの煙がどことなく漂っているように感じた。実際、まるでハリウッド俳優のように、グラントがタバコを吸っていたりするのだ。ぼくの記憶では、彼が純粋な英国映画に出演していた若いころにも、喫煙している映画がひとつだけあったけど、それは時代背景がタバコ飲みの多い時代の英国だったからだと思う。現代人を演じるグラントがタバコを吸っているのは、非常に珍しい。

その映画で結局カットされて公開されなかったシーンに、こんなのがある。グラント演じるウィルの家に遊びに来ていたマーカス少年が、テーブルの上に置いてあったタバコのパッケージを手にとって、Smoking kills と書いてあるのを声を出して読むシーンだ。このシーンがなぜ公開されなかったのかは知らない。むかしからハリウッドと関係の深いタバコ会社からの指令でもあったのだろうか。

今日の音楽 : Killing Me Softly With His Song
-- by Roberta Flack

Killing Me Softly With His Song の歌詞

16 December 2006

どこへ行くの JT

日本たばこ産業(JT)が、また外国のタバコ会社を買収したらしい。JTはすでに米国のRJRナビスコ社の海外向けタバコ事業を買収しているが、今回は英国のギャラハー・グループとかで、買収額はおよそ2兆円。日本企業による買収では過去最大規模になるという。

英米では、タバコを売っていては商売にならないというのが常識になりつつある。20歳以上の人間がタバコを吸わなくなっているのだから当然だろうが、何よりも人道的に考えて、タバコのような有害物質を売って生計を立てていては、無神論者だってなんだか落ち着かなくなるのが普通じゃないだろうか。薬とタバコを同時に売っているニッポンの薬屋の店主が何を考えているのかは知らないけれど。

企業というのは、言うまでもなく損になるようなことはしないものだ。2兆円も出したからには、それ以上の利益を見込んだ企業戦略ができ上がっているにちがいない。英国のタバコ会社を買収しても、あちらではもうタバコは売れない。じゃあどの国を狙うのか。今までどおりニッポンを含めてアジア諸国は当然ターゲットになっているのだろうが、今回は特にロシアを狙っているらしいから、エカテリーナちゃんだってビックリ仰天だ。

資本というものはいくら自由に使えたとしても、カネ儲けのためにはなんでもするという使い方をしていては、この地球はとてもじゃないが、美しい惑星にはならないだろう。かつて手巻き時計で世界に認められたセイコーは、クォーツの時代になって、もう時計では名声を保持できないと判断したのだろうか、同社の工場的存在だった諏訪精工舎にプリンタを作らせ始めた。この諏訪精工舎が今やエプソンとして、世界的に高い評価を得ていることは言うまでもないだろう。

世界で最初にクォーツ時計を開発したのも実は諏訪精工舎であった。プリンタ業界では、キャノンの追い込みが激しいようだけれど、時代錯誤的な右翼思想をもつ御手洗一族に支配された会社など、近い将来、国際的な競争に負けるにちがいないと、ぼくは予想している。ニッポンがまた戦争を始めたときには、一時的に軍需産業で莫大な利益をあげる可能性はあったとしても。

あれ? そういえばタバコの話をしていたのだった。さてさて、JTの時代錯誤は、どこへ向かうつもりなのだろうか。 日本人の寿命を短くし、老人福祉予算の削減や食糧不足対策にでも貢献する計画なのだろうか。しかし、タバコを買うために国民が支払う莫大なカネは、だれの銀行口座に入るのだろう。もしそれがスイス銀行だとすれば、スイスの下着メーカーが禁煙ブラを開発したことくらいは、覚えておいたほうがいいかもしれない。

今日の音楽 : Smoke Gets In Your Eyes
-- by The Platters

Smoke Gets In Your Eyes の歌詞

13 December 2006

Lonely Ekaterina


毎日のように英語の迷惑メールが届く。たいていは、このブログと老人党掲示板で公開しているアドレス宛てに送られてきたものだ。きょうは、Hello from Russia(ロシアからこんにちは)と題して、Ekaterina という女性の名前で変なメールが届いた。ふつうなら読まずにそのまま削除するのだけれど、話の種になりそうな予感がしたので、ざっと斜め読みしてみた。英語がしゃべれるようなことを書いているが、ニッポン人が日本語で考えて強引に英語に変換したような文体だ。

ほかに特徴があるとすれば、イギリス式のつづりで書いていることだ。むかし聞いたモスクワ放送のアナウンサーがイギリス式の発音だったけれど、最近はヨーロッパ諸国でも、つづり自体はアメリカ式になっているのが目立つようになった。イギリス式で書いてよこしたのは、ぼくの好みを知ってのことだろうか。そういえば、以前、イギリスの宝くじが当選したというメールがあって、数億円を振り込む必要があるから個人情報を送ってほしいというメールもあった。

さて、きょうのエカテリーナちゃんのメールだが、典型的なセックスフレンド系のメールだった。年齢が26歳らしいけれど、とにかくぼくと普通のお友だち以上の関係をもちたいとか。例によって、メールアドレスが書いてあり、そちらに返事を送ってほしいとか。

ぼくの趣味のことは何も知らないらしいけれど、少なくとも英国バカであることくらいなら知っているらしい。老人党掲示板でプーチン政権を批判するような投稿をしたことに関してはどうだろうか。まあそれはともかく、わざわざロシアからやって来て、ぼくの言葉よりは肉体に関心があるとは、よほど孤独な26歳ということになるだろうか。

今日の音楽 : From Russia With Love
-- by Matt Monro

From Russia With Love の歌詞

12 December 2006

淋しい若者たち


これもニッポンの地方都市での思い出になる。その若い男はコンビニの前にバイクを止めると、ぼくの愛犬に気づいて近づいてきた。「可愛いっすね」と口では言っていたが、何かこころがちがう方向へ飛んでいるように思えた。すると、彼は突然こう言った。「いま、警察から帰ってきたんすよ」

ぼくは友人のことでも、プライベートな内容に関係する質問はほとんどしないから、まして初めて会った男が警察からどんな世話を受けたかなんて、まったく知る予定はなかったのだ。しかし、たずねてもいない質問に答えるかのように、彼はいろいろしゃべり始めたのであった。

話の内容はだいたいこういうことらしかった。家の前でバイクのエンジンを吹かしていたら、母親に注意された。それを無視して騒音を立てていたら、母親はついに警察に通報したらしい。

「真夜中に近所で暴走族のようなことをやってたのは、君だったのか?」とぼくは初めて質問してみた。身に覚えがあったのか、彼は黙ってしまった。

「そんなにバイクで騒ぎたかったら、だれも人の住んでいない山奥にでも行ってやればいいじゃないか」

「親がそんなガソリン代を出してくれないっすよ」

「君は親のカネでガソリンの無駄遣いをやってたのか?」

「仕事なんて見つかんないから」

「その気になれば見つかるさ」

「おじさん、東京から来たんですか?」

どうしてそれが分かったのか不思議だけれど、そうだと返事をしたら、彼はつづけてこう言った。

「東京に行ったら、仕事が見つかるかな」

「それは君次第だ。だが、東京こそ甘くはないぜ」

彼としばらく話をして気づいたのは、彼のこころが淋しがっているということだった。自分の息子の不始末で警察に通報するくらいの親だから、どの程度の親子関係であるのかはおよそ想像ができる。最近は、このような親子が多いのかもしれない。親子がこころを通わせるためには何が必要だろうか。そんなことすら考えずに、なんとなく親子をやっている。そうであれば、血がつながっているということで、かえって問題が深刻になってしまうことも多いのかもしれない。

ニッポンの政府が愛国心を国民に強制しようとする現実は、どこかそのような親子関係の断絶に似ているような気がする。政府と国民のあいだには信頼関係がないから、権力をもつ政府は、法律の力を利用してまでも国民を思いどおりに統率しようとする。戦後60年、民主国家として新たな方向を目指したはずの日本国なのに、いま政府が企てているような方向へ歴史を動かしてもよいのだろうか。子どもたちや若者たちの虚無感の最大の責任が親にあるのだとしても、その親たちを社会の構成分子とする国家の構造が狂っていたら、何もかもが台無しになってしまうにちがいない。

今日の音楽 : The Only Living Boy In New York
-- by Simon & Garfunkel

8 December 2006

悲しい東京タワー


若い女性でタバコを吸う人が増えているようだ。これはニッポンの話で、欧米の話ではない。いつものことながら、これもニッポンの特質を語るときに、避けられない話題になるように思う。

欧米では、ずっと昔にタバコの害を政府が認め、マスメディアもそれに協力して、国民の喫煙率を減らすように努力した。ところが、ニッポンでは、タバコの害を訴える市民グループに対して、タバコ企業と一緒になって裁判でも抵抗したのは、「くに(国)」であった。

石原慎太郎だとか中曽根康弘だとか、戦前の大日本帝国の勢いを今も失っていない政治屋たちは、よく「くに」という言葉を口に出すけれど、一体このニッポンて「くに」は、国民のいのちをどう思っているのだろうか。そういえば、アイルランドのような「弱小国」から日本国に来賓があった場合、招待を受けたニッポンの政治家の多くは晩餐に欠席するという。理由がどうやら食事中にタバコが吸えないからだとか。ウソのような話だけれど、ニッポンの政治家の喫煙率の異常な高さから察すると、事実に近いような気もする。

若い女性はなぜタバコを吸うのか。それは、ニッポンの政府がタバコの害に無関心で、マスメディアもそれに同調するように、タバコ産業の戦略に協力してきたからだ。中山美穂などをCMで起用し、タバコを吸うことがカッコいいこと、都会的なこと、そんなイメージをテレビや雑誌を通じて、ニッポン中にばら撒いたからだ。

聞いた話だと、特に東京の若い女性の喫煙率が群を抜いて高いらしい。たしかにぼくの経験でも、こういうことがあった。麻布にある喫茶店でコーヒーを飲んでいたときだったけど、ふと店内の様子を見渡すと、客の大半が若い女性たちで、みなタバコを吸っていた。申し訳なさそうにコーヒーをすすっていた中年のサラリーマンふうの男だけが、タバコを吸っていなかった。

こういう経験から、東京の若い女性の喫煙率が高いということを、ぼくも認めるしかないわけだけれど、どうもぼくの遺伝子というか何かが納得できないのだ。なぜかというと、ぼくの知る東京育ちの女性たちの多くは、若い女性も含めて、タバコを吸わないから。

そこでいつものようにぼくは風呂場で考えた。東京には、春になるたびに、地方から多くの若い女性たちが移住して来る。地方の高校では、便所かどこかに隠れて吸っていたタバコも、東京では、だれはばかることなく吸える。それに、雑誌で見ていた広尾の喫茶店なんかで、オードリー・ヘップバーンのようにタバコを吸うって、けっこう素敵じゃない。きっとそんなことなのだろう。

そういえば、石原知事も東京育ちではない。彼を支持するような「東京人」は、東京で遊ぶかカネ儲けをするしか頭にない連中じゃないのだろうか。こんな発言をしただけで、どこかから「差別だ!」と苦情が飛んできそうな美しいニッポンではある。

今日の音楽 : Love In Vain
-- by Robert Johnson

Love In Vain の歌詞

7 December 2006

モーツァルト

一昨日は、モーツァルトの命日だった。1791年12月5日、寒いウィーンで、彼はこの世を去った。「レクイエム」を未完成のままに。

葬儀にはだれも参列しなかった。埋葬された墓地は、貧乏な庶民向けの共同墓地で、墓碑も立てられなかった。今もモーツァルトの墓の場所はだれも知らない。

ぼくが小学生のころ、校庭に捨てられていた子犬を拾ってきたことがある。名前をチロと名づけたのは、たしか母だったように思う。何か思い出のある名前らしかった。ぼくには妹がひとり増えたみたいに思えた。この妹は、もうひとりの妹とはちがって、毎朝、ぼくが学校へ行くときに、玄関まで見送りに来てくれた。

一度だけだったけれど、どういうわけか、玄関を飛び出して、学校へ向かうぼくのあとをついて来たことがあった。交通の激しい通りの近くまでついて来たので、それに気づいたぼくはチロを抱きかかえて、家に戻った。中型犬くらいの大きさだったので、なんとか家にたどりつくことができた。玄関の中に彼女を降ろすと、厳しい口調で「学校について来ちゃダメ!」と叱った。

学校から帰ると、十年ぶりに再会した友のように、チロは喜んでぼくを迎えてくれた。毎日、いつも同じだった。それが何年もつづいたある日、チロは白血病になった。獣医はもう助からないと言った。チロが死んだのは、12月5日、モーツァルトの命日だった。チロはぼくがモーツァルトをいつも聴いていたことを知っていたのだろうか。

ぼくは学校について来たチロを叱ったことを後悔した。どうして犬が学校に来て悪いことがあるだろう。おとなになって、文部省とか教育委員とかの実態を知るようになって、いよいよその思いは強くなるばかりだ。犬が学校について来て何が悪いんだ。犬がクリスマスを喜んで何が悪いんだ。

今日の音楽 : Jingle Bells

Jingle Bells の歌詞

6 December 2006

話がチャンポンだけど


きのうの写真は、本文とはほとんど関係なくなってしまった。実は、写真と関係する話を書こうと思ったのだけど、老人党掲示板でぼくに質問していた人がいて、そのことが気になって話を途中で切り上げたのだった。

きのうの写真は、10月29日にロンドンに集合した大学生たちによる、学費値上げ反対デモを写した写真であった。プラカードに ADMISSION IMPOSSIBLE と書いてあるのは、映画 MISSION IMPOSSIBLE(不可能な任務) のもじりで、mission(任務)を admission(入学)に変えて「入学不可能」としたところに、英国人のユーモアのセンスが光っている。

デモをする学生たちの笑顔を見てほしい。英国では、デモもこんな具合に、なごやかなムードで行なうことが可能だ。ニッポンの1960年代、同じく学費値上げに反対した学生たちを、右翼の暴力や警察権力まで使って弾圧した日の丸大学当局に比べて、どれほど様子がちがっていることだろう。ニッポン人には学生運動を非難する人が目立つようだけど、学生運動が過激な暴力性を帯びるようになった責任は、当時のオトナ社会の横暴な圧力にあったのじゃないだろうか。

いま、さらに右翼化した政府は、教育基本法をいじって、戦前の体制に近いような国家主義的教育を復活させようとしている。若い人たちがオトナになっても、政府のやり方に反抗しないように、今から準備しているというわけだ。実は、この準備は今に始まったことじゃなく、ほとんど太平洋戦争が終わった直後から始まっていたといってもいい。つまり、ニッポン人は、あの戦争を反省することなく、戦後を始めてしまったのだ。だから、「戦後」は今も終わってはいない。

ところで、きょうの写真。またしても、本文とは関係なくなってしまったようだ。「きっこの日記」の中で、犬に服を着せることを批判している文章に出会ったことがある。きっこという人は、動物愛護にも関心があるようだし、小型犬の飼い主が、着せ替え人形のように犬をもてあそんで、洋服を着せて喜んでいるのを見れば、だれだって気持が悪くなるのは当然だろう。ただし、犬だって極度の寒さには弱いのだ。ぼくの愛犬は大型犬で、雪が大好きで、まるで歌の文句のように雪の中で駆け回るけれど、防寒対策はしっかり準備している。すべて英国製であるのは、ぼくが英国バカという理由だけじゃなく、ニッポンでは大型犬向けの防寒衣料がなかなか手に入らないからだ。

ニッポンのペット産業は、売れるものしか売らない。愛犬家の無知を矯正しようという意欲はないし、むしろ愛犬家の愚かな趣味に迎合して、売れるときに可能な限り売ってしまえというような、貪欲さばかりが目立つようだ。

ということで、きっこさん、ぼくのような考えで愛犬に服を着せている場合もあることを、どうか知ってほしい。でも、ブーツはやりすぎでしょうって? これは防寒対策というより、別の意味があるんですね。雪の中で遊んでいるとき、雪が足の裏にはさまって、それが氷になると、すごく痛いらしいんです。ぼくの愛犬は、獣医にでっかい注射を打たれても何をされても平気だけど、その彼でさえ「痛いよー、パパ」って言ったほどだから。あ、そうか。きっこさんは、ぼくのブログなど知らないか。 --- さてと、ミルクティーでも飲もうかな。

今日の音楽 : Beanie For Peace

☆ ワンちゃんだって平和を歌います。ちょっと悲しげですが。

5 December 2006

夜空の星を見上げれば


「きっこの日記」というブログが人気らしい。ぼくは老人党でだれかが紹介していたので初めて知ったのだけど、先日そこを訪ねたら、耐震偽装隠蔽問題に関連して、「反戦な家づくり」というブログを紹介していた。「きっこの日記」は一日に数十万のアクセスがあるらしく、ニッポンの片隅で眠っていたようなマイナーなブログも、ここで紹介されると一気にメジャーになるようだ。「反戦な家づくり」の管理者自身も、その事態の急変に驚いていたようだった。

実は、だいぶ以前、ぼくは老人党掲示板で、その「反戦な家づくり」をさりげなく紹介したことがあった。そのときは、世間では何も反響がなかったらしく、もちろん「反戦な家づくり」からぼくのスウィートホームにお歳暮が届くということもなかった。やっぱり老人党は「きっこの日記」に比べるまでもなく、かなりマイナーな存在なんだということで落ち着くだろうか。

しかし、どこかの反老人党の論客のように、老人党の存在価値を、アリの巣ほどにも認めていないような人々とはちがって、ぼくはいつだって希望を失うことはないのだ。ぼくのブログは、老人党よりはさらにずっとマイナーな存在になるというか、何もどこかと比べるまでもなく、ニッポンのネット世界の片隅で、アフタヌーン・ティーをすすっているような場所だけれど、動物のいのちの尊さを考えることが、地球の平和を実現することにつながるというぼくの哲学に、少しでも関心をもって主体的に考えてくれる人が、たったひとりでもいてくれたら、ぼくはそれで満足だ。ぼくが満足だからいいというのじゃなくて、たったひとりでも歴史は変わるということを、ぼくはいつも信じているし、夜空の星を見上げるときは、ちっぽけな地球にだって希望のあることを、いつも思うから。

今日の音楽 : We Want Peace

1 December 2006

イヌの自由を考えた

さてと、それじゃあ、犬に自由を教えると、どういうことになるか。たとえば、テニスボールの中味がどうなってるか、人間に教えてくれるということがある。

散歩から家に帰ってきて門の前に近づくと、愛犬だけは気づかないふりして、家の前を通り過ぎようとすることもある。彼の向かう方向には大好きな親友の家がある。「今夜はもう遅いから、また別の機会にしよう」と言うと、けっこうあきらめのいい彼は、方向を変えてもどって来る。それを幾日かくり返すと、自宅から50メートルばかり離れた交差点で、家とは反対の方向へ行ってみようと誘う。そう、彼は勝手な行動はとらない。ただ、交差点で立ち止まり、ぼくの眼を見つめ、「ねえ、今夜はこっちの道から帰ってみない?」と誘うのだ。

けっしてわがままではない彼のことだから、ぼくはその願いを受け入れる。しばらく歩くとまた交差点がある。すると、彼はその交差点を左折する。さらに歩いて、また左折する。そしてずーっと歩いていくと、大好きな親友の家が見えてくる。彼は遠回りしてでも、親友の家に向かう道を知っているのだ。

いつもリードをして散歩しているニッポンの愛犬家たちの中には、犬が草の匂いをかいでたりしても、リードで無理やり引っ張って、自分の思いどおりに歩かせようとする人もいる。そんなことだから、信号待ちの交差点でオシッコするしかない犬が多いのだろう。

ニッポンで暮らすある英国人がこう書いていた。日本人は犬と生活していて何が楽しいのでしょうか?

散歩するときにさえ、犬に自由を与えない。犬の生活のほとんどの時間は、犬小屋につながれたまま。こんなのを見せられると、英国人でなくたって、なんか変じゃないかと思うのが、正しい人間のあり方じゃないのだろうか。その感覚がニッポン人にはなくなっているのだとすれば、手遅れにならないうちに、進むべき道を変えるべきだと思う。

英語で dog's life (犬の生活)というと、「惨めな生活」を意味する。たしかにむかしは欧州の犬たちも惨めな生活を強いられていた。『フランダースの犬』を書いた英国婦人は、そんな犬の惨めな生活に同情していたにちがいない。英語に dog's life という表現があるのは、英国人が犬の生活にむかしから関心をもっていたということにもなるだろう。

現実はどこの国にも残酷な事実がある。問題は、それを見て見ぬふりをするのか、それとも残酷な現実をなくそうと努力するのか。そのどちらかで、この世の現実は大きく変わっていくだろう。何よりもヒト自身が変わっていくように思うし、ヒトは変わらねばならないとも思う。ただ、ニッポン人を見ていると、残酷な現実を見て見ぬふりをするというより、すでに残酷な現実を感じなくなっているような人が目立つように思えてしまうこともあるから、チャップリンだってびっくり仰天なのだ。


今日の音楽 : A Dog's Life
-- by Nina Nastasia